「塚本さんには、死んだ人間の心が見えるんです……。だから、たぶん塚本さんが見たのは、この街で死んだ――殺された女の子の残留思念なんですよ――」
大樹は力なく頷いた。ベンチに支えられるようにして座っている彼の表情には、疲労が色濃くでている。
「あの子……顔がなかったんだ……首から上が。そのせいで泣くことも、何か見ることも、何かを聴くこともできないんだ――」
項垂れた。細々とした息づかいが、彼の動揺を物語っている。朝焼けの空に視線を送りながら、大樹は語った。
「あの子は、ずっと迷子なんだ――心細くて……寂しくて……必死で親を探してるうちに、夜になって――悪い男たちに殺された。両足を斬られて、両手を斬られて……それでもなんとか逃げ出したくて、抵抗して……最後に首を斬られた」
「非道い……事件ですね」
冷が憤ったように呟いた。彼女にとっては、他人事でない事件だった。
彼は再び頷く。そして続けた。
「まだ……あの子は迷子のつもりなんだ。顔がないから、何も見ることができないし、何も聴くことができない――泣くことさえも。だから首さえ見つければ、親を探すことができると思っているんだ――」
大樹は、それだけ言うと黙り込んだ。細めていた冷の瞳が、先程よりもさらに細くなった。その視線の先には、彼の苦悩がある。見えないものが見えてしまうことの痛み。知らなければよかったと悔やむ心の、傷。
「辛いと思います――私の苦しみを知って、私よりも苦しんでしまう塚本さんですからね――こんな時に不謹慎ですけど、私は、そんな塚本さんが好きです」
目を閉じたまま、大樹は立ち上がった。冷の方を見やり、大きく息を吸い込んだ。深呼吸でもするかのように。
「そうだったよ――君に伝えなきゃいけないことがあったんだ」
「なんです?」
正面から冷を見据え、大樹は言い切った。
「君の妹は、もう過去から逃げないよ。彼女は未来のために、自分の生きる道を見つけたから――」
○●
彼は目を閉じていた。
暗闇に沈む視界の中を、無数の光が交差していく。やがて光は一つに集まった。彼は小さく息を吐き、光の方へと手を差し伸べる。力が、光から逆流してきた。体中に力が漲る――
そこで目を開く。手と足を組み、彼は冷たい床の上に座っていた。限りなくゆっくりと顔を上げる。音をたてることもなく立ち上がった。足の裏に、ひんやりとした感触を噛みしめながら。
窓の外を覗き込んだ。霧雨がふわり、街や人々に溶けこむようにして漂っている。ただの霧雨ではなかった。黒い色に染まった霧雨だった。邪悪な色の塊だったのだ。
彼は表情を変えなかった。睨むように目を凝らし、黒い霧を見続けているだけだった。
「奴が――奴が帰ってきたのか――?」
右手を振り上げ、彼は指を鳴らした。それに応えるようにして、影の中から黒いポケモンが姿をあらわした。両目は充血したように赤く、白い歯を剥き出しにして、ニヤついたような顔をしている。シャドーポケモンのゲンガーだった。
背を向けたまま、彼はゲンガーに命じた。
「ゲンガー、外の様子を見てきてくれ。だたし無理せず、何かあればすぐに僕に知らせること。いいな?」
軽く頷き、ゲンガーは再び影の中へ、吸い込まれるようにして消えた。あとには、彼の足音だけが残っていた。場は薄暗く、なにものの気配もない。彼の姿は、もうそこにはなかったのだから。
彼は建物の外に出ていた。霧雨で濡れることも厭わずに、遠くに見える高い塔――スズの塔を眺めている。その眼差しは鋭利で、彼の気持ちの高ぶりがあらわれていた。
「どうして――どうして、こんな――」
歯を食いしばる。
「不幸が戻ってくる。多くの死が、復讐を思い出す――誰が、どうやって奴を甦らせたんだ……何のために――?」
無数の霧雨が、彼の身体につき、伝っていく。髪の毛から水滴が滴り落ち、水たまりに流れ込む。ただ時だけが無情に過ぎていく。
「今日の天気は……荒れそうですね」
容赦なく降り注ぐ雨よりも冷たげな声が、背後から響いた。少年の声だった。彼は振り向き、怪しむような目つきで相手を見つめた。
立っていたのは、銀髪の少年だった。耳に鍵状のピアスをつけ、透けるような白い頬に、黒々としたタトゥが刻まれている。彼は身構えた。普通とは違う、異質なものを少年に感じたのだ。微笑んででもいるかのような表情で、少年は続ける。
「もうすぐ来ますよ――奴が」
「どうして、それがわかるんだい?」
できる限り感情を隠して、彼は訊いた。白い歯を出して、少年は苦笑している。
「僕も、感じることができるんですよ。あなたの恐れている”奴”がすぐ近くまできていることに。あなたも、感じているでしょう?」
曖昧に彼は頷いた。
「僕は忠告しにきたんです。あなたは、奴と戦ってはいけない……と」
「それは、なぜだい?」
