偽りの私が見た黒
遠い空の海で、笑みもなく佇む君。
波に揺られて、風と戯れて、時は漂う。
私が、舞い降り、話しかけても。
壊れた、眼差しのまま、何も言わないのは、どうして?
割れた硝子を見つめ、自分を眺める君。
嘘でかためて、幻想に泳いで、我を偽る。
誰かが、恐れて、語りかけても。
怯えた、微笑みを浮かべ、逃げてしまうのは、どうして?
蝕まれた記憶に、自分を閉じこめて、君はどこまで、駆けるのか
枯れ果てた思い出に浸るだけじゃ、駄目だと気付いて――
○●
「……と、言うわけで、超人気アイドル、此花みなとちゃんの新曲、『霞んだ記憶』でした。ところで、この曲は、みなとちゃんが自分で作詞したんだってね?」
「はい。そうなんです。……実は、数年前の自分にあてたメッセージでもあるんです」
「数年前の自分って?」
「今でこそ、楽しく仕事をさせてもらっていますけど、昔はいろいろあって……」
「へぇ……。今をときめく、みなとちゃんにも、そういう辛い時期があったんだね」
「誰にでもあると思います。でも、そういう時だからこそ、逃げずに立ち向かうことが必要だと思うんです」
「すごいね。まだ10歳なのに、とてもしっかりしているよ。……おっと、今日はここでお別れ。司会は、塩谷ポン太。ゲストは、此花みなとちゃんでした。それでは、また来週! ばよならさーん!」
此花みなとは、ラジオ番組の収録を終え、ラジオ塔の外へと出た。
疲れた様子で、額に冷たい汗を浮かべ、誰でも簡単にできるような、軽い溜息をついた。救いを求めるかのように、みなとは夜空を見上げる。厚い黒雲に阻まれて、星はおろか、月すらも見えない。墨を流したような、黒々とした闇が延々と広がっているだけだ。
小さく息をはき、みなとは俯き、胸元の辺りをゆっくりと撫でた。
そう、霞んだ記憶。この歌を聴く度に心が重くなり、気分が憂鬱になる。辛いときこそ逃げてはいけない。確かに自分はそう言った。だが、あの時、自分は惨めに逃げていたのだ。
なんでこんな詞を書いちゃったんだろう……。みなとは悔いていた。唇を噛み、闇を見渡す。
結局は嘘なのだ。この詞は。そして、もしかしたら、今の自分の存在すらも、偽りかもしれない。不安定な自分に怯えながら、それでも私は、現実に流されて生きていくしかないのだろうか……?
そんな筈はない。私は私だ。自分の意志で生きているんだ。誰かの思惑に乗せられているわけではない。
頭の中の不安要素を必死に否定するため、みなとは首を激しく横に振った。
「いよいよ明日か……」
突然、背後から聞こえた声に、みなとは驚いて振り向いた。ラジオ塔を前に、暗がりの中で黒尽くめの男が2人、呟き合っているのが見える。みなとは思わず後ずさった。怪しむように2人の男に目を凝らす。相手は、みなとの姿には気付いてはいないようで、喋るのをやめようとはしなかった。
「そうだな。明日ですべてが決まる。すべてが……」
「楽しみだな」
「ああ……」
語り合いながら黒尽くめの男達は、ネオンの灯りが眩しいほどに輝く街道へと歩き出した。みなとは、じっと男達の背中を見つめている。
視線を感じたのか、黒尽くめの男の1人が、みなとの方へ振り向いた。みなとの肩が強張った、全身が凍ったように動かなくなった。瞳だけが、男を凝視している。
若い男だった。サングラスをかけているので、表情までは読みとれなかったが、白い首筋などを見れば、端整な顔立ちをしていることがよくわかった。
みなとは、ごくりと唾を飲み込んだ。足下が、寒々と震えている。この街、コガネシティでは、真夜中に街をふらついているような男と目が合うことは、そのまま死を意味すると言っても過言ではないのだ。ましてや、みなとは、巷で人気のアイドルである。
