刹那の夢と嘘の玩具   作:月影 梨沙

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繰り返しの死

 何かの焦げる臭いがする。炎の踊る音がする。頬や背中を撫でていく風は熱く、思わぬ痛みで呻き声をあげそうになるほど、激しい勢いで吹いている。

 

 瑞穂は目を開いた。ぼんやりと空が見える。そして、不安げに歪んだリングマの顔が覗いた。

 

 頭の奥のぼんやりとした部分を、首を振って追いやると、瑞穂は上半身を起こした。リングマに、もう大丈夫と微笑みかける。不安げなリングマの表情が緩むのを確認すると、瑞穂は小さく背伸びをするようにして立ち上がった。辺りを覆っていた熱風が、すこしだけ軽くなる。

 

 何があったのだろうかと、瑞穂は辺りを見回した。燃える甲板――炎に包まれている船体。フラウロスの残骸が無数に浮かぶ、赤黒い海面。そして、空高く伸びていく黒煙。

 

 爆発。そんな言葉が、瑞穂の脳裏をよぎった。その言葉をきっかけにして、頭の奥で、先程までの悪夢のような光景が再生されていく。閃光に塗りつぶされる海、船体。激しい揺れと、足下から迫り上がってくる炎。だが、爆風に煽られ、翻弄される自分の姿は、すぐに途切れることになる。まさに一瞬のことだったのだ。

 

「また、同じことが起こる」

 

 足下から響いた女の声が、瑞穂の時間を今に――現実に引き戻した。声のする方を見ると、ナゾノクサが仰向けになって転がっていた。赤い瞳をギラギラと輝かせながら、譫言のように同じことを繰り返し呟いている。今にも途切れそうな、力のない声だった。

 

 ゆっくりと抱き上げる。そこで初めて、彼女の身体のいたるところに惨たらしい火傷があることに、瑞穂は気付いた。

 

「ナゾちゃん、火傷してる――」

 

 瑞穂はナゾノクサを抱きかかえたまま、腰のポーチから「やけどなおし」を取りだすと、粘液の滲み出ている傷口に吹き付けた。ナゾノクサは苦痛に顔を歪める。呻き声が海上に響きわたった。だが、呻き声が大きくなるにつれて、彼女の瞳から鮮やかな赤色が失せていく。もとの澄んだ瞳へと戻っていく。鋭利な刃物のように研ぎ澄まされた、厳しい表情が、次第に和らいでいくのがよくわかった。変に強張っていた身体から力が抜け、ナゾノクサは瑞穂の腕の中で微かな寝息をたてはじめた。

 

 ナゾノクサが気を失っているのを確認すると、瑞穂はポケモンをモンスターボールに戻した。燃え盛る船体中央部を眺めながら、意志を宿しているかのように蠢く黒煙を前にして、少女は不安を――先が見えないことへの恐怖を、隠しきれない様子だった。

 

 何が起こったのか。

 

 ――また、同じことが起きる――

 

 まだ始まってはいない。これから起こる厄災。かつて、何が起こった? これから、何が起こるのか?

 

 ゆらめく炎が、一段と大きくなる。青い海が、炎の色を照らし出している。妙に生暖かい潮風に吹かれて、黒煙が澄んだ青空に広がっていく。それと同じように、胸の奥底に横たわる華奢な核が――もやもやしていて、容易に触れることのできない、まるで破裂寸前のトマトのような黒い塊が――重圧に耐えきれずに潰れて、その破片を飛び散らしている。破片は心に突き刺さり、少女の指先を、そして胸元を痛みに震わせた。

 

「また……また、誰かが死ぬの?」

 

 一斉に脳裏に広がる大勢の人々がいた。穏和なその表情、声、指先の暖かな感触。

 

 火の粉が散る。不自然な軌道を描きつつ、オレンジ色に燃える塵は、まるで追いつめるかのように、瑞穂の身体を掠めていく。ひとつ、ふたつ、近づいてくる。よっつ、むっつ。そして、ななつめの火の粉が、瑞穂の柔らかくて細い臑に触れた。灼ける音がした。白かった臑が、みるみるうちに赤く腫れていく。熱い、痛い。だれもがそう感じるはずだった。

 

