甦ってくる森の空気の冷たさと、男の血糊の生臭さに手が震えていた。瑞穂が一番嫌いな類の震えだった。いずれ全身まで震えは拡がり、唇が動かなくなるから。
「私は力が無かったから、誰も守れなかったし、誰も殺せなかった。でも、あなたの悲しみは誰でも傷つけることができる、誰でも、何人でも殺すことができる。だから、こんなことはやめようよ!」
カイリューは首を大きく横に振り、唸るような声を響かせた。瑞穂の声に動揺しているのか、それともただ単に、怒り狂っているだけなのか。
巨大な尻尾を振り回し、カイリューはグライガーとポニータを弾き飛ばした。瑞穂は瓦礫の山の頂上へと飛んでいく二匹の方へ視線を移した。
「グラちゃん! ポニちゃん!」
瑞穂は叫んだ。瓦礫で全身を傷つけ、二匹は痛みに喘いでいる。少女は瓦礫の山をよじ登り、二匹の横へ座り込んだ。先程の手の震えが、肩にまで及んでいた。耳から聞こえるのは、爆発音でも、瓦礫のはぜる音でもなく、自分の荒い呼吸音だけ。
だがその音は、すぐに掻き消されることになる。背中の方で閃光が弾け、轟音が轟いたのだ。極太の破壊光線が、カイリューの胸を直撃していた。カイリューは前と同じように弾け飛び、地面へと叩きつけられた。
そいつに、今、何を言っても無駄だよ。
気を失っていたはずのリングマが目を覚まし、起きあがっていた。訥々と瑞穂へ話しかけながら、口からもうもうと沸き起こる煙を片手で払っている。
「リンちゃん。大丈夫?」
さあ、もう駄目かもしれないよ。ただ、これだけは姉さんに聞いて欲しい。
リングマは、起きあがろうとしているカイリューへ身構えながら、続けた。
姉さんは力がなかったから誰も殺せなかったんじゃない。そりゃあ、姉さんは背も低いし、やせっぽちで胸もないし、腕相撲も弱いし、足が速いのだけが取り柄だけど……。
「胸はこれから大きくなるよ。たぶん……」
だけど、姉さんは弱くはなかった。だから、誰も殺さずに済んだ。でも、あいつは姉さんほど強くない。だから、姉さんの言葉が届いていても、意味ないよ。あいつを止めるには……。
「止めるには?」
もう殺すしかない。
「殺すのはだめ! それに、いくらリンちゃんでも、あのカイリューは倒せないよ」
そんなことない。僕の破壊光線は、あいつに通用してる。このまま連続で攻撃すれば、あいつを殺せる。殺せるんだ。
リングマは口を開き、大きく息を吸い込んだ。空気中に小さな光の粒が浮かび上がり、それらが口の中へと吸い込まれ集まっていく。薄い光がやがて眩いほどに濃くなり、轟音と衝撃波とともに発射された。起きあがりかけていたカイリューの頭部へ命中する。爆発音と悲鳴が混ざったような音が木霊した。
「やめて、リンちゃん。殺しちゃだめだよ。私は、これで終わりにしたいから――」
瑞穂の言うことを無視し、リングマは破壊光線を連射し続ける。
カイリューの充血した瞳から涙が流れ落ちた。血を含んだ、真っ赤な涙だった。同時にリングマの口からも、鮮血が流れ出た。荒い吐息と一緒に吐き出す白煙が、微かに赤みを帯びている。
「やめてよ! これ以上、破壊光線を撃っちゃだめ。カイリューだけじゃなくて、リンちゃんも死んじゃうよ!」
瑞穂は瓦礫の山を飛び降り、リングマの肩にしがみついた。
「お願いだから、やめて……やめてよ」
肩にしがみついた瑞穂をリングマは振り払う。反動で、瑞穂の身体にリングマの熱い鮮血が飛び散った。沸騰でもしているかのように湯気が立ち上っている。
カイリューはリングマの破壊光線に耐えながら口を開いた。リングマと同じように、口の中に光が集まっていく。泣きながら、じっとリングマと瑞穂を睨み付けながら、エネルギーを貯める。そして放つ。両者のエネルギーが空中で衝突した。
だが、二つの破壊光線は消えた。掻き消されていた。両者は呆然とした様子で、辺りを見回した。その時、瑞穂は海上に佇むもう一つの巨体を見た。
「リンちゃん、あれ……あれを見て」
瑞穂の指し示す方向へ、二匹が視線を移した。暗い波の上に立っていたのは、また別のカイリューだった。先程まで暴れていたカイリューとは対照的に、優しい眼をしている。
