『楽園の内なる棘』の後編(というか本編)
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暗殺チームのリーダー、リゾット・ネエロと対峙したブチャラティ。
死者たちは己をすべてを尽くして戦う。その果てにあるのは――

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『荒馬のように』

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 ブローノ・ブチャラティがその男を知ったのは、組織に入って数年後だった。

 

「また『シチリアの男』か……」

 

 声の主はやれやれと首を振った——ように見えた。傍からは顎の下から喉までみっちりとつまった肉がプルプルと震えていた。

 ポルポ——『組織』の幹部であり、ブチャラティの上司だった男だ。

 この頃のポルポはまだ独房に引きこもっておらず、ブチャラティは彼の屋敷で、身の回りの世話をしていた。

 ポルポはデスクの上に開いていた新聞を丁寧に折り畳み、テーブルの端に置いた。それから巨大な椅子の背もたれに身を預けて、女の悲鳴じみた軋む音を上げさせた。大儀そうに手だけで、テーブルの上を探っている——葉巻を探しているのだと気づいたブチャラティは、ライターを片手にポルポのそばに近づいた。

 

「シチリア人……ですか?」

 

 ブチャラティは聞いた。

 

「シチリアの人間か……コーザ・ノストラの連中が何かをしたんですか?」

 

 シチリア島といえば、コーザ・ノストラ——マフィアという集団の発祥の地だ。

 オメルタという沈黙の掟で知られ、身内の結束も固い排他的な集団だ。彼はひどく恐れられ、イタリア政府にもその権力を及ぼしている。彼らの威力に従わない者はたとえ政府の人間であろうとその暗殺リストに加えられ、付け狙い、必ず暗殺する。『組織』ですら、マフィアから比べれは新参者に過ぎず、謎のボスも権勢には一目置いて、正面からことを仕掛けるのは避けている。

 ポルポは応えず、丸まっちい指でつまみ上げた葉巻をシガーカッターも使わず噛み千切ると、灰皿に吐き捨てた。ブチャラティが火を点けると、深々と吸い込む。

 煙を天井に向けて吐くと、占星術師が星を見る眼で漂う煙の動きを追い、なにかの兆しを探していた。

 

 

「…………仮にだ……君がシチリア人とことを構えるとしたら……どうする?」

 

 質問に質問で返されて、ブチャラティは戸惑った。

 だが、言葉は躊躇なく出た。

 

「戦います。逃げません。オレは……『組織』に救われた人間です。父の命を守ってもらった……その恩がある。恩を返す時だと考えます……たとえこの身に代えても」

 

 ブチャラティは言いながら身を強張らせていた。マフィアとの抗争——考えただけで背中に冷たい汗を伝った。

 

「………………」

 

 

 ポルポは重々しい面持ちで黙っていた——しかし。

 

「…………………………………………ぶフゥ」

 

「……?」

「……ぶフッ、ぶフフフフッ、ブッファファファファァァ~~ッ、面白い……今のは笑えたぞ、ブローノ・ブチャラティ……」

「何がおかしいんです……?」

「いや、君はやはり好ましい少年だ……ボスが若くして『組織』に入れただけはある……」

 

 ポルポはデスクの上の新聞を指先で叩き、記事を示した。

 記事の一面には、殺人事件が大々的に取り上げられている。

 

「これはわれわれ『組織』がやったことだ……正確に言えば、われわれ『組織』の『暗殺者』がだ」

「…………誰なんです」

「その男の名はリゾット・ネエロ。シチリアの出身——それしか判らない。彼はボスの命令によってのみ動き、あらゆる仕事を果たしてきた。どんな不可能と思われる任務も成功させながら、けっして己の正体は明かさない。このわたしも……ボスすらも知らない。よく研がれたナイフのような男だ。まじりっけのない鋼で出来て、切れないモノはない。柄をしっかり握れるなら、もっと安全に扱えるだろう。だが、けっしてすべてを掴ませない。ボスすらも握っているのは柄の端だけだろう。だが、よく切れる。本当によく切れるから手放せない」

 

 

 こんなふうにポルポが切れ目なく喋りつづけたのは最初で最後だった。

 その言葉には奇妙な調子があった。嫌いなサッカーチームについてまくしたてる酔った男のような、浮かされた熱があった。

 

「われわれが『シチリアの男』というときは……この男のことだけを指す。彼こそが……」

 

 ポルポは忌々しさと自慢の入り混じった笑みを浮かべた。

 

 

「『組織』最高の暗殺者だ——」

 

 

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(あのとき、ポルポは言っていた)

 

 ブローノ・ブチャラティはスタンドを構えさせながら、乗っていた岩から降りた。

 

(オレがこれから相手にするのは——)

 

 思考を切断したのは、比喩でなく刃であった。

 メス。

 メス。メス、メス、メス、メス、メス、メス、メス、メス、メス、メス、メス、メス、メス、メスメス、メスメス、メスメス、メスメスメスメ、メスメスメスメス、メスメスメスメスメスメス、メスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメスメス——

 地から湧きだしてくるのは刃の群れ。

 医療用のメスが、地表から無数に現れていた。

 数は千万に届くと幻視するほどの大量のメスは、奇怪な昆虫のように静止していた。鋭い切っ先は陽の光を受けて光条を発し、鋭い眼のようにブローノ・ブチャラティを捉えている。

 待ち構えていた刃は、着地と同時に放たれる——

 

「『スティッキィー……』」

 

 スタンドの拳がバックハンドで背後の岩に打ち込まれると同時に発現するジッパーが硬い岩に鋸歯の切れ目を打ち込んで切断——する瞬間に殺到する刃の群れが鼻先、眼の前、皮一枚の距離にまで迫り——

 

「『フィンガーズ』ッ!」

 

 刹那、背後の岩を切り取って作られた岩の板が振るわれて、打ち落とされる。

 地から湧くメスの群れは、真昼の豪雨のようにきらめいて、地から天を——いや喉元を目指して迫った。だが岩の板がすべて遮り、届かない。

 岩の表面を削って火花を散らし、耳を聾さんばかりの金属音が鳴り響く。だが、逞しい『フィンガーズ』の腕に支えられた岩板はこゆるぎもしなかった。

 皮を断ち、肉を裂く刃も、硬い岩を貫く威力はない。だが、メスの雨はいまだ止まない。

 ブチャラティは周囲を見渡した。敵の姿は見えないが——

 

(……これは『ブラフ』だ。岩を貫けないのが解ってるのに、メスを撃ち込み続けるなんて無駄な真似をするわけがない……『刃物を作り出す』……『皮膚の下』にも……そして、ジッパーのスライダーが引っ張られる——という現象から考えるなら……)

 

 スタンドがブチャラティの掌に触れる。ジッパーが発現し、金属製のスライダーが現れた。

 カチカチと音を立てて、スライダーが動く。その震える動きが、方位磁石のように方向を示す方、頭上から右斜め——岩の上!

 反射的に後方へとスタンドの拳を振るう。

 キン、という音。硬い感触が弾き返された。

 銀色のナイフ——背後、上方から投げ込まれてきた。途端に無尽蔵に放たれていたメスの雨が途切れる。岩板を削り跳ねる音が絶えても、揺さぶられた鼓膜には、残響が残っている。

 ブチャラティは何もない空間に眼を凝らした。見つめていると、違和感を覚える。

 空間にちらつきが生じている。焼けついたテレビのブラウン管のように、動かない風景の中に風景の歪みが残影のように生じた。

 歪みが人型に区切られていると気づいた瞬間、男の姿を——リゾット・ネエロを捉えた。黒々とした眼から放たれる鋭いまなざしが、ブチャラティの視線と重なる瞬間ッ!