 だが、瑞穂は微動だにしない。痛みを感じないわけではなかった。大勢の人々の逃げまどう様。恐怖で……錯乱で掠れた声。死の間際に見せる、惨めにひきつった表情。冷たくなった屍体の指先に触れたときの、背筋も凍るような悪寒。すべてが、痛みよりも激しい痛みとして甦ってきたのだ。

 

 瑞穂は伏せていた顔を上げた。ひとつの笑みが、瑞穂の霞んでいた瞳に浮かび上がった。目の前で波打っている海面へと、焦点が合っていく。ほとんど無意識のままで、瑞穂は呟いていた。

 

「そうだ……ユユちゃんを助けなきゃ……」

 

 ぼんやりと頭に浮かんでいた笑みが、ゆかりのものであるという、はっきりとした認識がこみ上げてきた。口許の小さな動き、そこから発せられる言葉。そう、最後にゆかりと交わした言葉。――ウチ、酔ってきたみたいや……せやから、ここで座って待ってるわ――

 

 地面から湧き出る黒煙をものともせず、瑞穂は噛みつくようにして甲板のドアを開き、船室へと足を踏み込んだ。至る所から炎があがっている。炎の大きさに比例するように、高温の黒煙が船室中に充満している。

 

 瑞穂は海水に濡れたハンカチを口許へとあてた。熱せられた黒煙をそのまま吸い込むと、喉が焼け、肺が焼け、呼吸困難になって死に至ることがあり、非常に危険なのだ。

 

 階段を駆け降り、瑞穂は2階船室を覗き込んだ。黒煙が少ない代わりに、炎の勢いは3階の船室の比ではなかった。視界を覆うようなオレンジ色の炎に、瑞穂は思わず後ずさる。

 

 瑞穂の足が床を踏みしめるのと同時に、水飛沫があがった。それと呼応するように波紋が広がる。オレンジ色に照らされていた床がゆらゆらと不自然に揺れ始める。瑞穂はハッとして足もとを凝視した。濡れている。波紋の底に床が沈んでいる。いや、そうではなく、船室全体が浸水しているのだ。おそらく、爆発の衝撃で船底に穴が開いたのだろう。

 

「……お姉ちゃん」

 

 声が聞こえた。ゆかりの涙声だ。瑞穂はすぐさま、声のする方へと目を向けた。座席の上でゆかりが蹲っているのが見える。周りを炎で囲まれて、うかつに身動きがとれないでいるようだった。赤く火照った頬に、涙の筋が浮いている。小刻みに震える膝が、彼女の怯えの度合を物語っている。

 

「待ってて、ユユちゃん! いますぐそっちに行くから……」

 

 瑞穂は足下に広がる海水を頭からかぶると、あちこちから立ち上る炎を避け、ゆかりのもとへと駆け寄った。なんとか落ち着かせようと肩を優しくさすり、穏やかな口調で話しかける。

 

「ユユちゃん、大丈夫だった?」

 

 ゆかりは、涙と海水に濡れた顔を拭うこともなく頷く。怪我や火傷はしていないようだった。だが、少女の震える指先が指し示す先には、別の形で彼女を傷つけた『それ』が転がっていた。

 

 唇の端を噛みしめ、瑞穂はおそるおそる、ゆかりの視線の先を――指先の指し示す地点を目で追った。黒い塊が、オレンジに照り光る海水に浮かんでいる。そんな光景が瞳に入り込んできた。

 

 人の形をした、黒い塊が。焼け焦げて、想像力すら及ばぬ程、原形を失った屍体が。ぷかぶかと、空気の抜けた浮き輪のように、浮き沈みを繰り返すだけ。その動きに意志はなかった、人としての、生物としての。だが、不自然に折れ曲がっている腕は、醜く歪んだ口許は、まるで溺れた猫のように助けを求めていた。そして、その想いは救われぬまま死んだ。悲痛な叫びの痕だけが、生々しく遺った。

 

 屍体はひとつ……一体だけではなかった。さすがに最初に見たような、原形を留めていないものは少ない。ガラスの破片を全身に浴びて死んでいる男。首があり得ない方向に曲がったまま死んでいる女。いずれの屍体も、瞳は濁ったように充血している。ピンク色の涎にまみれた口からは、死人とは思えないような真っ赤な舌がだらりと垂れていた。

