『計画は、順調。決行は、明日の正午。午前11時以降に「コガネ・パレス」の五階へ行け。詳しい資料を残しておく』
射水 氷は、その二行の文だけを確認し、ベッドの上に横になった。コガネホテルの、薄暗い部屋の中で、パソコンのディスプレイだけが、妖しく光っている。
来るべき時が、来たのだ。奴等にとって、最大の好機が。
半身を起こして、氷は部屋の周りを見つめた。真っ暗な窓の外には、星の輝きすらない。輝いているのは、獲物を狙う猛獣のような、自分の瞳だけ。
ギラギラと血を求めるように輝く瞳を眺め、氷は頭の中で、先程の考えを静かに修正した。
来るべき時が、来たのだ。奴等にとって……そして『私にとって』、最大の好機が。
パソコンの電源を消した。部屋の中は、完全な闇に包まれ、閉ざされた。闇の中で、氷は思い起こしていた。戻ってきたのだ。この部屋に。姉と最後に話した、この部屋に。
コガネホテルの303号室に……。
なぜ自分が、忌まわしい思い出のある、この部屋を指名したのかはわからない。いや、今までだって、自分は、あえて辛い思い出のある方へ向かっていた。復讐と称しながら、かつて自分を虐め抜いた、あの女に会おうとしたではないか。
なぜ、自分は、辛い道を選ぶのか。答えは見つからない。だが、その答えを見つけたとき、自分は幸せになれるのか?
……そもそも……私に幸せになる権利など、あるのか……?
固いベッドに身を沈め、氷は目を閉じた。眠気が、頭をぼやかせていく。頭の中に、あの男の……頬にタトゥをした少年の言葉が響いた。
(……人間は、存在自体が罪なんだ)
では、自分はどうなる? 朦朧とする意識の中、氷は考えた。償うことのできない罪を着せられ、挙げ句、人間でないモノにされた、自分はどうなる?
彼は……、あの男は間違っている。人間は、存在自体が罪なのではない。人間は、人間であることを意識したときから、延々と罪を背負ってきたのだ。一番最初に、人間が人間であることを発見した人間が犯した大罪を、今も人は知らない内に背負っているのだ。
そして、自分がいる。償われることのない罪のしわ寄せが、自分に降りかかってきたのだ。
緩やかに意識が途絶えていく。しばらくし、氷の寝言だけが聞こえはじめた。
「私は……なんなの……?」
誰なのだろう。自分は。自分とは何なのだ――
答えは、誰も知らない。知るはずがないのだ。その答えは自分の手で見つけだすべきものだから。
○●
目覚めたとき。ゆかりは消えていた。寝ぼけ気味の目を擦り、瑞穂は自然公園を見渡した。だが、朝日に満ちた広場には人の姿は見えない。
「ユユちゃん……? どこにいったの……?」
瑞穂は、公園のベンチから跳び上がった。もう一度、念を押すように辺りを見回し、慌てたように時計を見た。9時24分だった。
腕を組み、瑞穂は考えていた。……どういうこと? ユユちゃんは、どこにいったの?
何者かに襲われたり、さらわれたとは考えにくい。いくら熟睡していたといっても、ゆかりの助けを求めて大声を出せば、起きて気がつくはずだ。
「まさか……」
自らの……ゆかり自身の意思で、立ち去った? 考えられるのは、それしかない。……でも、何のために?
