瞳を開いた。誰かの顔が見える。女の子の、涙に濡れた幼い笑顔が。頬を濡らしながら、女の子は何かをしきりに呟いている。
「お姉ちゃん……」
ゆかりだった。彼女は、瑞穂の目覚めを認めると、すぐさま胸の中に飛びついてきた。全身の痛みは消えていた。いや、ただ感覚が麻痺しているだけなのかもしれない。その証拠に瑞穂は、ゆかりの暖かみも、腕の柔らかさも感じることができなかった。
焦点が合ってきた。辺りを見回す。どうやら、病室のようだった。白い壁、白い床、白い天井。消毒液の臭いも漂ってくる。瑞穂は半身を起こし、指先で、ゆかりの頬を流れる涙を拭った。
「ユユちゃん。無事だったんだね」
「うん――」
瑞穂は朦朧とした意識の中で、ゆかりの身体を抱きしめた。くぐもった嗚咽が聞こえてくる。ひんやりとした風が吹き、瑞穂の水色のツインテールを靡かせた。風は凪いでいる。
窓ぎわで、青い空を見上げるようにして、マツバは座っていた。横目で瑞穂を見つめ、ひとつ軽い息をつき、彼は微笑んだ。視線をもとに――窓の外に広がる青空へと戻すと、小さな声で言った。
「心配はいらない。黒い霧は滅びた。それに、みんな無事だ――僕も、君の友達もね」
「マツバさん――あの……」
「聞かなくてもわかる。厄介なことに巻き込まれたみたいだね」
瑞穂は驚いたように、表情を強張らせた。綺麗に澄んだ瞳が、まんまると見開かれている。
「どうしてそれを――」
「『千里眼をもつ修験者』の名は伊達じゃない。君に何があったのか――それぐらいはお見通しさ。そう言えば、君から電話をもらったとき、勝手ながら君の過去も覗かせてもらったよ」
「私の過去を……ですか?」
「悪人だと困るからね。幸い、君は清らかな心の持ち主だったけど。なんなら言い当ててみようか? 君の好きな男性の名前とか……」
瑞穂は赤くなった頬を隠すかのように掌で顔を覆うと、子供っぽく唇をとがらせた。
「それ、ぷらいばしーの侵害ですよ」
マツバは微笑を口許に浮かべた。瑞穂も彼につられるようにして微笑んでいたが、ふと真顔に戻った。そんな少女を、ゆかりは不思議そうに見上げている。火照った胸もととゆかりの背中を、白く柔らかい掌で撫でながら瑞穂は訊いた。
「マツバさんは、どう思います? ナゾちゃんと……あのハッサムのこと」
「さあ、どうだろう。肝心のナゾノクサが事情を説明できないのでは、どうしようもない――何かの拍子に、また人間の言葉を話せるようになればいいんだけど」
「そうですね……それと……」
瑞穂は一瞬、躊躇うように目線を落とした。興味深げに、マツバは少女に視線を向ける。透けるように白く、整った少女の顔は、明るい幼さのなかに、どこか暗い大人びた雰囲気を秘めていた。彼はそこに、言葉にできないような深い悲しみを見つけた。
「なんだい?」
「結局――黒い霧は、何がしたかったんです? どうして、無意味に人を傷つけようとしたんですか?」
声のトーンが落ちた。瑞穂の声は、暗く沈んでいた。
「争うことに、何の意味があるんですか?」
○●
200年前――人々は争った。戦いをした。このエンジュの地で。
その戦いは、争いは――喧嘩でも、競技でも、試験でない。
――ただの殺し合いだった。
一部の無能な権力者の、『力』を求めるあまりの狂気から生まれた戦争。その戦禍は、善良で争いを好まない人々をも巻き込んだ。街全体を炎が包み、スズの塔を始めとした、多くの建物が灰となって、赤い空に消えていった。人間とポケモンの命と共に。
そして争いは終わった。死者・行方不明者、3万2千人という、最悪の結末をもって。生き残った人々は、束の間の平穏を喜び、争いの記憶を深い闇の中へと葬ってしまった。犠牲となった魂の嘆きも知らずに。