 

 瑞穂はとっさに、ゆかりの顔を自分の胸元に押しつけた。微かな嗚咽が聞こえる。胸元が濡れていく。それが広がっていく。

 

「もういやや……なんでウチの周りでは、ぎょうさん人が死ぬん……?」

 

 ゆかりの呻きに近い呟きが聞こえる。瑞穂はゆかりを抱きかかえたまま立ち上がり、脱出口を探し始めた。辺りは炎に満ちている。

 

「せやから……いつも、いつもウチはひとりぼっちで……」

 

 瑞穂はゆかりを引きずるようにして甲板に飛び出た。海は黒く濁っている。風は熱気を帯びていた。激しく踊り狂う波を見下ろしながら、瑞穂は息を呑んだ。荒い息を落ち着かせるかのように、ゆかりの涙に汚れた顔を見つめる。

 

「お姉ちゃん?」

 

 涙できらきらと照っている、ゆかりの頬に自分の白い頬を押しあてながら、瑞穂は独り言のように、それでいてゆかりに言い聞かせるかのように囁いた。

 

「違うよ……ユユちゃんは独りぼっちじゃない……本当の独りぼっちっていうのは、もっともっと悲しいことだから……」

 

「もっと、悲しいことって?」

 

「わからないけど……その悲しみが続く限り、また誰かが死ぬ」

 

 本能のようなものだった。繊細で、感受性の強い子供だけがもつ防御機構の一部がはっきりと、そう伝えてくる。この船で起きた突然の爆発の原因が、哀しみの鎖のひとつであることに。

 

「今回のことだけじゃない……今までに遭遇した悲しいことって、ほとんどが哀しみから生まれたんだよね」

 

 そして、繰り返される。途切れることなく、際限なく哀しみは悲しみを呼ぶ。

 

 ――また、同じことが起きる――

 

 ナゾノクサは何を伝えたかったのだろうか。そして、この事件と何の関係があるのだろうか。瑞穂は考えた。だが、抽象的な言葉の欠片と欠片を繋ぎ合わせても、答えが見つかることはない。不可解な形をした文字だけが、脳裏に残るだけ。

 

 ――まだ解らないの? おまえのしていることは、私たちのような――

 

「とにかく、ユユちゃんが独りぼっちなわけないよ。私もいるし、リンちゃん達もいる」

 

 瑞穂の白い腕をしっかりと握りしめながら、ゆかりは、自分を見つめる澄んだ瞳から視線をそらして俯いた。瑞穂を拒絶しているかのようだった。

 

「お姉ちゃんは知らないんや……ウチは、もう……」

 

 その時だった。激しい音を辺りに響かせながら、船体の中央部が裂けていく。甲板が急激に傾いた。瑞穂はゆかりを抱きかかえる。そしてそのまま、渦巻の中へと飛び込んだ。

 

 まさに一瞬の出来事だった。次の瞬間、甲板が粉々に砕け、海の底へと消えていく。裂けた船体の間から、無数の屍体と炎が洩れている。炎が二つに別れた船体を覆い尽くしたと同時に、最後の爆発が起こった。その爆音が、フェリーボートの最期を告げた。

 

 

 ○●

 

 

 ――また、同じことが起こる――

 

 終わることのない悪夢のように、黒い煙が広がっていく。私の心を、汚していく――墜ちていく。堕ちていく。生き続けることよりも、死ぬことよりも辛い、心だけの日々のせいで、私はいつしか狂っていた。

 

 

 

 

「こんなところで、何をしてるの?」

 

 ライムが訊いた。リリィは振り向かなかった。彼に背を向けたまま俯いて、風にあたっている。甲板には誰もいない。リリィとライムの二人を除いて。

 

 高速客船、グラシャラボラスがアサギシティの港を出航してから2日が過ぎた。今日中にはタンバシティに到着し、一般客を乗せた後、同じ水路を通ってアサギシティへと戻るらしい。今はちょうど、うずまき諸島のあたりを航行している。そのせいか、船体の揺れはいつもよりも激しい。

 

「近寄らないで」

 