そこまで考えて、瑞穂は思いだした。自然公園の近くには、コガネシティがある。コガネシティは、ゆかりの故郷。ゆかりが、かつて家族と住んでいた場所だったはずだ。
「間違いない……」
瑞穂は呟き、コガネシティを目指して走り出した。
ゆかりは、自分の家に行ったのだ。瑞穂と出会うより以前に、家族と共に住んでいた、自分の家に。
何でもっと早く気付かなかったんだろう。瑞穂は、自分の頭を蹴飛ばしてやりたくなった。……でも……どうして私に黙って、自分が住んでいた家に行っちゃたんだろう……。答えは、すぐに見つかった。簡単なことだ。ゆかりは、見ていたのだ。今まで漠然と考えていたことが、一気に現実味を帯びて、瑞穂の背中にのし掛かってきた。
あの時……、暴走した私が、男達を木刀で殴り倒したところを見ていたんだ……。
事件以来、ゆかりの、瑞穂に対する態度が微妙に変わったのも、そのことが原因に違いない。
推測が、確信へと変化した。そう、ゆかりは、心細かったのだ。信じていた瑞穂に、信じられない形で裏切られ、ゆかりは救われたかったのだろう。
ふと、不安が瑞穂を襲った。……それは奇怪だ。ゆかりは、瑞穂に何も告げずに自分の家へと向かったのだ。つまり、瑞穂が目覚めるまでには戻ってくるつもりだったのではないか? もしかして、ゆかりは、何かトラブルに巻き込まれたのではないか……?
瑞穂の中で、不安が大きくなった。早く……一刻も早く、ゆかりを見つけなければ。
考えが纏まったと同時に、瑞穂はコガネシティに足を踏み入れていた。
さて、これからどうしよう。瑞穂は、新たな問題に、頭を悩ませた。……どうやって、ユユちゃんの住んでいた家を探す……?
あらかじめ住所を聞いておけばよかった、と瑞穂は後悔したが、今更そんなことを悔やんでも、遅い。
「どこにいるの……ユユちゃん」
呟いて、瑞穂はコガネシティの人混みの中へと、進んでいった。
○●
ころさないでください。
……殺さないでください。なんて言った? 恥さらしで惨めな言葉を、もう一度……。
殺さないでください。
痣だらけの身体で身を捩り、涙か涎だか、よくわからない液体を床へと滴らせ、幼き少女は、許しを……いや、救いを乞うている。
少女は全裸だった。身ぐるみは数時間前に剥ぎ取られ、ゴミのように打ち捨てられた。
「お前なんかに、服を着る権利なんて無いよ」
ご主人様に、上司に、あの女に、そう言われれば、少女は納得するしかなかった。納得しなければ、叩かれ、蹴られ、頬を容赦なく張り飛ばされるのだから。
「お前は、何も人間語は喋らなくてもいいの。ただ、呻きをあげて、私を楽しませてくれればそれでいいの」
ご主人であり、上司でもある、あの女は言った。逆らうな。喋るな。なぜなら、おまえは人間ではないから。
身体が、どうのこうのと言う問題ではない。心すらも、人間であってはならないのだ。
あの女……。少女は、主人であり、上司でもある女を『あの女』と、心の中では蔑していた。
あの女。あの女。あの女……。何の権利があって、私を、壊すの? 私を壊そうとするの?
その女は、一位カヤという名だった。もっとも少女は一度たりとも、その名を口に出して言ったことはない。言ったら、殺される。何かを話したら、私は壊される。
恐怖が染みつき、いつしか少女は何も話せなくなった。言葉を失ったのだ。だが、完全に言葉を失ったわけではなかった。
「許してください……」
惨めに白い裸体を晒しだして、少女は消え入りそうな、細い声で言うしかなかった。言ったとしても、許してもらえるわけがないのに……。
第一「許して」と言わなければならないようなことなど、何もしていないのだ。まるで自分の存在自体が罪であるかのように、あの女と目が合う度に、誰も知らない部屋に連れてこられ……。
「殺さないでください……」
許しを乞うのだ。救いを乞うのだ。私を殺さないで。やめてやめてやめて。手首と、手足を縛られ、少女は壁に張り付けにされ、電気ポケモンの電撃を浴びせかけられたり、踏まれたり、刺されたり。時には、性器を弄ばれることもある。
