「心疾患?」
ほたると親しくなってから数日後、瑞穂は自分を蝕んでいた病の名を打ち明けた。明日に控えた手術が、不安でたまらなかった。だから、誰かに聞いて欲しかったのだ。
慰めなんていらない。ただ、聞いて欲しかっただけ――
「うん。心臓がね、突然止まっちゃう病気なの。遺伝性らしいんだけど……」
「遺伝性……」
「そうなの。だから、私のママも、私を生んだ直後に心臓が止まって死んじゃった――」
風が吹いた。思いのほか、冷たい風だった。冬が戻ってきたかのようだった。北風は、瑞穂に囁いていた。
――忘れ物をした。お前の命を、お前の魂を――
北風が窓から吹く度に、瑞穂は怯えた。――忘れ物をした。お前の魂を奪うのを忘れていた――
追いかけてくる。死の影は、確実に、瑞穂の足下に忍び寄ってきていた。
あの日も、風は冷たかった。瑞穂が、倒れた日だ。大学の道場で剣道の稽古をしていたときだった。風が振り下ろした竹刀に触れた。そして突然、胸元を締めつけられたような痛みが走った。胸を押さえた。地面が音をたてた。倒れたのだ。呻いた。誰かが近寄ってきた。盛んに話しかけてくる。瑞穂は呻くだけだ。意識が遠いものになっていった。だが、痛みだけは、いつまでも瑞穂の胸に居座り、消えることはなかった――
今でも、あの時のことを思い出すたびに、瑞穂は額に冷たい汗を浮かべる。
「どうしたの瑞穂ちゃん。顔色、悪いよ?」
ほたるは心配そうに語りかけた。我に返り、瑞穂は蒼白のまま、首を横に振った。その動きに呼応するかのように、北風は病室に渦巻く。瑞穂のツインテールの髪が、風に吹かれて揺れた。
「大丈夫。でも、やっぱり怖い。だめ、怖いよ。私、もう――」
「元気だしなよ。そん気持ちじゃダメだよ。……ところで、手術って、どんな手術なの?」
いくらか顔色を元に戻して、瑞穂は答えた。
「心臓移植」
「移植?」
ほたるは青ざめた。小麦色に焼けた頬が、瞬時に蒼白に変わった。瑞穂の手術の病状の重大さに、いまさらながらに気付いたからだろうか。
ほたるの様子には気付かずに、瑞穂は俯いた。もうだめだよ、私――死んじゃうよ。死にたくないよ――
じっと、ほたるは瑞穂を見つめている。真摯な眼差しだった。瑞穂は目をそらしたかった。だが、動くことが出来ない。目をそらしたら、逃げたことになるから。
風は凪いでいた。瑞穂は窓の外を横目で見やった。薄暗く悲しげな空が、瞳に映る。
ほたるは、できる限り元気な声を出した。
「そう……なんだ……。大丈夫だよ。きっと手術は成功するよ」
「ありがとう、ほたるちゃん。ほんとに、ありがとう――」
そして、瑞穂の手術の日がやってきた。手術の直前。冷たく白い瑞穂の拳を握りしめ、ほたるは言った。
「帰ってきてね。約束だよ」――掌は離れた。だが、ほたるの柔らかい感触は残っていた。やがて、麻酔によって薄れる意識の中で、瑞穂は呟いた。誰にも聞き取れないような小さな声で、「負けない……絶対に私は――」
6時間にも及ぶ、大手術だった。いつしか、ほたるは眠っていた。
そして、時は流れた――
長い時だった。まるで数ヶ月も経ってしまったような感覚がした。冬が終わり、春がやってきた。桜の花はつぼみを付け、風も温かくなった。
ほたるは待ち続けた。毎朝起きると、すぐに隣のベッドを確認した。誰もいない、白いベッドがあるだけだったが、それでも、ほたるは待ち続けた。瑞穂の帰ってくる日を。
そして、瑞穂が手術をうけた日から、一週間が経った。
