深海棲艦との和平交渉成立-この速報は瞬く間に世界中に広まった。
日本中で歓喜がこだました。しかし、深海棲艦の要求、すなわち人類の行動変容と停戦期間が明らかになると、浮かれた気分は一気に吹き飛んでしまった。
特に戦局が多少なりとも有利であったことが災いした。
「何故有利に戦いを進めているのに、こんな要求を受け入れたのか」当然の疑問であった。
瑞鶴としても、まさか「実は経済はガタガタで、戦争継続どころでない」とか、「自分の命と引替えに停戦した」とは間違っても言えるはずがなく、立場は急速に悪くなってしまった。
そして国民に不満の声が高まる中、深海棲艦との戦いの中で、全く存在感を示すことができなかった陸軍の一部に、不穏な動きが起きようとしていた。
「艦娘の艤装だけが深海棲艦に有効ということで、海軍ばかりに予算が回っている」
「陸軍の出番があるときは、海軍が壊滅したときだけで、負け戦と相場が決まっている」
「今の内閣は海軍が牛耳っている」
「今の内閣になってから格調ある国語が失われつつある」
「国防に必要な火薬を不要不急の花火に回した」
などなど不満の種など探せばいくらでも出てくるのであった。
しかしながら、「あの戦争」のときと比べれば陸軍の立場は極めて弱いことだけは疑いようがなく、陸軍としては面白いはずがないのは、どうしようもないことであった。
……………
米内光政が海軍省の大臣室で執務をしていると、急にノックする音が聞こえてきた。
大臣室を訪ねたのは海軍次官であった。次官は明らかに慌てた顔をしながら陸軍内にクーデター計画があることを報告した。
「どこからの情報だ?」情報の出所を尋ねる米内海相。
「第一師団所属の下士官からの密告です」
「何故、陸軍の奴が海軍に密告してきた?」
「『総理は海軍出身。その海軍なら総理を裏切らないであろう』と」
「信用できるか?」
「はい。彼は『先の隅田川花火大会で警備を担当した際、総理の配慮に心打たれた。そんなお優しい方に弓引くことなど帝国軍人の恥だ』と申しておりました。警備を担当していたことは確認しております」
「よし、分かった。そいつは海軍で保護する。至急、横須賀鎮守府指令に電話をつないでくれ」直ちに横須賀鎮守府指令に電話がつながれる。
「大臣の米内だ。すぐに陸戦隊を帝都に派遣してくれ。可及的速やかにだ。規模?規模はあらん限りだ!あと、横須賀鎮守府の出撃できる全ての軍艦と艦娘を品川沖に集結させてくれ。臨戦態勢でだ。理由?理由は電話では言えん。とにかく急ぎだ!念のため言っておくが、『これは演習にあらず』だ!」電話を切った米内海相はさらに指示を出す。
「近衛師団長と首相官邸に至急アポを取ってくれ。『米内が火急の用で会いたがっている』と伝えて急がせろ」
「ふざけやがって、総理が命がけで交渉して停戦してきたっていうのに、後ろから撃とうとは人間の風上にも置けねえ奴らだ!いざとなったら、陸軍省ごと吹き飛ばしてやる!!」怒鳴り声を上げながらも次々と指示を出していく。
米内海相の指示も適切であったが、クーデター計画の実行部隊に本人の意思とは無関係に組み込まれていた部隊に所属していた兵士達のほどんどは隅田川花火大会で警備に当たっていた部隊であったため、積極的に協力しようという者はほとんどいなかった。
さすがに密告までする者は少なかったものの、命令が曖昧なことを逆手にとって、わざと間違ったことをしてみたり、集団でサボタージュを決め込む者が続出した。
クーデター計画実行部隊の幹部たちがそれらの対応に追われている間に、陸上の要所は完全に近衛師団と陸戦隊に固められた。そして海上は臨戦態勢の軍艦や艦娘たちが集結し、陸上に睨みをきかせていたため、身動きが取れなくなっていた。
