霞んだ記憶
遠い、深い夢を見ていたような気がする。
現実――血生臭い惨劇――に疲れ果てたのだろうか。
『死』というものを意識したのは、もう何回目なのだろう。考える度に、足下から善もなく悪もない影が忍び寄ってくる――
それは恐怖。こわいよ。私は死にたくないよ、という危険信号。
心の奥底で、浅はかな本能が叫んだ。――私は、死にたくない。
これは『隔離』なのだ。
死――自分の終わり――を、はっきりと意識したとき、人間は現実が見えなくなる。そして狂うのだ。叫ぶのだ。理性を失った獣となるのだ。誰でも、死ぬのは怖いから――
『死』という『現実』から、自分の意識を隔離するのだ。
そして今、洲先瑞穂の意識は夢の中にあった。いや、そう感じるだけだ。これは夢なんだ。そう自分に言い聞かせているだけだ。
腹部に信じられないほどの激痛が走っていた。口から滴る液体は唾液ではなかった。血だった。瑞穂の掌を、口から吐いた血が鮮やかに彩っていた。
――綺麗だなぁ――
意識の消えゆく刹那、瑞穂は思った。
これは夢だ。夢に違いない。だから言えた。これは夢だから。痛くても、本当――つまり現実で――は痛くないから。
「よかった……ユユちゃんが無事で……よかった……」
泣き叫ぶ、ゆかりの頬を見つめた。触れる。冷たかった。涙で濡れていた。その、ゆかりの首筋に……何か見える。小さな文字が刻まれている。
『sl/Hsf132-0s(y)』
なんだろう、これは――
○●
白いベッド上で瑞穂は眠っていた。
純白な肌が時折、微かに動くことで、辛うじて生きているように見える。そうでなければ精巧にできた人形と見紛ってしまいそうだ。
ゆかりは沈鬱な面持ちで、瑞穂の寝顔を眺めていた。顔色が悪い。思い詰めているのだろうか。こうなったのは自分のせいだ、と。
開けっ放しの窓に据え付けられたカーテンが風に揺られて、静止したかのように静かな、部屋の空気を押し揺るがしている。稀に窓から覗く夜景は、今のゆかりの心を映しだしているかのようだ。
純黒の空。星も月も輝かず、コガネシティは闇に堕ちている――
その時、音がした。ゆかりは眼を見張った。カサリ、と硬そうな布団が波打った。
細々とした寝言が途切れる。呆然とゆかりが見つめる目の前で、瑞穂は半身を起こしていた。可愛げな欠伸をして、まぶたに溜まった涙を拭う。
「お姉ちゃん」
ゆかりは上の空の意識で呟いた。瑞穂は、ゆかりを見た。
沈黙が来た。だが、重苦しいものではない。お互いの『生』を確かめあうための沈黙なのだ。
「お姉ちゃん……!」
俯いて、ゆかりは、べそをかきはじめた。泣きはらして赤くなった頬を涙が伝う。小さな部屋の灯りに照らされて、涙は輝いていた。
星のようだ。夜空を流れる流星よりも綺麗だな――
そんなことを思いながら、瑞穂はゆかりの手をとった。瑞穂の掌は雪のように白い。
「ユユちゃん。無事でよかった。ほんとに、よかった」
ゆかりは、瑞穂の手を握りしめた。数滴、涙が落ちた。
「お姉ちゃん、アホや。ウチのことなんかより、自分の身体を心配してや……。ごめんやけど。ちゅうか、ごめんなさい……。ウチが勝手なことしたから、お姉ちゃんが、こんなことに……」
「無理してなかったつもりだったんだけどね……。昔から私、よく言われてたの。あんたは気付かない内に無理をしてるから気をつけろ、って。その通りになっちゃった」
穏やかに瑞穂は微笑んだ。その微笑みの先に『死』があると思うと、ゆかりはやるせない気持ちに包まれた。
「ところで、ここ、どこ?」
瑞穂は辺りを見回しながら訊いた。白い壁、白いベッド、白いカーテン。視界に入ってくるもの、すべてが白い。まるで、部屋全体が外の闇を恐れてでもいるかのような感じがした。
ゆかりは溜息をついた。安堵と、不安が入り混じっている。
「病院や。コガネ中央病院の308番室やで。お姉ちゃん、血を吐いて運ばれてきたんや。ホンマにビックリしたで、いきなりぎょうさん、血を吐くんやもん」
「病院、か……。そうだよね。そうだよ、夢なわけないもんね……」