温かい春風の感触が、ほたるの体を撫でるように吹いていた。ほたるは目覚めた。上体を起こし、いつものように、窓を見つめた。目を擦り、呟く。
「瑞穂ちゃん――」
横のベッドには、静かな寝息をたてる、瑞穂の姿があった。瑞穂は、帰ってきたのだ。死の影を、振り払ったのだ。
ほたるの声に気付いて、瑞穂は目を見開いた。そして横になったまま、ほたるを見つめ、微笑んだ。
「瑞穂ちゃん。成功……したんだね? 心臓移植の手術」ほたるは訊いた。
「うん」
明るく瑞穂は頷いた。ほたるは瑞穂の手を握りしめながら、喜んでいる。
「よかったね瑞穂ちゃん。退院したら、一緒に遊ぼうよ。私、妹がいるんだ……」
「ほたるちゃん、妹がいたんだ。羨ましいな……私、一人っ子だから。腹違いのお姉さんはいるけど、ほとんど会ったことないし……」
「だから、一緒に遊ぼうよ。私の妹、ちょっと生意気だけどね」
そう言って、ほたるは笑った。瑞穂も微笑む。瑞穂とほたるの笑いに誘われたかのように、温かい風が部屋を包んだ。
だが、その時だった。
せっかくの暖かい風と、和やかな雰囲気を吹き飛ばすような不気味な視線に、瑞穂は気付いた。病室の入り口に隠れながら、何者かが、じっと瑞穂とほたるを見つめているのだ。
思わず瑞穂は振り向いた。そして、思いがけない相手の姿に、息を呑んだ。
ショートカットの髪をした女の子だった。女の子は病室のドアの影から、瑞穂達の様子を伺っていたのだ。
瑞穂に見つめられ、怯えたようにショートカットヘアの女の子は、首をすくめた。紫色のショートカットの髪が、はらりと揺れている。
そして、目があった。女の子の不思議な瞳に、瑞穂は見入っていた。水晶のように澄んだ瞳をしている。だが、その奥に怯えがあった。少なくとも瑞穂には、それがわかった。
怯えている。何に怯えているの? 私にはわかる。この子は怯えている。私も、昔は怯えていたから。苛められて、怯えながら暮らしていたから――
女の子は後ずさっていた。怯えに負けないようにするためか、拳を強く握りしめている。
いつしか瑞穂は、自分が睨まれていることに気付いた。女の子は、瑞穂を睨み付けていたのだ。
(どうして、私のこと睨むの?)
呟きながら、瑞穂には、なんとなく女の子の気持ちがわかっていた。――怖いんだ、あの子、私のことが。怖いから、睨み付けなきゃ、怖さに負けてしまいそうになるんだ――
「どうしたの? 瑞穂ちゃん」
ほたるが瑞穂の顔を覗き込みながら、訊いてきた。小さく首を横に振り、瑞穂は「なんでもないよ」と答えた。再び、病室の入り口の方を見つめたが、女の子の姿は、もうなかった。
瑞穂は小首を傾げながら横になると、ほたると一緒におしゃべりを続けた。
しばらくして、看護婦が点滴のために、病室に入ってきた。栄養補給のための点滴の針を腕に刺してもらうと、瑞穂は目を閉じる。
頭の中がぼんやりとしてきた。朦朧とした意識の中で、呻き声のような音が聞こえてきた。なんだろう。瑞穂は身を起こそうとしたが、その身体は動かなかった。まるで全ての感覚が停止したような感じが襲ってくる。胸の奥で、新しい心臓が激しく鼓動した。
耐えかねて目を見開く。体中に汗が浮いているのに気付いた。白い筈の天井が、真っ赤に染まっている。水槽の中の金魚のようにパクパクと口を開閉させ、喘ぎ続ける瑞穂の耳には、自分の名を呼び続ける医師の声が反響していた。
苦しい――
思わず瑞穂は呟いていた。だが、その声は風に浚われ、虚しく消えた。
悪夢のような『トキワ総合病院・薬物混入事件』から、3週間が経過した。
