マツバは病院の外に出た。黒雲に満ちた空を見上げ、一言、呟くように言った。
「いつまで、そこにいるつもりだ。いずれは、この街の人々を皆殺しにするんだろう? 隠れても、僕にはわかる。時間の無駄だ」
黒雲は、マツバの問いに答えるかのように、ゆっくりと地面に降りてくる。マツバは眼を細めた。今までに、経験したことのない程の悪寒を感じていたのだ。
「まずは、邪魔な僕を殺そうというわけだな。でも、そうはいかない。これ以上、犠牲を増やすわけにはいかない――だから今、ここで、おまえを滅ぼす」
黒雲から発せられている霧が、凝縮していく。その黒い塊が目を開いた。血のように、真っ赤な瞳だった。ずるがしこさと、邪悪さを秘めた瞳が、マツバを睨み付けている。
「ホウオウを見る前に、死にたくはないからな……」
マツバは右手を振り上げた。足下から、ゲンガーが勢いよく飛び出してきた。シャドーボールを放つ。炸裂する。だが、黒い霧には効いていない。彼は拳を握りしめた。
黒い霧は口を開いた。鋭い牙が見える。その奥に、無数の霊の心を、マツバは感じ取っていた。
雨が――黒く、灰色に濁った水の雫が、静かなままに降りはじめている。
○●
雨が、豪雨が降り注いでいた。先程までの黒々とした、墨汁のような霧雨とは違い、雨粒は灰色に濁ったような色をしている。
「ポニちゃん。がんばって……」
ポニータの背中にしがみつきながら、瑞穂は呟いた。
黒の、灰色に濁った豪雨が、容赦なくポニータの身体を打ちつけ、弱らせていく。赤く輝いていた鬣の炎が、時間の経つごとに小さくなっていく。息づかいが荒くなる。身体から、温もりが失われていく。
躍動を続けるポニータの背中に触れ、瑞穂は胸が張り裂けそうになった。声を出すこともできなかった。冷たかった。ポニータの身体は冷え切っていた。雨が体温をすべて奪っていくのだ。それでも、ポニータは走り続ける。誰のためでもない、自分のために。自分を助けてくれた、瑞穂のために。
冷たさを堪えるように、瑞穂は歯を食いしばった。豪雨は、ポニータだけでなく瑞穂の身体にも降り注いでいるのだ。首をあげ、頭を左右に振る。左右のポニーテールから、水しぶきが飛んでいく。
「あそこだ……スズの塔」
眼前にスズの塔が見える。それも、ごく近くに。瑞穂は腕に力を込めた。ポニータが苦しげに、だが力を振り絞って嘶く。スピードが上がった。まるで風のように、ポニータは走っていく。
ポニータはスズの塔の門を突き破り、地面を蹄で削るようにして急ブレーキをかけた。もうもうと足下から土煙が巻き起こる。瑞穂はそれよりも早く、ポニータの背中から飛び降りていた。そのまま速度を落とさずに、近くにいた僧に詰め寄り、訊ねた。
「あの、『浄めの札』というのをお借りしたいのですが」
僧は微笑んだ。茶色い傘を片手に持ったまま、細い瞳で、ずぶ濡れの瑞穂を眺めている。瑞穂の白い肌は、雨の冷たさに震えており、唇は青くなっていた。水色をしたツインテールの先端からは、雨の滴が滴っている。
意味ありげに頷くと、僧は懐から桐の箱を取りだして、中から浄めの札を取りだした。
「わかっていますよ。すべてのことはマツバさんから伺っております。ただ、私はこの聖地から離れる事ができないので、あなたに来ていただきました」
「え?」瑞穂は不思議そうに眉をひそめた「あの……」
「我々は、心を通わせることができます。距離は関係ありません。たとえ、彼が遠くにいたとしても、彼の想いは、はっきりと伝わります」
「そう……ですか」
戸惑いながらも、瑞穂は頷いた。浄めの札を受け取り、ポニータに跨ったとき、僧は優しい声で言った。
「マツバさんは言っていました。あなたは、水晶のように澄んだ心をもっている……と。その心を、曇らせるのも、さらに磨き上げるのも、決めるのは、あなた自身です……無力な自分を憂うことはありません。あなたにしかできないことが、あるのだから」