「ノゾミお姉ちゃんは、『ないぞうが傷ついただけで、たいしたことない』って言うとった。そんでな『ないぞうよりも、心ぞうのほうがしんぱい』なんや、って」
「うん。明日、望ちゃんに詳しいことを訊いてみる」
瑞穂はベッドの上に横になった。ゆかりは、瑞穂の体を見つめた。こうしてみると、瑞穂がひどく弱々しく見える。微動だにしない。これでは、本当に人形と間違えてもしかたがない。
作り物のように可愛らしい瑞穂の顔が、天井を向いていた。遠い、何かを見ているような目つきだった。思い出か、思い出したくない過去か。
「お姉ちゃん」
「ユユちゃん」
2人の言葉は、タイミングを合わせたように同時に発せられた。
「あ、あの、お姉ちゃん。訊きたいことがあるんやけど」
「私は、ユユちゃんに言いたかったことがあるの……」
躊躇いがちに、ゆかりは布団に手をかけた。硬かったが、瑞穂の暖かみが感じられた。
「一緒に、ここで寝てもええかな……?」
「うん。いいよ」
並ぶようにして、同じベッドに2人は横になった。
瑞穂が目を閉じる。ゆかりも、それに倣った。眠ったわけではない。視界を閉ざしただけだ。2人だけで語り合うのに、部屋の灯りも、簡素な白い天井も不要だからだ。
「お姉ちゃん……病院の院長さんの、娘なんやってね……」
目を閉じたまま、ゆかりは訊いた。
瑞穂は驚いたようだった。慌てているようでもあった。声を聞けば、それがわかる。
「知ってたんだ……。あの事件のこと、お姉さんのこと、私のことも」
「詳しくは知らへん。だから、訊いてるんや」
軽く、瑞穂は息を吐いているようだ。息づかいが聞こえてくる。
「そうだよ。私は、トキワ・洲先クリニックの院長だった、洲先祐司の娘。洲先クリニックは、3年前の不整脈用剤点滴混入事件のあった病院なのは知ってるみたいだね。その事件で、ユユちゃんのお姉さんが、亡くなったことも――」
「お姉ちゃん。そのこと、最初から――ウチと始めて逢ったときから――知ってたんやな?」
ゆかりの問いに、瑞穂は目を閉じながら首を横に振った。
「え……知らなかったよ」
「嘘や。お姉ちゃん、事件で死んだんがウチの姉ちゃんや、って知っとったから、ウチのお姉ちゃんになってくれたんやろ? 罪ほろぼしのために……」
「それは誤解だよ。昨日、始めて知ったんだから。ユユちゃんのお姉さんが、ほたるちゃんだったってことに――」
「え?」ゆかりの声は、驚きを帯びていた。「なんや。姉ちゃんの名前まで知ってるん?」
目を閉じたまま、瑞穂は手を伸ばした。灯りの紐を引く。電灯が消えた。白一色だった部屋も、光がなければ、ただ闇に沈むだけ――
闇を祓うように、瑞穂の白い掌が、ゆかりの頬を優しく撫でた。温かい。
ゆかりは、瑞穂の細く華奢な体躯を抱きしめた。細々とした胸の鼓動が聞こえる。
「知ってるよ。ほたるちゃん――つまりユユちゃんのお姉さんのこと、よく知ってる」
「なんでなん? なんぼなんでも、あの事件で死んだ人、全員の名前を覚えてるわけないやろ?」
無言のまま時が過ぎた。カーテンのはためく音だけが、辺りに溶けこんでいく。
「覚えてるよ。だって私は、あの事件の唯一の生き残りだもの」
瑞穂は切なげに、胸の奥に隠したはずの苦しみを再び直視しているかのような、悲しそうな声で呟いた。
「もう、あの事件から3年も経つんだね――」
○●
冬は終わろうとしていた。春は目前まで迫ってきている。
トキワシティ、洲先クリニックの病室の窓から、瑞穂は見上げた。透けるような晩冬の空を。空を覆っていた雪は溶け、風は厳しさを緩め、葉を失った木々には、小さな新しい緑が見える。
思わず、瑞穂は溜息をついた。
――もう、入院してから、何日経ったのだろうか。恐ろしく長い時間のような感覚だったが、まだ3日しか経っていない。乾いた空気の病室で、寂しさが、心の奥から膨らんでくるのがよくわかった。
胸は、まだ痛む。締めつけるような苦しさが、不安と寂しさを、なおさら大きくするのだ。
――このまま、私は死ぬのかな。