 

 

「叩きこめッ! 『スティッキィー・フィンガーズ』ッ」

 

 一歩踏み出した本体の叫びに応じ、スタンドが咆え、鋭い左ストレートを放つ。

 だが、それでも暗殺者までの間合いは遠い——のを、埋めるためにスタンドの左腕が解《ほど》ける。上腕が鋸歯の線が走り、螺旋状に解けて伸びるッ! 

 

 

「『スティッキィー・フィンガーズ』…………『近距離パワー型』の『射程の短さ』を…………腕にジッパーをくっつけて解くことで…………拳が届く距離を伸ばして…………克服してるってわけだ……弱点をな……」

 

 暗殺者は動じなかった——

 自分にめがけて飛んでくる拳を見据えて、身じろぎすらしない。

 

「だが…………なんの問題もないな…………しょせんは『近距離パワー型』……『躱しかた』はすでに…………『出来ている』」

 

 放たれたスタンドの拳が、リゾットに叩きこまれるッ。

 だが——ブチャラティは異様な感触を覚えた。

 

 

「なんだ……この感触は……『軽い』ッ」

 

 続く暗殺者の動きはさらに異様だった。足を動かさず、地面を滑るように後退した。

 中身入りだと思ってた箱が空箱だった時のようだ。殴りぬける前に吹っ飛ばれてしまい、直撃にはなっていない。

 ジッパーを設置しての切断を狙ったが、拳を受けたリゾットの腕に鋸歯が発現し、わずかに出血する程度だった。

 ブチャラティは観察すると……奇妙なことに気づいた。

 暗殺者は何かに乗っている——よく見れば、それは剣だった

 両刃の幅広の剣。ナイフやメスと違い、刀身自体の幅があるため、両脚を置けるだけの面積がある。

 延ばしていた拳を即座に引き戻す。

 

 

「…………なるほどな……地面から作り出せるのはナイフやメスだけじゃあない……そして、拳が触れただけで軽く、滑るみてーに動かせたってことは……『剣は浮いていた』ってことだな……」

 

 ブチャラティは自分の手に設置したジッパーのスライダーを示した。

 カチカチと震えて、暗殺者の位置と方向を示している。

 

 

「『金属を浮かせ』、『体内や地面で刃物を作り』、『金属製のスライダーを動かす』……そんなことが出来るスタンドの力は……『磁力』だろう」

 

 暗殺者は離れただけだ。岩と岩に挟まれた位置に立ち、ブチャラティを見据えている。

 互いの距離は十メートル。射程距離の外。走り寄れば近づける距離。だが、あえて近づかない。

 

 

「……そしてアンタはこれ以上『離れない』……そこに理由があるんだな。離れすぎると『磁力のパワー』が届かなくなる……『つかず離れず戦う』……そういうタイプのスタンド。だからアンタが距離を保つ理由は……」

 

 ブチャラティは顔と首に触れる——と、違和感を覚えた。

 喉の下と顔の皮膚の下に硬い感触。即座にジッパーを設置すると、切開して取り出す。

 木の葉のように無数のカミソリの刃が落ち、ボロボロと針が地面に零れた。

 

 

「…………」

 

 ブチャラティはジッパーを解除すると、滑らかになった肌の下の感触を触れて確かめた。

 

「ぜんぶ『ブラフ』ってワケだ。山ほどメスを撃ち込んだものも、あえて近づいて後ろからしかけたのも…………一番確実な暗殺方法を成功させるためのな……」

 

 暗殺者は応えない。その表情は彫像のように冷厳としていた。

 黒々とした眼を光らせ、幻滅も怒りも示さず、ただ標的を見据えている。

 対するブチャラティは、わずかに微笑みを浮かべた。

 

 

「リゾット・ネエロ……『組織』でも最高の暗殺者…………アンタのことはあの傲慢なポルポですら認めていた……」

 

 ブチャラティはゆっくりと歩きだした。

 

「だが、オレの『スティッキィー・フィンガーズ』。ジッパーをとりつけて切開する能力なら、体内からいくら刃物を出そうが通じない……いくら姿を隠しても……『磁力』を発しているなら、ジッパーのスライダーが引かれる方向で、アンタの位置がわかる」

 

 潮をはらんだ風が海のほうから吹き寄せる。向かい風―—だが、ブチャラティは意に介さない。

 半身に構えて、右腕を前方に突き出し、握るでない開くでない、緩んだ形の手をリゾットに向けた。微笑の浮かんでいた頬は引き締まり、眼は鋭利な光で輝き、刃の切っ先じみた眼差しが暗殺者の眼を射た。

 リゾットは黙って、足を振り上げた。

 

 

「……これは——」

 

 地面に転がっていた剣を、柄を爪先ですくいあげるように地面から蹴り上げた。

 跳ねあがった剣はリゾットの顔の高さにまで達した。一瞬、空中に静止し——

 

「これは――暗殺者(ヒットマン)の道具じゃない……が――」

 

 ピシリと剣に亀裂。一瞬でボロボロと崩れ、黒い粒子に変わる。

 

「こう使うなら……暗殺者の道具になる……な……」

 

 黒い粒子は潮風に乗って漂い、ブチャラティの顔面に吹きかかった。

 

「うッ!」

 

 とっさに眼元を庇おうとするが——遅い。

 

 

「…………『メタリカ』の能力を解除した。お前の言うとおりの『磁力のスタンド』…………地表に現れるもっとも多い金属である鉄を……磁力の力で寄せ集めている……それを解除すれば……『砂鉄に戻る』」

 

 鉄粉の目潰し! ブチャラティは追撃を予期し、あえて踏み込んだ。

 突き進み、涙で霞んだ眼でリゾットの姿を捉え続けんとする。だが、敵は再度肌に鉄粉をまとい、その姿を覆い隠した。

 射程距離に到達した瞬間には、すでに姿は見えなくなっていた。

 左、続けて右と唸りを上げて振るわれた拳が空を切った。

 幾度かの瞬きで痛む眼から鉄粉を拭うと、スライダーの反応で相手の位置を探る。

 カチカチと音を立てて、スライダーが振れる。

 その方向に眼を凝らすと、風景にズレが生じていた。射程にはわずかに遠い。

 

 

「鬼ごっこがしたいのか? 逃げても無駄だぞッ」

 

 ブチャラティは一直線に近づく。

 リゾットは平然としていた。身動きすらしない。足元には先ほどのような剣もない。

 射程内に踏み込んだ——その時だった。

 

 

「…………始末に負えないのは…………勝つ前に……勝利を確信したヤツだ……」

 

 バツン、という衝撃が、ブチャラティの足を襲った。

 

「何ィィ――ッ!」

 

 激烈な痛み——ブチャラティは前方に倒れ込んだ。

 

 

「…………ジッパーの指す方向……磁力で位置を探知出来るっていうのなら…………そのことは前向きに利用しないとな…………」

 

 足を見れば……足首から切断されている。断ち切られた足は、鋼で出来た獣の顎のような器具が噛み千切っていた。『トラバサミ』だ。

 

 

「しょせんは『近距離パワー型』のスタンド……近づいて殴らなくちゃどうしようもない……そのことはオレだって理解している…………だから、ブチャラティ……オマエが突っ込んでくる直線上に作っておいたのさ……トラバサミをな」

 

 リゾットの足元で、銀色の陽炎が揺らめいた。

 

「そして、片足なら即座に動けたりはしないし…………立ち上がるのだってすぐには難しくなる……」

 

 朦朧とした陽炎が、明瞭な像を結び、硬く鋭い刃が形を成す。

 銀色のメスが十数本。切っ先はすべてブチャラティに向けられている。

 

「…………逃げられると思うなよ…………ブローノ・ブチャラティ……」

 

「『スティッキィ――ッ』――」

 

 スタンドが、腕を振り上げる――

 

 

「悪あがきはよせ……ブチャラティ……ッ! 『メタリカ』ァァ――ッ!」

 

 放たれるメスの群れッ! ブチャラティに迫るッ!

