刹那の夢と嘘の玩具   作:月影 梨沙

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月照らす、少女の過去

 あれから、どれほどの時が経ったのかはわからない。

 

 私は意識を取り戻した。暗い部屋だった。ロケット団の地下秘密基地の一室であると、あとから教えてもらった。

 

 目の前には、白衣の男が立っていた。あなたも知っている男、シグレ。私はとっさに逃げようとした。でも、身体は動かなかった。シグレは笑いながら言い放った。

 

「無理だよ。きみの身体は動かない」

 

「卑怯よ。こんなことするなんて、卑怯よ」

 

「私は何もしていない。きみの身体が、使い物にならなくなっているだけだ」

 

 シグレの言葉を聞いて、私は首を回すと、ベッドに横たわる自分の身体を見つめた。左腕は焼き切られていた。残りの四肢は、腐ってでもいるかのように黒ずんでいた。腐臭が鼻に漂った。私は思わず、顔を背けた。その反動で雫が滴った。知らぬ間に、私は泣いていた。喉をひきつらせながら、むせび泣いていた。

 

「私の身体……どうしちゃったの? 変だよ。ぜんぜん動かないし、変な臭いがするよぉ。でも、痛くないの……どうしちゃったの? 私の身体、おかしくなっちゃったの?」

 

 無言のまま、シグレは頷いた。男の口の端に、うっすらと笑みが浮かんでいたことを、私は今でも覚えている。

 

「どうして? それに姉さんは? 姉さんも死んじゃったの?」

 

「きみの姉さんは無事だ。いま、別の場所で治療を受けている」

 

「それじゃ私は? 私はどうなるの? この身体はどうなるの?」

 

「長期にわたって冷たい水に晒されていたキミの身体は、重度の凍傷によって、皮下の筋肉組織や骨組織が完全に壊死し、腐敗した状態になっている。奇跡的にも無事だったのは、内蔵の一部と脳だけだ。キミ、自分の身体を鏡でみてみるかい?」

 

 私は激しく首を振った。体中が腐敗している――そんな自分の姿など見たくもなかった。

 

「私……死ぬの?」

 

「嫌かい?」

 

「嫌だ。死にたくないよぉ。私、死にたくないよ。なんで……なんで、こんなことになるの――」

 

「元に戻る方法が――助かる方法が、一つだけある……」

 

 シグレは言った。私は、泣きはらした醜い顔を、彼へと向けた。

 

「ただ……そのためには、自分を捨てなければならない。そして、過去を背負わなければならない。それが、生き延びることと引き替えの代償だ。無理強いはしない。別に私は、キミが死ぬことを選んでも、困りはしないから。どちらにしろ、キミは私の実験材料になるのだから――」

 

「生きたい……死にたくない……こんな、こんな死に方したくないよ……」

 

 私の目から、大粒の涙が溢れ出た。死にたくない。こんな――こんなに惨めな死に様は晒したくない。ここで死んだら、何のために母と父を見捨てたのか――いろいろな思いが、私の頭の中で交錯していた。そこで導き出された答えは、ひとつだけ。

 

「死にたくないよぉ。助けて――私を助けて――」

 

 

 ○●

 

 

 ラジオ塔前のベンチに座りながら、氷は自分の小さな掌を見つめていた。

 

 辺りは、もう暗くなっていた。街灯の光が、瑞穂の悲しげな表情を照らし出している。ゆかりは、瑞穂の右手を握りしめ、黙り込んだまま俯いていた。

 

 腕の時計は6時を示ていた。瑞穂はゆっくりと、掌を見続けている氷の横顔を伺った。お互いに、一言も発しなかった。なんと言ったらいいのか、分からなかったのだ。

 

 淡い色をした三日月が、雲の隙間から顔を出している。氷は顔を上げ、月を眺めた。月の光が、シャワーのように氷の身体を流れていく。眩しそうに目を細め、氷は微かに息をはいた。

 

 静かだった。少なくとも、3人のいる空間は。そこだけが、別世界のように沈黙に包まれていた。街に溢れるネオンの光も、道路をひっきりなしに駆け抜ける騒音も、瑞穂は感じ取ることができなかった。それほどの衝撃が、彼女の神経を麻痺させていたのだ。

 

