暗闇で蠢く、不気味な獣の影を、シグレは眺めていた。
鎖につながれながら、天井を見上げ咆哮する獣の様は、『妖獣』と形容するに相応しい。ギラギラと永遠に得ることのできない獲物を求め、妖獣は泣いていた。自分を返せ! 私を返せ! 僕を返せ! 過去を、時間を、自由を返してくれ!
醜い獣から視線をそらし、シグレは手元の四角い箱に手を伸ばした。透明なプラスチック製のカバーを開け、彼は、箱の中の赤いボタンを、指で押した。
下の方から爆音が響いた。ラジオ塔の一階ゲートを爆破したのだ。
洲先瑞穂は死んだろうか? いや、この程度で死ぬような女ではないな、洲先瑞穂は。
シグレは部下に命じた。例のシステムでつくった特殊電波を、ラジオ塔から発信するのだ、と。ふと、あの老人……名前はなんと言っていたっけ……の言葉が脳裏に湧いた。
(そうだな。名前を付けるとしたら、『リリィ』かのう……)
どうして『リリィ』なのだ? シグレは訊いたが、老人は答えなかった。
(『ライム』でもいいのだが、それでは危険すぎるからのう……)
それだけ言い残して、老人は何処へと去っていった。システム自体は完成したのだ。だから、計画を他言しない限り、老人は何処へ行ってもよかった。だが、シグレは気になっていた。老人は何処へ行ったのか、なぜこのシステムに『リリィ』と名付けたのか。
妖獣は、シグレを睨み付けていた。鎖さえなければ、今にも襲いかかってきそうだった。シグレは妖獣の鎖を解いた。妖獣は吠え、シグレに牙を向けた。それでもシグレはたじろがない。笑みを浮かべ、妖獣を見やっている。やがて、妖獣の瞳の焦点があわなくなってきた。ぼんやりと辺りを見回している。
……ワタシハ、リリィ? ニクイ、ワタシタチ、ポケモン、ニクイ……。
頭の中響いた言葉を最後に、妖獣は自我を失った。フリーザーをつかった実験の時と同じだ。シグレは、瞳が真紅に染まっていく妖獣を見て、思った。獣の心はリリィによって侵蝕され、獣はリリィの1人となったのだ。
○●
爆発音が轟く。瑞穂は、3階から4階へ続く階段を駆け上りながら、爆発の音を聞いていた。腕のポケギアを見つめる。12時ちょうどだ。……急がなくちゃ!
4階について、瑞穂は気付かれないように屈みながら、こっそりと辺りを見回した。おそらく局員であろう数人の大人達が、黒服の男達によって縛られている。大人達だけではなかった。社会見学に来ていた子供達も、容赦なく縄で縛られている。
「非道い……」
誰にも聞こえないほどの小さな声で、瑞穂は呟いた。黒服の男達は、笑みを浮かべながら、人質となった人々に嫌がらせをしている。
ゆかりの救出を優先すべきか……ここの人質を助けるのが先か……。
「悩んでいる暇なんか、ないよね……」
微かに拳を握りしめ、瑞穂は立ち上がる。心の中で叫んだ。……ここにも、いますよ!
黒服の男達が一斉に、瑞穂の方向を振り向いた。
「まだいたぞ!」
「また、ガキか」
「楽なもんだな……」
口々に呟きながら、黒服の男達は瑞穂へと迫ってくる。その瞳には、邪悪な炎がメラメラと燃え上がっていた。
黒服の男達は両手を広げ、覆い被さるように、瑞穂へ襲いかかった。息を落ち着かせ、瑞穂は男を直視した。睨んでいるだ。この……悪い人め!
