黒い霧雨
黒い手が、そこまで迫っていた。
霧状の闇が、背後で、邪悪な笑みを浮かべながら集まっている。光を閉ざす狭く高い森の奥に、普通ではあり得ない特殊な力が満ちている。
細々と輝く月の光をものともせず、影は身体を取り戻した。集結していく霧の中で、新しい身体は膨らんでいく。時間と共に失ったはずの、闇を纏った実体が。
目を見開く。瞬時のうちに。血のように赤い、海の底のように妖しい色をした瞳。狡猾さを隠すことのないそれは、独りの女性を見つめていた。
どこにでもいそうな普通の女性だった。おそらくポケモントレーナーなのだろう。肩には進化ポケモンのイーブイが、ちょこんと乗っている。
影は身を起こした。口を開く。鋭い牙が黒く光っている。身の回りに漂っている黒い霧を吸い込む。影が、大きく膨らんでいく。やがて影は空を覆い、月の光を掻き消した。
異変に気付いて、女性は振り向いた。目の前では、不気味に蠢く黒い影が、その瞳が、女性の姿を捉えている。
自分を狙っているんだ。女性はすぐに身の危険を感じた。首筋に、生温い汗が滲む。イーブイは女性の肩から飛び降り、影を睨みながら、牽制でもするかのように唸っている。
「なに……これ……?」
一歩後ずさる。湿った地面の柔らかい感触が、恐怖をさらに身近に感じさせる。これは現実だと。決して幻などではない、本当の闇であると。
影は口を大きく開いている。今にも、女性を飲み込んでしまうほどに。その奥にはピンク色の舌が、うねうねと気味悪く動いている。
「ブイちゃん。逃げよ」
唸り続けるイーブイを抱きかかえ、彼女は影に背を向け全力で走り出した。辺りに生い茂る草を必死でかき分ける。足音は止まらない。息が弾む。それでも彼女は止まらない。
不意に彼女は倒れた。何かが足に引っかかったのだ。しかも転んだ拍子に膝を擦り剥いたらしく、血が滲んでいる。ゆっくりと起きあがり額の汗を拭うと、彼女は足もとを見やった。
腕だった。黒い腕。地面に広がる影から、伸びるようにして彼女の足を掴んでいる。女性は目を剥いた。そして悟った。逃げられないと。
この森の影すべてが、あの化け物の一部なのだから。どこまで逃げても、逃げられるはずがないのだ。自分の足下から黒い影が伸びている限り――夜が続く限り。
腕が伸びた。黒い地面に真っ赤な瞳が開いた。見つめる。獲物の姿をじっと見つめる。口を開く。鋭い牙が見える。
女性は胸に抱いたイーブイを庇うようにして影と向かい合った。もう、逃げることはできない。逃げる気力すらなかった。呆けたように、空の月を見上げ、涙を流しながら笑うしかなかった。なぜ笑うのか。恐怖に苛まれていたはずなのに、どうして笑うことができるのか。そこまで彼女は考えることができなくなっていた。
黒い影の罠――催眠術にすでに彼女はかかっていたのだから。恐怖で我を失った人間の心を弄ることなど、影にとっては造作もないことなのだから。
夜明けまで、彼女の笑い――悲鳴は途切れることはなかった。
○●
「目が覚めたか?」
声が聞こえる。目を開く。朧気な景色が、時間と共にはっきりと見えてくる。声の主――老人は『彼』の方を見据えながら、話していた。
「不思議なものだ……おまえはあれから、ずっと眠っていたんだぞ。そして、ずっと夢を見ていた。勝手に覗かせてもらったよ。あの事件の夢を見ていたのはわかっているんだ。それにしても非道い……あれは本当に非道い事件だったな」
手に持ったライターをつける。赤々と燃えさかる小さな炎。彼の瞳が、大きく見開かれた。
「忘れるな……あの時の理不尽さを忘れるな。悔しさを、憎しみを、恨みを――忘れるな。それが、おまえの力となるのだから……」
老人が話し終えないうちに、彼は立ち上がった。何故かはわからない。ただ、なんとなく聞こえるのだ。立ち上がれ、と……自分の声が。