 ブチャラティは振り上げた腕を、思い切り叩きつけた――『地面』に。

 

 

「『フィンガーズッ』!」

 

 

 地面に鋸歯の亀裂が走り、音を立ててスライダーが走った。

 開かれた穴に、ブチャラティは転がり落ちる。

 メスは空を切り裂いて走り、岩にぶち当たった。

 激しい金属音が響く――そして、静寂。

 

 

「……………………」

 

 リゾットは屈みこんで地面に手を当てた。指先で探るが、ジッパーはすでに解除されている。見ればトラバサミも巻き込むように落ちていた。

 

「なるほどな…………ジッパーで切開して地中に潜ることも出来るってわけだ…………潜るとき一緒にトラバサミも巻き込んで…………足を回収した…………ジッパーで接合すればくっつけられる…………抜け目のないやつだ」

 

 だが、リゾットは微笑んでいた。

 

「このオレが、オマエを逃がすと思うなよ…………」

 

.2

 

(ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……)

 

 暗い土中は、決して懐かしい場所ではなかった。

 あの時は死人の身体で息の心配をする必要がなかった。皮肉にも今は幽霊だ。やはり呼吸の心配をする必要はない。

 

 

(あの男…………たしかセッコとかいったか……? 相手にした中では一番厄介だったが、リゾット・ネエロはそれ以上に――)

 

『暗殺チーム』のリーダーは伊達ではない。スタンド使いを相手に戦う方法を熟知している。『近距離パワー型』の弱点を理解し、それを理解して罠を張ってきた。

 

(足を回収できたのは幸運だったな)

 

 巻き込んで落下したトラバサミを破壊し、噛み千切られた足をジッパーでくっつけた。ジョルノの治療に比べれば当座の処置に過ぎないが、それでも地中を移動できる。

 

(ジョルノ……か……)

 

 不意に思い出し、ブチャラティは強がる子供のように笑った。

 

(あいつはオレに勇気をあたえてくれた…………あいつのおかげで、俺は幸福に死ぬことができたんだ……そして今も――――)

 

 ジョルノ・ジョバーナは立派にやりとげただろう。

 そして今も、生き残った者として、戦いを続けているはずだ。

 

(オレも、リゾットも……『組織』の……ディアボロの『組織』の亡霊だ。亡霊は亡霊同士、ケリをつけなくちゃあならない)

 

 地中に潜っている利点は、リゾットから容易に攻撃が仕掛けられないことだ。

 ナイフやメスは作り出せる。だが、地面の下まで深く打ち込めはしない。

 磁力も届かない。地中にいる限りは、地表の鉄分が先に反応する。

 相手からこちらの位置がわからないのも利点だ。奇襲をしかけて、確実にとどめを刺す一撃を叩き込めれば——————

 

(問題は…………オレがどうやってリゾットの位置を探知するかだが——)

 

 

 

「………………」

 

 リゾットは地面に屈みこんで動かなかった。

 片膝をつき、平手を地面に強く押しつけている。

 

 

(地中では…………もちろん何も見えない…………こちらがどう動いているか……眼で確認することは出来ない…………それはこちらも同じ…………ブチャラティの動きは眼には写らない…………)

 

 リゾットは肌にまとう鉄粉を振り捨てていた。持久戦でスタンド力《パワー》を消耗したくない。

 

 

(地中でも探知する方法は…………ある……『音』だ。……地面を歩いたり走ったりする振動を聴くことで…………オレの動いた方向を探る…………こうなると、地中にいるブチャラティのほうが有利だ……地面という盾があるからな……メスやナイフ程度じゃ……さえぎられちまう……)

 

 暗殺者は動かないことを選んだ。

 表情に緊張はない。張り詰めた雰囲気もなく、露わな肌や筋肉に不自然な痙攣もなく、拍動のリズムも正確だ。

 狩る者とは、攻撃する者ではない。

 待つことのできる者だ――タイミングを。

 

 

(…………狐穴に逃げ込んだキツネは…………勝利したと思うだろう…………だが、狩りはそこから始まる…………ブローノ・ブチャラティ……オマエは間抜けなキツネじゃあない……)

 

 ボスの娘を護った、優秀な護衛チームを率いた男だ。部下たちを次々と下し、ここサルディニアの土地にまで辿り着いた。

 倒れていった仲間の顔を思い返しかけて、すぐにやめた。

 

 

(『過去』を思い返すな…………『感傷』の心に囚われる……そんなことは暗殺者にあってはならない…………)

 

 眩い陽光が、リゾットの影を焼きつけんばかりに降り注いでいる。

 打ち寄せる波の音は遠く、潮風が血の香りを孕んで吹き寄せる。

 暗殺者は屈んだまま動かなかった。片膝をついて、上背のある身体を折った格好は祈る姿のようだ。静かだが真摯な姿勢——と見えなくもない。

 だが、その黒々とした瞳は鈍色《にびいろ》の刃の輝きを帯びていた。

 時おり、黒い眼が動き、視線を走らせるが——身体は微動だにしない。

 汗も流れない身体を陽に焦がし続けて待ち続けると……変化は唐突に現れた。

 ピシ、ピシ、ピシ——地面に走る亀裂。鋸歯の歯を持つ裂け目。

『スティッキー・フィンガーズ』のジッパーだ。

 まるで子供が鉛筆でめちゃくちゃに線を書きなぐったように縦に、横に、斜めにと、ジッパーが現れる。地面がひび割れたガラスに変じたようだ。その連想にリゾットは足元の不確かさを覚え——薄く笑んだ。

 

 

「…………ブチャラティ…………モグラたたきの真似事か……?」

 

 地面に触れていた手を浮かせる。手のひらと地面の間に銀色のかげろうが生じ、瞬く間にナイフが形成された。

 立ち上がり、ナイフを逆手に握るともう一方の手に刃を押し当て、滑らせる。

 傷口と地面のジッパーが開くのは同時だった。

 真っ赤な鮮血がほとばしる手を振り回す。地面を見渡せば、縦横に走ったジッパーは地面を切り開いて、黒い裂け目を覗かせていた。

 リゾットは動かない——地面に振動が伝わる動きはしていない。

 再び鉄粉をまとい、風景に溶け込んでいく。

 

 

(…………裂け目から顔を出して覗く…………そんな馬鹿な真似は……しないだろう……)

 

 ナイフを順手に持ち替え、指先で血糊をとって顔の前に立てるように持った。

 曇りのない刃が鏡となってリゾットの背後を映す。前方と後方、これで同時に周囲を見渡せる。

 上半身をひねるだけで足は動かさずに全方位を確認。

 警戒する暗殺者の眼は、それを捉えた。

 後方だ。ナイフの鏡面越しに見えた。

 ほんの少し……人差し指と中指が地面のジッパーの裂け目の縁から覗けていた。

 

 

「……………………」

 

 リゾットは一瞬息を呑み、唇を引き締めて周囲を見渡した。

 そして、前方の一点を見つめると、眼を凝らした。

 そこにもジッパーの裂け目があるが、黒々とした細長い口が鋸歯に縁どられているだけで、奥には何も見えない。

 

 

「…………フン……」

 

 リゾットが鼻息を漏らすのと同時、ジッパーの縁に引っかかっていた指が動いた。

 ガサリ、という音を立てると同時に、身を翻す。

 身体ごと振り返り、踏み込んだ脚が大きく音を立てる————

 

 

「そこか! リゾット・ネエロ!」

 

 振り返ったリゾットの足元から音! 電瞬の速さでブチャラティが指の見えた裂け目とは別の裂け目から飛び出した。

 地面からの奇襲がリゾットを襲い————は、しない。

 ヒュン、ヒュンと風を切る音が響く。

 

 

「気づいていたぞ…………ブチャラティ……その位置からくることはな」

 

 リゾットに向けて伸ばされた『スティッキィー・フィンガーズ』の腕に! 横合いから飛んできたメスが突き立った!