火矢に貫かれた少年。捕らえられ、斬首された少女。見せしめのために、全身の皮を引き剥がされた女。手首を締め上げられ、冷たい水の中へと投げ捨てられた赤ん坊。
彼らの悲しみに満ちた心だけが、現世に残った。孤独に殺されてしまうことの淋しさ。恨み。憎しみ。長い年月のもとで、それらは霧に染みつき、一匹のゲンガーに取り憑いた。霧は、暗く闇に沈み込んだ彼らの心を象徴するかのように黒い色をしていた。
人々は忘れていた。過去の争いを。それによって無惨に殺された人々の憂いを。
忘れることは罪だから――何も知らないことより愚かだから。それは逃げていることと同じ。過去の悲劇を繰り返してしまうかもしれないから。二度と――二度と忘れさせないために。永遠に争いが起こらないために。
彼らは手段を選ばなかった。失われた記憶を――それを忘れてしまった人々の心に、自分達と同じような淋しさを、憎しみを、恨みを、哀しみを思い出させるために、狂気を剥き出しにした。悪霊と呼ばれようが、亡霊だと蔑まれようが。
長い時が、悲しいだけの感情が、人の心から、人間らしさを抜き取ってしまった。争いなど無ければ。彼らは死なずにすんだ。苦しまずにすんだ。狂気以外の感情を失うこともなかった。
そして生き残った人々も忘れさえしなければ、過去から逃げたりしなければ、こんなことにはならなかった。彼らの淋しさを慰める人が、1人でもいれば――
忘れてはいけない。痛みから、現実から、過去の過ちから眼を背けてはいけない。マツバさんは、そう言いたかったんだと思います。死んでしまえば、誰だって独りぼっちだから。それは寂しいことだから。このまま、忘れられるのは嫌だから。
そういえば今日、危ないところで友達が助けてくれたんです。数日前に、私のせいで亡くなった彼が。もちろん、死んでしまった人が甦るはずはないです。でも、私は信じたい。彼が会いに来てくれたんだと。
私が、死んでしまった彼にしてあげられることは、何もないから。せめてもの償いは、忘れないこと。そうすれば、いつでも会えるような気がするから。
○●
「この女の子が瑞穂ちゃんですか? 子供っぽくて可愛いですね。それで、このメールが……」
瑞穂からのメールを読み返し、射水 冷は大樹の座っているソファを振り向いた。
「あ……」
大樹はいなかった。外へとつながっているドアが、半開きのまま放置されている。冷は辺りを見回した。間違いない。大樹は外に出かけたのだ。
「でも、どこに……まさか……」
冷は立ちつくしていた。そして気付いた。彼は、大樹は、現実から逃げるようなことはしない。その時、冷は背中の辺りに激痛を感じた。鮮血が背中から吹き出している。動揺したときは、いつもこうなるのだ。もう痛みには、馴れていた。
だが今度は違う。違う種類の痛みだった。射水 冷は唇を噛みしめ、外へと飛び出すと、一目散に大樹の後を追った。
塚本大樹は、薄暗い路地の奥にいた。ビルとビルの狭間から覗く夜空には、まばらながらも星が瞬いている。ビルの谷間から吹き抜ける風は冷たい。
「たしか、この辺りだったはず……」
大樹は足を止め、闇の色に塗りつぶされている壁の周りを見回した。
「捜しているんですね?」
冷の声のする方へと、大樹は振り向いた。今にも風に浚われてしまいそうな、心細げな表情を浮かべた冷が立ちつくしていた。彼女は細めた瞳で、大樹の足もとを見つめている。
「うん……君も、手伝ってくれる?」
冷は微かな笑みを浮かべた。だがそれは闇に阻まれ、大樹には見えない。ここでは総てが、闇に飲み込まれていくのだ。
「こんなところで……寂しかっただろうね」
「そうですね……」