瑞穂は小さく首を縦に振り、微笑みを返した。ポニータが走り出す。スズの塔は、雨の中で遠くなっていった。僧の声は、もう聞こえない。ポニータの蹄の音だけが、鳴り響いている。
「私だけにしか――できないこと――」
微かな声で呟いた。その時、腰につけたモンスターボールが激しく震えた。途端に、瑞穂は地面に放り出された。水たまりが弾ける。ポニータの苦痛に満ちた鳴き声が聞こえる。瑞穂は顔についた泥水を拭いながら、何事かと顔をあげた。
自分の腕が、赤く染まっていた。いや、水たまりが血の色を帯びていたのだ。流していく。灰色の雨が、身体にこびり着いた鮮血を洗っていく。そこでやっと、瑞穂は眼前に横たわるポニータに気がついた。
「ポニちゃん!」
ポニータは首筋に酷い傷、鋭い鎌で斬られたような傷を負っていた。苦しそうに、喘いでいる。傷から流れる鮮血が、水たまりを赤い色に染めたのだ。瑞穂はポニータに寄り添った。すぐにモンスターボールを取りだし、戻そうとした。だが、ボールは動かない。地面に叩きつけられた衝撃で壊れてしまったのだろう。表面にはヒビがあり、火花が散っている。
ぐしゃ。柔らかい土を踏みつぶす音が聞こえた。足音だ。誰かが近くにいる。
水たまりに、オレンジ色の瞳のような模様が映りこんでいる。その周りは、鮮やかな紅色の一色だけ。
「リリィが、ここにいる。リリィを、消し去らなければ――」
声が聞こえた。若い男の声。少年の呟き――
震え続けるモンスターボールの中から、ナゾノクサが飛び出した。息を弾ませながら、瑞穂も立ち上がる。そして、見た。瑞穂とナゾノクサの目の前に立ちはだかるようにして、彼は、鮮血に覆われた刃を振りかざしていた。
真紅の身体。鋭く、赤い瞳。腕には、ポニータを傷つけたと思われる鋭利な刃――鎌のようなものがついている。はさみポケモン、ハッサムだった。
拳をわなわなと震わせながら、瑞穂は唇を動かした。息を吐く。小さな呟きと共に。
「あの傷痕……それに、その鎌は……紅の刃……」
○●
シャドーボールが空中で弾けた。幾つも、幾つも、数え切れないほどの黒い光球がぶつかり合い、紫色の火花を散らしながら、衝撃の波を辺り一面に広げていく。
瞬く間に噴煙があがり、幾重にも重なり合った塵が、マツバの視界を遮った。黒い光だけが、噴煙の隙間から射し込んでくる。マツバは眼を細めた。煙の中央が吹き飛んだ。黒い霧の腕が一直線に伸びてきたのだ。先端の鋭い爪が、マツバの喉元を掠めていく。マツバは思わず後ずさった。
負傷し、地面に倒れていたゲンガーが、身を起こした。マツバを庇うようにして、黒い霧の腕に飛びつく。叫び声が響いた。シャドーボールの光が腕の先端で瞬いている。その光と共に放たれた衝撃波が、辺りの噴煙を掻き消した。
水飛沫がマツバの頬に散った。足下には、全身に傷を負ったゲンガーが横たわっている。その身体の半分は抉り取られ、残りの半分は水たまりに沈んでいた。苦しげに、悔しげに表情を歪め、黒い霧を睨んでいる。
黒い霧は――もはや原形など留めていない、邪悪な意志に憑かれたゲンガーは――不気味な、血のように真っ赤な両眼を見開いて、蔑むようにマツバ達を眺めていた。その眼差しは、余裕に満ちている。力に酔いしれているようにも見える。
「やはり、かなわないか……」
マツバは握りしめていた拳の力を緩めた。冷たい空気、吐息が首筋を流れていく。黒い霧の巨大な口が、その奥に広がる底のない無限の闇が、鋭い牙が目前まで迫ってきていたのだ。
彼は身を引いた。素速くゲンガーをモンスターボールに戻す。視線は、黒い霧に釘付けのまま。表情だけが、苦い色を帯びている。
黒い霧は、己が牙を振りかざした。マツバの頭部を、血に染まった牙が掠めていく。そして、彼の頭の頂点めがけ、牙が振り下ろされた。
「困った人だ」
突然、声がした。聞いたことのある声だった。次の瞬間、マツバの頭上まで迫っていた牙が、白い光と共に見る影もなく粉砕された。あまりに一瞬の出来事に、黒い霧の動きが止まった。
