「どうして……どうして、あんなことしたの!」
塚本大樹は、震える声で訊ねた。彼の顔は蒼白だった。せわしなく手元にある布団を握り、ひどく興奮した様子で目の前にいる瑞穂に詰め寄っていた。
何も言わずに、瑞穂は俯いている。目に涙を浮かべ、まるで怯えてでもいるかのようにベッドに座り込んでいた。ヒメグマが心配そうに瑞穂の素足を見つめている。彼女の足の裏には、ガラスの破片で切ったとおぼしき傷があった。
「瑞穂ちゃん――大丈夫?」
少女の足の傷に消毒液をつけながら、桃谷望は瑞穂の顔を覗き込んだ。瑞穂は何も答えない。掌で顔を覆い、肩を小刻みに震わせているだけだった。
「黙ってちゃ、わからないだろう?」
いくらか声を落として、大樹は大きく息をついた。思わず望と目があった。彼女の右目は、大樹を鋭く睨み付けていた。
「そこまで責め立てなくてもいいでしょ、塚本君」
望の口調は大樹を責めているようだった。
「どうして、そんな瑞穂ちゃんに、きつく当たるの? 瑞穂ちゃんは何も悪いことはしてないのに――」
「そう――瑞穂ちゃんは、何も悪い事なんてしてないよ。なのに、どうしてこんな事をする必要があるの? こんなに瑞穂ちゃんが苦しまなきゃならない理由がどこにあるの?」
「瑞穂ちゃんを苦しめてるのは、塚本君じゃない!」
「ぼくのせいにするの? あのね桃谷さん。このままにしておいたら、瑞穂ちゃんはまた同じ事を繰り返すよ? それでもいいんだね?」
「だれも、そんなこと言ってないでしょ。私はただ――」
瑞穂は呻くような声を出した。
「やめて……やめてよ!」
顔を上げ、愁いに満ちた瞳で望と大樹を見つめていた。目から涙が溢れ出ている。大樹は無言のまま瑞穂の方へと向き直っていた。先程よりは、いくらか落ち着きを取り戻したようだ。
「あ……ごめん。瑞穂ちゃんを責めるつもりはなかったんだ。ただ――メチャクチャだよ。いくらなんでも、やりすぎだよ。わかってるの? 自分が何をしたか……」
項垂れ、瑞穂は小さく頷いた。唇が震えている。青ざめた指先で首筋を撫でながら、焦点のあっていない瞳を泳がせていた。指の隙間から、赤く腫れた首筋が覗いている。
「自分の部屋で首を吊るなんて――ぼくと桃谷さんが来なかったら、今頃は――」
「塚本君!」
望の怒声で、大樹は押し黙った。思わず、天井を見上げていた。白い天井から突き出た、銀色のホック。真っ赤なビニールテープの輪をくくりつけられていたそれは、まるで断頭台の刃のように、不気味な光を帯びていた。銀色のホックも、ビニールテープの輪も、瑞穂の軽い体重を支えるのには十分すぎる。
もし――もしも自分達が、洲先邸を訪ねるのが少しでも遅れていたら――瑞穂は、確実に死んでいた。それを想像した瞬間、大樹の背筋が凍った。
「嫌だよ……」
ポツリと瑞穂は呟いていた。ゆっくりと首筋から手を離し、頬を流れる涙を拭っている。
「もう嫌だよ。なんでこんなことになるの――? どうして、こんな目にあわなきゃいけないの?」
「瑞穂ちゃん――」
「私……何も悪いことしてないのに……こんな非道いことされる理由なんてあるの? もう、死にたいよ。このまま生きてたって、なにもいいことなんかないもの――」
瑞穂は布団に顔を押しつけ、嗚咽しはじめた。
無言のまま大樹は腰を上げ、窓際に立ち、カーテンの隙間から外の様子を覗いた。無数のテレビカメラが見える。そのすべてが『事件』に対してではなく、洲先邸へと向けられている。数え切れないほどの、憎悪の視線がカメラレンズの奥に潜んでいるような気がした。
記者がマイクを片手に何かを話している。糾弾の言葉か、それとも悪意に満ちた煽動かもしれない。彼らの中で、少女――瑞穂のの心配をする人間など、いない。誰も、いない。
何故なら彼らは、『正義』を武器にしているから。『反権力』を掲げているから。『自由』を盾にしているから――彼らの世界では、『悪』は『絶対悪』であり、『自分達』こそが『絶対正義』であるから。そう信じ込んでいるから。歪められ、原型を失った『正義』が、誰かを傷つけることになるとは、夢にも思っていないから。そもそも、自分達が歪められていることに気付いていないから。