瞳を閉じ、冷は両手を広げた。背中から鮮やかな鮮血が吹き出した。光を纏っている。仄かな光を放ちつつ、鮮血は翼のような形になった。真紅の翼。暖かな光だった。だが彼女の顔は、その癒やしの光とは対照的に苦痛に歪んでいる。
光は照らし出した。蹲っている少女の姿を。首から上を失った、幼女の無惨な裸体を。大樹は視線を下げる。少女の前へ屈み込むと、できる限りの優しい声で話しかけた。
「鋭田美子ちゃんだよね……?」
少女はビクリとした様子で、身体を強張らせた。顔がないので表情までは読みとれないが、きっと怯えたような顔をしているだろうと、大樹は思った。
「誰……? 私の首、捜してくれるの? それとも――」
また、私を虐めに来たの? もう一度、バラバラにするの? 嫌だ。やめてよ。だから夜は嫌いなの。男の人が、意地悪するから――非道いことするから――
少女は呟いた。涙声だった。冷は唇の端を噛みしめ、眼を背けている。
「誰も……少なくとも僕は、君のことを虐めたりしない。約束する」
「ほんと? ほんとに……? それじゃ、捜してくれるの?」
「うん……一緒に捜そう。時間はかかるかもしれないけど、きっと見つけだそう」
おそるおそる大樹は、少女の小さな掌に触れた。冷たい。ひんやりとしている。やがて、その感触が全身に広がった。少女は、大樹にしがみついていた。泣きついていた。嗚咽に霞む声が、救いのない夜空に虚しく木霊す。
「お兄ちゃん、ありがとう――恐かった……すごく恐い……だから、凄く嬉しい――」
大樹は、何も言わずに小さく頷いた。そうだ、誰だって独りなのは嫌なのだ。寂しいおもいはしたくはないのだ。だから、忘れてはいけない。射水 氷のように、立ち向かわなくてはいけない。過去から、自分から、恐怖から、孤独から、痛みから――逃げてはいけない。
今、自分が抱きしめている現実から、眼を背けてはならないのだ。
○●
「でも、それは口で言うほど簡単じゃないよね――」
瑞穂は沈んだ口調で呟き、そして繰り返した「簡単じゃないよ」
目の前には、彼女の墓がある。黒い霧に呪い殺された、イーブイのトレーナーだった女性の墓が。墓石に縋り付くようにして、イーブイがぐっすりと眠っている。安心しきっている。なぜなら、この下には、主人が眠っているのだから。
イーブイには、まだ彼女の死が理解できていないのかもしれない。いや、それを認めたくないだけなのかもしれない。人間もポケモンも同じだ。残酷な現実からは、逃げること以外の防御法はないのだ。
瑞穂はイーブイを抱き上げた。イーブイの瞳が、うっすらと開かれた。つぶらな眼をしている。その奥に、暗い光が混じっている。哀しみの色が。
「あのさ……これから、どうするの?」
瑞穂の問いかけに応えるかのように、イーブイは墓を見据えた。そして、もう一度、瑞穂の顔に視線を移す。見比べているようだった。やがて、イーブイの眼に涙が浮かんだ。こぼれ落ち、瑞穂の白い肌を滑るようにして流れていく。微かに呻くような声がする。嗚咽だった。哀しみを堪えれば堪えるほど、涙は溢れてくるのだろう。
「忘れたくても、忘れられない過去。忘れてはいけない、それなのに消えていく思い出――こんなの非道いよ。結局、悲しみだけが残っただけ。わからないよ……どうしてこうなるんだろう」
イーブイは答えなかった。心が枯れ果てるほどに、涙を流し続けた。そして、赤く腫れた眼を気にもとめずにイーブイは瑞穂の胸から飛び降りた。無言のまま、睨むような目つきで瑞穂の澄んだ瞳を眺めている。
「イーちゃん……その気持ちわかる。私も、好きな人を失ったことがあるから――もう、何回も。その度に思うの。どうして自分は何もできなかったのか――どうして、こんな悲しい思いをしなきゃいけないのか――」