だが意外なことに、サングラスの男は、すこし微笑んだだけで、みなとから視線をそらした。歩いていく。男達は、ネオンの眩い灯りの奥へと消えていった。
男達の姿が見えなくなると、みなとはホッと胸をなで下ろした。ヘッドライトの光が瞬く。みなとは眩しそうに目を細め、こちらへと走ってくる白い車に目をやった。白い乗用車は、みなとの前で停車した。窓が開き、ドライバーは、みなとの方へ顔を出した。
「ごめんね、みなとちゃん。遅れちゃって」
ドアから身を乗り出して、マネージャーが言い訳がましく、遅れてしまったことを謝った。
「大丈夫です。それに私、そんなに待ってませんよ」
みなとは作り笑いをして、車の後部座席に座った。
エンジン音が響き、車は、騒がしいコガネシティの街を静かに駆けていく。街の騒音は、分厚いガラスに遮られて車内には聞こえない。窓の外を眺めながら、みなとは思い出していた。そして、考えた。
彼の――サングラスの男の微笑みの意味を。
○●
同じ頃。
此花みなとが、明日開催されるコンサートライブの打ち合わせの為に、コガネ中央ホールへ向かう車中で、溺れるような苦しい仮眠をとっている頃。
コガネシティ郊外の自然公園。暗く静まり返った園内で、ゆかりは見つめていた。ベンチの上でタオルにくるまりながら、寝息をたてている瑞穂の、可愛らしい寝顔を。
公園には、瑞穂とゆかりの姿しか見当たらなかった。小さな虫の集っている頼りなさげな灯火の光を浴びて、瑞穂の顔は、いつもよりも更に白く見えた。
細く小さな指で、ゆかりは瑞穂の柔らかそうな頬に触れた。瑞穂は声にならぬ寝言を呟いて、寝返りをうっている。
ゆかりは思い詰めたような表情で、瑞穂を起こさぬように、静かに立ち上がった。草原の辺りを、遠い眼で見つめている。ゆかりは、数日前の事件を思い起こしていた。
地獄を見た。確かに、自分はあの時、地獄を見たのだ。森の奥、瑞穂が木刀で、自分達を襲った男達を殴り倒していくのを。吠え、狂ったように、意味不明なことを宣い、木刀が折れるまで男達を叩きつけていた。
確かめるかのように、ゆかりは俯いて、瑞穂の小さくて愛らしい寝顔を見据えた。信じられない気持ちの方が強かった。自分より年上とは言っても、瑞穂は所詮子供なのである。
だが、現実に瑞穂の小さな掌には、木刀で男達を殴り倒したときの痣が薄く残っている。間違いない。綺麗な水色の髪を振り乱しながら、男達を殴り倒した少女は、姉――瑞穂なのだ。
そう思う度に身体が震え、声が出なくなる。
あの事件以来、ゆかりは、瑞穂に話しかけられる度に身を強張らせ、引きつった笑みを見せるしかなかった。瑞穂は、ゆかりの態度の変化に気付いているはずだ。誰も何も言わないが、重苦しい雰囲気は確かにある。
そんなのはもう嫌だ。今までと同じように、瑞穂と接したい。心の中で、ゆかりは叫んだ。だが、心が瑞穂と接することを拒んでいるのも、また事実なのだ。
二の腕で、涙の浮いた眼を擦り、ゆかりは呆然と辺りを見渡した。息を呑む。言葉では説明できないような、懐かしい衝動が、ゆかりの身体を突き抜けていた。
「ここ……お姉ちゃんと、出会った場所や……」
ゆかりは、誰にも聞き取れないような小さな声で呟いた。
瑞穂と初めて出会った場所が、今、自分達が夜を過ごしている自然公園だったのだ。あの時、この……ゆかりの目の前にあるベンチで、寂しそうに、疲れたように瑞穂は眠っていた。まだ寒い時期だった。ゆかりは声をかけて、瑞穂を起こし、ビスケットを一枚、分け与えてあげた。余程お腹が空いていたのだろう。ポケモン用のビスケットを、なんの抵抗もなく食べてしまったのだから。
