望から受け取ったメモには「コガネシティ2-52区、コガネ・パレス402号室」と書かれていた。そして今、11時12分、瑞穂はコガネ・パレスの402号室の中にいる。
見れば見るほど、ゆかりには悪いが、コガネ・パレスはボロボロのビルだった。灰色に濁った壁にはひび割れがあり、歩けば、今にも崩れ落ちそうな程、床が揺れ、埃が舞う。「パレス」とは名ばかりではないか。「宮殿」の名が、聞いて呆れる。
望によれば、コガネ・パレスは数週間前に、とある業者がビルごと買い取り、それ以来、誰も住んでいないそうだ。それだけに、勝手に忍び込むのは、どうかと瑞穂は迷ったが、人の気配がないので、怒られるのを覚悟で入り込んだというわけだ。
忍び込んでみて、不思議に思ったのは、業者が買い取ったというわりに、ほとんど業者の手が加わっていないようなのだ。……何のために、買い取ったんだろう? そもそも、どうして、こんな今にも崩れそうなビルを買い取ったんだか……。首を傾げるしかない。
瑞穂は辺りを見回した。402号室、かつて、ゆかりが家族と一緒に住んでいた部屋。ふと、学習机に目が止まった。ゆかりの机だろう。薄汚れた茶色い学習机は、散らかっていたが、ゆかりなりに整頓されているのかもしれない。「かってにさわるな!」と子供の字で、紙が張ってあるのだ。
思わず、瑞穂は微笑んだ。「かってにさわるな!」とは、いかにもゆかりらしい。紙を手にとって眺めていると、分厚い本が、パサリと落ちてきた。落ちた本を見つめ、瑞穂はかがみ込み、手に取ってみた。赤い表紙に、手書きで「あるばむ」と書かれている。なるほど、アルバムか……。躊躇いがちにページを捲ってみた。ゆかりが知ったら「触るなって、書いとったやろ!」と怒られそうだ。
写真の中で、ゆかりは笑っている。今よりも幼い。幼稚園児くらいの年頃だ。隣にいるのは、母親だろう。葬儀の時に遺影を見たので、覚えていたのだ。子宮破裂の手術中に、ゆかりの母親は、原因不明の停電によって、胎児ともども死んだのだ。
母親の肩に手をかけているのは、おそらく、ゆかりの父親だろう。ゆかりの姉が、つまり彼にとっての娘が、病院の医療ミスで亡くなって以来、酒浸りになり、アル中で精神科の病院に入院させられ、行き過ぎた懲罰によって、命を落とした。殺されたのだ。
そして、ゆかりと仲良く手をつないで微笑んでいる女の子が、姉なのだろう。
「あれ……。この子……」
瑞穂はアルバムの写真の中の女の子に、視線が釘付けになった。どこかで逢ったことがある……?
だいぶ昔だ。トキワシティで……そうだ、あの日だ。手術が成功した日だ。一緒に喜んでくれた。
(よかったね。退院したら、一緒に遊ぼうよ。私、妹がいるんだ……)
名前はなんて言っただろう。思い出した。ほたる……『ほたるちゃん』だ。名字はなんと言っていたっけ……。ゆり。そうだ、百合ほたるちゃんだった。
恐ろしいほどの偶然に気付き、瑞穂は思わず手に持っていたアルバムを落としてしまった。アルバムを拾い上げ、元の場所に戻したとき、体に震えが起こった。
……ユユちゃんは、このことを知っているのだろうか……?
ゆかりは、姉の、百合ほたるの死んだ経緯を、医療ミスと言っていた。恐らく両親が、そう教えたのだろう。感情の高ぶったまま、ゆかりの住んでいた部屋を、一通り見渡し、外に出た。
風が生温い。額に浮いた汗を気にもとめずに、手すりに掴まり、空を見上げる。息を吹き、瑞穂は首を振った。それよりも、今は、消えたゆかりを探し出すことの方が先決なのだ。この残酷と言ってもいい偶然については、ゆかりを探し出した後で話せばいい。
ゆっくりと玄関を振り向いて、瑞穂は考えた。私が来たとき、鍵はかかっていなかった……。
ふと、足もとの植木鉢に目がいった。萎れた草が、惨めに生えている。
「この植木鉢……動かした跡がある……」
植木鉢を動かした部分には、埃が積もっていないのだ。恐らく、つい最近に、何者かが植木鉢を動かしたのだ。誰が? 何のために……?