「どこに行くんだ?」
年齢のせいで掠れてしまった老人の声は、既に彼には聞こえていなかった。歩き出す。声の示す先へ。そこで、自分の探していたものが見つけられるような気がしたから。
老人は、彼の後ろ姿を眺めていた。止めても無駄なことを承知しているかのように。
「おまえも……彼女も……もう死んだんだ。どこを探しても、見つかる筈がないのに――」
咳き込む。老人は諦めたように首を振り、しわがれた声で、いつまでも嘆いていた。
○●
カーテンが風に吹かれてはためいている。塚本大樹は立ち上がり、音をたてないようにゆっくりと窓を閉めた。偶然にも見上げた先に月が見える。細々として、弱々しい光を放つ月。それと共に浮かび上がる、鮮烈なイメージ。
(妹は、いつも月を眺めていました。哀しいときも、哀しいときも、哀しいときも……)
「おいおい、なにボーッとしてんだよ?」
職場、コガネポケモン研究所の同僚が、大樹の肩を叩いた。心配そうに眉をひそめている。
「いや、なんでもないよ」
大樹は軽く首を振ると、自分の席に座った。大きく息を吐く。もうすぐ就業時間も終わるのだから、せめてそれまではしっかりしていなくてはいけない。そう、心の中で自分に言い聞かせた。
瑞穂がコガネシティを発ってからというもの、大樹はぼんやりとすることが多くなった。当然、仕事上のミスも目に見えて増えていた。先程も、研究用のアンプルを取り違え、大目玉を食らったばかりだった。
何をするときも、常に大樹は考え事をしていた。大事な実験の際も、食事中も、夢の中でさえ考え続けた。「ノイローゼじゃないのか?」と職場の友人が心配して言うほどに。大樹は、自分の悩みを誰にも――瑞穂にさえも、打ち明けていなかったのだ。
射水 冷と名乗った少女の言葉の一言一言が、胸の中でしこりとなって残っている。彼女は何だったのか。自分で、自分のことを「以前に死んだ」と言っていた。霊――いままでそんな非科学的なものを信じたことなどなかった。信じていなかったからこそ、余計に衝撃が大きかったのかもしれない。
わからないのは、なぜ急に霊の姿を見ることができるようになったのか、ということだった。考えられる可能性は一つだけ――あの時ぶつかった、黒いローブの男。その男の持っていた、奇妙な水晶玉。その出来事の直後に、射水 冷と出会ったのだ。
(だから私は死ぬしかなかった。これ以上――妹を悲しませたくなかったから。妹を悩ませたくなかったから。妹には普通の女の子として生きてて欲しかった――)
背中から絶え間なく鮮血を吹き出しながらも話し続ける、冷の悲しげな面持ちが、大樹の脳裏に焼きついていた。まるで、真紅の翼をはやした天使のような、幻想的な、現実離れした美しさ。だが、可憐な姿とは裏腹に、彼女は永遠の苦痛に耐えなければならないのだ。
それほどの代償を払ったのに、現実は彼女の望みとは正反対の方に進んでいる。そのことを大樹は、射水 氷と出会うことで、瑞穂から事情を説明されたことによって知った。
事実を、まだ冷は知らない。
教えてあげなければならない。余計なお節介かもしれない。事実を聞いてとても悲しみ、嘆くかもしれない。だが、何も知らずに、ただ妹の幸せだけを願って死んだ冷があまりにも哀れだった。
仕事が終わると、大樹はすぐさま路地裏へと走った。冷に事実を――射水 氷のしようとしていることを教えるために。
路地裏は静かだった。ひんやりとした空気が、頬を撫でる。迷路のようにうねっている金属製のパイプの先端から、蒼い雫がしたたり落ちた。思わず身震いしてしまうような気味の悪い音が響く。
ゆっくりと大樹は辺りを見回した。星一つ輝かぬ夜空に、コガネ百貨店の電飾が映える。あの建物――コガネ百貨店の屋上から、冷は飛び降りたのだ。