ありがとう。瑞穂はそう言った。頬が熱い程に火照ったのを、ゆかりは今でも覚えている。嬉しかったのだ。どうして、その一言だけで嬉しく思ったのかはわからない。赤い夕焼けを背景に、微笑んだ瑞穂の優しげな顔は、ゆかりの記憶に今もなお焼きついて消えることはない。闇の中、病院の屋上で飛び降りようとした、ゆかりを救ったのは、瑞穂の優しい笑顔だったのだから。
「お姉ちゃん……、優しすぎるんや。お人好しすぎるんや……」
その分、恐ろしかった。優しすぎるが故に、誰かを傷つけようとする者への怒りも激しかった。ゆかりは、瑞穂の暴走を目の当たりにしていたのだ。
普段の、穏和で優しい瑞穂の面影など微塵も感じられなかった。鬼と言ってもいい。鬼と言うに相応しかった。優しいが故に、感情を抑えきれなかった、哀しい鬼……。
瑞穂は滅多なことで怒るような少女ではない。少なくとも、自分自身のことでは怒ったりはしないだろう。強い子なのか……。ゆかりは思った。瑞穂は優しいながらも、強い意志を瞳に宿らせているのだ。だからこそ、強いからこそ、すべてを独りで背負い込んでしまうのかもしれない。当然、怒りも。
不意に、ゆかりは自分を情けなく感じた。瑞穂の優しさに守られているだけの自分が悲しかった。甘えていて、いいのだろうか? 本当は独りで生きて行かなくてはいけないのではないのだろうか?
胸の辺りが痛くなってきた。ゆかりは苦々しい表情で、駆け出していた。
今までずっと、瑞穂のことを、自分の姉だと思いこませてきた。甘えていたのだ。瑞穂にとっては、いい迷惑だったのではないか? 優しすぎる瑞穂だからこそ、何も言わずに、姉の役を演じてくれているだけではないのか?
余計な考えが、次から次へと頭の中に浮かんでくる。心細さが、胸に湧いてくる。頭の中の考えを振り払うかのように、ゆかりは自然公園を抜け、コガネシティをひたすら走った。
いかがわしい男達がじろじろと、走り続けるゆかりの姿を見つめている。数人の不良がゆかりへと近づいてきた。彼らの目には、不気味な色が浮かんでいる。ゆかりは立ち止まりもせずに、チッと舌打ちすると、目にも止まらぬ速さで、大きく手を広げた男達の脇をすり抜けた。男達は驚いたように、ゆかりを振り向く。
「あんたらみたいな、アホに捕まるウチやないで!」
挑発するかのように舌を出し、ゆかりは男達を嘲笑い、叫んだ。いきり立ったように、数人の男達は大声で怒鳴りながら、ゆかりの後を追いかけていく。
ゆかりは、ニッと笑い、路地裏の闇に身を潜めた。男達が路地裏へと押し込んでくる。だが、そこに、ゆかりの姿は既になかった。
「ちょろいもんやな……」
あっさりと不良達から逃れたゆかりは、肩をまわしながら得意げに呟いた。夜のコガネシティなんて恐くない。なんといっても、ゆかりにとっては住み慣れた街なのである。昔は、何回か危ない目にもあっていたが、それは、もう慣れっこになっていた。
暗い路地裏を、しばらく歩いて、ゆかりは急に立ち止まった。目の前には、濁った灰色のビルがそびえ、黒雲に覆われた空へとのびている。
ゆっくりと、ビルを見上げた。玄関の上に小さく「パレス・コガネ」の文字が読みとれる。マンションの名前だ。マンションは名前に似合わず、今にも崩れ落ちそうなほど、老朽化が激しい。
小さく、ゆかりは顔をしかめ、落ち着きなさそうに掌を動かしている。
真夜中なので、静かに、音をたてないように、玄関からビルの中へと入っていく。どういうわけか、エレベーターの電源が落ちていた。しかたなく、ゆかりは階段を駆け上る。足音が響いた。一段、一段と足をかけるごとに、心臓の鼓動が激しく高鳴る。
古い建物だった。気休めのような、細々とした灯りに照らされた周りの壁には、細かいひび割れが見える。