 

「リゾット…………まさかすでにメスをッ!」

 

「『ジッパーで腕を伸ばせる』…………そのことは理解してるからな……」

 

 

 ジッパーの裂け目から上体を出したブチャラティは片腕がない。上腕の途中からジッパーで解かれて紐状になっている。紐の先はまだ地面に潜っていた。

 

 

「腕を解いて伸ばし、指先を動かして音を立てる……反応して動いた瞬間、発する音の位置にオレがいることがわかる……考えたな…………ところで……だ……」

 

 地面に再び銀色の陽炎が生じ、十数本のメスが発現。

 

 

「オレの見る限りじゃ……腕はまだあそこにある…………片腕一本だけで……しかも傷ついた腕一本で……至近距離からのメスを…………何本かわせる…………?」

 

 風を切る音をを立てて、メスが同時に放たれる!

 ブチャラティは即座に離していた腕を巻き戻すが————

 

 

「『スティッキー・フィンガーズ』ッ! うちおとせェ——ッ!」

 

 必死の形相で片腕を大きく振るい、メスを叩き落とす。だが、肩口にナイフが突き刺さり、顔を大きく切り裂かれた。それでもメスは止まらない。

 

「うおおおおお————ッ」

 

 もう一方の腕を戻して、全力で両拳を駆動させる!

 金属と金属がぶつかり合うような音を立てて、メスが弾き返されていく。

 不意にメスの射出が止み、ブチャラティは周囲を見渡した。

 リゾットの姿が消えている――——

 

 

「やつめ……また鉄粉をまとって姿を消して……」

 

 ブチャラティは手のひらのジッパーのスライダーが振れる方向を見た。

 だが、おかしい。スライダーが四方八方に動いている。

 

「なんだ……この動きは……磁力が複数の方向から発せられているみたいに——」

 

 ブチャラティは再び周囲を見渡す。その時初めて気づいた。

 周囲の地面に……血が撒き散らされている。自分の血ではない。

 

 

「この血は……リゾットのものか? うッ! これはッ!」

 

 撒き散らされた血の中に、奇妙なものが蠢いていた。

 戯画化された微生物や、あるいはキノコを思わせるヴィジョン。手が生えており、蠢きながら囁く声を発している。

 

 

〈ロォォォォ~~ド〉

 

〈ロロロォォ————ド〉

 

〈ロオォォ~~~ドォ~~~〉

 

 

「これが……リゾット・ネエロのスタンドッ! ヤツの体内に、血の中にスタンドが居たのかッ! こいつらが磁力を発しているから……スライダーが反応してしまうッ!」

 

 ブチャラティは地面から身を乗り出し、身体を翻してリゾットを探した——瞬間ッ!

 ドスンという衝撃と共に、ブチャラティの背中にナイフが突き刺さった。

 

 

「がふッ」

 

 ドッと口から赤い血が溢れて、大きくのけぞる。

 

 

「………………惜しかったな……正面から心臓を貫こう……そう思っていたんだが……」

 

 背後から、声がする。距離はごく近い。

 

 

「オマエが磁力を探知する…………それも解っていたから……事前に罠を張らせてもらった…………幸運だったのは……振り返ったから……ナイフが急所をそれたことだ……」

 

 声がだんだんと近づいてくる——

 

 

「だが……もうおしまいだぞブチャラティ……オレの『メタリカ』による暗殺を逃れることができた者はいない…………オマエはここで……死ぬッ」

 

 再び風を切ってメスが飛んでくる音が、背後から響いた。

 

 

「『スティッキー・フィンガーズ』…………ッ」

 

「無駄だッ! ブチャラティッ! もはやかわせんッ」

 

「かわしなど……しないッ! 『ひっくり返すッ』!」

 

「何ィ⁈」

 

 

『スティッキー・フィンガーズ』がジッパーの裂け目に潜り、下から地面をすくいあげるッ!

 すでに地面のジッパーは全開の状態になっていた……まるで床板のパネルをひっくり返すようにッ! 立っているリゾットごと、下から持ち上げてひっくり返されるッ!

 

 

「フンッ……悪あがきをッ」

 

 だが、リゾットの反応も早かった。素早く横合いに跳び退って、身を丸めて転がり、垂直になった地面が倒れ込んでくる範囲から逃れた。

 ひっくり返された地面はそのまま倒れて、大音響と共に崩れた。大量の土埃が舞い、リゾットの視界は遮られる。

 メスは命中してない。倒れ込む地面に巻き込まれたようだ。

 ブチャラティの姿が再び消えていた。再度地中に潜ったようだ。

 

 

「……………………」

 

 リゾットは黙って身を起こし、片膝をつけて屈みこむと、地面に手を当てた——

 

 

 

(ハァ……ハァ……ハァ……)

 

『スティッキー・フィンガーズ』が地中の障害物に拳を叩きつけて、ジッパーを設置していく。開かれた裂け目に潜り、再びジッパーで切開し、また潜るのを繰り返す。

 

 

(奇襲は失敗した……ダメージが大きすぎる)

 

 すでにナイフは抜いて、傷口はジッパーでふさいだ。だが、あくまでジッパーは繋いだり、塞ぐだけだ。幽霊の身体でも、苦痛は大きい。

 土中を移動するブチャラティは耳を澄ませた。

 リゾットからはこちらの動きは見えないが、地上を移動するリゾットの音は聴こえる。

 ブチャラティは移動しながら、リゾットの発する音を探った。

 最初は何も聴こえなかった……だが、唐突に強く地面を蹴る音を聴いた。

 音は激しくハッキリと、地中からでも聴こえた——走っている音だ。

 

 

(どこだ……どこを走っている……)

 

 ブチャラティが動きを止めると……しばらくして走る音が途絶えた。

 動かずに耳を澄ませていたが、リゾットは止まったままだった。

 

 

(まさか……)

 

 ブチャラティは再度地中を動き出した。

 ジッパーで地中を切り開いて進んでいく。すると、リゾットもまた走り出す。

 

 

(やはりだ! リゾットは……こちらの位置をわかって追跡しているッ!)

 

 こうなるとリゾットの方が優位だ。

 セッコの『オアシス』は触れた地面を柔らかくして泳ぐように抵抗なく移動していた。だが、ジッパーによる移動は、どうしても切開する間が要る。

 障害がない地上を移動するリゾットの方が速い。

 

 

(ヤツはオレの位置が判っている……ピッタリとくっついて、姿を現したところを確実にしとめるつもりかッ!)

 

 打って出るべきか、地表を見上げた——瞬間ッ!

 地表から脳を揺さぶり、臓腑まで痺れそうな、巨大な衝撃音が響いた!

 それは分厚い土の層を錐のように旋回して突き進んできた。周囲の土に邪魔されていては、即座にかわせない。気づいた瞬間には、ブチャラティの脇腹に突き刺さっていたッ!