熱狂したマスコミの過剰報道は終息するどころか、さらに加熱する様相を呈していた。10人以上もの死者をだし、20人以上の人間が脳や心臓に後遺症害を被ったという事件の重大さを考えれば当然なのだが、その報道の方向性は、いささか常軌を逸するものになりつつあった。犯行に使用された薬物が、病院から盗まれたものであると発覚したからだ。
事件の舞台となったトキワ洲先クリニックは、世間から非難の目で見られながらも、未だに存在していた。もっとも、それは事件の後処理が残っていたからであり、もはや閉院は免れない状態にあった。
暖かい春風とは対照的な薄暗い病室で、瑞穂は赤く泣きはらした眼をベッドへと向けている。口に手を当て、怯えたように震えながら、ベッドの上の少女を見つめていた。
「ほたるちゃん――」
少女、ほたるは瑞穂の蒼白な顔を見つめて、笑った。微笑み返す気持ちが、瑞穂にあるはずがなかった。ただ、黙って沈黙していた。
虚ろな瞳で、ほたるは辺りを見回していた。ひきつった口許から、涎が滴っている。糸を引いて、ぎらぎらと不気味に涎は光っていた。
瑞穂は後ずさった。俯いて肩を小刻みに震わせている。涙が頬を伝って、床へと落ちていく。押し殺したような嗚咽が漏れた。
ほたるは窓の外を見つめていたが、突然、奇声を発し始めた。猿のように叫き散らしながら、瑞穂を睨み付けていた。不意に、罪の意識を瑞穂は感じた。それほどに、ほたるの瞳には恨みがこもっていた。
周りにいた大人達は項垂れながら、口々に呟いている。
「もう、だめだな」
そんな囁きが聞こえる度に、瑞穂は萎縮したように肩を落とし、震える拳を握りなおした。
泣き続ける瑞穂の肩に、父親は手をかけた。促されて、瑞穂は病室を後にした。だが、瞼の裏には、狂ったほたるの形相が焼きついており、消えることはなかった。
百合ほたるは、既に自我を失っていた。記憶も、意識も薬物によって掻き消されていた。獣同然となった、ほたるの脳には、『自分』を破壊した者に対する憎悪と、同じ事故に遭いながらも『自分』を失わなかった瑞穂に対する嫉妬が、怨念となって残されているだけだった。
瑞穂は苦しんだ。夜になりベッドに潜り込むたび、ほたるの奇声が、曳光騨のように尾を引いて戻ってくるのだ。瞼を閉じれば、ほたるの恨みの瞳が、じっと見つめているのだ。自分も気が狂ってしまうのではないか。それほどまでに、瑞穂は恐怖した。
涙目で飛び起きても、助けてくれる人は誰もいなかった。足下に、投石によって砕け散った窓ガラスの破片が散乱しているだけだった。鮮血に染まった素足を眺めながら、瑞穂は譫言のように呟いていた。
「死にたい。もう死んだ方が、いい――」
外から男の声で罵声が響いた。続いて、割れた窓から石が飛び込んできた。瑞穂に避ける暇はなかった。石は瑞穂の脇腹に直撃した。苦痛に顔を歪め、ベッドの上に蹲る。他にも2、3個、石が投げられてきた。
脇腹を押さえながら、瑞穂は窓を見つめた。窓の奥に終わりのない闇が映った。
永久に続く、心の闇が。
○●
「それから一年後、ほたるちゃんは亡くなったの」
目を閉じたまま、瑞穂は言った。その口調は、どこか切なげだった。ゆかりはゆっくりと目を開き、暗がりに沈む瑞穂の横顔を、沈鬱な面持ちで見つめた。
二人とも、泣いてはいなかった。泣くには、時が経ちすぎたのか。それとも、あまりに急いで話したので、実感が湧いてこないだけなのか。それはわからない。ただ、ひどく寒々とした気持ちが、お互いの胸の奥でうずいていた。
