水平線が、夕焼けの色を浴びて、紅く染まり始めていた。
波の音すら響かぬ静寂を飲み込むと、瑞穂は軽く胸を押さえ、砂浜の上に寝転がった。眠たそうな眼を、白い二の腕で覆う。
「お姉ちゃん、もう寝てまうん?」
そう言いながら、ゆかりは、瑞穂に寄り添うように横になった。
「まだ、眠らないよ……というより、今日は眠れそうにない」
「どうして? 恐かったから?」
静かに揺れ動く波打ち際を眺めながら、ミルは訊いた。一瞬だけ、チラリと瑞穂の横顔を流し見る。思わず眼があった。二人は固まったまま、視線をそらすことなく、お互いを見つめ続けた。
「たしかに恐かったけど、恐いのには馴れてるから、別にもうなんとも思わないよ」
「じゃ、寂しいとか? 無理もないけど、こんな小さな島に流されちゃったわけだし」
瑞穂は目をそらした。水平線の奥に沈みかかった太陽を仰ぎ見ている。紅い夕日に照らされた瑞穂の顔からは、表情が消えていた。
「寂しいのにも馴れてるから」
「じゃ……じゃあ、なに? あんまり焦らすと怒るよ」
「あの人達……」
抑揚を欠いた瑞穂の呟きに、ミルは小さく息を呑んだ。
「この海の底に、沈んでるんだよね……こんなに綺麗に見えるのに」
短い沈黙。ミルは何かを言いたげに首をもたげた。
細く小さな身体を軽く砂に埋めて、瑞穂は続けた。微睡むような表情の奥に隠れた冷たい声は、ミルの言葉を掻き消していた。
「恐いのも寂しいのも、屍体に触ることにだって馴れちゃったけど、目の前で人が死んでいくのを見るのだけは、耐えられない。その光景で頭が一杯になるから、頭の表面にぴったり引っ付いちゃうから。とてもじゃないけど、寝ることなんてできないよ」
「あたしは、どちらかといえば逆かな」
「逆?」
「そう。あたしだったら、こんな非道いことする奴への憎しみで頭がパンクしちゃう。それこそ夜も眠れない程ね」
「”こんな非道いことをする奴”……? ちょっと、それって……」
瑞穂は即座に半身を起こした。細かい砂がはらはらと肩や腕からこぼれ落ちていく。脇で一緒に横になっていたゆかりは、たまらずに飛び退いた。
「お姉ちゃん! 砂が!」
「あ……ごめん」
ゆかりの全身に付いた砂を払いながら、瑞穂はミルに訊いた。
「あのさ、その言い方だと、グラシャラボラス号の火災と沈没は、”誰かが意図的に行った”ってことになるような気がするんだけど」
胸につけた虹色の水晶を手に取り、それを覗き込むように見つめながら、ミルは呟いた。指先は震えている。表情だけが平静を保っていた。
「その通りよ」
水晶を握る手に力がこもる。水晶は、神々しいようで不気味ともいえる異質な光に満ちていた。
ミルの指の隙間から、瑞穂の顔が覗いた。水晶玉を隔てた反対側の方向から、瑞穂はじっとミルを見つめている。
「これさ」虹の瞳を指さしながらミルは「きっと、呪われてるのよ」
「呪われてる?」
「言い伝えでは、虹の瞳は『復活』を、深海の涙は『祝福』を意味しているらしい。でも、それって絶対間違ってる。この二つのせいで、みんなが死んでるもん。それで、あたしはそんな悲しみの種をあちこちに撒き散らしてる」
涙で滲んだ眼をこすり、ミルは続けた。喉まで出かかった疑問の言葉を、瑞穂は飲み込むしかなかった。
「あの二つの宝玉は、まったく正反対の力を――それこそ大地の破滅すら招く強大な力をもってるの。一つは死の淵に立つ人間の魂を甦らせ、もう一つは死んだ人間の魂を、さらに深いところまで沈める」
二度と浮かび上がることのできない場所まで。
「人の魂を――沈める?」
ふと、脳裏を掠めた。人の心の歪んだ姿である「黒い霧」の悪意に満ちた表情が。
頭の中に湧いた悪夢を振り払うように、瑞穂は首を横に振りながら、ミルの肩に手をかけた。
「泣いてても、しかたがないよ。ほら、そこに一緒に横になろう」
ミルは瑞穂の言葉どおりに、木陰に横たわった。力の抜けた彼女の身体からは一言、絞り出すような呟きが聞こえるだけだった。
○●
足下が濡れていた。それが、失禁した自分の排泄物であることに気付いたのは、彼女が立ち上がり、辺りを見回し、そして今、自分自身が生きていることへの軽い錯乱から抜け出したあとのことだった。
深く考えてはいられなかった。無我夢中で崖をよじ登り、血塗れに汚れた服など気にもとめずに走った。
「何がなんだかわかんないけど……とにかく、誰かに知らせないと」
走るほどに、足が重たくなっていくのが、自分でもわかった。死の淵に立たされたときにすら感じることの無かった、本当の意味での絶望が胸の底に重くのし掛かってくる。