 

 

「おおオオォ……ッ! 止めろォォ——ッ! 『スティッキー・フィンガーズ』ッ」

 

 

 深々と食い込むのを『スティッキィー・フィンガーズ』が掴んだ。

 高速で回転するそれはスタンドの手のひらを削るが……なんとか貫通する前に止めた。

 

 

「ごぼオ……ッ! こ、これはッ! この攻撃は……ッ」

 

 だが、ダメージは甚大。口からは血が溢れ、削られた手のひらもズタズタだ。

 何が放たれたのか……暗黒の地中の中では、見えない。

 ブチャラティは、傷ついた手で脇腹に突き刺さったそれを確かめた。

 硬い金属の感触、人の身の丈ほどはある長い柄、脇腹を貫きかけたのは穂先には鋭い両刃が備わって————各部の印象が繋がり、脳内でくっきりとした像が結ばれた。

 

 それは長大な『鉄槍』だった。

 

 

.3

 

 『鉄槍』を打ち込んだ地面には、穴が生じていた。

 穴の直径は成人男性の太い腕がするりと入るほどだが、地下深くにまで達しており、覗きこんでも穴の奥底は見えない。

 先ほど打ちこんだ槍は正確に命中しなかったのは判った。

 動き続けている限りは、正確に命中させるのは困難だ。

 失敗した——だが、リゾットの心は昂揚していた。

 

 

(………………オレは『暗殺者』だ……そして、ブローノ・ブチャラティ……オマエは差俺が相手にした中で、最高の標的だ…………オマエを狩ることができたなら、オレが最高の暗殺者だということが証明出来る——)

 

 その時、リゾットはブチャラティの動きを感じた。リゾットも駆けだす。

 相手は地中をジッパーで切開して移動しているようだが、地上のリゾットの方が速い。

 追撃を恐れてか、ブチャラティの動きは不規則だ。ジグザグの軌道で動いており、槍で狙うのは困難だった。だが追跡を止めない。

 

 

「ブローノ・ブチャラティ…………お前は……『通過点』に過ぎない……オレはまだ果たしていない仕事がある——すべてを思い出したぞ……オレはボスを追跡していた……勝利したはずだ……その確信がある。…………だが、オレはボスの死に顔を見ていない——」

 

 リゾットは腕を掲げていた。空を掴んだ手。その周囲に銀色の陽炎が揺れてまとわりつき、ゆっくり像を結んでいく。

 

 

「ボスは死んだのか……解らない。だがオレが、こんな身体に成り果てようともここに在るのなら……それが理由だ…………『ボスを仕留める』……それがオレのこの世にいる最後の理由だ…………」

 

 ブチャラティの動きが停まった。なぜ停まったのか——リゾットが顔を上げると、正面に崖があった。

 岸壁は荒っぽい岩肌を陽に晒し、城壁のようにそびえていた。

 リゾットも進めないが、地中のブチャラティも地下まで続いている岩壁に遮られているようだ——

 

 

「ブチャラティ……オレはオマエを殺し……最高の暗殺者であることを証明して……今度こそボスを暗殺するッ! それがオレのッ! 暗殺者としての最後の使命だッ! オレはオレ自身の命令でオマエを倒し、ボスを討つッ!」

 

 銀色の陽炎は、鋼の長柄に変化し、その先端に巨大な両刃の刃が生じた。

 巨大な長柄、鋭い両刃の穂先————巨大な槍が発現した。

『メタリカ』の磁力の反発力を利用して浮かせ、重さはほとんど感じない。

 槍を構えて、ブチャラティの位置を確認する。

 地下の奥底で動かず——静止している。掲げた槍が柄を軸に回転しはじめた。

 磁力の反発力でモーターのように回転させて、あらゆる障害を貫く投槍——これが『メタリカ』の最大威力の攻撃だった。

 槍は空気を掻き混ぜて、異様な風切り音を立てて回転していた。

 土は柔らかく、標的の位置は手に取るように判っている——それでもリゾットは狙いを外さないよう、呼吸を整えた。

 一流の狩人——いや、銛突きの漁師がするように、心を澄ませた。

 

 

「オマエは『もっとも危険な獲物』だ——そして、『最高のゲーム』だったぞッ! ブローノ・ブチャラティ!」

 

 身を反らせて、槍を投げ込む————瞬間だった。

 

 

 

 ビシリ、という音が頭上から響いた。

 

 

 

「………………今の音は————」

 

 

 リゾットは頭上を見た。

 白い崖の岩肌が——ジッパーで切り開かれている——切り開かれたジッパーからは『スティッキィー・フィンガーズ』の腕が伸びている——ジッパーで上腕を解いて、前腕のみが伸びている——

 伸ばされた腕が、毒蛇が構えるように大きくもたげて——思い切り叩きつけられた!

 ビシイッ! という音。

 空に向けて突き出た崖の突端がジッパーで切り開かれて——切断。

 切り落とされた巨大な岩塊が、リゾットめがけて滑り落ちてくる!

 

 

「…………なんだと……ッ! 崖に向けて移動したのは——このためかッ!」

 

 滑り落ちてくる岩塊は岩肌を削って、凄まじい音を立てて迫るッ!

 その大きさは人の身の丈を超えている。表面はおろし金のようにざらつき、高速で転がっている。叩きつけられれば、十トントラックに轢かれたように叩き潰され、一瞬でミンチと化す——

 だが、リゾットの眼は黒く燃え上がっていた。

 下から上に狙いを変える。迫ってくる岩塊に睨み、槍投げの構えをとった。

 

 

「――――スタンド力《パワー》を全開にする——磁力を最大にし…………極大の反発力で放つッ!」

 

 リゾットは自分の血が昂るのを覚えていた。比喩でなく溶岩のように燃え上がり、体内すべての『メタリカ』が歓喜と興奮にざわめき、踊り狂っていた。

 岩塊は転がり続けている。目と鼻の先に迫った巨大な岩塊は死の剛圧を放っていた。

 だが、リゾットの掌中の槍も高速で回転を続けていた。

 攪拌する大気を焦がす速度で回転し、両刃の穂先は陽光を受けて、奇怪に乱反射する。

 槍の回転が最大に達した瞬間——落ちる撃鉄のように、構えた腕を振り下ろした。

 

 

「『メェェタァァリィィィカァァ————ッ』!」

 

 超高速で回転する槍は、音の速さで岩塊へと放たれた。

 命中した瞬間、穂先から火花が散り、ストロボライトのようにリゾットの眼を焦がした。

 圧倒的な質量の岩塊が、つんのめったように一瞬静止し——槍の命中した一点からヒビが走った。ヒビは表面だけでなく芯にまで達し、回転する勢いと自重に耐えきれず、岩が内から爆ぜる。

『メタリカ』の最大威力の一撃に耐えきれるものは存在しない。

 岩塊は転がる勢いのままにバラバラに砕けた。無力なまでに細かくなって散らばり、リゾットの周囲に転がった。

 完全に破壊したのを確認したとき、血のざわめきが収まった。

『メタリカ』の身震いが止まっている。萎えたように縮こまっているのは、スタンド力《パワー》を大きく消耗したせいだ。

 リゾットは警戒を解かない。深く息を吸い、周囲を見渡す。

 崖を見上げたが『スティッキィー・フィンガーズ』の腕は見えない。

 

 

「………………ヤツは最初から誘導しようとしていたんだ……崖に誘導して、ジッパーで切断して崖崩れを起こすことを狙って……だが……どうやって……ヤツは……」

 

 

 

 

 

「『エアロスミス』だ」

 

 その声は、背後から聞こえた。

 

 

「…………『エアロスミス』だ……オレは見ていたんだよ。忘れていたんだ——」

 

「ブチャラティ……キサマ、どうやって……」

 

「…………オマエはオレを追っていた——地中にいるオレをな……それが謎だった……」

 

 

 声の距離は近い。およそ数メートル。『スティッキィー・フィンガーズ』の射程外だ。

 だが、リゾットは動揺していた。

 

「おい……どうしたんだ。振り返りもしないのか……? それとも混乱しているのか……? オレは地底の奥底に隠れているはずなのに……その位置にいることを探知しているのに……オレが地上にいることを理解できないのか……?」

 

 

 その通りだった。

 リゾットが探知していたブチャラティの位置は地下の奥深くだ。

 なのに、いまブチャラティは地上にまで浮上している。

 

 

「最初に地下に潜った時……オマエはオレのブラフに引っかからなかった。だが……それだけじゃあおかしいことがあった。オマエはオレの出てくる位置まで正確につかんで、メスを撃ちこんできた……そして、地中にいるオレの位置を完全に探知していた——謎だったよ……だが、オレは答えを知っていたんだ。……『エアロスミス』だ」