瑞穂は、すぐに答えを見つけた。……鍵を見つけるために、植木鉢を動かしたんだ……。
子供のために、親が鍵を植木鉢の下に隠しておくことは、よくあることだ。そして、植木鉢の下に鍵が隠してあるのを知っている人物は、もう1人だけ。ゆかり以外にいない。
「やっぱり、ユユちゃんは、ここに来たんだ……」
その時、足音が、瑞穂の耳に届いてきた。階段の方から響いてくる。ゆっくり、ゆっくりと、こちらに、瑞穂のいる方に近づいてくるのだ。瑞穂は振り向き、身構えた。誰かが来る。こっちに向かってやってくる。
間違ってもユユちゃんじゃない、と瑞穂は確信していた。ゆかりは、こんなにゆっくりと階段を上ったりしないからだ。いつも、いつでも、全速力なのだから。
足もとを踏みしめ、息を殺して、足音の主を、瑞穂は待ち構えた。だが、足音は4階を通り過ぎ、上へと移動していく。瑞穂は休む暇もなく、足音を追いかけた。
「待って。待ってください!」
思わず瑞穂は声に出して、相手を呼び止めた。相手の足が止まる。足音が止んだ。上方にいる、足音の主である相手の背中に、瑞穂は見覚えがあった。
「あ……あなたは……」
相手は振り向いた。射水 氷だ。以前、瑞穂が洞窟で出会った、不思議な少女だ。
長い紫色の髪を振り乱して、射水 氷は冷たい虚ろな瞳で、瑞穂を見つめながら訊いた。
「なに……?」
細く、弱々しい声だった。普段、あまり喋ることに馴れていないのだろう。氷も、瑞穂に見覚えがあるようで、驚きながら、しかしそれを表情に出さずに呟いた。
「あなた……、たしか瑞穂……ちゃん……」
「うん、瑞穂。あの、氷ちゃん……だったよね、ここで、何をしてるの?」
瑞穂の問いかけを無視し、氷は五階へ向かうため、階段を上った。無視されたためか、すこしだけ肩を落として、瑞穂は氷の後を追いかけていく。
五階についた。四階と同じように、4つの扉が規則正しく並んでいる。無表情のまま、4つの扉を眺め、氷は苛立ったように呟いた。
「何号室なのよ……」
「へ? 今、なんて……」
言ったの? と氷の隣に立っていた瑞穂が訊く間もなく、爆音が響いた。瑞穂は、口をあんぐりと開けたまま氷を見た。氷は、501号室の扉を、ぶち破っていたのだ。
「あの……氷ちゃん……」
何がしたいの? だが、また訊けなかった。今度は、502号室の扉が、吹き飛んだ。結局、もう一度、別の扉を破壊し、氷と瑞穂は503号室の中へと入った。
「壊して、怒られない?」瑞穂が訊く。
「怒りたければ、怒ればいいわ」
薄暗い部屋の中を、手当たり次第に物色しながら、氷は適当に答えた。一冊の白い冊子に目をやり、手に取り、目を通していく。目を細めて氷は、隣でどぎまぎしている瑞穂を、睨み付けて、訊いた。
「今、何時か、わかる?」
「え?」
一瞬だけ当惑したが、瑞穂は、すぐに腕のポケギアに表示された時刻を読みとった。
「11時……25分だけど」
氷は舌打ちした。思わず、瑞穂は後ずさった。手に持った冊子を懐にしまい込むと、氷はさっさと部屋を出ていく。瑞穂は、慌てて後を追いながら、叫んでいた。
「待って……。ごめん。ちょっと、私の話を聞いて」
足をとめ、氷は瑞穂の方を振り向く。溜息をついたようだが、不気味なほど表情に変化はない。
「時間がないの……」
言われたが、瑞穂は負けじと食いつく。
「歩きながらでも、いいから」
「走りながらよ。それと、五分以内に済ませてね……」
瑞穂は大きく頷いたが、氷が身を翻し、突然駆け出したのを見るや、すぐさま後を追いかけた。ビルを出た。街道を、瑞穂は息を切らせながら走り、氷に、消えたゆかりのことを話し始めた。
○●
ラジオ塔は、嵐の前の静けさに包まれている。だが、彼は……シグレは、そんな安易で低次元な比喩を嫌っていた。
局長室で、時がくるのを待っている間、彼はじっと考えていた。……これから、どうするべきか……。
この計画のために潜り込ませた、偽の局長が心配して話しかけてきた。
