体中の体液が、吹き出してしまうのではないだろうか。
そう思えるほどに赤い体液は、鮮血は激しい勢いで瑞穂の胸から噴きだしていた。全身を駆ける痛みの原因を確かめるため、瑞穂は自分の胸を恐る恐る見やった。
瑞穂の右胸は鋭く切り裂かれていた。薄青色をしたポロシャツの裂け目からはリングマの爪痕が覗き、白い肌は裂けていた。真紅に染まっているのが見える。乳白色の皮膚の裂け目からは、真っ赤な胸の肉がはみ出し、吹き出す血によって踊っていた。
「リ……リンちゃ……ん……?」
暫くしてから、途切れ途切れに瑞穂は言った。涙と鼻水にまみれた顔が血色を失って、次第に青白く変色していく。
リングマは、目を細めながら瑞穂を見つめていた。彼の腕は、瑞穂の血で真っ赤に染まっていた。時折、その雫が爪の先から滴り落ちる。
瑞穂は顔を上げ、リングマを悲しい瞳で睨んだ。リングマの血塗られた鋭い爪の先には、瑞穂の小さな乳首が張り付いている。少女は目を見開き、言葉にならない悲鳴を上げた。
「あ……あぁぁ……ぅ……」
少女は蹌踉めきながらコガネジムの外壁にもたれ、激しく嘔吐いた。
「う……ぇぇ……ぅ……」
呻くような声が出た。朝に食べたものが弾かれたように、次々と胃の中から駆け上ってくるような気がした。そうしている間にも、激しさを増していく胸の出血。
体中のものを、全て吐き出し終えた瑞穂は、萎れた草木のように、その場に倒れこんだ。ドス、と音がした。30キロに満たない軽い身体であろうとも、この時ばかりは重そうに響いた。血の水たまりに落ち込んだ瑞穂は、それでもなお、身体を捩らせて意識を保とうとつとめた。だが、体を捩らせれば捩らす程、意識は遠のいていく。
瑞穂の体は動かなくなった。リングマは、微動だにしなくなった少女の身体に触れた。彼は、息を呑んだ。急に怯えたように辺りを見回し、首筋に滲んだ汗を拭う。足下が震え始めた。
「瑞穂ちゃん! どこいったんや!」
張り上げるようなアカネの声が、リングマの耳の中に飛び込んできた。リングマは身を起こした。逃げるように、慌ててその場を走り去った。
少女は取り残された。置き去りにされた瑞穂は、だた独り血塗れに沈んでいる。
コガネジムのロビーにある、ソファーの上で、瑞穂は意識を取り戻した。
瑞穂は、ゆっくりと目を開いて半身を起こすと、辺りを見回した。着ていた水色のポロシャツは脱がされており、その代わりに包帯が体を包んでいた。目の前には、心配そうな顔をしたアスカが、じっと瑞穂を見つめている。アスカは、瑞穂が目を覚ましたことに気がつくと、さっと振り返ってアカネを呼んだ。
「アカネさん、瑞穂はんが、目を覚ましました」
ミルタンクの体調を看ていたアカネは、アスカの声に頷くと、瑞穂の顔を覗き込んだ。具合の悪そうな顔を無理に緩めて微笑み、アカネは訊いた。
「どや? 瑞穂ちゃん。胸の傷の具合は。痛かったら、病院いこか?」
胸の具合――そうだ、私は。
胸を切り裂かれたことを思い出した瑞穂は、急いで自分の胸の具合を確かめた。血が吹き出ていた傷口はガーゼで覆われていた。手際よく止血されており、痛みも少ない。どうやら、そんなに心配することはなさそうだ。
「大丈夫みたいです。そんなに痛むわけじゃないですし」
アカネとアスカは胸をなで下ろした。
「それは良かったわ。まぁ、血はぎょうさん出とったけど、傷のほうは意外に浅かったようやし」
安心からか、アカネは少しだけ明るさが戻った。横からアスカが口をはさむ。
「それもあるけど、ウチのカンペキな応急処置のおかげです。アカネさんは隣で、泣きながら右往左往してただけですやん」
「ウチがいつ、泣きながら右往左往したんや?」
「嘘いわんといてください。そういえば聞きましたよ、瑞穂はんのリングマ相手に手も足も出なかったって」
そこまで言って、アスカは慌てて口をつぐんだ。リングマの事に触れられたくないのは、アカネだけではなく瑞穂も同じである。
「あっ! そや、コガネ百貨店に買い物にいかなあかんかったんや。ちょっと、出てきます」
自分の失言をもみ消すように、わざとらしくアスカは言った。
「それなら、ウチがいったるで」
アカネの言葉を無視して、アスカは立ち上がった。逃げるように部屋を後にする。2人きりになった部屋で、瑞穂はポツリと呟いた。
「あの……アカネさん……?」
瑞穂は、おずおずとアカネの様子を伺っていた。
「ん、どないしたん?」
「ミルタンク、大丈夫ですか? あんなに怪我させちゃって。ごめんなさい」
「瑞穂ちゃんは、謝ることも心配することあらへん。それにミルタンクは大丈夫やで。なんていうても、ウチの自慢のミルタンクやさかいな。一晩、安静にしとったら、すぐに良くなる。それよりも――」
アカネは急に真剣な顔つきになった。
「なぁ、瑞穂ちゃん。あのリングマの事なんやけどな」
微かに俯いた瑞穂の表情を直視しながら、アカネは続けた。
「進化したばっかりやろ、あのリングマ」
「どうして、解るんですか?」
瑞穂は顔を上げ、驚きに目を見開いた。アカネは、やっぱり、と言いたげに肩を竦めていた。
「解るで、そのくらい。瑞穂ちゃんのリングマ、ヘンやったからな。瑞穂ちゃんの指示を聞かず、さらに反抗までしとった」