彼の心の中は、その中心は寒々としていた。なによりも悲しかった。両親も、故郷も、命すら失ってしまった少女が。その境遇が。彼女の選ばざるを得なかった、最後の選択肢が。
射水 冷のいる場所が近づいてくる。大樹は小さく俯いた。彼は、射水 冷からことのすべてを聞かされて以来、心の動揺をひどく恐れていたのだ。ただでさえ大きく振れる、心の振り子。これ以上振りが大きくなれば、自分から離れて、どこかへ飛んでいってしまうかもしれないから。
「探して……みんな探してよぅ……」
女の子の声だった。水たまりを新聞で叩くような音と共に、小さな女の子の声が、大樹の頭に響いた。彼は思わず振り向いた。こんな時間に、こんな場所に、女の子が独りでいては危険だからだ。
壁に寄り添うようにして、女の子は立っている。ボロボロに引きちぎられた洋服を羽織っているだけで、ほとんど全裸に近かった。そして、表情がなかった。首から上の部位が存在していなかったのだ。
「だれか探して……私のからだ……痛いよ……体中が痛いよぅ……」
大樹の顔が、色を失った。驚愕で、叫び声をあげることもできなかった。
一見して、彼女が霊であることはわかった。わかってはいても、衝撃は相当なものだった。よく見ると、瑞穂とさほど変わらない年齢の子のようだ。細々とした体つきもよく似ている。首がないことを除けば。
「だれか……そこにいるの?」
首のない少女の霊は、大樹にまとわりついてきた。ひんやりと冷たい肌触りが襲う。彼は後ずさった。怯えに顔をひきつらせながら。
「お兄ちゃん……探してよ……私ね……鋭田美子っていう名前なの……探してよ、私のからだ……」
鋭田美子という名前には、聞き覚えがあった。つい最近、この街でバラバラにされて殺された、9歳の女の子の名前だ。彼女の屍体を調べた結果、二人の犯人が上がったものの、その内の一人は行方不明となり、もう一人は自宅で惨殺死体となって発見されたという奇怪な事件だったため、よく覚えていたのだ。
大樹は怯えた表情のまま、美子の霊を振りほどいた。何か言葉にならぬ声で叫いたあと、一心不乱に逃げた。彼女の声は追いかける。
「探してよ……逃げないで……あと、頭だけなの……そしたらママに会えるの……」
美子の声は聞かないようにした。頭を振りながら、彼は逃げ続けた。何も考えず、ただ走り続けた。気がついたとき、大樹はコガネ百貨店の誰もいない屋上で立ちつくしていた。
街が見える。多くの霊が見える。みな探している。失った筈の自分自身を。永遠の苦痛に耐えながら。だがそれが報われることはありえない。彼らは、彼女らは、永遠に苦しむだけの存在。
気が狂いそうだった。辺りを見回し、ラジオ塔が視界に入った瞬間、大樹は吐いた。惨たらしい数日前のラジオ塔占拠事件。その被害者たちの姿に、耐えきれなかったのだ。
「塚本さん……どうしたんですか?」
冷の姿がぼんやりと浮かび上がる。彼女は大樹に話しかけた。屋上のベンチに力なく座り込んだ彼の横から、覗き込むように。怯えきった表情を心配そうに見つめながら。
大樹は、その声が救いであるかのように頷いた。大きな安堵が、心の中でじわじわと広がっていくのが自分でもわかった。
「どうして……こんなことに……」
「え?」冷は、射水 氷とそっくりな、その顔を傾げている。
「なんで僕は、人の魂を見ることができるようになったんだろう。こんな”力”なんて、僕はいらないのに……」
頭を抱え、現実から逃避するかのように大樹は苦しげに呻いた。無数の記憶の欠片が見える。一つ一つに、無残に死んだ人々の苦痛に歪む様が映る。舞う鮮血。四散した屍体。血腥い腐臭――
「どうして……急にこんな”力”が……」