イーブイは俯いていた。耳だけが震えている。
「だから忘れたかった。現実から逃げたかった。だから――」
瑞穂はポーチからモンスターボールを取りだした。イーブイの前へ、そっと置く。屈み込み、イーブイの顔を正面から見据えながら、瑞穂は言った。
「逃げればいい――いつか立ち止まって、振り返って、現実を直視できるようになるまで、逃げていればいいんだよ。だれもイーちゃんのことを縛り付けたりしないし、急かしたりもしない。逃げること自体は悪い事じゃないもの……逃げ続けて、いつまでも現実から眼を背け続けてちゃ駄目だけど――今すぐ総てを受け入れる事なんて、誰にもできないから……いつか、イーちゃんが現実に立ち向かえるほど強くなるまでは、この中に逃げていればいい……」
瑞穂は立ち上がった。手にはモンスターボールが握られている。大事そうにボールをポーチにしまうと、瑞穂は後ろに振り向いた。
「ヒメグちゃん。そこで、ずっと見てたの?」
片腕のないヒメグマが立っていた。彼は瑞穂の問いかけに頷いた。
「ヒメグちゃんも、私と一緒に――」
彼は首を横に振った。それは否定の印以外の何ものでもない。
鋭い目つきで、ヒメグマは瑞穂を睨んでいる。だが、彼の表情は悲しみに押し流されるかのように沈み込んだ。先程までの激しさは欠片もなかった。彼は瑞穂の足下に詰め寄ると、片腕を差し伸べた。
「ヒメグちゃんは、これから独りで生きていくんだね――だから、最後のお別れを言いに来てくれたんだよね?」
ヒメグマは恥ずかしそうに俯くと、こっくりと頷いた。瑞穂は小さく朗らかな笑みを浮かべて、彼の手を握りしめた。
「まだ、人間のことを許せない気持ちはあるよね――だけど、いつかは解り合える日が戻ってくると信じてる。争いや憎しみが、いつか途絶える日が――」
憎しみは悲しみを生み、悲しみは憎しみを甦らせる。いつか、その連鎖を断ち切らなければならないと、瑞穂は思っていた。そうできると信じていた。
やがて、自分自身が悲しみに囚われることになるとも知らずに。
○●
黒い霧は、影へと堕ちていた。もはや、以前ほどの力はない。瞳を開いても、見えるのは殺伐とした森の風景だけだった。その時、影の視線は1人の男を捉えた。
「たしかに……この地に残っていた、恨みの霊の力は増しました。今、エンジュシティは大変な騒ぎです」
男は黒い法衣を着ていた。その手には、透明な水晶玉が握ってある。大粒の涙のように透明な宝玉から、あの特殊な力が溢れてくることに、影は気付いた。手を伸ばす。今にも水晶に手が届きそうになった瞬間、男は水晶を懐にしまい込んだ。
黒い法衣で身を隠している男は、束の間、驚いたような表情をしている。だがその表情は、次第にひきつっていき、笑みへと変わった。突然、頭上から大金が降ってきたときのような顔。企みが成功したときのような、恐れに満ちた笑顔。
「これが……この水晶の力なのですね?」
誰も答えない。深夜の森の沈黙。
沈黙は、闇を意味した。この森全体が、いまだに影の支配下にあったのだ。滅びかけている黒い霧の中心部から、鋭い爪が伸びた。爪は、男の頭部を狙っていた。それをよこせ。不思議な力を秘めた、その水晶玉をよこせ。黒い霧はそう言うよりも早く、行動に移していたのだ。
だが、鋭い爪が男の頭部を貫くことはなかった。その寸前に動きを止めていた。男は背を向け、焦ったような足取りで森を去っていく。力を秘めた水晶玉が、遠ざかっていく。それでも影は動くことが出来ないでいた。小さくなっていく。闇が薄くなっていく。何かを考える暇もなく、影は完全に消滅していた。
影の意識の消え去る刹那、男を庇うように立ちふさがる、白い微笑みが視界を掠めた。
○●