 リリィは口許に掌をあてたまま、くぐもった声をライムにぶつけた。ライムは真顔で、細い瞳を彼女へと向けている。遠くを見据えるような眼差しで。

 

「船酔いかい?」

 

「だから、なんなの? あんた、私をからかいにきたの? 言ったはずよ、私はあんたが嫌いなの。どっかへ行ってよ……」

 

 彼は少女に寄り添った。リリィは振り向きざまに、ライムを睨み付ける。

 

「嫌がらせのつもり?」

 

「そうじゃない……ただ、リリィがどうしてそこまで自分を嫌っているのかが知りたいだけさ」

 

 リリィは微かにライムから目をそらし、小さな声で呟いた。

 

「私が私を嫌いな理由……理由なんてない……言い訳なんて、私には必要ない」

 

「本当に? 普通じゃないと思うけどね、自分が嫌いな人間なんて。それで理由がないなんて、すごく不自然なんだけど」

 

 ライムは小さな溜息をつき、眼下に広がる渦巻を眺めた。目まぐるしく模様を変えていく海は、まるでリリィの動揺をそのまま映しだしているかのように、彼には思えた。

 

「普通じゃないの? あんたも、わたしも――人間って、自分のことが嫌いなんじゃないの? 自分のことが好きな人間っているの?」

 

 沈黙。だがそれは長くは続かなかった。

 

「いるよ。だから知りたいんだ。君が自分を――すべてを嫌う理由を」

 

「どうして、そんなことを知りたがるの?」

 

 彼女の問いに、ライムは軽く微笑んで見せた。そこでリリィは初めて、彼が自分と同じ、悲しみの影を帯びていることに気付いた。

 

「知りたいさ……君と僕は似てるから」

 

「そうね。自分で自分を偽ってる辺りは似てるわ」

 

「もちろんそれもあるけど、僕が言いたいのはそういうことじゃない。自分を偽っているのは、ただの結果に過ぎないよ。重要なのは理由さ。君は、過去に僕と同じことをしてる。そして、その罪の意識から逃れきれずにいるんだ」

 

 怪訝そうに眉をひそめ、リリィは呟いた。その唇は、震えている。

 

「あんたが……私の何を知ってるのよ。」

 

「リリィは……大切な人を目の前で失ったことがあるだろう。そして、その時、自分は何もできなかった」

 

 一瞬のうちにリリィの顔が青ざめた。彼女は目眩を感じた。そのまま倒れて、海に落ちてしまえばいいとさえ、思った。全身から力が抜けていく。床に崩れ落ちるリリィを、ライムは抱きかかえるようにして支えた。

 

「どうして……それを……」

 

「すぐにわかるよ。初めて会ったときから、ずっと気になっていたんだ。眼を見ればわかる。昔の僕と同じだから……」

 

 リリィは顔を上げ、ライムの瞳を見つめた。他の人間と、なんら変わるところはない。別に特別変わった目をしているわけではない。だが、リリィはすぐに気付いた。――私は、今まで、ちゃんと人と目を合わせたことなんて無い――だから、瞳というものがこれほどまでに澄んでいて、綺麗なものだということも知らなかった。そこまで赤裸々に自分の中身を晒すものだということも。

 

 今まで仮面に囲まれて暮らしていたリリィにとって、瞳ほど不気味なものはなかったから。恐かったから。幼い頃のリリィにとって、まるで死んでいるかのような意志の見えない瞳は、恐怖以外の何者でもなかったから。

 

 不意に胸が熱くなった。その奥で、閉じこめていた過去が、光に照らされていく。喉が小刻みに痙攣を始めた。激しい心の動きに、身体がついてこれなくなったのかもしれない。

 

「4年前に、君のお母さんが自殺している。そのことじゃないのかい?」

 

「調べたの?」

 

「いや、有名な話だよ。なんと言っても、エルリム家のことだからね。新聞にも載ったし、テレビでも取り上げられたじゃないか」

 

 リリィは力なく首を横に振った。

 

「知らない……あの時のことは、よくわからない……」

 

 ライムはリリィを抱き起こすと、沈鬱な面持ちで語った。

 

「僕も、そうだった」唇の端を噛み「僕には弟がいたんだけど事故で死んだ。3階のバルコニーから落ちてね。僕は弟を助けられなかった。手すりに掴まって助けを求めている弟の声を聞いて駆けつけたとき、弟はもう落ちていたから」