「あなたが死ぬからです。あなたは僕にとって、死んではいけない人間なのです――奴は多くの人を殺すでしょう、その死人の中に、あなたが仲間入りしてしまうのは、僕にとって不都合だからです」
彼は一歩、少年に詰め寄った。唇を軽く噛みながら、聞き返す。
「君にとって、不都合? それは、どういうことだい?」
少年は空を見上げた。幾重もの水滴が、流れていく。黒く染まっていく。
「あなたは鳳凰と接触する資格のある、唯一の人間だからです。あなたがいなければ、滅んだあとの世界を再生できませんからね」
霧雨は、いつのまにか大粒の滝となって空から降り注いでいた。雨のざわめきが、二人の男の沈黙を、さらに重苦しいものにしている。
かなりの時間が経ってから、彼は少年に訊いた。
「君は、何者だ? 奴を、ここへ誘き寄せたのも君なのか?」
少年は、ゆっくりと首を横に振り、否定した。
「違いますよ――今日は、見物させてもらうだけです。これから起こる、死の活劇をね――僕は、もうすこし時を待ちます。すべての人間を裁く時を」
「すべての人間を……裁く? 何のために……どうやってだい?」
「あなたも知っているはずだ。過去から今にわたるまで、人間が罪を犯し続けたことを……人が、世界のバランスを破錠させ続けていることを」
彼は黙り込んだ。遠くにそびえ立つスズの塔に威圧されているような気がした。過ちを犯し続ける人間――それを象徴するかのように、天高く伸びる塔。それが、スズの塔の本来の存在意義だった。人間が過去に犯した罪の戒めという、消えることのない、哀しい存在意義。
思わず、彼は視線をそらした。雨に打たれ続ける。体中が、黒く染まる。どうにも、自分が小さく感じられた。唇を噛みしめる。身体を流れる雨の勢いは、衰えるどころか、さらに激しく彼の身体を伝っていく。
「君は知るべきだよ」彼は呟いた。雨音に掻き消されるくらいの、小さな声で。
視線を元に戻したとき、少年の姿はそこにはなかった。少年は立ち去っていた。先程まで少年の立っていた地面に、足跡が残っている。そこに水が溜まり、雨の滴によって広がっていく。震えるように小刻みな、暗い憎悪を感じさせる、静かな波紋が。
彼の目は、物憂げに虚空を見つめていた。銀髪の少年の姿を、その場に思い浮かべ、呟き続けている。
「君は、何も知らない――すべてを知っているつもりで、実は何も知らない。だから、君の言葉は空虚なんだ。たしかに君の言葉は間違っていないかもしれない……人が、愚かな過ちを犯し続けているのは事実だ……だけど、そのことで『すべての人間』を裁こうとするのが、もっとも愚かなことだと……君は知るべきなんだ」
雷鳴が轟く。黄色い閃光が、黒雲を突き抜けていく。彼の言葉が、それらの音に掻き消されていく。
「人間という存在は悪ではない、もちろん善でもない……人は皆、それぞれ違うのだから」
その時、彼の携帯電話が鳴った。濡れた手を気にすることもなく、彼は電話をとった。相手は、初めて聞く声の持ち主だった。幼い少女の声だ、と彼は直感した。
「もしもし?」
声の調子で、相手がひどく慌てていることがわかった。ただごとではない、と彼は思った。片耳を塞ぎ、電話からの声に集中する。少女の声は、洲先瑞穂と名乗り、早口で訊いてきた。
「ゴーストタイプポケモンの専門家……マツバさんでしょうか?」
彼は答えた。「そうだが、何か?」
○●
大樹は自宅のマンションに戻り、ソファにぐったりと横になっていた。コガネ百貨店の屋上で、一晩中、恐怖を堪え続けていたのだから無理もなかった。
隣では、冷が物珍しそうに大樹の部屋の中を見回していた。いつまでも、屋上で話すわけにはいかないから、と大樹がついてくるように言ったのだ。自由に移動できるところを見ると、自縛霊ではないらしい。
「どうしたの? 辺りをそんなに見回して……」
うっすらと瞼をあけて、大樹は訊いた。冷は恥ずかしそうに俯いて答えた。
「忘れていたんです、私は。普通の人の部屋というのを。組織で働かされていた頃は、私のすること、すべてが監視されていました。収容所の部屋は、天井も壁も濁った灰色をしていて、粗末なベッドが一つ置いてあるだけで。生きた心地がしませんでしたよ……気が狂いそうで……」
大樹は目を開いた。細々と話し続ける冷に、哀しげな視線を送る。
「でも、私はまだマシだったんです。妹は、氷はもっと非道い環境のもとで過ごしていた。私たち姉妹は、組織内では一度も顔を合わせたことがないんです。だから組織から逃げるとき、妹の部屋の前に来て、私は愕然としました……鉄格子で囲まれていたんです。そして、その鉄格子は、あの子の血で真っ黒に染まっていた――そして、なによりも、あんなに明るかった妹が、別人みたいに……」
冷は唇を震わせている。怒り。それは組織全体に向けられているものではなく、1人の女に集中していた。
