刹那の夢と嘘の玩具   作:月影 梨沙

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交錯する辛い思いで

 

 夕日は沈みかけていた。淡い緋色に沈んでいるウバメの森に、一匹の大きなリングマが蠢いていた。コガネシティから逃げてきた、瑞穂のリングマだった。 

 

 数日前、まだヒメグマだった頃のリングマが、瑞穂と一緒に特訓をしていた場所だった。彼は今、目の前の巨木をじっと見つめていた。その巨木には、無数の小さな傷跡が残っていた。 

 

 傷跡を見つめながら、リングマは思っていた。僕は、なんであんな事したんだろう。 

 

 見た目とは裏腹に、リングマの一人称は”僕”だった。凶暴そうなリングマの姿でありながらも、心は大人しかったヒメグマの時と、何ら変わっていない。 

 

 でも、何かが違う。 

 

 それがわからないから、こんな所で独りぼっちなんだ。 

 

 僕が姉さんのために「強くなりたい」って願ったら、いつの間にか、僕の体は大きくなってた。姉さん――とっても喜んでくれてた。だから、僕も凄く嬉しかった。 

 

 ――でも、本当に何かが違うんだ。 

 

 あの日以来、この身体になってからずっと、僕が僕で――自分が自分でなくなったような気がしてならないんだ。 

 

 リングマは拳を強く握ると、目の前の巨木にむけ長い爪を振り回した。ズドン。巨木は、大きな音を立てて、リングマの脇に倒れる。 

 

 この爪が――リングマは自分の掌を見つめた。血糊は乾いていた。色は消えず、こびり着いている。 

 

 この爪が、姉さんを傷つけたんだ。僕、どうかしちゃったの? どこかがおかしいの? 

 

 リングマは、横倒しになった巨木に、なおも鋭い爪を振り下ろす。横倒しのまま巨木は、バリバリと音をたてて粉砕された。 

 

 ヒメグマとリングマの最大の違い。それは、自然界で生きるための本能の有無なのかもしれない。子供のヒメグマは、親に守られながら生活している。しかし一度、大人のリングマに進化してしまえば、たった1人で生きていかなければならない。それも弱肉強食の世界で。 

 

 いかに人間に育てられたヒメグマであろうとも、進化して、大人になれば、眠っていた闘争本能、防衛本能が目覚めても、なんら不自然ではないはずだ。事実、ヒメグマは進化してから、本能の声に言われるままに行動していたのだから。 

 

 あのとき、本能は教えてくれた。僕は強い、と。そして、人間は弱い、と。 

 

 僕はリングマなのに、姉さんは人間なんだもん。なんで僕の方が強いのに、僕より弱い姉さんの言うこと聞かなきゃいけないの? 僕の方が力は強いし、体も大きいし。僕は、僕のしたいように、やりたいようにしてるだけなのにさ。 

 

 それなのに姉さんは、僕のこと怒ってさ――弱っちいくせに。だから、無視してやったんだ。ボクの方が、強いんだもん。姉さんみたいな弱っちい奴に文句なんて言わせない。なのに、偉そうに――すこしだけ怒りながら――文句を言うから。 

 

 僕の方が強いんだぞ! って、教えてやろうと思ったんだ。でも、そしたら、姉さん、すごく悲しそうな顔したんだ。そして、姉さん――こう言った。 

 

 昔の方が良かった――大嫌い――って。 

 

 ――酷いよ。 

 

 リングマは、遠くに微かに見える夕日に向かって咆哮した。 

 

 彼は、リングマは、姉と慕う瑞穂のために、力を得るために、自分を捨てた。それなのに、姉は彼の事を嫌い、あげく、昔の方が良かった等と、暴言を吐いた。それは、彼にとって、耐え難い苦痛であることに違いなかった。 

 

 気付いたときには、姉は胸から血を吹き出しながら、棒っきれのように倒れていた。爪には姉の小さな乳首がこびり付いていた。腕は姉の返り血で真っ赤に染まっていた。 

 

 彼は、そこでやっと、自分のしたことの重大さに気がつき、ここまで逃げてきた。 

 

 リングマは、粉々になった巨木が散らばる地面を激しく叩く。ウバメの森全体に響くような大きな音がし、地面が地震のように震えた。 

 

 ヒメグマの時の面影をまったく残していない、リングマの鋭い目から、今まで我慢してきたものが流れそうになった。その度に、リングマは地面を叩いて堪える。叩く、叩く。 

 

 彼の悲しみの分だけ、ウバメの森は悲鳴をあげ、生い茂る木々を揺らした。 

 

 その時だった。リングマの頭の中で、何かが弾ける音がした。再び、野生の本能が、彼に語りかけてきたのだろうか。 

 

 何か、イヤな予感がする。 

 

 リングマは、地面を叩くのをやめた。何だか、とても嫌な予感を感じ取っていた。それは昔、彼の――リングマの両親が死んだときに感じたものと、全く同質のものだった。 

 

 また、誰かが死ぬ。昔と同じように。誰か、誰だろう。大切な誰か。大切な、誰か。今のリングマにとっての、大切な誰か。 

 

 考えるまでもなかった。そんなの、1人しかいないではないか。 

 

 姉さん? 