瑞穂は跳び上がっていた。頭が天井を掠めた。華奢で細い体躯のどこにそんな跳躍力が秘められているのか、男達は目を剥いて少女を見つめた。だが、奴等に考える暇を与えるほど、瑞穂は悪人に優しくはない。瑞穂は男達の背後に着地し、モンスターボールを彼らに向けて放った。
「やっぱりな……ポケモンを使うと思ったよ!」
空中でまわっている瑞穂のモンスターボールを見つめ、黒服の男の1人が得意そうに叫んだ。瑞穂には、彼らの言いたいことの意味がわかっていたが、あえて無視した。
「今はな、ポケモンをつかっちゃいけない時間なんだよ。お嬢ちゃん」
「そういうこと。そのポケモンちゃんは、お嬢ちゃんの命令を、いつものように聞いてくれたりはしないよ」
黒服の男達は、口々にいいながら、笑っている。無理もない。今、おそらく既に特殊電波は発信されているのだろう。氷が言うには、電波の出力をジョウト地区全域にまで上げるのに、3時間程度はかかるらしいので、他の地域での被害は当分心配することはない。
だが、ここは爆心地。特殊電波の発信源なのだ。そんな状況下で、ポケモンをモンスターボールから繰り出すのは、自殺行為であるに違いない。
黙ったまま、瑞穂は、男達の言葉に耳を傾けている。微笑みを浮かべ、強い決意の眼差しで彼らを見つめながら、宣告するように一言だけ言った。
「私は『命令』なんて、しませんよ」
モンスターボールから閃光が迸った。鮮血が舞う。男達の悲鳴が聞こえた。瑞穂は唇を噛みしめ、叫んだ。
「ナゾちゃん! 剣の舞い!」
閃光の中からあらわれたのは、ナゾノクサだった。ナゾノクサは頭部の葉っぱを、刃のように振り回し、男達を翻弄する。少しでも動こうとすれば、音速の刃によって切り刻まれてしまうのだから、迂闊に動くこともできない。
いつしか男達は、一カ所に集まっていた。
「今だよ、眠り粉!」
瑞穂が言うが早いか、ナゾノクサは眠り粉を噴射し、一瞬のうちに男達を眠らせた。
眠りこけた男達を確認すると、瑞穂は緊張を解いて、その場に座り込んでしまった。
「ふぅ……恐かったぁ……」
肩の辺りから、生温い汗が滲んできている。安堵の溜息をもらすと瑞穂は、飛び込んできたナゾノクサを抱きかかえた。
「予想通りで、よかった。ナゾちゃんがいなかったら、危ないところだったよ」
瑞穂は階段を駆け上っている最中に、ずっと考えていたのだ。……ナゾちゃんは、慢性的に特殊電波の影響を受けていた。もしかしたら、多少の電波になら、耐性ができているかもしれない……。
その予想は的中していた。実際に、ナゾノクサは自分の意識を保っていられた。
「ありがとう。ナゾちゃん」
ナゾノクサの頭を撫でながら、瑞穂は立ち上がった。縛られている人質を解放しなければいけない。局員の大人達はまだしも、子供達は恐怖から、精神力は限界の筈だ。事実、子供達は、悲鳴も叫び声も上げることなく、眠っているかのように、ぐったりとしている。
「大丈夫だった? ……というか、もう大丈夫だからね」
自分よりも年下の子供達に、声をかけながら、瑞穂は縄に手をかけようとした。
その瞬間、電撃が閃いた。瑞穂は弾き飛ばされた。机に、腹を思い切りぶつけて、床に倒れ込んだ。身体に激痛が走った。呻き声を上げ、思わず腹を押さえる。さすりながら、瑞穂は起きあがり、電撃の発射された方向を見やった。
「そうは、いかないわ。大切な、人質さんを逃がすわけにはいかないものね」
女性だった。黒い衣装に身を包み、金色の長髪を靡かせて、女は瑞穂を蔑したような瞳で眺めていた。
瑞穂は女の顔を見た。何処かで見たことのある顔だった。そうだ……。思い出した。あの人だ。洞窟で、ガンテツさんを浚って非道いことをした人だ!
「あなたが……一位カヤさん……ですね?」
女は微笑した。腕を組み、一歩ずつ、瑞穂へと近寄る。
「そうよ……。私が、一位カヤ……。どうして、知っているわけ?」
もう一発、電撃が飛んだ。瑞穂は身を翻して、電撃を避ける。視線を巡らせて、カヤの足下に一匹のライチュウがいることに気付いた。瞳が真紅だ。あの時のナゾノクサと同じだ。特殊電波の影響を受けているのか……。
「あら、ごめんね。今、この子は見境がないのよ。……で、どうして私の名前を知っているの?」
カヤは瑞穂は睨んだ。だが、瑞穂は怯むことなく、言い放った。
「氷ちゃんから聞いたんです。あなたのことを殺す、と言っていました」
唇を噛みしめる。瑞穂の拳が、わなわなと震えていた。
「一体あなたは、氷ちゃんに何をしたんですか……?」
窓から注ぐ日の光が、カヤの影を妖しく彩っている。飲み込まれそうなほど黒々とした小さな影に、瑞穂は言いようもない恐怖を感じた。
真っ青なリノリウムの床に映りこんだカヤの顔が、ひきつったような笑みを浮かべている。
「2回。殺してやったのよ」
時がとまった。沈黙よりも、もっと重たい空気が、辺りに漂った。瑞穂は、心臓の鼓動が止まったかのような衝撃に、身じろぐことができないでいる。震え、掠れた声で、聞き返すことしかできなかった。
「殺した……?」
「そうよ。もっとも、氷は、殺されたことよりも、遊んであげたことを怨んでいるみたいだけど、逆恨みもいいところね……」
「殺すよりも……非道いことをしたってことですね?」
カヤは、答えない。笑っているだけだが、それがすべてを物語っていた。
「どうして……そんなことをしたんですか?」
「氷をどうしようと、私の自由よ!」
叫んでいた。カヤは、瑞穂を睨み付け、そして白い歯を剥き出しにした。狂気だ。狂っている……。瑞穂はとっさに感じた。……この人も、電波にあてられているの……?