青い空を紅く照らす風が吹いていた。酷く熱い、それでいて息の詰まるような熱風だった。肺が悲鳴をあげている。思わず息が詰まり、ミルは何度も咽せかえした。
青い空を紅く照らす炎が見えた。白いはずの雲が、その炎の上では溶岩のように見えるのは、混乱の造り出す錯覚のせいだけではないはずだ。分厚い空気の壁が、ミルの頬をジリジリと灼いていた。
ミルは叫んだ。両親への問いかけを。隣の家に住む知り合いの老婆の名を。老婆の息子で、実の兄のように慕っていた青年の名を。
返事などあるはずもなく、灰を空へと運ぶ風が、無情に凪いでいるだけだった。
町は燃えていた。
見慣れていた、昔ながらの建物も、幼い頃によく遊んでいた公園も、自分の住んでいた家も、紅い炎が飲み込んでいた。視界に入り込んでくる風景のすべてが、彼女の記憶と食い違っていた。
言葉にならなかった。呆然としたまま、ミルは立ちつくしていた。何かの爆発する音。そして、降りかかるガラスの破片。動かなかった。動けなかった。
「これなら、あのまま死んでた方がよかった」
ガラスの破片で、右の瞼が切れた。瞳が血の色のフィルターをかけられ、炎の色は見えなくなった。瞼の切れた痛みよりも、半分だけだろうと、何も見えないことのほうが楽だった。
左目は灰の中で蠢く何かを見つけた。人影ではないかと考えたが、あまりにも巨大な影だった。人間のものではない。
息を殺し、ミルは影へと歩み寄った。灰をかき分け、奥から姿をあらわしたのは、ミルの身長の2倍はある、竜に似た炎ポケモン、巨大なリザードンだった。その巨体は猛火に包まれている。
「なんでリザードンが、こんなところに?」
リザードンは鋭い瞳を、ミルへと向けていた。眩い炎に包まれた、逞しい身体に反比例するかのように、その瞳からは光が失われていた。
血の匂いがしてきた。ミルはおそるおそる、リザードンの足もとを見やった。
腕。耳の欠片。それだけを認めると、ミルは眼を背け、胸元の水晶を握り締めながら、弾む息を殺した。地面に飛散していたのは、鋭い爪痕の残る老婆の醜い屍体。黒ずんだ血は、炎の熱で腐り始め、腐臭を放ち始めている。
「あんたが、殺したの?」
どうして殺したの? どうしてこの町を灼いたの? 何がしたいの?
ミルの頭に浮かんだ言葉は、言葉としてではなく、狂気を帯びた甲高い叫びとして辺りに響いた。
「どうやら『深海の涙』の力を使えば、あの御方の能力を借りずとも、『人形』を操ることができるようだ」
煙の中に、ファルズフは立っていた。炎すら灼くことを拒むような、黒く冷たい妖気を纏って。潰れたはずの瞳は、蒼い色をした眼となり。口許には、微笑みが見え隠れする。もはや普通の人間ではなかった。少なくとも、心は。
「そのリザードンに罪はない」軽く顎をあげ「少し遊ばせてもらっただけだ」
「何がしたいの? あんた」
言葉は途切れた。言うべき言葉は、さっきの叫びがすべて抜き取ってしまったから。
「すべては、あの御方のため――とでも言えば納得するかな?」
「あたしのお父さんやお母さんを殺すことが、なんになるっていうのよ!」
「だから言ったじゃないか」彼は髪を掻き上げた「少し遊ばせてもらっただけだ、と」
思考が止まった。これ以上、この男のことを考えても無駄だと。ミルは、やっと悟った。なんで今まで気がつかなかったんだろう。あたしは、とんでもない大馬鹿だ。まったく――
こいつは人間じゃなかったんだ。
「あの御方って――」声が震えていた。理性でも本能でもない男の行動を、理解できない恐怖。獣でも、人間でもないのなら、こいつは一体、なんのために生きているのだろう。
「会っているよ、君は」男は言った「あの美しい『白い微笑み』こそが、あの御方そのものなのだから」
「じゃあ、そいつは何をしたいのよ」
「さぁ?」小馬鹿にするかのように、男は首をすくめた。
「その珠を無闇に触ると、大変なことになるのよ?」
「もちろん知っている」
『深海の瞳』が、生物の魂を深く沈め、現世に実体化させる力を、『虹の瞳』が生物の魂と身体を癒やし、死の淵に立たされた者を甦らせる力を持っていることを。そして、二つの水晶の持つ力は正反対であり、お互いが力のバランスをとりながら存在していたことを。
ファルズフは知っていた。口許に浮かべた笑みを消そうともせずに、彼は知っていることの殆どを語った。
「私の知らない力もあるようだ。そこかしこに焼け死んだ人間の魂が見える」
