「サリエル様」
レミエルが背後から、妹の鮮血に染まったサリエルを呼んだ。全身を鮮血に染め、白目を剥いて死んでいるラツィエルの亡骸を、サリエルはそっと床に寝かせた。
「どうした、レミエル」
太い眉を動かして、サリエルの様子を伺いながら、レミエルは言った。
「連絡が途絶えていたハルパスが、昨夜に見つかりました。任務には成功したようですが、何者かに襲われたようで、ひどく怯えていて、もう使いものにはなりません」
侍女に体中の鮮血を拭かせながら、サリエルは冷たい瞳を宙へ向けた。
レミエルは拝跪して、ラツィエルの小さな屍体を抱き上げた。見開いている白目を隠すため、彼は指で、ラツィエルのまぶたをおろした。赤い血が数滴滴り落ちる。
ラツィエルの銀色の艶やかな髪が、真っ赤に染まっていた。
表情を歪め、レミエルは屍体から眼を背けていたが、思い出したように呟いた。
「それと、サリエル様。射水 氷という名の女について調べたのですが……」
一瞬にしてサリエルの顔色が変わった。レミエルの方に向き直り、唇を小さく噛んでいる。
「何か、わかったのか?」
「いえ……。シマナミタウンという街の出身であるということ以外は、あまり……」
眼を細め、考える風な素振りをしながら、サリエルは呟いた。
「シマナミタウン……? 聞いたことのない名前だな」
「そうです。この、シマナミという街は、5年前に消滅しているのですから」
不思議そうに小首を傾げ、サリエルは訊いた。
「消滅した……?」
「正確には、地図上から姿を消したと言うことです」
「何故?」
申し訳なさそうに、レミエルは首を横に振った。
「どういう経緯だったかまではわかりませんが、その女は数ヶ月前まで、ロケット団に所属していたようです」
「それは、知っている。……そして、あの女は、人間ではない……」
それきり、何も言わずに、サリエルは血生臭い部屋を後にした。レミエルが小さく頭を下げている。鮮血を洗い流すためにシャワーを浴び、タオルで身体を拭きながら、妹のことを思い浮かべた。自分が王となるために殺してしまった、妹のことを。
兄妹はもういない。皆、死んだ。6人いた兄妹のうち、2人は自分が殺した。それが決まりなのだ。数百年も続いた、しきたりなのだ。
頬の黒いタトゥを、指で撫でた。痛いほどに、熱いものが心の奥に入り込んでいた。
テーブルの上を見つめる。手つかずのまま、朝食が放置されている。妹のつくった最後の食事――
手を付ける気にはなれなかった。タオルを羽織ったまま、サリエルはゆっくりとテーブルに近づいた。トーストとコーンスープ。既に、冷めている。
拳を握りしめ、歯を食いしばり、サリエルは吠えた。震え、小さく蹲った。侍女が、驚いて近づいてくる。手で侍女を追い払うと、サリエルは床を激しく叩きつけた。
死の間際に、妹は、ラツィエルは、サリエルの耳元で小さく囁いていた。妹の最後の言葉が、サリエルの脳裏をよぎり、染みついていく。ラツィエルの最期の言葉が。
……兄さんは、滅びの救世主です……。
「ボクが……滅びのメシアだって……? 滅びの救世主だって……?」
……だから、兄さんは死んではいけないんです……。
「死ねるものか……。お前を殺してまで掴んだ生存だから……。死ねるものかよ……」
……兄さんは、不幸です。最後の最後まで、背負わなければならないものがあるから……。
「不幸だよ。お前を失ったボクは、今、一番不幸だよ……」
……兄さんは、私を殺せませんでしたね……。兄さんは、結局、私を超えられなかった……。
時がとまった。衝撃に打ちのめされたように、呆然とサリエルは呟いた。
「ラツィエル……どういう意味だ? ボクは、お前を殺した。ボクは最初から、お前を超えていた。なのに、ボクがお前を殺せなかったとは、どういう意味だ? ボクが、お前を超えられなかったとは、どういう意味だ?」
不意に、妹に、空の彼方から笑われたような気がした。サリエルは立ち上がり、妹の亡骸が安置されている場所へ走った。
妹は死んだように眠っている。いや、眠っているかのように死んでいた。
自分が殺したのだ。だが、自分は妹を殺せなかった……? どういう意味だ。
ラツィエルの屍体を舐めるように見回して、サリエルは戦慄した。
「今すぐ……この屍体を捨てろ! 今すぐだ!」
叫きながら、サリエルは逃げるように駆けていた。妹の亡骸が、死んだ直後とは違い、かつてないほどの微笑みを湛えていたのだから。
○●
目が覚めたときには、もう昼間になっていた。
悪い夢を見ていたような気がした。瑞穂は背伸びして、隣で眠るゆかりを見つめた。
夢ではなかった。鮮明に覚えている。思い出すと同時に、背筋が凍った。あの時の、暴走したときの自分が、自分でない別の者のような気がしてならない。確かに、あの時、自分は、自分であることを捨てていた。冬我の望みを、あっさりと裏切ってしまった自分が情けなかった。
無力なのだ。結局、人を傷つけただけで、誰を守ることも、救うこともできなかった。自分は、自惚れていたのか。お互いを傷つけ合うことしかできないのか……。
ゆかりが目を覚ました。辺りを見回しながら立ち上がり、瑞穂の顔を眺める。瑞穂は無理に微笑んで見せた。途端に、ゆかりの頬が引きつった。
「ユユちゃん……?」
何も言わずに、ゆかりは瑞穂から目をそらした。膝が小刻みに震えていた。怯えている――瑞穂は肌で感じた。もしかしたら……ゆかりは見ていたのかもしれない。自分でなくなった、自分の姿を。瑞穂であることを捨てた、瑞穂の姿を――
ゆっくりと、瑞穂はゆかりの肩に手をかけた。ゆかりはビクリと身体を震わせ、恐怖に満ちた瞳を瑞穂に向けた。
「瑞穂お姉ちゃん……どないしたん……?」
瑞穂お姉ちゃん。ゆかりは、たしかに瑞穂のことを、そう呼んだ。
そんな呼ばれ方をされたのは初めてだった。それまでは、普通に、お姉ちゃん、と呼ばれていたのに。
思い過ごしかもしれない。自分に言い聞かせ、瑞穂は訊いた。
「もう、大丈夫……?」
引きつった笑顔をつくって、ゆかりは頷いた。
「だ、大丈夫やで……。瑞穂お姉ちゃん。だいぶ、落ち着いたわ……」
瑞穂の手を振り払うかのように、後ずさり、ゆかりは荷物を整理し始めた。
やはり、見たのか? 暴走した自分の姿を、ゆかりは見てしまったのか?