瑞穂の父であり、洲先クリニック院長でもある洲先祐司が失踪したことによって、各マスコミの報道合戦の矛先は、院長の戸籍上の一人娘、洲先瑞穂へと向けられることになった。
発端は『フォックス』という週刊誌だった。瑞穂の通うトキワ大学が、洲先クリニックの付属学校である事実を取り上げ、洲先瑞穂の裏口入学だったという記事を載せたのだ。もちろん事実ではないし、瑞穂自身もそのことを否定した。だが、そんな瑞穂の訴えは、世間に届く前にマスコミによって掻き消されてしまっていた。
陰湿な落書きで汚れたブロック塀や、テレビカメラから視線を外し、大樹はカーテンをぴたりと閉じた。泣きじゃくる瑞穂の隣に座り、際限なく震え続ける背中をさすってあげた。
悔しい。大樹は唇を噛みしめた。何もできない自分が悔しかった。慰めてあげることもできない自分を呪いたかった。
「もう……いいよ……」
ふいに瑞穂の震えが治まった。顔を上げ、口の端をひきつらせながら、自嘲的な口調で彼女は呟いていた。その瞳から、既に光は失われていた。
「大樹くんも……望ちゃんも……無理しなくてもいいよ。みんな……みんな私がキライなんだから。私は、いつだって嫌われるんだから……もう馴れちゃってるから、無理しなくてもいいよ」
笑っていた。卑屈な笑いだった。思わず、大樹は瑞穂の表情を覗き込んだ。彼女が、こんな気味の悪い笑顔をしたのを、彼は初めて見た。
「大樹くんもさ、望ちゃんもさ――私が、大きな病院の院長の娘だから優しくしてくれたんでしょ? 私に媚びてたら、この先、いいことでもあると思ってたんでしょ? 無理しなくてもいいって――もうパパは……お父さんは、どこかに逃げちゃったから、いくら私に優しくしても無駄だよう?」
次の瞬間、大樹の掌が火を噴いた。息つく暇もなく、瑞穂を張り飛ばしていた。
瑞穂はベッドから落ちていた。紅く腫れた頬に手をあてながら。大樹を睨みながら。彼は、視線の先に呆然と立ちつくしながら、怒気をあらわにしていた。
「なんだよ、それは。おまえ……いや、瑞穂ちゃんは、いままで本気でそう思ってたの? ぼくや桃谷さんが、瑞穂ちゃんと仲良くしていたのを、そんな風に考えてたの? ふざけないでよ――ぼくは、瑞穂ちゃんのことが好きだから――」
瑞穂は、カッと目を見開いて、叫んだ。瞳から、また涙がぼろぼろとこぼれている。
「嘘つき! みんな嘘つきだもの――だから、誰もいらない。友達なんていらない。1人でいたほうが楽だもん。裏切られるくらいなら――もう誰もいらない。みんな、いらないもん!」
興奮している大樹を壁際に追いやり、望は瑞穂の近くに寄った。少女の頬をさすってやりながら、落ち着き払った様子で訊ねる。
「何かあったの? もしかして大学で、誰かに何か言われたんじゃないの?」
瑞穂は急に黙り込んだ。それが答えのようなものだ。
「言われたのね?」
ゆっくりと立ち上がり、瑞穂はベッドに座った。
「いらない、って。もう、おまえなんかいらない、って。――最初、何がなんだか分からなかった。でも、だんだん、その言葉の意味が分かってきた。気付いたときには、私、昔に戻ってた――昔と同じような、嫌われ者になってた――」
望は目を閉じた。大樹は困惑していた。すすり泣く瑞穂を見つめ、続いて自分の掌を凝視する。声が聞こえた。大樹は恐る恐る瑞穂の顔を見つめる。涙を二の腕で拭い取ると、少女は切なげに話しはじめた。
「大樹くん……どうして私が――こんな子供が――大学にいるのか、理由を知ってる?」
「え――?」
大樹は戸惑いを隠しきれずに後ずさった。
「それは、瑞穂ちゃんの努力で――トキワシティで有名な天才少女だからだろう?」
「違う」低い声だった「それもあるかもしれないけど……違うよ」
「どういうこと?」
「私、嫌われてたから――みんなから。小学校に入学したとき、からかわれた――かわった名字だから――おかしな名字だったから。誰かが私を悪く言うたびに――私が、それで何か言い返すたびに――みんな笑って、私のこと馬鹿にして――いつのまにか――最初からかもしれないけど――私はひとりぼっちになってた」
冷たい口調だった。おとなしい瑞穂には似つかわしくない口調だった。誰にも触れられたくない過去――瑞穂は、心の奥にしまいこんだそれを、痛みに耐えながら必死で吐き出そうとしている。元に戻るために――自分らしさを取り戻すために。