不満分子たちは最後の望みをかけ陸軍大臣公邸を訪ね、決起を促したが、当の陸相は何を言われようと、軍刀で脅されようと決して首を縦に振らなかった。
遂に不満分子たちが陸相を切り捨てようとしたまさにそのとき、艦娘から発艦した爆撃機が催涙弾を落下させた。その催涙弾による涙とセキで抵抗力を失った不満分子たちを憲兵隊が身柄を拘束してクーデター計画は失敗に終わった。
この絶妙なタイミングで爆撃機を突入させたのは、空母艦娘の翔鶴であった。
陸相はこの騒ぎの責任を取るとして辞職を申し出たが、瑞鶴は不満分子の脅しに屈しなかった陸相の辞職を許さなかったため、陸軍の面目はかろうじてではあったが、守られた。
さらに米内海相は瑞鶴に、この状況を利用して一気に中間棲姫との合意を批准してしまうよう意見具申した。
あまり褒められた方法でないため、瑞鶴は正直気が引ける思いであったが、私益を図っているわけではないし、瑞鶴の方から騒ぎを起こしたわけでもなかった。
今ある状況を利用するのもやむなしと腹を決めた瑞鶴は、「あまり時間をかけると中間棲姫の気が変わってしまうかもしれない」と危機感をあおった上で枢密院における審議を急がせ、その同意を取り付けた。
そして、遂に停戦の詔勅が発せられることになった。
できあがった詔書に御名が記載され、御璽が押されていた。そこに各大臣が副署していくのであるが、最初に署名するのは当然、総理の瑞鶴であった。
瑞鶴は、これが総理として最後の署名になると思い、丁寧に署名したのであった。
「・・書記官長、今日の議題はこれで終わりで間違いなかったよね?」瑞鶴の閣議運営ぶりも堂に入ったものになっていた。内閣書記官長が首を縦に振る。
「予定されていた議題は全て終了しました。本来はこれで散会ですが・・」瑞鶴は立ち上がった。
「・・本日、ただ今をもって深海棲艦との停戦が発効しました。これをもって私のお役目は終わったと思います。そこで、内閣総辞職し、総理の座を人にお返ししたいと思います。・・10年の期限付き、しかも人類全体に行動変容を求めるものになってしまったのは・・何と言っていいか分かりませんが・・」
「何をおっしゃいますか。人間では交渉することすら叶わなかったではありませんか。・・そもそも戦争継続そのものが難しかったのです。また、中間棲姫の要求も理解できる部分があります。総理が作られた10年で我々が変われるか否か・・問われているのは人類そのものの方です」
「・・皆さんには、こんな私を支えて頂いて感謝しかありません。いろいろ言いたいこともあったでしょうが・・」
「総理・・」鈴木男爵が発言を求めた。瑞鶴が発言を促すと、鈴木男爵も立ち上がった。
「ご存じのとおり、私は二・二六事件のとき、ほとんど死にかけました。何故あのとき死ななかったのか、あるいは晩節を汚したのだろうかと思っていました。・・しかし、今、私が今日まで生きながらえた理由をはっきり理解することができました。・・瑞鶴総理をお支えするためにこそ生き残ったのだと。誠に失礼ながら孫娘にも思える総理をお支えして、結果、誰にもなし得なかった深海棲艦との交渉を実現して、この国に平和をもたらすことができました。・・私はこの10年で人類がどうなるか見届けることはできないでしょう。しかし、私は後に続く者を信じております・・」
「この内閣が曲がりなりにも形になったのは男爵のおかげです。男爵には長生きして頂いて、是非見届けて頂きたいです・・」瑞鶴の目から一筋の涙が流れていた。
・・翌日、瑞鶴は社会を動揺させた責任を取るとして、内閣総辞職を正式に表明したのであった。