マツバは振り向いた。その視線の先に立っていたのは、頬に黒いタトゥを刻んだ銀髪の少年だった。手を振りかざしている。その指先が仄かに輝いていた。
「警告したのに、どうして戦おうとする? すぐに逃げていれば、助かったのに――」
少年は耳につけた鍵型のピアスをもぎ取り、黒い霧へと投げつけた。ピアスが黒い霧に命中した。激しい衝撃が、辺りに広がっていく。爆風に飛ばされそうになりながらも、マツバは眼を細めた。その視線の奥、衝撃の中心で、黒い霧が藻掻いているのが見える。苦しがっている。得体の知れない、おぞましき巨体が、四散していく。
消えていた。黒い霧の身体は消滅していた。マツバは辺りを見回し、霧の晴れた空を見上げた。黒雲に覆われてはいたが、先程までの邪気は失せている。
地面には、灰色に濁った水たまりだけが残っていた。鍵型のピアスが底に沈んでいる。不規則な波紋に揺られ、少年の色のない瞳が映りこんだ。手を伸ばす。小さな水飛沫がはねる。ピアスを拾い上げ、少年は鋭い目つきで、マツバに一瞥を送った。
「どうして逃げなかった?」静かな口調で、少年は訊いた。
「死ぬことに恐怖を感じないからさ。ただ、ホウオウの姿を一度でいいから、この眼に焼き付けておきたかったが」
「なるほど……死ぬことに恐怖を感じない、か。面白い人だ」
少年の瞳は、マツバを捉えたまま動かない。その表情から感情を読みとることはできなかった。無表情だった。哀しげな、寂しげな、憤ってでもいるかのような。
ふと、マツバは少年の背後に、老獪な気配を感じた。同時に、狡猾そうに歪んだ顔と眼があった。少年の背後に、寄り添うようにして、初老の男が立っていたのだ。
「サリエル様」
皺だらけの顔を引き延ばすようにして、男は少年に話しかけた。
「あまり目立つようなことはお避けください。我々には、まだやらなければならないことがあるのですから」
「いや、僕のするべきことはもうない。あとは、機が熟すのを待つだけ――」
閃光が走った。少年の真横を、眩い光を帯びた熱線が通過した。大地がはぜる。衝撃波が、噴煙を押し流していく。爆音が響く。そしてそれは一瞬のうちに静まり返り、凪いでいる風と、静寂だけが残った。
少年は指先で頬に触れた。黒いタトゥの部分から鮮血が滴り、指先を伝って、地面に一滴、二滴、こぼれ落ちていく。微動だにせず、少年は瞳だけを、熱線の放たれた方向へ向けた。
老人が眼を細める。マツバはとっさに振り返った。
茶色の巨体が、リングマが立ちつくしていた。口からは煙があがっている。破壊光線を発射した反動で、全身が震えていた。憎悪にも、殺気にも似た色を帯びた鋭い眼で、少年と老人を睨み付けている。
「驚いたな……こんなところにも『能力者』が残っているなんて」
嘲るような口調で呟いた少年の後ろから、老人が思案するよな表情で言った。
「申し訳ありません――私の責任です。この場で、始末してしまいますか?」
「いや、放っておいても、このポケモンは死ぬよ。呪いでね。あと10分もすれば、肉体は腐乱し、精神は崩壊する。ヘタに手を出す必要はないよ。ほら……」
リングマは倒れていた。苦しそうに身を捩らせながら、喘いでいる。
「もう、時間は残されていないよ。奇跡でも起こらない限りね」
少年は頬から手を離し、流し目でリングマを見やり、そしてマツバに背を向けた。歩き出す。老人がそれに続く。遠くなる。彼らの足音が、リングマの呻き声が、喉まで出かかったマツバの声が。
「教えてくれないか?」
一歩、少年の方に足を踏み出して、マツバは訊いていた。
「奴を甦らせたのは誰だ? キミか? それとも、他の誰が……」
「裏切り者だよ」
感情の入り込む余地のない平べったい声で、そう告げた。少年は立ち止まることなく歩いていく。マツバは聞き返すことすらできなかった。
マツバは振り向き、倒れていたリングマを抱き起こした。腕の時計を見つめる。残された時間は少ない。今はただ、祈るだけしかなかった。奇跡が起こることを。
○●