自分の内にある傷をえぐりだすかのような痛々しさを感じさせる口調で、瑞穂は続ける。
「ほたるちゃんのお父さんが――つまりユユちゃんのお父さんなんだけど――アルコール中毒で錯乱状態になって、その勢いで、ほたるちゃんの首を絞めて殺したの――」
「そやったんか……」
ゆかりは目を閉じた。瑞穂の暖かい手を握り、寄り添う。自分でも驚くほどに冷静だった。涙がこみ上げてこないのが不思議だった。
震える声で、瑞穂は言った。
「ユユちゃん」
「ん?」
「ごめん」
「なんで、お姉ちゃんが謝るん? そんな必要ないやん。お姉ちゃんは、なんも悪くないやん。お姉ちゃんかて、辛い思いしたんやろ? なんでウチなんかに謝らなあかんの――」
不意に泣きたくなって、ゆかりは黙り込んだ。涙を流さないように、口もとに力を込める。胸の辺りが、痺れるような痛みに包まれていた。
瑞穂は何も言わなかった。抱きかかえるように、ゆかりの背中に手を回した。胸の辺りに、ゆかりのすすり泣く音が響いている。
「知らない方が良かった。何も知らん方が良かったわ。何も聞かんで、今まで通り、お姉ちゃんと一緒にいれば良かったんや。そやったら、こんな悲しい気持ちにならんで済んだのに、こんな泣かんでもよかったのに――」
「そうだね――私も、ここまで言うべきじゃなかった。言いたくなかった。ユユちゃんには、何も知らずに、これからのことだけを見ていて欲しかった。このことで、ユユちゃんの悲しみを繰り返させるようなことはしたくなかった。でもね――」
「でも……なんやの?」
「傷つくことを恐れたら、何もできないし、何もかも知らないままで終わっちゃう。そんなの、私は嫌だな。だって人間は、傷ついて、その傷を自分の力で克服するたびに成長するんだと思うの。生まれてから、一度も傷ついたことのない人なんて、本当にいたら気持ち悪いよ。」
胸の中で、ゆかりが小さく頷いた。何度も何度も、自分に言い聞かせるように。
「今日はありがとうな。助けてくれて……。お姉ちゃんの言いたいこと、ようわかる。ウチ……絶対、乗り切ってみせるで。姉ちゃんのこと……父さんのこと、母さんのこと、冬我兄ちゃんのこと……乗り切ってみせる……」
ゆかりの涙声は、やがて細々とした寝息となった。水たまりを行き交う波紋のように、静かな部屋に広がっていく。瑞穂は、ゆかりからゆっくりと手を離し、カーテンの隙間から覗く夜の闇を眺めた。
傷つくことを恐れたら何もできない――私は、何を『知ろう』としているんだろう。
眠気で、ぼんやりとした意識の中で、瑞穂は考えていた。自分の知るべきことを。未だに自分の中に残る『傷』の真実を。『傷つく』という代償を払い、『知る』ことの果てに何も残らないかもしれないのに、どうしてこうも惹かれるのだろうか。
パパ――父さん――お父さんは、どうして私の前から消えたの? どうして逃げる必要があったの? そもそも、『どうして、あんな事件が起こったの?』
それだけではない。紫色の髪をした、射水 氷という少女。特殊な装置を埋め込まれたナゾノクサ。謎の力をもったグライガー。
今、どこにいるの? 私は知りたい。知らなければならない。どんなに傷つこうとも、あの事件の真実を知りたい――
白いベッドの上で、二人の少女が眠っている。1人は辛い過去を乗り越えるための、もう1人は辛い過去の真実を知るための決意に満ちていた。
たとえ、どんなに傷つこうとも、自分が自分であるかぎり、その傷を乗り越えることができると信じながら。乗り越えなければならないと、自分に誓いながら。
○●