 氷は、瑞穂の顔を見やった。思わず目があった。瑞穂は、今にも泣き出しそうな表情をしている。氷は少しだけ戸惑いを感じ、それを悟られないように、小さな声で呟いた。

 

「アーボ……」

 

「え?」

 

「死滅寸前だった私の身体は、アーボの細胞と融合させることで、再生していった」

 

「どういうことなん?」

 

 怯えてでもいるような掠れた声で、ゆかりは訊いた。

 

「蛇ポケモン・アーボは強力な自己再生能力をもつポケモン。アーボの細胞と融合することで、氷ちゃんの身体に自己再生の能力が備わり、重度の凍傷から回復した――ってことだよ。たぶん。それにしても……人とポケモンの細胞を融合させるなんて――」

 

「倫理的に許されることではない……と言いたいのね」

 

 瑞穂は、ハッとしたように氷から目を背け、黙り込んだ。頷くことはできなかった。それは、『今、ここにいる』射水 氷の存在を否定することになるから。

 

 細い目を瑞穂へと向けながら、氷は掌を前へと突きだした。恐る恐る、瑞穂は彼女の掌を見つめた。

 

 掌は変色していく。紫色へと。指先が次第に短くなり、パックリと腕が裂けたかと思うと、その先から剥き出された牙があらわれた。氷の腕は、一匹のアーボの頭へと変貌していた。

 

 ゆかりが小さく悲鳴をあげて、瑞穂の腰に飛びついた。瑞穂はゆかりを抱きしめ、獣の獰猛な顔を直視した。怯え続けるゆかりの横顔をチラリと眺め、氷は瑞穂に向き直った。

 

「これが……新しい身体を得た代償。私は人間でも、ポケモンでもない存在。人間として普通の生活を送ることも、野生のポケモンとして調和のとれた自然の中で暮らすことも許されない存在」

 

 哀しげに目線を落として、氷は続けた。

 

「細胞融合の処置を受け、回復した私は、ロケット団の――組織の中で暮らさなければならなかった。上から作戦の指示があれば、命令されるままに動くしかなかった――そして、あの女が副長をしていた部隊、『影の妖星』に配属された」

 

「あの女って……一位カヤって人のことだよね」

 

「そう。私は、あの女の……玩具同然だった。ペットと同じだった。でも、そうなるのは当然だったのかもしれない――」

 

 脳裏に鮮やかに甦る記憶。体中から滴る鮮血、立ち上がる自分。鞭で打ちつけられ、蹴られ、殴られ――それでも死ぬことのできない苦痛。全身を駆ける電撃。それでもなお続く悪夢、終わることのない苦痛――何度も何度も、嘲罵されながら言い聞かされていた言葉――

 

「私は、人間ではないのだから――」

 

「そんなことないよ!」

 

 瑞穂は首を激しく横に振り、氷のアーボ頭の手を握りしめた。氷は少しばかり驚いた様子をし、身を強張らせている。

 

 射水 氷が数年ぶりに見せた驚きの表情を、じっと見つめながら瑞穂は何度も首を振った。指先には、強い力がこもっていた。

 

「氷ちゃんは人間だよ。どんなに他の人と違う身体でも、人間だよ。それに――誰だって普通に暮らす権利がある。誰だって、自分のいるべき場所がある。まだ氷ちゃんは、自分の生き方を、自分のいるべき場所を見つけていないだけだよ。普通に生きることが『許されない』なんて、おかしいよ」

 

「ウチも……そうやと思う」

 

 ゆかりが、瑞穂の肩越しに氷を見つめながら、細々と呟いている。

 

「それに、誰かて、自分がどう生きるべきかを、探しているんやと思う。それは、今から始めても遅くはないで」

 

「どう、生きるべきか――を探す。姉さんは、それを望んでいたのかもしれない――」

 

「姉さん――?」瑞穂は訊いた。

 

「ええ。姉さんも、私と同じように組織の中で育てられた。もっとも、私とは別々の場所だったけど。私が死にそうなほど辛いとき、1人で泣いていると、いつも来て慰めてくれたの。私がこの世で唯一、信頼していた人よ――」

 

 彼女の言葉を聞き、ゆかりは思わず、瑞穂の横顔を眺めた。瑞穂の肩を握りしめ、背中に顔を押しつける。暖かい。目を閉じ、深く息を吸った。

 