口からは白煙があがっていた。その様子を見つめ、即座に瑞穂は気付いた。先程の破壊光線を掻き消したのが、このカイリューであると。そして、このカイリューが幻でも幽霊でもなく、実体のある存在であるということも。
優しい眼をしたカイリューは、全身が傷だらけの鋭い目つきのカイリューを舐めるように見つめた。悲しそうに俯き、首を横に振った。鋭い目つきのカイリューは硬直したように動かないでいる。
その優しげな瞳を閉じて、カイリューは空を仰ぎ見、透き通るような美しい声で鳴いた。歌のような鳴き声は、冷たく暗い海に響きわたった。辺りは静寂に包まれ、黒雲の隙間から差し込む日の光が、海を明るく照らした。光に導かれるように、歌声は空へと広がっていく。
血塗れでふらつくリングマを抱きかかえ、彼を支えながら瑞穂はその美しい声に耳を澄ませた。
「優しい歌、だね」
リングマはこっくりと頷いた。彼の首筋から、ぽたぽたと数滴、血の雫が滴り落ちる。
凶暴な鋭い目つきが緩んでいく。カイリューは朱色に染まった涙を拭い、大きく口を開いた。相手の歌声を返すように、彼も同じく美しい声で鳴いた。先程まで、すべてを焼き尽くす破壊光線を放っていた口から、今はまったく正反対のものが流れている。
「昔話と同じ……。私やっと、ちゃんと理解できた。あのカイリューが暴れていた理由。彼は、ただ単に仲間を失ったのが悲しかったわけじゃないんだ」
優しい瞳のカイリューは歌いながら、相手のカイリューから離れていく。戸惑うような表情を見せ、鋭い目をしたカイリューがそれを追う。だが、優しい眼のカイリューは溶けていた。まるで、自分が存在してはいけないものであるかのように、再度首を振り、白い波に溶けだすように消えていく。
「どうして、どうして溶けてるの?」
瑞穂の呟きは、カイリューの歌声の意味とシンクロしていた。彼は歌いながら問いかけていた。いや、歌声そのものが、相手への問いかけだった。
誰の言葉にも、歌声にも応えることなく、優しい瞳のカイリューは消えた。最後に残った泡に、柔らかい虹色の光が映りこんでいた。
「もしかして、これが、虹の瞳の力――」
瑞穂はリングマの横に座り込むと、呆然と呟いた。呟きは歌の響きに消された。
カイリューは消えた仲間を追いかけるようにして、海中へと沈んでいく。次第に大きくなっていく波の音、上空を旋回するヘリコプターのジャイロ音。
やがて、カイリューの姿は完全に消えた。それでもなお、歌声は消えない。少なくとも、瑞穂とリングマの二人だけには聴こえていた。
彼の歌を聴いたのは、少女が最後だった。
○●
「あーもう! 死ぬかと思った!」
水平線の奥へ沈んでいく太陽に向かって、ミルは叫んだ。
騒めくアサギの街とは対照的に、砂浜は、さざ波と同調でもしているかのように静かだった。今にも消えてしまいそうな細い夕日が、瓦礫に埋もれた砂浜を、血に満ちた戦場のように紅く染め上げている。
「お姉ちゃん。少し静かにしてや」
ゆかりが、いかにも迷惑そうな表情をつくり、ミルへと訴えた。
「しかたないじゃん。恐かったんだもん――」
「なんでやの。ウチらはただ海に落ちただけやん。瑞穂お姉ちゃんなんか、もっと恐かったはずやで。そやろ? お姉ちゃん?」
瑞穂は瓦礫の山の頂に立ち尽くしていた。胸に手を当て、次第に色を失っていく海を、ただただ虚ろな瞳で眺めているだけだった。
「お姉ちゃん?」
ゆかりの問いかけで、瑞穂は我に返ったようだった。瓦礫の山をゆっくりと下り、薄暗くなっていく砂浜を横切り、アスファルトの段差に腰掛ける。
「お姉ちゃん、何しとったん?」
「あの歌声、まだ、聴こえるかなって思ったんだけど」
「あの歌声?」
「うん。でも、もう聴こえなかった」
瑞穂は、ゆかりの小さな掌を握り締めた。ゆかりは瑞穂の膝の上にちょこんと座り込む。
「それにしても、あいつ……なんで、暴れたりしたんだろう。少なくとも、あたしと一緒にいたときは、あんなに大人しかったのに」
吐き捨てるように呟き、ミルは足もとの瓦礫を蹴飛ばした。砂がはぜ、白い波の中に小さな波紋をつくる。