 

『エアロスミス』——ナランチャ・ギルガのスタンドだ。

 

 

「あの時、ナランチャはスタンドをくっつけられて操られた、と言っていた——『返り血』をかぶった『エアロスミス』を操られたんだ。オマエのスタンドが血中にいるというのは、さっき見せてもらったよ……それで思い出したのさ。オレが最初に攻撃したとき、オマエをジッパーで切断しようとして、返り血を拳に浴びていたのをな……」

 

「…………きさま……まさかッ」

 

「振り返ってみろ、リゾット…………その眼で確かめてみろ」

 

 

 身を翻す。ブチャラティは背後に立っていた。

 ブチャラティの身体にはダメージがあった。斬られた傷、貫かれた傷はジッパーで接合されて、塞がれている。だが、リゾットが与えていない傷がある。

 ブチャラティの左前腕が、ジッパーで切断されている。

 

 

「どれだけ離れていようが……自分のスタンドの位置が判らないスタンド使いはいない。だから、『スティッキー・フィンガーズ』の腕を切り落としたのさ。オマエの『メタリカ』が潜り込んだ腕をな——」

 

「……………………」

 

「切断した腕は地下に置いてきた。崖の手前の位置に。下を狙うなら、上に対する意識はおろそかになる……だから、ジッパーで岸壁を切断する動きにも気づけなかったんだろう……」

 

 スッとブチャラティが一歩踏み出す。 

 残された片腕を構え、狙いを澄ませるように眼を細め、リゾットの一挙手一投足を観察している。

 対するリゾットは……動かなかった。

 頭の上で腕を組み、胸をそらせた姿。まるでブチャラティがしかけるのを待ち構えているようだ。ブチャラティは足元にも視線を走らせ、メスやナイフ、トラバサミがないのを確かめた。

 

 

「…………暗殺チームのリーダーともあろう者が……諦めたはずはないな……」

 

「…………」

 

 

「だが、この距離なら…………『近距離パワー型』のほうがすばやい……そんなことがわからないオマエじゃないだろう」

 

「…………そんなことを言うのは……」

 

 

 リゾットが無表情で言った。

 

 

「…………怯えているからか? その反応は……正しいぞ、ブローノ・ブチャラティ。どうあろうが……たとえどんな姿になり果てようが……オレは暗殺チームのリーダー、リゾット・ネエロ————オレが殺すと決めたなら…………オマエは必ず『死ぬ』」

 

 

 互いの距離は『五メートル』――『メタリカ』の磁力を最大で使える距離だ。

 だが、この間合いは『スティッキー・フィンガーズ』が腕を解いて伸ばせば、届く距離でもある。

 リゾットは静かに、『メタリカ』の能力を発動した——

 

 

.4

 

(…………ようやくだ……)

 

 

 ブチャラティの身体は痛みに縁どられているようだった。

 刺創、裂創、切創、擦過創……抉られた脇腹は完全に塞ぐことは叶わず、血が垂れ続けている。切断された足の骨もなんとか繋げているだけで、今も激しい痛みが生じている。

 だが、ブローノ・ブチャラティの心は昂揚していた。

 

(ようやく……だ……ようやく、『組織』でも最高の『暗殺者』を射程距離内にとらえることができた……)

 

 

 一か八かの賭けだった。

 腕ひとつを捨てるのは大きな博打だった。

 だが、その甲斐はあった……相対したリゾット・ネエロは呼吸が荒くなっていた。

『メタリカ』の地層を貫く槍の一撃を、岩塊に対して使わせたのだ。

 

 

(あれだけの攻撃を何度も放てるとは思えない。……放つのにも用意が要るのだろう……だから、リゾットから攻撃はしかけてこない……)

 

 ブチャラティは自分の喉に手を触れた。

 皮膚越しに伝わる、硬い感触。

『メタリカ』の能力——また喉首の肌の下に、刃物が形成されつつあるようだ。

 今度こそ喉を切断して絶命させる……その狙いだろう。

 しかし、これもジッパーで切開すれば取り出せる。リゾットも理解しているはずだ。

 喉に触れる手を離し、さらに一歩踏み込む。

 

 

(これは……『ブラフ』だ……オレのジッパーで無力化できるのは理解しているなら……時間を稼ぐために、こんな無駄な行為をしている——)

 

 残る腕は一本——この一発を確実に届かせる、その覚悟を決めた。

 深く息を吸い、狙いを澄ませる。上腕に設置された『ジッパー』のスライダーが滑り、腕を解く。

 

 

「『スティッキィィィィ————ッ』」

 

 優れた釣り人が毛鉤を投げ込むような落ち着いた心持ちで、拳を解き放つ——

 唸る音を立てて、リゾットにめがけて拳が飛んでいくッ!

 対するリゾットは無防備に、ただ突っ立っている。

 最低限の防御の構えすらとっていない。案山子のように無防備な格好。ボールが来るのを待っているボーリングのピンの方が、まだ倒しづらそうに見える。

 放たれた拳が、一直線に、吸い込まれるようにリゾットの胸に命中する。

 

「『フィンガァァ————ズッ』」

 

 

 ドンという衝撃音——と、共にリゾットの身体が胸元が『爆ぜる』。

 

「――——なにィ⁈」

 

 

 そう、リゾットの胸が爆ぜた。ジッパーの切断による現象——では……ないッ!

 爆ぜた胸郭から、血肉にまみれた鋼の顎が現れていた。打ちこまれた『スティッキィー・フィンガーズ』の拳を噛み止めているッ!

 青ざめた顔で、リゾットがニヤリと笑う。

 

 

「『メタリカ』…………で……攻撃と……防御を兼ねて…………オレの体内に…………トラバサミを作った…………キサマの最後の拳を受け止め、封じる……ために、な」

 

「こんな……キサマにも……ダメージがあるのにこんな真似をッ」

 

「言ったはずだ……『オマエは必ず死ぬ』と…………その言葉に嘘はない…………ブチャラティ。オマエの腕は封じた…………そしてこのまま直接ッ! オマエの腕から! 『メタリカ』の『磁力』を流し込むッ!」

 

 

 瞬間——ブチャラティの全身が発泡した。

 ブクブクと水膨れのように膨れ上がり、全身に刺々しい輪郭が浮かぶ。

 針! カミソリ! 釘! 全身から刃物が作りだされていく。

 

 

「おおおォォォ——ッ! リゾット・ネエロォォォ~~~~ッ!」

 

「…………『直』は素早いんだよ……ブチャラティ……このままッ! 内側からズタズタになって死ねッ! 内側からブチ割れて破裂したザクロの実のようにィィ——ッ!」

 

 

 吠えるリゾットの声——だが、ブチャラティの意識はハッキリしていた。

 

 

「…………この程度で……オレが……怯むと思うか……」

 

 内側から刺されるという異様な痛みを前にしても、その瞳は曇らない。

 いや、真っ赤な炎が燃え上がり、唇には不敵な笑みが浮かんでいた。

 

 

「『スティッキー・フィンガーズ』ッ! もどれジッパァァァ————ッ!」

 

 スライダーが走る。伸びていた腕が逆再生のように巻き戻っていく。

 リゾットの身体も引っ張られ、ブチャラティへと引きずられる。

 

 

「無駄だぞブチャラティ……オマエの腕はトラバサミで噛み止めているんだ……ジッパーで刃物を取り出すことは出来ない…………オレの『メタリカ』の方が速いッ」

 

「…………くれてやるよ……腕が欲しいんならな……食い込んで固定してくれるっていうなら……『好都合』だッ!」

 

 

 ブチャラティ——そして、『スティッキー・フィンガーズ』の身体が弓のように反り返った。巻き戻される勢いのままに近づいてくるリゾットにめがけて——

 

「ブチャラティ……何をッ⁈」

 

 鐘を打つような大音声が響きわたった。

 リゾットの眉間にびしりと大きな亀裂が走る——

 

 

「ブチャラティ…………オマエ、こんな……ガキみたいなマネを……ッ」

 

「おいおい……腕を使えなくしたのはオマエだろ……拳が使えないんなら、こうするしかないからな……」

 ぐにゃりと視界が歪んでいる。ブチャラティ自身にも衝撃があった。だが——

 

「倒れないか……? これで倒れねえっていうのなら……もう一発ッ!」

 

 

 グンと『スティッキー・フィンガーズ』が胸を反らせる。

 思い切り振り上げた頭を——再び、リゾットの頭へと叩きつけるッ!