 

 瑞穂が死ぬ。誰かに殺される。 

 

 だが、不吉な予感を感じ取っていながらも、リングマはその場から動かなかった。助けになんか、いきたくなかった。誰が、助けになんかいくもんか。 

 

 リングマは、心の奥底で呟いた。 

 

 いい気味だ――あんな奴、僕を嫌いな奴なんて、あんな小さくて、自分勝手な女なんて、死んじゃえばいいんだ――

 

 

 

○●

 

 雪が積もっていた。切り立った崖には、寒さに負けずに草木が生えている。皮膚を突き刺すような冷たい風が、深い谷を越えて吹き荒れていた。 

 

 どこだろう、ここ。 

 

 始めてくる場所ではないような気がした。なんだか、どこかが、懐かしいような気がする。 

 

 不意に、小さな子供の声が聞こえてきた。ふと、後ろに目をやると、比較的傾斜が緩やかな坂に、子供が2人遊んでいる。その内の1人は青い髪をした人間の女の子……まだ、4歳くらいだ。もう1人は、とても小さな、子供のヒメグマ。 

 

 はしゃいで、じゃれあっている2人の子供を見つけ、思い出した。これは、子供の頃の――6年前の自分なんだと。

 

 女の子は、ヒメグマとは2週間前に知り合ったばかりだった。学校で苛められたのをきっかけにして、父親に内緒で家を出てきた――つまりは家出だった。 

 

 泣きながら、走りながら、やってきた場所は、一般人は立入禁止のシロガネ山だった。険しい山道を、暫く無言で歩いているうちに足は疲れ、また空腹にも耐え切れずに、女の子はその場に座り込んだ。 

 

 おなかすいた。もう、かえろう。女の子は気まぐれな思考を巡らせて、そう思った。だが、日は既に暮れてしまっていた。いつのまにか道に迷ってしまっており、帰ることもできない。暗闇の中で女の子は、急に心細くなった。 

 

 女の子は座り込んだまま、わぁわぁと泣き出した。 

 

「くらいよぉ、さむいよぉ……、ぱぱごめんなさい、たすけて!」 

 

 女の子が、そう叫んだ、その時だった。目の前の大きな岩の後ろから、パパでもなく父さんでもなく……、母親の身体が覗いた。リングマの。 

 

「あぁ……。た、たべられちゃうよぉ」 

 

 女の子は、メスのリングマを見て、驚きのあまり後ろに転んだ。転んだ拍子に足を捻ってしまった。もう、痺れて歩けない。 

 

 リングマは、じりじりと女の子の方に迫ってくる。 

 

「たすけて、たすけて……」 

 

 一歩も動くことが出来ないままに、女の子は助けを求め続けた。しかし、誰にも聞こえていない。目の前のリングマを除いては。 

 

 だがリングマは、女の子の目の前で立ち止まると、ゆっくりとしゃがんで腕に抱いていた何かを降ろした。 

 

「え……?」 

 

 思わず呟いた女の子の足下には、小さな小さなヒメグマが、にこやかに微笑んでいた。それが、なにを意味しているのか、女の子には、なんとなく理解できた。 

 

「このこの……おともだちになってほしいの?」 

 

 女の子は、怖ず怖ずとリングマに聞いた。 

 

 リングマは、微かに頷いたようだった。

 

 その後、3日後に大捜索の結果、女の子は発見されて連れ戻された。しかし、それでも女の子は、放課後に隙を見つけては、ヒメグマの所に遊びに行っていた。 

 

「ひめちゃん! つぎ、なにしてあそぶ?」 

 

 鬼ごっこの後、荒い息のまま女の子は、ヒメグマと並んで座りつつ訊いた。 

 

「『ふたりかくれんぼ』する?」 

 

 ヒメグマは首を横に振った。 

 

「う~んと……、じゃあ、『ふたりだるまさんがころんだ』しようよ!」 

 