「どうしたのです? 何か、考え事をしているようですが?」
シグレは不機嫌そうに振り向くと、黙っていろ! と叱咤した。偽の局長は竦んで、黙り込んでしまう。
ちょうど同時に、計画の実行主任である、一位カヤが局長室に入ってきた。カヤを見て、シグレは、さらに機嫌を悪くした。こんなときに、こんな女の顔など見たくもない。
彼女は実力はあるし、決して不美人なわけでもない。だが、性格が劣悪なのだ。以前、カヤの上にいた幹部など、ノイローゼになり、しまいには胃潰瘍で入院したくらいである。そもそも、シグレの『最高傑作』である、『あの少女』が組織を脱走したのも、カヤが、少女を徹底的に虐め抜いたからなのだ。あの時、少女が自殺しなかったのが、不思議なくらいである。
「あと、15分ね。準備は万端よ」
カヤはそれだけ言い放つと、慇懃に頭を下げ、局長室を後にした。偽の局長は、カヤに怯えていたようで、座り込んだまま震えている。
シグレは、この男が、偽の局長が急に目障りになってきた。重要なことを考えているときに、邪魔な男だ。
カヤを呼びつけ、シグレは不機嫌そうな眉を男へ向けた。偽の局長は、再び震え上がる。以前、上官を殺した疑いをかけられたこともあるカヤは、組織の中で、相当恐れられているのだ。小心者の、偽局長が、怯え震えるのも無理はない。
「目障りになった。消せ」
それだけ命ずると、シグレはカヤから目を背け、窓からコガネシティの街並みを見下ろした。カヤは笑みを浮かべながら、恐れおののく偽の局長に、手を振り上げる。
絶叫が響いた。助けてください。死にたくないです。死にたくないです。……閃光が、彼の言葉を掻き消した。
気がついたときには、カヤの姿は消えていた。偽の局長が、頭から煙をだしている。醜く焦げた顔の穴という穴から、沸騰した血が吹き出した。男は、絶命していたのだ。
ここまでくれば、この男は用済みだったのだ。そう思いながら、シグレは腕を組んだ。左手の甲の、ケロイド状の火傷の痕が目に付いた。窓の外へと視線をそらす。
そう、シグレは考えていたのだ。恐ろしいほどの偶然の奥に潜んだ、危険性を。
生きていた。と、シグレは頭の中で呟いた。生きていたんだ、あの女は……。自殺した筈だった。だが、生きていた。しぶとく、生き残った。34人の中で、唯一、正常なまま生き残ったのに、さらに、まだ生きていたとは……。
まるでゴキブリポケモンのような生命力ではないか。いや、死んだ筈だ。あの女は、確かに死んだ筈なのだ。自宅の庭で、首を吊って、惨めに、哀れに、自殺した筈なのだ。洲先瑞穂は……!
完全に計算が狂った。それもこれも、洲先瑞穂が生きているからだ。死んでいなければならなかったのだ……。
シグレの額に、脂汗が滲んできた。最悪の予測をしてしまったからだ。知っているかもしれない。洲先瑞穂は、『あの秘密』を知っているかもしれない……。いや、それはない。と頭の中で否定した。知っているなら、とっくの昔に行動を起こしているはずだ。洲先瑞穂は『あの秘密』を知らない。だが、危険だ。このまま生かしておくのは危険すぎる。もしも彼女が父の失踪の謎を調べ始めたら、もしも彼女が、あの事件について調べ始めたら……。
やはり、危険だ。洲先瑞穂は。……殺すしかない。
どうやって殺す? 『影の妖星』に殺らせるか? 駄目だ。目立ちすぎる。もっと地味に、怪しまれないように、不可抗力だと思わせるためには……。
窓の外の人影を見つめながら、2人の少女が、ラジオ塔に近づいてくるのが見えた。
「あの子供は……」
洲先瑞穂だ。間違いない。3年前の写真とあまり変わっていない。
シグレは、笑みを堪えることができなかった。隣のソファで眠っている、百合ゆかりの寝顔を見つめ、歯を剥き出しにして笑った。
こいつを使おう。そして、州先瑞穂を殺す。なんて私は運がいいんだ……!
『悲劇』の演出家は顔を擡げ、或る計画へのゴーサインを出した。演劇のタイトルは、そう、『妖獣の叫び』と名付けよう。
○●