 またも大音声! ひび割れたリゾットの眉間からさらに出血!

 リゾットの眼が痙攣してブレる。焦点が合っていない。

 意識が揺らいでる証拠だ——だが、ブチャラティの限界も近い。

 全身が重い。全身の皮膚が突っ張っている。噛み止められた腕を、リゾットは放していない。『メタリカ』の磁力は流し込まれ続けている——!

 

 

「…………ブチャラ……ティ……オレは……オレは——」

 

 黒衣の殺し屋は立ち上がる。ブチャラティを見下ろし、笑みを浮かべた。

 リゾットの額が膨れ上がっている。ヒビ割れた額、裂けた皮膚の向こうに、血にまみれた金属の質感が見えている――――

 

 

「……体内の鉄分で…………額を覆う……鉢金を…………皮膚の下に、作った…………あと数秒だ……オマエが内側から爆ぜて死ぬまで……あと一発ッ! 耐えきれるならッ! オレの勝ちだッ!」

 

「………………」

 

 

 殺し屋とギャングは口づけの距離で向かい合った。

 共に呼吸は荒く、満身創痍。だが、二人とも同じ笑いを浮かべていた。

 自分の強さを見せつけたい、悪童の笑み——

 

 

 

「――――『スティッキィ————ッ』」

 

『スティッキィー・フィンガーズ』の身体が思い切り反りかえる。

 

 

 リゾットもまた、思い切り頭を振り上げた。

 

「『メェェタァリィィカァァァッ』

「『フィンガァァ————ズッ』

 

 

 ぶつかり合う二人の頭の間で、火花が散った。

 砕け散る音が響いたのを最後に、すべての音が途絶える——

 

 

「……………………」

 

 ブチャラティが膝から崩れ落ち、その場に座り込んだ。

 片膝をつき、地面に手をついて立ち上がろうとするが、立てない。

『スティッキィー・フィンガーズ』のヴィジョンも消える。スタンド力《エネルギー》を限界まで使った。もはやヴィジョンの維持も困難になっている。

 

 

 リゾットは——立ち続けている。額から血を流しながら、ブチャラティを見下ろし,ニヤリと笑った。だが……リゾットはすでに手を離していた。

 腕を固定していたトラバサミは、ギザついた刃が砕けてボロボロに崩壊していた。

 額を覆っていた皮膚の下の鉢金にも巨大な亀裂が走り、砕けていく——

 

 

 

「…………ブローノ・ブチャラティ…………オマエの————勝ち、だ……」

 

 殺し屋の長身が、ゆっくりとくずおれる。まるで塔が倒れるように背後へと倒れ込み、もはや動かなかった。

 

 

 

.5

 

「――――石を切った男の話を知っているか?」

 

 

 リゾットが首を振ると、父は話を続けた。

 それは東洋の戦士の物語だった。

 

 その男は主君の名を受けて、裏切者と対決していた。

 対決の場は墓場で、いくつもの墓石が立ち並んでいた。

 裏切者は卑劣にも墓石に身を隠し、斬りかかってきた。

 男はとっさに剣を振るい、裏切者を斬り倒した。

 相手がどうと倒れると同時に……重々しい音が響いた。

 男は裏切者と一緒に、盾になった墓石を——斬れるはずのない墓石を切断していたのだ。

 その武勇は主君にも認められ、男は戦士として最高の名誉に預かった。

 だが、男は悩んでいた。

「石を切った男」と評判になっても、無我夢中だった時のこと。自分にはその実感がない。

 男はそれからも修行を続けた。そして、ひそかに石を切ろうと試みた。

 だが、剣が砕け、へし折れるだけで、石を切ることは叶わなかった。

 男は名誉に見合わぬ自分を恥じ、いっそ腹を裂こうかと悩んだ。

 しかし、男は親しい僧にこう諭された。

 

 

「おまえが石を切ろうと切らぬと、おまえ自身に変わりはない」

 

「力を示すことを考えるな。おまえは己が石をも切れる自分を知っている」

 

 

 男はそれから憑き物が落ちたように平静となった。

 それから数年して、主君はたわむれに男に命じた。

 石をも切るその腕前を一度見せよ、と。

 男は黙って、城の庭にある石の前に立つと剣を振るった。

 石は真っ二つに両断された。驚いた主君は再び男に褒章を与えた——

 

「…………この話の意味が解るか?」

 

 

 リゾットは再び首を横に振ると、父は静かに続けた。

 

 

「力というのは…………振りかざして、示すものじゃあない……いざという時に……あらわれるものだ……握り拳のようにな……」

 

 父は手を固く結んで、拳を作った。岩のような拳だった。

 

 

「石を切れる剣の腕前も、自分の拳の硬さも…………自分が知っていれば十分だ。本当の男というのは……そういうものだ……」

 

 

 

(…………ああ、親父……アンタはそういうかもしれない————)

 

 

 リゾット・ネエロは父の言葉を信じて生きてきた。

 名誉なき暗殺者の仕事に耐えられたのも、そのおかげだった。

 

 

(…………オレは……それでよかった……オレだけなら——)

 

 だが、リゾットには部下たちがいた。

 彼らは最高だった。誰にも負けない、最高のチームだった。

 

 

(……だけど親父……オレたちを…………誰も知らない…………石をも断つことが出来ても……ただ、石をも断つ剣として……振るわれるだけの道具だったんだ……オレたちは……)

 

 戦士なら誇りが持てる。だが、道具に誇りなんかない。

 最期のとき、ボスは言った。

 

 

 

〈ヤツらはおまえの事をあっけない敵とおもってる〉

 

 

 

 あっけない敵——それだけは許せない。

 

 

(オレはリゾット・ネエロ…………シチリアの男として、スタンド使いとして……チームのリーダーとして……そんなふうに思われて死んでいくのだけは……許せない——)

 

 

 ————顔に温い液体が落ちてくる——

 口に入ると、芳醇なブドウの香りが漂う——ワインだ。

 

 

「………………ワイン……?」

 

 リゾットは眼を見開いた。真っ先に見えたのは、自分の顔の上で傾けられたワインのボトルだった。

 

 

「起きたか……? 『ワインの幽霊』……だそうだ…………オレたちと同じだな……」

 

「ブチャラティ——キサマ……」

 

 

 身を起こすと、満身創痍のブチャラティが顔を覗きこんでいた。

 反射的に身構えようとしても、疲労と全身の痛みのあまり、満足に動くこともできない。

 ブチャラティも全身傷だらけだ。しかし、その表情は穏やかだった。

 

 

「……………………」

 

 リゾットは気圧されていた。ブチャラティからは先ほどまでの気迫は感じられない。友人と一緒にいる時のような気楽な様子だった。

 海を眺めるブチャラティは、唐突に言った。

 

 

「…………思うんだが…………」

 

「………………」

 

「気づいてると思うがオレたちは『幽霊』だ……だが、オレたちが死ぬ前には身体にくっついてる『ばい菌』とかがいるよな」

 

「………………」

 