「霧の夜、一匹の大きなポケモンが、海を彷徨っていました――」
瑞穂は小さく呟いた。ミルは怪訝そうに瑞穂の顔を覗き込む。
「何それ?」
「2年くらい前に、ハナダシティに旅行に行ってね、その時に教えてもらった昔話」
「こないだ言ってたやつね」
「うん。この世界で”最後の一頭”になったポケモンが、ずっとずっと自分と同じ仲間を探して、海を彷徨うお話」
「最後の一頭――」
アサギの街に、少しずつ光が灯る。蒼く、白く、様々に彩られた光が、瑞穂の横顔を薄く照らす。
「あのカイリューも、自分と同じ仲間を探して、ずっと海を彷徨っていたんじゃないかな。その証拠に、世界各地で、大きなポケモンは目撃されているしね。それも、何百年も昔から」
「それじゃ、あのカイリューは、やっと見つけた仲間を?」
「自分の手で、殺してしまった――それに、自分の周りで、たくさんの命が消えていくのに耐えられなかったんじゃないかな。だから、壊れた」
「壊れた?」
「あの時の、私みたいに――」
ゆかりの握り締める力が強くなった。掌には微かに汗が滲んでいる。瑞穂は静かにゆかりを抱きかかえ、立ち上がった。
「そ、それにしても凄いね。その虹の瞳の力。死んだはずのカイリューを甦らせるなんて」
「ああ、そのことなんだけどね……」
ミルは躊躇いがちに胸の珠にふれ、小首を傾げた。
「たしかに虹の瞳には、死んだ者の意識を強くする力はあるけど、一度滅んでしまった肉体まで再生させることはできなんだよね。私みたいに、ちょっと傷ついただけならまだしも、もう何週間も経ってるわけだし、そもそも場所が違うし」
瑞穂は息を呑んだ。ミルの言うことが正しいのならば、自分が見た、もう一匹のカイリューは何だったのだろうか。
「でも、あれは幻じゃなかったよ。実際に破壊光線の威力を相殺してたし」
「だから、これにそんな力は無いって。あの近くにカイリューの意識を実体化させることのできる媒介、もしくはカイリューの肉体そのものが存在してたのなら、話は別だけど」
首を小さく傾げ、考え込む瑞穂とミルに、ゆかりは声をかけた。
「なあ、そんなことより、どっか行こうや。ウチ、お腹すいたんやけど」
「あ、それじゃ、今日は私の手作りスープで……」
「それは嫌や」
○●
ここなら遠くまで見渡せる。
街の光も、波の音も、ここなら届くことはない。辺りは絶無の闇に覆われていた。
黒く灼けた灯台の、一番高い場所に瑞穂は佇んでいた。その澄んだ瞳を閉じ、風の音に耳を傾ける。だが、あの歌声が風に流されて聴こえてくることはなかった。
「リンちゃん……」
後ろには、リングマの巨体が立っていた。彼は瑞穂のか細い背中を見つめていたが、少しだけ視線を上へと移す。
「これで、良かったのかな?」
リングマは首を縦に振った。瑞穂は小さく肩をすくめた。
「もう誰もいないのに、ずっと仲間を探し続けるんだよ、あのカイリューは。それでも?」
瑞穂の言葉に、リングマは何も反応を示さなかった。自分の答えを変えるつもりはないらしい。
それきり、誰も、何も言わなかった。風の音だけが、無惨に破壊された灯台の隙間を通り抜けていく。
瑞穂は瞳を開き、海を見つめた。少しも動くことなく、水色のツインテールだけが、風に揺られて靡いている。
この海の、遠い何処かで、あのカイリューは自分と同じ仲間を探し続けているのだろうか。返ってくることのない歌を歌い続けながら、自分の命が尽きるまで永遠に。
瑞穂は、リングマの方へと振り向いた。
「そろそろ、帰ろうか――」
早足で階段を降り、瑞穂は灯台を出た。しばらく無言のまま歩き、アサギの街へ入る前に、もう一度だけ、少女は灯台の方へと振り返った。
凪いだ海から、微かに美しい歌声が聴こえたような気がした。あのカイリューの孤独な二重奏が。
歌声は、すぐに騒然とした街の音に紛れて消えた。
瑞穂は海から眼を背け、その場から立ち去った。歌声は簡単に消えても、内に秘められた哀しみは、少女の胸の中で響き続ける。
会いたい、君に会いたい――その歌詞とともに。
○●