「だって、氷は、私のペットなんだから!」
○●
「死ね」
冷ややかに、氷は呟いた。それが、死の宣告であるのだ。氷の、この言葉を聞いた人間は、皆殺されるのだから。
氷の両腕が紫色に変色し、掌はアーボの頭部となって、黒服の男の胸元に噛みついた。鮮血が、氷の頬を赤く染めた。黒服の男の断末魔の叫び声がラジオ塔の3階に響いた。窓ガラスや、机が震えている。恐怖の波に、皆が震えているのだ。
3階最後の男の、最期の悲鳴は、途切れた。
えぐりとられた男の心臓を地面へと叩きつけ、氷は辺りを見回した。あの女はいない……。どこにいる。どこにいる。早く出てこい。殺してやる。コロシテヤル。
「あ……あぁ……う……」
震えた喘ぎ声が、氷の耳に届いた。氷は振り向き、人質となっている中年の男を見やった。他の人質は、気を失っている。子供も、大人も。この中年の男だけが、氷の異形の姿を見てしまったのだろう。
中年の男へと、氷は近づいた。
「来るな、来るなぁ……化け物……バケモノ……!」
独特の臭いが、氷の鼻をひくつかせた。男の股間を見やる。失禁していた。氷は、手を振り上げた。男は絶叫した。
「静かにして……」
氷は、男の後頭部を殴り、倒した。中年の男の頭が血の色に染まり、そのまま倒れた。殺したわけではない。気絶させただけだ。男の股間から流れ出た尿が、彼の足下で水たまりとなってしまっている。
見つめた。目を細め、思わず、氷は呟いた。
「ついてないわね……」
その時だ。天井から、ドスンという、音が聞こえてきた。天井を見上げ、氷は手をかざした。上で……何が起こっている……?
氷は階段を上り、5階の様子を眺め、息を呑んだ。ボロボロになったナゾノクサを抱きかかえ、瑞穂が必死にライチュウの電撃を避けていたのだ。電撃が瑞穂の足もとを、襲う。瑞穂は跳び上がり、電撃をなんとか避けた。
……何を、やっているの……? 氷は呆れた。
手を伸ばし、氷はライチュウを殴り飛ばした。ライチュウは吹き飛び、壁に頭をぶつけ、目を回したまま動かなくなった。
氷は瑞穂の前に立ちふさがる。そして、疲れ果て座り込んでしまった瑞穂を、見下ろした。
「あ……氷ちゃん……」
「何を――しているの?」
ぽかんとした表情で瑞穂は、氷の冷たい横顔を見つめた。氷は表情こそ変わらないが、怒っているような感じがした。
「私は、『自分の妹を助けろ』と言った筈よ。そして、『あなたの妹は五階にいる』と教えてあげた筈よ……」
「あの……それは……」
「ここは、いつから五階になったの? ここは四階よ? 今まで、こんな所で何をしていたの?」
厳しい詰問に、瑞穂は反論する言葉を失ったしまった。
瑞穂は知る由もないだろう。氷が、『姉』を飛び降り自殺で失っていることを。自分だけをおいて、先に死んでしまった、無責任な姉にどうしようもない怒りを感じていることを。そして、その怒りが、自分の『哀しみ』と、『復讐』の原動力であることを……。
今、氷は瑞穂に、かつての自分の姉の姿を投影していたのだ。
「無責任よ……」
唇を噛みしめ、瑞穂は申し訳なさそうに立ち上がった。
「ご、ごめん……」
「私に謝る暇があったら……」
ビクリ、と瑞穂の肩が怯えたように跳ね上がった。モンスターボールにナゾノクサを戻す。
「そ、それじゃ、お願い……。ここの人質の人達を……」
「早く行け……!」
氷は怒鳴っていた。瑞穂が、驚いたように目を剥いた。自分でも、氷は驚いていた。……私が、怒鳴るなんて……そんなこと……。
「い、行くから……」
落ち着きを取り戻し、小さく氷へと頷くと、瑞穂は、おぼつかない足取りで五階への階段を駆け上っていった。
氷は、呆然と少女を見つめる。そして、舌打ちした。チッ、と。瑞穂の後ろ姿が見えなくなると同時に、背後に凶悪な気配を感じたからだ。振り向いて、氷は鋭い形相で、女の姿を睨み付けた。カヤだった。