冷は目を細めたまま、大樹の姿を見つめている。何も言わずに、ただ立ちつくしていた。
「あ――」
突然、大樹は顔を上げ、声を出した。それまでと違う、驚きに満ちた声だった。冷は不思議そうな表情で小首を傾げたまま、彼の呟きを聞いた。
「感じる……北に……エンジュシティに、大きな霊を感じる……それも、二つ」
「二つの巨大な霊……エンジュシティにですか?」
大樹の顔は青ざめていた。言葉では形容しようのない恐怖を、冷は大樹の表情を見ただけで感じ取った。
「一つは、限りなく黒くて……もう一つは、限りなく白い」
○●
頭上を覆い尽くしている枝葉の隙間から、朝焼けの空が見えた。朝の日の光とは思えないほどの眩しさを湛えて。まるで、これから起こる惨劇を予知しているかのような、鮮烈な血の色をもって。
瑞穂は眠たげな目を擦りながら、不吉な空を眺めていた。その表情は暗く、悲しい思い出の甦るたびに影を帯びた。
誰も救えなかった――無力な自分。泣き叫ぶヒメグマと、彼の目に浮かんだ狂気の欠片。そして自分を自分でないものにした、救いようの無い殺意。すべてが――すべてが悲しく、何もすることのできなかった、一つの記憶。
だが、自分は帰ってきてしまった。エンジュシティへ行くには、この森を通るしかないのだから、仕方がなかった。もう、二度と来るつもりはなかったのに。
先の見えない森の木々の間を歩きながら、ゆかりはしきりに辺りを見回していた。
「ヒメグちゃん。今頃、どないしてるんやろ……」
「どうだろう。やっぱり、まだ私たち――人間のことを怨んでいるかもしれない。無理もないよね。あんなことされたら、誰だって怒るよね」
ゆかりは目に一杯の涙を浮かべて、反論した。
「そんなん……悲しすぎるやん」
瑞穂は、ゆかりから目を背けただけで何も言わなかった。沈黙が落ちる。ふと、森には似つかわしくない異様な静けさが辺りに満ちていることに気付いた。動物の気配が無い。まるで森全体が精気を失っているようだった。
「ねえ、ユユちゃん――」
「なに?」
「なんだか――変じゃない? この森。前に来たときよりも――」
二人は不安感を抱きつつ歩き、森の中央にある草原にでた。そして見つけた、懐かしさよりも先に。それまで感じていた違和感の一端を。湖の水が赤く、血の色に染まっていることに。
自分の目を疑いつつも、瑞穂とゆかりは湖に駆け寄った。湖の底を覗き込む。二人は、息を呑んだ。何を言うこともできなかった。ただただ眼前の事実に打ちのめされるだけだった。
湖の底には、あの時に出会ったリングマ達の屍体が沈んでいた。彼らの屍体から滲み出るエキスが、湖を真紅に染めていたのだ。もはや、彼らは原形を留めていない。黒ずんだ屍体から、淀んだ死臭が放たれている。
「これは……一体……」
ゆかりを胸に抱き、瑞穂は呆然と呟いた。その時、背後に弱々しい気配を感じた。
瑞穂は振り向いた。目の前に倒れていたのは、左腕の無いヒメグマ――あの時に出逢った、悲しい思い出の中にある、彼だった。
ヒメグマは呆然と瑞穂を見ていた。感情を感じさせないその瞳が、彼が受けた心の傷の深さを物語っている。何も言わず、何に対しても反応を示さずに、ただ見つめているだけ――
「ヒメグちゃん。ここで、なにがあったの?」
瑞穂の問いにも、彼は答えなかった。震えるように首を振ると、背を向けて走り出した。
「待って! ヒメグちゃん」
逃げるヒメグマを瑞穂は追いかけた。時折ヒメグマは立ち止まり、怯えた表情で振り返る。まるで、どこかへ案内しているようだと、瑞穂は思った。
辿り着いたのは、森の深部だった。鬱蒼と生い茂る木々が朝日を遮蔽している。辺りは薄暗く、じめじめと湿った空気が身体を包むように蔓延している。
激しい悪寒を感じたのは、その時だった。ゆかりをその場に座らせると瑞穂は、立ちすくむヒメグマに声をかけた。