 

 ゆっくりを瞼をおろし、ライムは訊いた。

 

「君も――リリィも、僕と同じように大切な人を目の前で失っているんだろう?」

 

 リリィは俯いた。その反動で、涙がぽろぽろと床に散った。

 

「私は、あんたとは違う。私は、あんたみたいに、どうしようもないって割り切ることはできない」

 

 我慢していたものが、一気に膨れ上がってきた。今にも破裂しそうな胸の奥の風船は、ギシギシと悲鳴をあげているようだった。音が聞こえる。自分の嗚咽が、耳に響いてくる。

 

「あんたの言うとおり、4年前にお母さんは死んだ。自殺した。原因は極度のノイローゼで、本当は……私も一緒に死ぬはずだった。でも、私は死ねなかった。崖から飛び降りて、血塗れのお母さんの中で、私だけは生きていた……」

 

 誰だって、同じ経験をしているはずなのに、誰だって、大切な人を目の前で失っているはずなのに、どうして自分だけに罪の意識が芽生えなければならないのか。不公平に思いつつも、そう思うこと自体が罪のように感じて、何もできなかった。できるはずがなかった。

 

 壊れた心臓が、辺り一面を赤く染めていく光景が、目の前で甦ってくる。歯が折れ、鼻が潰れ、醜く汚れた母親の顔を胸に抱きながら、泣き叫ぶ自分。

 

「私、ずっとあの事件に囚われている自分が嫌だった。表向きだけ悲しんでる周りの人達も嫌だった……だから、いっそのこと、全部嫌いになってしまえば、楽になれると思った……だけど、そうやってすべてを嫌いになっても、苦しいだけだった」

 

「僕も同じだった――」

 

「あんた……何がしたいの? こんな話させて……私を、どうしたいわけ?」

 

 涙を腕で拭うと、ひきつった悲痛な声でリリィは叫んだ。ライムの胸ぐらを掴み、激しく揺さぶった。震える指先に冷たい涙の欠片が滴る。

 

「なにが……『僕も同じ』よ……不幸自慢でもしたいわけ?」

 

「違うよ。ただ……」

 

「何よ」

 

「僕は、君の近くに居たかっただけ……守ってあげたいと思ってるだけなんだ」

 

 リリィは、すぐさまその手を伸ばし、ライムの頬を張り飛ばした。掌が赤く腫れていく。ジンジンとした痛みが沸き上がる。

 

 それでも、涙は止まらなかった。掌で顔を押さえ、リリィはその場に蹲った。背中が震えている。

 

「あんたのせいで、私……なんだか変になっちゃった……どうして、こんなことするの?」

 

「初めて会ったときから、こうしようって決めてた。だって、このまま放っておいたら、君は間違いなく破滅すると思ったから――なんとかしてあげたかったから――」

 

 ライムは立ち上がる。細い瞳をリリィへと向けた。

 

「助けてよ……誰でもいいから……もう、我慢できないよ」

 

 リリィはライムに抱きついた。胸の中で嗚咽する彼女の姿は、とても弱々しく見えた。まるで、今まで彼女の中で膨れていた風船が、突然破裂したのではと彼は思った。それほどに、リリィの声は萎んでいた。

 

「あんたなら……私のこと、わかってくれるよね? くだらないこと考えるなって、毎日殴ったりしないよね……?」

 

 初めてリリィと会ったときの、沈み込んだ悲しい瞳が思い出された。仮面の中に憂いを押し込めた、少女の痛々しい表情。握手を交わしたのち、睨むような目つきで自分を見つめた彼女の怯える様子。ひとつひとつの記憶が甦るたびに、悪寒が再び彼を包み込む。聞こえることのない、悲痛な叫びと一緒に。

 

 ――だから、私は自分が嫌い。みんな嫌いよ――

 

 強がりの消える刹那に映った、もう耐えきれないと訴えている惨めな表情。

 

 ライムは何も言わない。泣き続けるリリィを抱きしめ、彼はただ無言で頷くだけだった。何かを言うと、また彼女の何かが壊れてしまいそうな気がしたから。

 

 

 ○●

 

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