「みんなが私を苛めた。周りの人は、みんな気付いていたのに、誰も手を差し伸べてはくれなかった。私は逃げた。適当に理由を付けて、編入試験を受けて、大学に入った。でも、そこでも何も変わらなかった。私はコドモだから――いろんな人からからかわれて――でも、それでも私を認めてくれる人が、私と友達になってくれる人がいた――」
瑞穂は肩を落とし、小さな溜息をついた。ひどく悲しげな、寂しそうな面持ちで。
「でも――それは偽りだった。私は、まやかしの愛情に弄ばれただけだった――」
望も大樹も、言うべき言葉を失っていた。項垂れ、ただ瑞穂の嘆きを聞き入れることしかできなかった。いつしか、黒く染まった空。沈黙は時の流れの感覚を、恐ろしいほどに麻痺させていた。
重い空気を振り払うように、大樹は立ち上がり、窓を開いた。外に陣取っていたマスコミの数は減り、静かになっていた。冷たい風が吹く。瑞穂は身を縮め、布団の中に入り込んだ。
「ぼくを――ぼくたちを信じてはくれないの?」
「みんな、嘘つきだから――誰も、信じることできないよ。みんな、嘘つきだから。私のこと騙して、平気な顔してるから。大樹くんが、本当に私のことを好きでも、私は――」
「さっきは叩いて、ごめん。――それだけ伝えれれば、もう、ぼくは何も言うことはないよ」
「わからなくなったの――誰を信じればいいのか。自分しか信用できないような、悲しい大人にはなりたくないのに――」
瑞穂は、大樹の胸に顔を埋めていた。隣では望が、微かな寝息をたてて眠っている。大樹の鼓動が聞こえた。息を潜め、静かな夜に身を任せながら、瑞穂は呟いた。
「私、嫌な子だよね? 性格、悪いよね……。だから、いつも嫌われる。いつも、苛められる。ずっとそうだった――なのに、どうして、大樹くんと望ちゃんは、そんな私に優しくしてくれるの? わからないよ――わからないから、本当に信じていいのかも、わからないよ――」
○●
「――でも、なんとなく解るようになった気がする」
棒棒鶏を口に運びながら、瑞穂は物思いに耽っているような眼差しで語った。大樹は、彼女を正面から見据えている。ゆかりは、包子を握ったまま眠っていた。
中国料理専門店『大梁狛』は大勢の客で賑わっていた。だが、どこかもの静かで、語らうにはもってこいの場所だった。
空になった棒棒鶏の皿が運ばれていく。瑞穂は紙ナプキンで口許を拭い、烏竜茶の入った湯飲みに手を伸ばした。少女の瞳は、大樹を捉えて離さない。
「ユユちゃんと出会ってから、私はユユちゃんを守りたいと思うようになった。私は無力だから、誰も守れなかったけど、それでもユユちゃんのためなら、自分の命を捨ててもいいと思えるようになってた。大樹くんも――今の私と同じ気持ちだったんだね――」
大樹の表情が緩んだ。瑞穂も微かに微笑み返し、続けた。
「大切な人を守りたいと思って、初めて解るのかもしれない――誰かを愛することで、初めて理解できるものかもしれない――人を信じること。それって、人を愛することと同じことなんだよね」
「うん――そうだね」
烏竜茶を飲み干し、瑞穂は言った。
「だから、一番大切なことは、誰にも裏切られないような人間になること――誰からも愛されるような人間になることだよね。私もいつかは、そういう人になりたい――」
瑞穂は、楽しそうな微笑みを浮かべた。嬉しい、楽しい――大樹の側にいると、辛いこと、悲しいこと、悪いことを、一瞬だけでも忘れることができる。瑞穂は、そう思っていた。暗く、沈んだ気持ちを明るくしてくれる。なぜだろうと、大樹と会う度に考える。だが、その考えは長くは続かない。大樹への胸の高鳴りが、瑞穂の思考を暫し止めるからだ。
「ぼくのことも、信じて――愛してくれる?」
大樹は訊いた。瑞穂は勢い良く頷いた。
「私――人を信じてる。もう一度、信じてみようと思う。もちろん大樹くんも、望ちゃんも。――それに誰も信じないような人は、誰からも信じてもらえないしね」
天使のような瑞穂の微笑みに、大樹は酔いしれていた。数時間前の悪夢を、ほんの少しの間だけでも忘れられるだけ、彼は幸せだった。
○●