「法柿君が、私と妹の脱出に協力してくれたのも、あの女のすることに耐えられなかったからなんです。前にも、お話ししたと思いますけど、あの女……一位カヤは……」
視線を落として大樹は、瑞穂の言っていたことを思い起こした。そうなの……名前は、たしかカヤ……いちいカヤだったと思う。言葉にはできないくらい、恐ろしい人だった。だって、ラジオ塔に見学に来ていた子供を……。
涙ぐんでいた。肩が震えていた。瑞穂は枕に顔を押しつけ、嗚咽しながら言い放っていた。「それぐらいの哀しみを背負ってるの……私なんかよりも、ずっとずっと深くて重たい哀しみを。私は、それが恐い」
瑞穂は恐れていた。一位カヤ自身よりも、彼女の心を救いようがないほど歪めた、その環境を。虐待を『愛』であると言い切る、その価値観を。
浮かび上がる、大樹の記憶が。暗い視界の先に、頬を涙で濡らした射水 氷の顔が見える。だが、その表情は、冷の言うような孤独な仮面ではなかった。もう、少女は独りではなかった。瑞穂に抱きかかえられるようにして嗚咽する氷の泣き顔は、哀しみに満ちていたが、安堵に――微かな暖かみも帯びていたのだから。
「でも……君の妹は、もう独りじゃないよ」
大樹は再び、冷の表情を見つめた。彼女の顔からは、先程までの険しさは消えていた。
「そうですね……塚本さんの言う、その子なら……妹を救ってくれるかもしれません。いずれ妹が真実を知って、傷ついたとしても……支えになってくれるかもしれません」
苦笑した。惨めさを噛みしめるように。冷の瞳から涙がこぼれ落ちる。
「駄目ですね、私……人に頼ってばかりで……氷の姉である資格なんて無いですね」
「そんなことはないよ。君は誰よりも、妹のことを心配しているんだから……」
瞼が重い。大樹は目を閉じ、横になった。
何気なしにつけたテレビからは、天気予報が流れている。大樹は目を閉じたまま聞き流していた。だが、やがてそのことの重要性に気付くと飛び起き、テレビの画面を食い入るようにして見つめ始めた。記者とキャスターとの会話に聞きいる。
「ええ……今は、やんでいるようですが、いつまた『黒い雨』が降りはじめるかわかりません……」
「『黒い雨』が人体へ与える影響はあるのでしょうか?」
「わかりません。エンジュシティは、現在、市民に外出を控えるよう緊急警報をだしておりますが……」
大樹は立ち上がった。小綺麗に整理されたデスクの上に放置されているノートパソコンを開く。メールソフトを起動させ、彼は一通のメールを開いた。差出人の名は、洲先瑞穂。
『大樹くん、お元気ですか? こっちは、私もゆかりちゃんも元気です。私はいま、エンジュシティ近くの森にいます。明日にはエンジュシティに着けると思います。それでは、また連絡しますね』
彼はノートパソコンを閉じた。力なくソファに座り込むと、頭を抱えて蹲る。大樹の異常に気付いて、冷が話しかけてきた。
「塚本さん、どうしたんですか? まさか……」
「思い出した……瑞穂ちゃんは今、エンジュシティにいるんだった。あの邪悪で、黒く塗りつぶされた街に――」
テレビのブラウン管は映しだす。黒い雨が降り注いだあとのエンジュシティを。何もかもが黒く染まった、邪悪な妖気漂う街を。大樹は思わず息を呑んだ。
傘をさした記者が、マイクを片手にカメラに向かって何かを話している。ひどく焦った様子だった。黒い水たまりを指さし、ことの異常さを強調している。
「今、入りました気象庁の発表によりますと、黒い雨が人体に及ぼす影響は無いようです。ただ、なぜ黒い雨が降ったのか、などの原因については、いまだハッキリとは……」
紅い風が吹いた。束の間の異様な静寂がブラウン管を通じて感じ取れた。記者は口を開けたまま、目を見開いたまま血を吐いているのが見える。カメラが、レンズが血の色に染まった。遅れて、誰かの悲鳴が空を切った。
記者は絶命していた。表情は変わらず、血の気だけが引いていく。彼の身体は腰の辺りで両断されていた。上半身が傾き、倒れた。その弾みで眼鏡が落ちて、赤と黒に淀んだ水たまりへと沈んでいく。残された下半身は立ちつくしたまま、黒い地面を赤へと染め直していた。
冷は即座にブラウン管から目をそらした。怯えを隠しきれずに、大樹の肩へとしがみつく。
「何が……今、何が起こったんですか?」
大樹は呆けたように画面を見つめていた。ブラウン管には、もう記者の屍体は映っていなかった。『しばらく おまちください』の画面に切り替わっている。
「見えた……ほんの一瞬だけど、確かに見えた……」
「塚本さん? 何を……何を見たんですか?」
大樹は見ていた。偶然ではあったが、目に焼き付いていた。真紅の刃が、疾風の如き速さで記者の胴体を切り裂く、その瞬間を。
○●