『架空の財閥を歴史に落とし込んでみる』外伝:カリブ海に新国家樹立 作:あさかぜ
1957年の選挙の結果、翌年に自治政府を樹立し、2年後に独立する事が決定した。その為に、自治政府の形作りと官僚の育成が急務となった。
これらの業務は英仏蘭が中心になって行われた。世界各地に植民地を有していた事で、植民地行政に精通した官僚の育成については右に出る国は無かった。ユーシコフ諸島は植民地では無いものの、政府づくりについては応用出来た。
1955年から少数ながら官僚の育成の為に留学を行っており、1957年には課長クラスで何人か就任している。これを2年以内に局長以下の半数を現地人に置き換える予定となっている。残りの半数は現地人官僚が一定数揃うまでは現状の統治委員会の官僚が留任する事になった。統治委員会の官僚が現地の国籍を獲得して留まる事が可能な法整備も行われた。
また、民族資本による産業の育成も行われた。本当は本国資本による経済の支配を行いたかったが、国連の肝煎りで国づくりを行っている手前、民族資本を育成しないという手段は採れなかった。
尤も、本国と現地では資本力が違い過ぎる事や移民が殆どで資本の持ち合わせが少ない事から、民族資本の育成は難しかった。その為、先ずは金融機関を設立して企業の設立を容易にする所から始められた。
1958年1月1日、ユーシコフ諸島における企業育成及び新興企業への融資を目的とする「開発振興銀行」が設立された。銀行の設立に当たり日本の商工組合中央金庫(以降、商工中金)と東京銀行(以降、東銀)が参考にされ、実際に設立の為に商工中金と東銀から人材や制度面での支援を受けた。この縁があり、後に東銀はユーシコフ・シティに支店を開設した。
資本金は25%が統治委員会、5%が住民からの出資、残りの70%が外資となった。統治委員会の資本金は、独立後に政府に移管される予定となっている。
主な業務は、民族企業の育成と融資、海外企業との仲介、預金・債券での資金集め、外貨取引とされた。一番最初に「民族企業の育成」を持ってきている様に、民族企業の設立と育成による経済の一定の自立を目的とした。
また、民衆の生活の安定を目的とした信用協同組合(信組)、農業や水産業など第一次産業の相互扶助を目的とする農林漁業協同組合(農協)が多数設立され、それそれの中央機関である信用組合中央金庫(信組中金)と農林漁業中央金庫(農漁中金)が設置された。信組・農協・信組中金・農漁中金は、開発振興銀行のサポートを行う事とされた。
銀行と信用組合が設立された事で、民衆が資金を借りやすい環境が整った。事業を興そうという心意気を持つものは事業の計画を立案して会社を設立しようとした。多くが元手が少なくて済む建設業や港湾労働事業、需要が大きい運送業に飲食業、娯楽産業だったが、食品加工業や日用品の製造業を計画するものもいた。
尤も、計画の多くが杜撰だったり具体的な案が無かったりと、法人化するには無理があった。具体的な計画が立てられていたり、発起人に統治委員会関係者が複数人いるなどのものも無い訳では無かったが、多くが「取り敢えず計画しました」と言うべきものだった。その様な企業に融資しても、資金を持ち逃げされるか、設立しても直ぐに倒産すると見られた。その為、設立意欲があると認められるものにだけ融資し、意欲はあるものの計画に穴がある場合はその対応を行う、同業者が複数存在する場合は統合を促すなどした。
これら施策により、1年間で多くの企業が設立された。多くが建設業や運送業、飲食業などのサービス業であり、他にも小規模な食品加工業やバス事業などが興った。
尤も、多くが統治委員会や外資系企業の下請けであり、資本面や人材面でも影響力が強かった。主要企業や公社も外資系や外国人に握られており、本当の意味での経済の自立はまだまだ先の事だった。
それでも、早くもスラム化が見られていた地域を中心に雇用が改善され、多くの労働人口を吸収する事となった。また、少数ながら中間層・資本家層も現れ、少しずつではあるが資本主義が根付こうとしている。
経済の自立化の一歩を歩みだており、官僚も一定数が育ってきた。高級官僚についてはまだまだ頭数が揃っていないものの、下級官僚については過半数が現地人化している。
実際、早くから多くの首長は現地人となっており*1、役場によっては全て現地人という所も少数ながら存在している。統治委員会の中にも少数ながら現地人官僚が務めており、幾つかの局では現地人が局長を務めているなど、高級官僚の現地人化も進んでいる。