「その、お姉さんも、細胞融合を――?」

 

「いいえ。姉さんは、私ほど重傷ではなかったから、細胞融合の処置を受ける必要はなかった。ただ、命令でラッタの細胞を融合されたことはあるけど、失敗した。細胞が融合したにもかかわらず、ラッタの形質が発現しなかったの。でも、そんなことは、もう関係ない。姉さんは――」

 

 氷の瞳は、明らかに愁いに満ちていた。声を落とし、力なく項垂れているようにも見える。そんな氷の様子に、瑞穂は少しだけ驚いていた。いままで終始、冷静な態度を貫いていた氷が落ち込む様など、想像できなかった。それほどに、辛い過去だったということか――瑞穂の心は沈んだ。

 

「姉さんと私は、法柿の協力によって、組織からの脱出に成功した――」

 

「法柿?」

 

「ロケット団員――私たちと同じように、ロケット団によって家族を失った孤児よ。彼は、ロケット団に所属しながら、ずっと私たちを脱出させようと考えていた。ロケット団への復讐のときに、利用するためにね」

 

 本当にそうなのだろうか? 話しながら氷は考えていた。法柿は、本当に自分達を利用するために、脱出計画を実行したのだろうか?

 

「脱出のあと、私と姉さんはコガネシティに潜伏していた。でも姉さんは――死んだ。コガネ百貨店の屋上から飛び降りて、死んだ」

 

 瑞穂は可愛らしい顔を、痛々しげに歪めた。氷は細い目の奥に、光るものが映った。いつしか氷の腕は、元の細々とした少女のものに戻っていた。言葉遣いすら、幼子のものに変わっていた。

 

「――姉さん、酷いよ。私だけ、置いてきぼりにするなんて……私だけ、苦しめるなんて……信じてたのに、ずるいよ。卑怯だよぅ……姉さんのバカ――」

 

 氷は倒れるようにして、瑞穂の胸に頭を押しつけた。涙声だった。震える声で呟き続けていた。瑞穂は、嗚咽する氷の身体を抱きしめるだけで、何も言えなかった。

 

 月の光が冷たく照らす。哀しみに満ちた、少女の姿を――

 

 

 ○●

 

 

「遅れて、ごめん! ちょっと、事故に巻き込まれちゃったんだ……」

 

 大樹は頭をかきながら、瑞穂に向かって頭を下げた。瑞穂は何も言わなかった。大樹は背中に脂汗が浮いてくるのを感じた。……もしかして、瑞穂ちゃん、怒ってる?

 

 チラと横を向き、瑞穂は驚いたように目を見開いた。

 

「あ、大樹……くん?」

 

「え? あ、うん。久しぶり。大樹――塚本大樹だよ」

 

 怒ってはいないようだった。それどころか、魂が抜けたかのような、気落ちした表情をしている。大樹は心配になって、訊いてみた。

 

「どうしたの? 元気、ないみたいだけど」

 

「そう……かな。でも、大樹くんも、なんだか青ざめた顔してるよ?」

 

 大樹はドキリとした。動揺を隠すようにして、あたふたと辺りを見回すと、少女の姿が見えた。紫色の髪をしている。泣きはらしたような赤い目を擦りながら、上目づかいに大樹の方を睨んでいる。静止し、少女の姿を見据えた。声が出なかった。突然、逃げ出したい衝動に駆られた。

 

 立ちすくむ大樹を尻目に、氷は静かに立ち上がった。

 

「私、帰る。なんだか、今日は調子が悪い――普段は、こんなことしないのに――」

 

「うん」

 

 氷は背を向け、コガネシティの闇の中へと消えていく。

 

 しだいにぼやけていく少女の後ろ姿を眺めながら、複雑な思いで大樹は考えを巡らせた。――もしかして、あの子が射水 氷――?

 

「今の女の子は?」

 

「射水 氷ちゃん。いろいろ――大変みたいなの」

 

「そうだろうね……」

 

「え? なんで、大樹くんが――」

 

 大樹は慌てたように手を振った。

 

「いや、なんでもないよ」

 

 大きく息をはいて、瑞穂は、完全に寝入っているゆかりを抱き起こした。つとめて明るい声を出し、大樹の顔を見上げた。

 

「それじゃ、行こうよ」

 

 

 ○●

 

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