父は言っていた。お前が助かるためには、心臓を移植するしかないんだよ、と。
生まれつき、心臓は悪かった。それはお母さんからの遺伝だ、と父からも聞かされた。助かるためには、心臓を移植するしかないんだ――助からなかったら、私は死ぬんだ。
瑞穂は、窓から視線をそらした。寒々とした空が、心にまで凍みてきたのだ。
ふと、枕元に目をやった。指輪が一つ置いてある。拾い上げ、瑞穂は見つめる。透けるように蒼く輝く宝石の埋め込まれた指輪だ。ヒメグマとフシギダネがくれたものだった。入院のため、家を出ようとしたときに、お守りとして手渡してくれたのだ。家を離れる、不安と心細さから、啜り泣く瑞穂の掌に、こっそりと――内緒だよ――って。
どこかから拾ってきたのだろうか。落とし物かもしれない。じっくりと、瑞穂は見つめた。裏側には、空翠と書かれていた。空翠――人の名前だろうか――
指輪を眺めているうちに、どういうわけか悲しくなってきた。心が、沈み込んでいく。ヒメちゃんに、ダネちゃん。大樹くんに、望ちゃんに――逢いたいよ。寂しいよ。寂しいよ。独りぼっちは嫌だよ――おうちに帰りたいよ。
その想いは、涙となって、澄んだ瞳からこぼれた。一筋、二筋――とどめなく流れ落ちた。
「悲しいの?」
声は訊いた。瑞穂は、涙を慌てて拭い、声の方を向いた。
隣のベッドで横になっている、女の子だった。肩まで伸びた黒髪に、小麦色の肌をしている。足にはギブスがしてある。ケガをして、ここに入院している患者なのだろう。活発そうな印象を受けたが、どこかおっとりとした話し方をする女の子だった。
「悲しくなかったら、泣かないよ。寂しいから、泣くんだもん――」
嗚咽しながら、瑞穂は呟いた。どこか悲しげに瑞穂を見つめながら、女の子は呟いた。
「寂しいよね……私も、寂しい。家族と離れていなくちゃいけないなんて。でもさ、そんな風に、いぢいぢ泣くのはよくないよ。泣くんだったら、泣いた後に、笑えるようじゃなきゃ」
「泣いた後、笑う?」不思議そうに、瑞穂は小首を傾げた。
「だって悲しみや、寂しさを振り払うために、人は泣くんだもの。泣いた後、笑えなきゃ、泣く意味なんてないよ?」
微かに、瑞穂は微笑みを浮かべた。ほんの微かな――「変なの。でも、そうだよね」
「わかってくれた? ……ところで、あなた名前は?」
「瑞穂――洲先瑞穂っていうの。瑞々しいの『みず』に、稲穂の『ほ』って書いて」
女の子は、小さく欠伸をした。目を擦りながら、瑞穂に笑いかける。
「私は、ほたる。百合ほたる。漢字の『蛍』じゃなくて、ひらがなで『ほたる』。それにしても、洲先だなんて妙な名字だね――って、あれ? たしかこの病院も……」
頭に手を当て、ほたるは考えるような素振りを見せる。すかさず、瑞穂は付け加えた。
「あ、この病院の院長が、私のパパなの」
ほたるは驚いたように、眼を見開いた。
「へぇ、そうなんだ。でもさ、それだったら、こんな――って言ったらなんだけど、大部屋じゃなくて、もっと高級な個室にしたらよかったのに。瑞穂ちゃんの父さん、融通がきかないタイプ?」
「そうじゃなくて、私が『特別扱いはしないで』って頼んだの。パパは、かなり厳しい人だけど、こういうときだけは優しくて『いいのか? うちの病院の飯はまずいぞ』って、自分の病院なのに――」
「厳しい、ってどのくらい?」
「3年前、学校で苛められるのが嫌で家出したら、竹刀でお尻、100回くらい叩かれた。顔を真っ赤にして『男なら逃げるな』だって。私、女なのに――」
「そりゃ、ひどい」と、ほたるは痛そうに顔を歪めた。
「キレちゃったら、見境がなくなっちゃうの。まぁ、私もそうなんだけど……。その後パパ、学校に殴り込みに行って、いろいろあって、結局、私は退学処分」
「あらら……」
瑞穂は、にこやかに笑ってみせた。ほたるも、つられて笑い出した。
この病院で、一緒に笑うことのできる友達ができた――それは嬉しいことであり、思わぬ転機でもあった。だが、それは予測もできない終わり方を迎えることになるのだが――