402号室に着いた。茶色のドアの前で、息を切らして、ゆかりは立ちつくしていた。ドアのノブに手をかける。動かない。鍵がかかっているのだ。ゆかりはしゃがみ込み、足下に置いてある萎びたチューリップの植えてある植木鉢の下に指を入れた。何かが指に引っかかる。ゆかりは指を引いた。マリルのマスコット人形と一緒に、鍵が出てきた。
鍵を開け、402号室の中に足を踏み入れた。薄暗い部屋の中で、ゆかりは座り込み、辺りを見回した。自然に、深い溜息が出てくる。
「ウチ……帰ってきたんや……」
呟いて、ゆかりはドアの方を振り向いた。黄色い傘が置いてある。自分の傘が。座り馴れたソファ。ほとんど座ったことのない学習机。8の部分が欠けてしまっている、テレビのリモコン。桃色の絨毯。煙草の煙で汚れた壁に刻まれた、微笑ましい落書き――。見るもの、視界に入ってくるもの、すべてが懐かしかった。
帰ってきたのだ。自分の家に。かつて家族と共に過ごした、我が家に。
楽しい思いでは皆無に等しかった。どちらかといえば、辛い思い出の方が多い。それでも、懐かしかった。故郷に帰ってきたような感じがした。瑞穂と一緒に旅をしていたときにはなかった、別の心地よさがあった。
深く息を吸い込んで、ゆかりは床に寝転がった。天井を見上げ、手を広げた。
長い時間が流れた。目を見開いたまま、暗い窓の外を見つめている。
「何や……変やな……」
ゆかりは怪しむように呟いた。天井が……つまり五階が、やけに騒がしいのだ。忙しなく足音が響き、カセットテープを回すような音や、話し声のような音も聞こえる。
耳を澄まして、ゆかりは立ち上がり、ふらつく足取りで、部屋の外へ出た。上の階が騒がしいのとは対照的に、下からは何の音も聞こえてはこない。ゆかりは階段を駆け降りた。
三階には、人の気配がなかった。チャイムを押しても、ドアを叩いても、何の反応もなかった。
誰もいない……? あるのは、ただ、静寂だけだ。そう言えば、外からビルを見上げたときには、窓に明かりは見えなかった。いくら真夜中とは言っても、まだ12時だ。一部屋ぐらい明かりがついていても、よさそうなものだ。
このビルには、誰も住んでいない? そうとしか考えられない。
更に不思議なのは、五階だ。足音がしていたのに、明かりがついていなかった。五階だ。五階には、誰かがいる。ゆかりは五階へ上がろうと、階段に足をかけた。
なにがあるんだ、五階には。不気味な足音、機械音、囁き声……。廃墟と言ってもいい古びたマンションの秘密が、五階に集約されているような気がした。
「こんな所で……こんな時間に……悪い子だ。悪い子供だ」
声が聞こえた。若い……青年といってもいい男の声が、階段に響いた。ゆかりは声のする方を見つめた。白衣姿の若い男がいた。上方の階段に腰掛けて、笑っている。
驚き、身構えるゆかりを嘲笑うかのように、白衣の青年は立ち上がり、語りかけた。
「おっと……。驚かせてしまったようだ……。すまないね」
ゆかりは、いつでも逃げ出せる体勢をとって、青年に訊いた。
「あんた……誰なん? ここで、何してるん? ここに住んどった人達は……」
「上で……ゆっくり話そう」
大きくかぶりを振り、ゆかりは怯えたような目つきで、後ずさった。
「い……いやや!」
青年は失笑した。腕を組み、勝ち誇ったように、ゆかりを見下ろしている。
「逃げられないよ。キミは」
青年の言葉に意味に気付いて、ゆかりはすぐに背後を振り向いた。黒服の男が3人、ゆかりを取り囲むようにして立っている。
悲鳴をあげる暇もなかった。取り押さえられ、口をふさがれた。青年が、抵抗し暴れるゆかりに近づいてきた。懐から注射針をとりだし、ゆかりの腕に差した。薬を注入する。ゆかりは虚ろな瞳で、黒服の男を見て、続いて青年を凝視し、やがてぐったりと倒れた。
「連れて行け。上に」
青年は、黒服の男達に命じた。冷たく、残忍さを帯びた口調だった。
○●