「あんたが殺したのよ」
「違う。この町の人間を殺したのは、そこのリザードンだ」
「あんたが殺すように操ったんでしょ」
男は、それ以上何も答えることはなかった。ミルに背を向け、ゆっくりと歩き出す。
ミルは、たまらずに追いかけた。だが、彼女の行く先は既に消えていた。炎によって生み出された熱風は、ミルの進むべき道を、堅く阻んでいた。
ファルズフは、炎など見えていないかのように歩き続けていた。黒いローブが炎に灼かれようとも、その腕が、黒く焼け爛れようとも、足は一定の間隔で動き続けている。機械仕掛けの人形のように。
炎の奥に消えたファルズフの残したものは、冷たく感情のない笑みと、呆けたように立ちつくすリザードンだけだった。
○●
「だから、あたしは何とかあの男を追いかけようとした。深海の涙を取り戻して、虹の瞳と一緒に封印し直さないと、大変なことになるから」
「大変なこと?」
静かな口調で、瑞穂は訊いた。
水平線に太陽が落ちて、数時間経っただろうか。辺りはオクタンの墨に沈んだように暗く、空に浮かんだ満月が雲に隠れてしまえば、波打つ海も、隣に寝そべっているミルの顔も見えない。仄かにしょっぱい潮風の音と、自分の小さな息づかいが聞こえるだけで、他に感じるものはない。
「そう、力の均衡が保てなくなって、この星は滅びる」
精密な機械の歯車が少しだけ欠けたように。始めは目に見えない歪みが、気づかない内に大きな亀裂となって、大地を飲み込む。
「そろそろ、小さな影響が出始めてるし」
ミルは腕につけたポケギアの電源を入れた。ラジオが聴こえる。エンジュシティの騒動を伝えるニュースが流れていた。瑞穂が巻き込まれた、『黒い霧』の悪夢の惨劇を伝えていた。
「これが、その小さな影響なの?」
ミルは頷いたようだった。三つ編みの金髪が、瑞穂の白い頬を掠めた。
「あの男が、そのエンジュって街で、深海の涙の力をつかったのよ」
「でも、どうしてそんなことを――」
当惑したように、声の震える瑞穂を余所に、ミルは俯いた。
「それと、キキョウシティにでたフリーザーも、崩れたバランスのせいで、あんな人の多い街まで来たんだと思う。どうして暴れたのかは、よくわかんないけど」
「あのフリーザーも――」
「それに、ほら」
闇を振り払うように、ミルは空へと指を突き立てた。人差し指の指し示す先に浮かんでいるのは、銀の満月だった。
「月が、どうかしたの?」
「あれさ、昨日も満月だったの。これもバランスの崩れた影響。少しずつ狂っていくのよ、こんな感じで」
ミルはおもむろに立ち上がると、モンスターボールを取りだし、月へ向かって放り投げた。切り裂くような眩い光が走り、その奥から巨大なリザードンが姿をあらわした。
「このリザードンが、ミルちゃんの言ってた……」
「そう。あのまま放っておくわけにもいかなかったし。あたし1人じゃ、心細かったから」
冷たくなった腕を温めるように炎へと手を伸ばし、瑞穂はゆっくと立ち上がった。
身体は大きく、表情も険しいが、リザードンは決して人を傷つけるようなポケモンには見えなかった。自分もリングマという、好戦的な性格のポケモンと一緒にいるせいだろうか、それが良くわかった。
「ミル姉ちゃんは、それでええの?」
突然、背後から響いた声に、瑞穂は反射的に後ろを振り向いた。
ゆかりが半身を起こして、リザードンとミルを交互に見つめていた。紅い炎に照らされ揺れている、ゆかり沈鬱な表情に、瑞穂は驚くと同時に、胸が痛んだ。
「ユユちゃん、起きてたの? それにさっきの話、聴いてたんだね」
頷かなかった。瑞穂の言葉など、ゆかりは聞いていなかった。
「ミル姉ちゃん、そのリザードンのこと、憎くないんか? そいつにみんな殺されてもうたんやで!」
「ユユちゃん――」
瑞穂は何も言えなかった。何も言えない自分が、憎らしいほどに情けなかった。ゆかりに対する注意も、ミルに対する慰めの言葉も、何も浮かばなかったから。
ここで何かを言うことは、自分が自分でなくなるような気がしたから。約束は破れない――
無言のまま、瑞穂はミルの方を見やった。ミルもまた黙り込んでいたが、彼女は小さく首を横に振っていた。
「なんでなん? ウチやったら――」
「だって、このリザードンは、あの男に操られてただけだし。それに、もっと非道いこともあったしさ――」
リザードンの尻尾の炎越しに見える、静かな暗い海を見つめながら、瑞穂は呟いた。
「例の船――グラシャラボラスとフラウロスのことだね」
○●