締めつけられるような痛みを堪え、瑞穂は掌で胸を押さえた。鼓動の音が響く。次第に大きくなっていく響きが、少女の動揺を物語っていた。
「そうなんです。リンちゃん――私のリングマ、進化した途端に変わっちゃった。姿だけじゃなくて、性格まで。あの頃の、優しかった頃からは想像できないほど」
壁に掛かった時計の鳴る音が部屋を包んだ。瑞穂は言葉に詰まったのか唇の端を噛みしめ、壁に掛かった時計を見やる。
「進化した時は嬉しかったです。でも、進化してすぐに抱きしめたとき、リンちゃんは遠くを見てました。怒っました。私は進化してから一度も、リンちゃんを外へは出しませんでした。恐かったから。だけど、そのせいで私のこと、嫌いになっちゃたのかもしれません」
「それは、ちゃうと思うで」
不意にアカネは口を挟んだ。
「違うとは?」
「あのな、あのリングマは、自分の力を制御できへんかっただけや。急激な進化に、リングマ自身がついていかんのや」
「だけど! リンちゃんは、私の言うことを聞いてくれませんでしたよ」
「そやない」アカネは首を振った。
「リングマも戸惑ってるんや。自分の力にな。どんなに力があっても、その力を制御する強さがないと、意味が無いんや。そして、こないだまでヒメグマやった――小さな子供に、そんな強さがあるわけない」
アカネの言葉の意味を飲み込みきれずに、瑞穂は顔を強張らせた。だから、どうしたの? だからって、私の言うこと聞かなくてもいいのかな。だからって、私のことを、傷つけるなんて酷いよ。
「それじゃあ――」
瑞穂はアカネの顔を見る気にはなれなかった。弱々しい声で、反論するしかなかった。
「どうしろって言うんです? 私に。どうせ私は、小さいし力も無いですよ。この間も、ポケモンバトルで負けました。負けた相手に、罵倒されましたよ。こんな弱い私に、どうしろって言うんです? ただ、ニコニコして周りの人の機嫌を伺ってるだけの私に、何ができるんですか!」
瑞穂は立ち上がった。涙に溢れている目の周りが、真っ赤に腫れていた。噛みしめた唇から、音にならぬ呻きが響いた。
「なぁ、瑞穂ちゃん」
掴み所の無い、不安定な苛立ちを紛らわすように、瑞穂はコップの水を呷った。少女の背中を追いかけるように、アカネは落ち着いた様子で話しかけた。
「あんた、あのリングマに何を言ったんや? ウチのミルタンクに破壊光線を撃った時は、まだリングマは力を制御できないだけやった。反抗するにしても、モンスターボールを弾くだけで、瑞穂ちゃんに危害は加えてへん。凶暴なりにも、分別はあったんや。なのに、リングマは瑞穂ちゃんを切り裂いた。何を言ったんや、もしくは、何をしたんや?」
「嫌いって、言いました。大嫌いって」瑞穂の声は、そっけなかった。
「私、何か悪いこといいました? だって――」
掌を前へ突きだし、アカネは瑞穂の言葉を制した。
「後悔してへんのか? ほんまに、リングマのことが嫌いになったんか?」
瑞穂は押し黙った。
「瑞穂ちゃんは、リングマとどのくらい一緒におったんや? 1ヶ月? それとも半年?」
「もっとです――」
「それなら、もう解ってるはずやろ。力を制御できないリングマの弱さを助けてあげられるんは、自分しかおらへんってことに。リングマが、自分の力に戸惑ってるんは、瑞穂ちゃんが、正面からリングマに向きやってあげへんからや。上辺だけで喜んで見せたって、リングマは恐がられていることに気付いてるで」
瑞穂はコップを握り締めていた。小刻みに震える背中を見られたくなかった。惨めだった。
「だから、どうすればいいんです? 私は、リンちゃんよりもずっと小さくて、力もないんですよ。それに、恐いです。また、いつ切り裂かれるか――今度は、殺されるかもしれない」
蹲る瑞穂の肩に、アカネは手をやった。さするように、揺するように瑞穂の身体を撫でながら、アカネは呟いた。
「理解してやるんや。さっきも言うたけど、リングマは力はあるけど弱いんや。だから、力を制御できない。あの子の強さになってあげられるんは、あの子を一番理解しているはずの、瑞穂ちゃんしかおらんのやで。弱いとか、背が低いとか、そんなん関係ない。今まで一緒にいたのは、瑞穂ちゃんが、あの子より力があったからか? あの子より大きかったからか?」
違いますよ、と瑞穂は呟いた。
可愛かったからとか、よく懐いてくるとかじゃないですよ。もちろん、私の方が喧嘩が強かったからとか、何でも言うこと聞いてくれるからでも無いです。そんな、言葉で簡単に説明できるような理由じゃない。
旅にでたのだって、別にポケモンバトルがしたかったわけじゃない。ただ、あの子と――リンちゃんと色々な場所へ行ってみたかったから。
「関係無いんや。進化しようが、性格が変わろうが、お互いが持ってるもんに変わりは無いんや」
瑞穂は頷いた。アカネに抱きしめられるように立ち上がり、嗚咽した。
「思い出してみるんや。初めて出会ったときの事を。自分にとって、あの子が何なのかも、思い出せるはずやから」
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