黒服に身を包み、美しい金髪を撫でつけながら、カヤは嫌らしい笑みを浮かべている。
「見つけたわ――」
氷は、一言だけ呟き、鮮血に染まった頬を掌で擦った。雪のように白い肌が鮮血の下から覗いている。
カヤは、微笑を浮かべながら、目を回していたライチュウを蹴り飛ばした。ライチュウは目を覚まし、カヤの足下へ寄り添った。
「殺す……殺してやる……」氷は呟く。
「私を殺せるとでも……思っているわけ?」
カヤの口振りは、心底楽しそうだった。意地悪そうに唇を歪めると、黒い手袋に包まれた手で、氷を指さした。
「あんた……さっきやけに喋ってたわね」
無表情を貫いていた氷の顔が、少しだけ驚いたような色を帯びてきた。氷の心情を、まるで見透かしているかのように、カヤは言った。
「あんた、さっき怒鳴ってたわね……。面白いものを、見させてもらったわ」
堪えきれなくなったのか、カヤは吹き出した。
笑い転げる女を前に、氷は拳が震えるのを感じていた。だからなんなのよ。私が喋るのが、そんなにおかしい? 私が怒鳴るのが、そんなに笑える?
「動かないでね!」
手を振り上げようとした氷を、カヤは叫び声で制した。ライチュウの尻尾を、人質の子供達へと向けながら、微笑みを絶やさないでいる。
……動くと、人質を殺しちゃうわよ……!
あの女は、そう言おうとしているに違いなかった。
○●
五階、局長室の重厚な扉が、瑞穂の目の前に立ちはだかっていた。
「この中に……ユユちゃんが……」
瑞穂は1人で呟き、黒々とした重い扉に手をかけた。扉を開く。局長室の中は息苦しい雰囲気に包まれていた。白衣の青年が、窓の外を見つめながら立っている。瑞穂は、黙り込んだまま部屋の様子を伺った。
赤い絨毯が敷き詰められ、その上には高級そうなソファと机が置かれている。華美な装飾を施された本棚には、無数の本が敷き詰められていた。そして本棚に横たわるようにして、小柄な男の体躯が放置されている。男は、死んでいた。焼け焦げた身体からは煙が出ており、焦げくさい臭いが部屋に充満している。
瑞穂は怖ず怖ずと、一歩部屋へと踏み込み、白衣の青年の後ろ姿を眺めた。
「あなたが、シグレさん……ですね?」
青年は、瑞穂を振り向いた。微かに笑みを浮かべているように見える。腕を組み、嘲るような目つきで、じろじろと少女――瑞穂の身体を観察した。
「そうだ」
青年は口を開いた。想像していたよりも、見た目よりも、ずっと落ち着きのある声だった。
「氷から、私の名前を聞いていたようだね。歓迎するよ、洲先瑞穂ちゃん」
彼の口振りに、瑞穂は一瞬、不気味なものを感じた。とびきり強烈な不安を。……まるで、私が、ここに来ることを本当に喜んでいるみたい……。
謀っているのか? あらかじめ決められたシナリオ通りに進まされているのか……?
「どうして、私の名前を知っているんですか?」
「調べたんだよ」
組んでいた腕を解き、シグレという名の青年は、左手で前髪を掻き上げた。その時、青年の左手の甲に、瑞穂は火傷痕のようなケロイドを見つけた。
シグレは笑っている。当然だ。もうすぐ、洲先瑞穂を殺せるのだから……。
「君の妹が、私の計画の邪魔をしようとしたのでね。ゆかりちゃん……という名前だったかな」
やっぱり、この人は、ユユちゃんを知っている。瑞穂は、激しく鼓動する胸元を押さえつけ、シグレに訊いた。
「ユユちゃんを……ゆかりちゃんを返してください」
「嫌だ……と言ったら?」
「そんなことを、あなたが言う権利はありません」
言ってくれるな。さすがは、洲先祐司の娘といったところか。口の端を引きつらせるようにして微笑み、シグレは心の中で呟いた。
真摯な眼差しのまま、瑞穂は青年を睨んでいた。掌を握り、一筋の汗が滴る。赤い絨毯に、少女の影が、暗い穴へ落ち込むように伸びていた。
○●