俯き、瑞穂はリングマをモンスターボールから出した。驚いた様子で、ゆかりが振り向いてきた。思わず目が合った。
やはり怯えている。何事もなかったかのように、視線をそらして、ゆかりは荷物の整理を再開した。
瑞穂は暗い面持ちで、リングマに囁いた。
「リンちゃん……。やっぱり昨日の夜に、私、おかしくなっちゃったのかなぁ……。ユユちゃんが見てたみたいなの。昨日の夜の私を……。みんなは恐がってなかった?」
リングマは曖昧に頷き、呟いた。
……姉さんが怒ると、物凄く恐くなるのは、この間までボクしか知らなかったからね……。
「それじゃ、やっぱりみんな私のこと、避けてる……?」
……それはないよ。あらかじめボクが、そのことは、みんなに説明しておいたから。姉さんは滅多に怒らないけど、いったん怒りだすと死人がでるぞ、ってね……。
「リンちゃん。それは、言い過ぎだよ……」
……そうかなぁ? 昨日、モンスターボールの中から見てたけど、凄かったよ、姉さん……。
溜息をついて、瑞穂は肩を落とした。
「やっぱり、もう……その話はやめて……。おねがい」
森の奥から、ガサリと音がした。すぐさまリングマは身構える。瑞穂は、茂みの中を凝視した。
「ヒメグちゃん……!」
森の茂みの中からあらわれたのは、ヒメグマだった。狂い、悶絶したあと、ヒメグマは死んだように眠り続けていたのだ。
だが、なんのために? 片腕だけで茂みをかき分け、わざわざここまで来たのだろうか。
「どうしたの……?」
切り落とされていない方のヒメグマの腕に、瑞穂は手を差し伸べながら訊いた。瞬間、手に激痛が走った。瑞穂は自分の手を庇うように押さえた。手の甲から血が滲み出ている。爪で引っ掻いた痕が、しっかりと残っていた。ヒメグマが、瑞穂の手の甲を切り裂こうとしたのだ。
血が滴る手の甲を押さえながら、瑞穂は慌てたように呟いた。
「痛い……どうしたの? どうして……こんなのことするの?」
ヒメグマの表情が歪み、一瞬にして変貌した。
瑞穂は息を呑んだ。隣のリングマが、固唾を呑んでヒメグマを見つめている。牙を剥きだし、目をつり上げ、瞳の奥に凶暴な色を帯びたヒメグマの顔があった。それまでの、可愛らしく、優しげなヒメグマの顔が、醜く、おぞましい狂気に満ちた顔に変貌したのだ。
「ひ……ヒメグちゃん……」
ヒメグマは叫んだ。牙を突き立て、猛り立った。
……人間、ミンナ殺した! 人間、嫌い! お前、人間、デテイケ……! 人間はみんなを殺した! 人間なんて嫌いだ! お前、人間だろ? はやく出ていけ! 出ていけ。人間なんて、はやく、この森から出ていけ!
「……う……うん……」
両手で顔を覆い、瑞穂は小さく、何度も頷いた。反論など、できなかった。ヒメグマへの怒りで唸っているリングマも、すぐにモンスターボールに戻した。
「行こう……ユユちゃん……」
背を向け逃げるように立ち去ろうとする瑞穂達に、ヒメグマはなおも罵声を浴びせ続けた。
……出ていけ! 人間出ていけ! 死ね! 消えろ! 生き物のクズ……!
ゆかりの手を引いて、瑞穂はいつしか駆けていた。ヒメグマの罵倒が、背後から迫ってくる。一刻も早く森を抜けよう。その一心だった。ゆかりは、怪訝そうな目つきで瑞穂を見つめている。
自分は無力だ。
誰も守れない。誰も救えない。
挙げ句の果てに、一瞬だけといえども、自分すら捨ててしまった。そして、自分を捨てて、何があった? 結局、何もできなかったではないか。
……クズ! 生き物のカス! 生きる価値もない、ゴミ! 人間め……!
ヒメグマの言葉が痛い。それでも、やがて、聞こえなくなった。森を抜けたのだ。前方にはコガネシティへの細い一本道が続いている。
目を閉じ、胸に手を当てて、瑞穂は誓った。もう、二度と、絶対に自分を見失わない。もう、二度と、絶対に自分が自分であることを捨てない……。
……自分は無力なのだ。だから、自分を見失った。自分の力の及ぶ範囲で、藻掻くしかないのか……。
今は、ただただ、力のない自分を悔いるしかなかった。
ヒメグマの叫びが、ここまで響いてきた。間違いなく、その声は狂っている。
「もう、私は、絶対に自分を見失わない……」
そう、絶対に自分を見失わない。冬我は、それを望んだのだ……。もちろん、自分も。
○●