やがて、床には鮮血が満ちる。赤い血ではない。黒々とした、ケガレた血が。
死ぬ。私は、死ぬ。違う。死ぬんじゃない……捨てられるのだ。冷たくなって、動かなくなって、ゴミのように捨てられるのだ。あの女にとっての私は、死ぬ者ではない。壊れる物……なのだから。
「このままじゃ……私、死んじゃいます……」
『死ぬ』んじゃない。『壊れる』のよ。女は笑いながら言っていた。
「壊れる……私、壊れちゃいます……」
口から、苦しそうに涎を流しながら、鮮血の泉で少女はのたうった。誰かが、少女の耳元で囁いてきた。優しい声だった。優しい声……。
「大丈夫。あなたは、死なない……。絶対に死ぬことはない」
どうして? 訊きたかったが、少女の口から言葉が発せられることはなかった。どういう意味なの……? 姉さん……。
確かに姉の声だった。耳元の優しい囁きは、間違いなく姉の声だった。
「あなたは絶対に死ぬことはないのよ……なぜなら……」
少女は、姉の答えを待った。頭の中を衝撃が走るまでは。
手首の縄が擦り切れた。少女の身体は、はり倒されて、吹っ飛んでしまったのだ。
「お前は、もうとっくの昔に死んでいるんだ。だから、これ以上、死にようがないんだよ」
あの女の、けたたましい叫び声が響いた。姉の優しい声は、どこかへ消えていた。空耳だったのだ。もう、自分は狂っているのかもしれない、とさえ少女は思った。
「これが、証拠だよ」
苦しそうに横たわる少女を羽交い締めにし、あの女はポケットから紐をとりだした。少女の首に巻き付け、紐をぐぃと絞める。少女は顔を歪ませ、暴れた。涎が口から溢れる。溢れて、首もとの、あの女の手を濡らした。
白目を剥いていた。少女は、真っ赤に染まっていながらも蒼白な裸体のままで、死んでいたのだ。
女は、動かない少女を蹴り飛ばした。死んでいた筈の少女の指が、ピクリと動いた。ニヤリと、いやらしい笑みを浮かべ、女は腰につけていた、ポケモン用の電磁ネットを手に取った。
少女の屍体の背中を突き破り、無数のアーボが顔を出した。憎悪を剥き出しにして、アーボ達は女へと向かっていく。
女は電磁ネットを放った。電磁ネットは展開し、少女の屍体を取り囲んだ。アーボが苦しそうに身を捩り、倒れていく。少女の屍体が立ち上がり、膨らんだ。
全身の皮を突き破り、アーボ達が飛び出してきた。少女は異形の化け物へと姿を変えていた。だが、姿を変えたところで、電磁ネットを破ることはできなかった。
萎んでいく。少女の異形の身体は、元の小さな可愛らしい子供の姿へと戻っていた。死んでいた筈の少女は、目を見開いた。立ち上がり、怯えたように女の方を見た。
「勝手に逃げることも、死ぬことも、私は許さないよ……。だって、お前は、私の……最高のペットなんだから」
またか。また、発作が起きたか。過去のことが、過去の恐ろしい思い出が、急に幻のように目の前で再生される、発作が。
雪のように白い肌を、寒々と撫でながら、氷は首を小さく横に振った。否定しているのだ。……私は、あんなに惨めだったか……?
理性は答える。そうだよ、さっきのように、私は惨めに怯えていたのだ。だが、感情は頑なに反論する。違う! 私は惨めじゃない。惨めじゃない。惨めじゃない。
「どっちでもいい……。私は、今、私のやらなければならないことをするだけ……」
理性は自分に、そう言わせる。だが、感情は納得しない。
否定しろ! 私は虐められてなんかいない。惨めなんかじゃない。どっでも、よくない!
氷は、キッと窓の外を睨みつけた。理性が、感情を抑えていくのが、自分でもわかる。
ベッドから立ち上がり、鏡の正面にある時計をチラリと覗いた。9時48分か。問題の時間までには、まだ多少の余裕がある。
氷は鏡を見つめながら、首筋を撫でた。細く、白い首筋には『sl/Hsf23-0s(y)』と刻印がなされている。
時が来たのだ……。鏡に映った、美しい自分の姿を見つめながら、氷は思った。あの女を……カヤを、今度こそ殺してやる。
氷の黒いワンピースを、窓から入り込んだ日の光が、妖しく照らし出していた。
○●