また、この頃には初等教育が行き渡りつつあり、高等教育を受けた人材も少数ながら輩出されるなど、識字率の向上も見られている。大学が設立されて自国での官僚育成の環境が整えられるなど、教育面でも自立が見られている。
その様な人達が中心となって、自治政府の形作りが行われている。多くが統治委員会で官僚を務めている人物であるが、少数ながら統治委員会傘下の企業で努めている人物や帰化した欧米出身者などが参加した。
自治政府は統治委員会の三大要素である「民主主義・国民主権・基本的人権の尊重」を引き継ぐのは当然として、資本主義・社会民主主義・社会自由主義の実現を目指し、ヨーロッパ型の政治の実現を目標とした。政治路線的には、親欧米の中道及び中道左派路線を目指した。
自治政府の形作りにはヨーロッパ、特にイギリスからの支援が大きかった。イギリスはカリブ海地域に多くの植民地を保有しており、そこが独立した場合にどの様な政府をつくるべきかのモデルケースとして活用された。
その為、二大政党制・両院制・議院内閣制を目指す事となった。また、国家統合の象徴を大統領とする名誉職型大統領制とする事も加えられた。
アメリカとしては、親ソや共産主義政権で無ければどの様な政権でも歓迎したが、自治政府が社会民主主義路線を取ろうとしている事に懸念を持っていた。足元の中南米・カリブ海地域でソ連が暗躍している現状で、親ソ政権が樹立する事は悪夢だった。自治政府は親欧米を標榜しているものの、社会民主主義は民主主義ではあるが社会主義的傾向もあり、場合によって唯の社会主義に移行する恐れがあった。
一方で、ヨーロッパ型の社会民主主義路線であれば、イギリスやドイツの様に保守政党と社会民主主義政党による二大政党制が成立するという意見もあった。そして、それらの国の社会民主主義政党は1951年7月に採択されたフランクフルト宣言で「共産主義や一党独裁との決別」を謳っており、ソ連との関係は悪化している事から、寧ろ望ましいものだった。
欧米からの後押しもあり、1958年5月までに政治団体の統合が進み、社会民主主義政党の社会民主党と自由主義左派政党の自由民主党が二大政党として成立した。思想や支援者の違いから他にも政党が存在するものの、先述の2党が最大勢力となった。他の政党は単独で残るか、複数政党で連合を組むか、社民党・自民党の傘下に入るかに迫られた。
1958年8月、ユーシコフ諸島で2回目の選挙が行われた。今度の内容は、自治政府における議会の議席決めと自治政府の代表の決定だった。
議席決めは、上院である「元老院」と下院である「国民会議」では方法が異なる。両院共大選挙区制を採用しているが内容が異なる。
元老院は「県及び特別市の代表者」の意味合いが持たれており、1つの県を1つの選挙区とし2名が選出される。ユーシコフ諸島の地方自治体は24県(内訳はセラニャ島が10県、バボヌエボ島が14県)と特別市のユーシコフ・シティから成っている為、元老院の議席数は50となる。
国民会議は、全国を40の選挙区に分け(内訳はセラニャ島が17、バボヌエボ島が23)、1つの選挙区から4名が選出される。その為、国民会議の議席数は160となる。
その他の事項として、立候補する場合はどちらか一方の議院からとする、元老院の被選挙権は35歳以上である事、首相は下院第一党から選出する、首相の任期は2期8年、大統領は独立直前の選挙で選出するなどが決められた。
総人口が60万人を少し超す程度の地域にしては、議員の割合が多い。将来的な人口増加を見越してだが、人口が増加した場合は両院共定員を増やすとされた。
選挙の結果、上院では自民党が26議席、社民党が22議席、その他が2議席を、下院では自民党が77議席、社民党が71議席、その他が16議席を獲得した。両院共自民党が第一党となったが、上院は何とか過半数を獲得したものの、下院では自民党と社民党がほぼ拮抗しており、少数政党がキャスティングボートを握る形となった。
選挙後、自治政府内閣がつくられた。首相は下院第一党である自民党から選出される事は確定していたものの、単独過半数では無い為、連立政権を組む事を余儀無くされた。その為、他の閣僚*2については連立を組むユーシコフ自由連合・カリブ民主同盟に渡す事となるのだが、重要省庁の席を渡す気は無かった。
最終的に、自由連合に衛生省の、民主同盟に運輸省の席を渡す事となった。また、副首相の座も自由連合に渡した。
10月7日午前0時、この時を以て自治政府が正式に樹立した。初めての政権は自由民主党が中核のユーシコフ自由連合・カリブ民主同盟との連立政権となった。最長8年間はこの政権が続く事となる。