 ヒメグマは、またも首を横に振った。女の子は、ヒメグマが自分からかっていることに気付いた。ちょっとした苛立ちで、プクッと頬が膨れる。 

 

「もぉ~……ひめちゃん、なにしたいの?」 

 

 ヒメグマは、楽しそうに笑うと、地面に爪で何かを書きだした。四角い箱のようなモノを書き終えたヒメグマは、女の子の方を向いて、それを指さす。 

 

「わかった! ひめちゃんは、『ふたりかんけり』がしたいんでしょ?!」 

 

 思わず女の子が言うと、ヒメグマは、うんうんと頷いた。その瞬間、ヒメグマの頭の中で、何かが弾ける音がした。 

 

「じゃ、やろう! 『ふたりかんけり』!」 

 

 女の子は、そう言うと勢いよく腰を上げた。しかしヒメグマは、動こうともしない。 

 

「あれぇ? どおしたの、ひめちゃん」 

 

 ヒメグマの様子が、おかしいことに気付いた女の子は、ヒメグマの顔を覗き込んだ。そして、女の子は言葉を失った。さっきまでの笑顔とはうってかわって、ヒメグマの表情は、今にも泣き出しそうだった。 

 

「どおしたの? どおしたの? どこかいたいの?」 

 

 女の子の呼びかけにも、ヒメグマは全く反応しない。やがて、ヒメグマの瞳からは大粒の涙が次々とこぼれてきた。 

 

 呆気にとられている女の子を尻目に、ヒメグマは泣き、悲鳴をあげ続けた。 

 

「キュ~! キュー! キュー!」 

 

 いつの間にか、ヒメグマの柔らかそうな体毛は、涙で濡れていた。 

 

「どおしたの……? ひめちゃん……」 

 

 銃声が響いた。女の子は身体をひきつらせた。女の子の独り言も、ヒメグマの最後の悲鳴も、銃声によってかき消されていた。 

 

「な……なに? なんなの?」 

 

 女の子は驚いて辺りを見回すが、周りは既に元の静けさを取り戻していた。しかし、その静けさは、長くは続かなかった。 

 

 ズドン、という轟音が、辺りに鳴り響いた。まるで、何かが墜落したような音だった。 

 

「なんなの……なんか、こわいよ」 

 

 周囲の異変に、女の子は驚きを通り越して、恐怖すら感じていた。いつの間にか、ヒメグマは女の子に抱きついている。その眼は真っ赤に腫れ上がっていた。 

 

「ひめちゃん。いちど、おかあさんのところにもどろうよ」 

 

 震えながら女の子は、ヒメグマに同意を求めた。だが、ヒメグマは答えなかった。ただ啜り泣く声だけしか、幼い瑞穂の耳には届いていなかった。

 

 幼い頃の瑞穂が、ヒメグマと出会った場所……シロガネ山の深い谷。 

 

 その谷のすぐ横に洞窟がある。ヒメグマとリングマの寝床、つまりは巣だった。 

 

「こんにちわ。おじゃまします……」 

 

 泣き疲れて寝入ってしまったヒメグマを抱きかかえながら、瑞穂はおそるおそる、洞窟を覗き込んだ。しかし、そこにいるはずの、リングマ……、つまりヒメグマの母親はいない。外を見回しても、リングマの気配すら感じられなかった。 

 

 こんなことは初めてだ。 

 

 いままで、ヒメグマと一緒に遊んでいるときは、絶対にリングマは洞窟の中で休んでいた。しかし今、そこにも、どこにも、リングマの姿は全く見当たらない。 

 

 洞窟の辺りに、大人の人間の足跡がいくつかあることに、瑞穂は気付いた。 

 

 なにが、あったんだろう―― 

 

 瑞穂が一人で考え込んでいると、抱かれて眠っていたヒメグマが目を覚ました。 

 

「あ……、ひめちゃん。おきたの?」 

 

 ヒメグマは、悲しげに俯いて、ただ手のひらに染み込んだ蜜を舐めるだけだ。瑞穂の問いかけには、全く答えない。 

 

 そんなヒメグマを、瑞穂はただ見つめることしかできなかった。 

 

 しばらくして、ヒメグマは震える指で、谷の方を指さした。それに気付いた瑞穂は、おそるおそる、谷の方へと歩み寄った。

 

 その日、瑞穂とヒメグマは、一日中、言葉を失ったままだった。 

 

 意を決して覗き込んだ、その谷底には、破裂したリングマの亡骸が転がっていたのだから。

 

○●

 

 

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