「ヒメグちゃん――?」
ヒメグマは無言のまま、右手で前方を指し示した。瑞穂は視線を移し、何かを抱きかかえるようにして横たわっている女性の姿を見た。息を呑み、すぐさま女性の側に駆け寄る。意識を失っているようだった。顔色は青白く、細々とした呼吸が彼女の様態の悪さを表している。腕に抱かれていたのは、怯えきったイーブイだった。
当惑している瑞穂の傍らで、ヒメグマは牙を剥いている。何かを警戒しているようだった。
タイミングを合わせたように悲鳴が聞こえた。ゆかりの声で。瑞穂は悲鳴の発せられた方向へ振り向いた。突如として視界が影に落ちた。先程から感じていた悪寒が急に頂点に達し、体中を冷たい液体が流れるような感覚に身悶えた。身体が思うとおりに動かない。視線の先では、ゆかりが黒い霧に包まれている。泣き叫んでいる。何が起こったのか。自分でも解らないまま、瑞穂は力なく倒れた。
朦朧とした意識の中で、瑞穂はなんとか顔を上げた。見えるのは暗闇と、邪悪な意志を秘めた、二つの妖しい瞳。その奥で、ゆかりが笑っている。焦点の合っていない歪んだ目で。
反射的に、瑞穂は腰につけているモンスターボールを取ろうとした。だが、震える指先では掴むことすらままならない。苦痛に顔をしかめながら、瑞穂は隣で同じように倒れているヒメグマに、小さな声で話しかけた。
「ヒメグちゃん……お願い……このモンスターボールのボタンを……取って……」
ヒメグマは返事をしなかった。人間の言うことに、耳を傾けるつもりなどないのだろう。
「ひ……ヒメグちゃん……お願い……このままじゃ、みんな殺されちゃう……ヒメグちゃんは、このままでいいの?」
瑞穂は諦めなかった。ヒメグマは目を閉じ、しばらく思案していた。そして、首を横に激しく振りながらも、震える手を伸ばし、モンスターボールを掴んだ。ほとんど自棄に近かった。
妖しい瞳が、ギラリとこちらを睨む。ヒメグマはそれよりも一瞬早く、瑞穂にボールを手渡していた。瑞穂の掌から光が洩れる。影は目を細め、驚きを露わにした。雄叫びと共に、閃光の中からリングマの巨体が飛び出したのだ。
「リンちゃん! 破壊光線を!」
リングマは口から破壊光線を発射した。鋭い衝撃波が地面を抉る。熱線は影へと突き刺さり、轟音を響かせながら相手を崩壊させていく。白煙がもうもうと上がる。吹き飛ばされた木々と同様、影は跡形もなく姿を消していた。
影が消えたことによって身体の呪縛が解かれたらしい。瑞穂は立ち上がると、ヒメグマを抱きかかえ、ゆかりのもとへと駆け寄った。ゆかりは気を失っている。これといった異常は無いようだった。胸元に黒い痣のようなものができていること以外は。
「ガウッ!」
突如、リングマが吠えた。瑞穂は振り返る。小さな黒い霧の塊が彼女の背後に迫っていたのだ。
瑞穂は思わず飛び退いた。リングマが素速く歩み寄り、鋭い爪を振り下ろす。だが黒い霧は傷つくこともなく、二つに分裂し、リングマとヒメグマの首もとに飛びかかった。リングマは藻掻いた。ヒメグマは苦しそうに身を捩っている。
「り……リンちゃん……ヒメグちゃん……大丈夫?」
リングマの顔を下から覗き込むようにして瑞穂は訊いた。リングマとヒメグマは答えることなく地面に倒れた。その身体に――リングマとヒメグマの首もとに、ゆかりと同じような黒い痣が浮かび上がっている。まるで衣服についた、しつこい染みのように。
瑞穂は立ちつくしていた。朝の日差しが、容赦なく彼女らの胸に刻まれた黒い痣を照らし出している。そしてそれは、じわじわと魂を蝕んでいた。食い物にしていた。
白い瑞穂の頬を、黒い液体が伝っていく。ゆっくりと見上げた空は霧雨に覆われていた。夜のように不安げな、黒い色をした。
○●