「……そいつらはオレたちが死んだときに一緒に『幽霊』になったのか? 身体には『ばい菌の幽霊』がくっついたまんまなら、ケガをしたら消毒しないとマズいかな……? たとえば『アルコールの幽霊』とかでな……」

 

「……………………」

 

 

 リゾットは表情は変えなかったが……内心で呆れた。

 コイツ本気なのか? バカなガキの発想だ——と思った。

 だが自分は、そんな相手と頭突きで張り合い、結局負けた。

 

 

(…………まさか腕も脚も使えないからって……頭突きでくるとはな…………正気じゃない……それでやり返すオレもオレか——)

 

 バカなガキは自分も同じだった。笑い話にもならない。

 ブチャラティは瓶から直接呷ると、リゾットに差し出してきた。

 ワインとブチャラティの顔を交互に見た。黙って瓶の首を掴むと、一気に呷る。

 久しぶりのアルコールだ。胃の腑に温かみが広がり、全身の痛みが和らぐ。

 ブチャラティが言った。

 

 

「オレは悪霊になっているオマエを、この土地から祓えと——そういう頼みを引き受けてやってきた…………ここの守護霊にな。だが、今のオマエはまだ悪霊のままか?」

 

 顔を指され、リゾットは自分の頬を撫でた。

 確かに、自分の名前を思い出し、闇雲な殺意や怒りは消えている。

 

 

「オレにはオマエが晴れやかなツラをしているようにも見えるがな」

「………………いまのオレには…………誰でもいいから晴らしたいような……怨みの気持ちだとかは……ない…………あるとすれば、『ボス』を……この手で——」

「…………『ボスは倒された』……そういったら、オマエは信じるか?」

「……なんだと?」

「……オレが死ぬまえ、オレたちはボスを追いつめた。詳しい説明は省くが……オレの部下がヤツを倒せるだけの力を手にした……ヤツはおそらくこの世にいない————」

 

 

 海から吹く潮風の音が、やけに大きく聴こえた。

 一瞬で肌の下の骨も肉も失せて、がらんどうの風船に身が成り果てたような心地だった。

 

 

「………………結局……『失敗した』ということだな……オレは…………ボスを倒すことができなかった……」

「……………………」

 

 

 ブチャラティは何も言えないようで、黙ってリゾットの様子を伺っている。

 リゾットは風に流されるまま漂いそうなのを踏みとどまり、力の失せた足で何とか立っていた。殺意は失せた。怒りもない。怨みの気持ちも——ブチャラティと正面からやりあい、消えてしまった。

 もはや自分に何もない——リゾットがそう悟った時だった。

 海から風が吹き寄せ、柔らかく頬を撫でた。

 

 

(潮風か……)

 

 顔を上げれば、晴れ渡る青い空と眩く燃え上がる太陽が眼に映った。

 晴天を背景に、白い岸壁とエメラルドグリーンの海も見えた。

 数百年前から変わらずにある、サルディニアの風景だった。

 美しい土地だった。そんなことにも気づかないぐらい、自分を失っていたのだ——

 

 

「…………皮肉だな…………」

「何がだ……?」

 

 

 ブチャラティが問いかけると、リゾットは左右に首を振った。

 

「…………オレの気持ちはいま……『清らか』だ……」

 

 リゾットはひどく安らかで透き通った心持ちになっていた。

 野に打ち捨てられた一本の剣ならば、今の自分の気持ちが解るかもしれない。

 もはや誰に使われる道具でもなく、この身を削って戦う必要のない存在。

 

(……いや……こんな心持ちになれたのも…………ブチャラティとの……戦いのおかげか……『全力を出せる』……そんな相手、オレには今までいなかった——)

 

 

 死力を尽くした戦いだった。そのおかげで『あっけない敵』ではないと証明できた。

 もはや、何一つ悔いは残っていない。

 そう考えたとき——リゾットはその力を感じた。

 

 

「…………ブチャラティ……オレはゆくよ……」

 

「……どこへだ?」

 

 

「……………………わからんな……」

 

 

 その力は大きかった。引き上げる————あるいは落ちるような感覚だった。

 だが、その力は柔らかくリゾットの身体を包み、緩やかに運ぼうとしていた。まるで父母に抱かれている時のような安らかさだった。

 ゆっくりと浮き上がっていくリゾットの姿を、ブチャラティは驚いた顔で見ていた。

 何の支えもなく宙に浮いていることに、リゾットは不安を覚えなかった。

 これから向かう先がどこなのかも、気にならなかった。

 

 

「…………本当に皮肉だな…………オレは、死んだあとに『甦った』…………オマエとの戦いで……心底全力を尽くせて……もはや悔いもない…………ボスの道具として殺す『暗殺者』でもなく…………仲間を殺されて怒りに燃える『復讐者』でもなく……一人の『男』として…………安らかに逝けるよ」

 

「………………」

 

 

 ブチャラティは黙っていた。

 

 

「…………ブチャラティ……オマエもここには長くいないんだろう…………オレとオマエの行く場所が——同じとは限らんからな…………だから、代わりに言わせてもらうぞ……」

 

 リゾットは静かに告げた。

 

さよならだ(アリーヴェデルチ)

「………ああ、また会おう(アリーヴェデルチ)

 

 

 二人の男は骨っぽい笑みを交わした。

 二人が交わしたものは、それが最後だった。

 黒衣の姿が漂う煙のように薄れて、潮風に洗われて融けていく。

 色も形も定かではなくなり、強烈な陽射しが、霞んでいく暗殺者の身体を透かした。

 晴れ渡る空の中に、リゾット・ネエロは消えていき、見えなっていく……だが、ブチャラティは眩い太陽の輝きに眼を射られながら、眼を凝らし続けた。

 消えゆく男の名残りを求めるように、残された男は眼を細めて太陽を見つめていた——

                   

                   

                   

                                     

 リゾット・ネエロ

 ⇒死亡後、『悪霊』と化しつつあったが『昇天』。

  その行く先は、何者にもわからないだろう。

 

.6

 

 たとえば母が亡くなったと思ったらよく解からない連中に連れ去られて短くも過酷な旅の果てにすべての元凶だった実の父が死んで旅が終わったと思ったら知らない土地の知らない家に鍵を渡されて押し込められて、

「あなたはこの家に住むべきだと思う……彼もそうきっと望んでいる」

 なんて言われて、そのあとは放っておかれたら(これはウソ。彼らはわたしを放っておくなんてできないのでちょくちょく隠れて様子を見に来る。気づかれてないつもりかしら?)、あなたならどう思うだろう。

 わたしはとりあえず叫んだ。大声で叫びまくった。

 なんでわたしがこんな目に遭わなければならないのか。聞く者がなくても、叫ぶ権利はあると思ったからだ。

 あとはひたすら泣いた。とにかく泣いた。涙が涸れるまで泣いた。涸れたので、いっぱいになった水差しから直接水を飲み干して、改めて思いっきり泣いた。

 彼との出会いは唐突だったし、別れも唐突だった。

 いや、あれは別れなんていうものじゃない。彼はああなることを解っていたらしい。だが、わたしはそんなことも知らず、彼が生きていると信じて戻ったのだ。

 そこには彼の死体しかなかった。

 時おり、わたしはじぶんが呪われた子なのではないかと考える。

 わたしの周りには死人が多すぎる。

 元凶は父だとしても、すべてが終わりに向けて動き出すきっかけは、わたしだったのだ。

 そんなことわたしには関係ない——そう思えたら話も簡単なのだろう。

 すべてが終わったあとの映画のヒロインのように、さっさと日常に帰るのだ。

 だが、わたしにはどうもそれが難しかった。

 

 生活。生活こそが問題だった。それは毎日毎日投げ込まれる手紙のように思える。

 受け取って一日かけて返事を書いて送りだしても、次の朝にはまた投げ込まれる。

 しかし、どんなことでもすることがあるというのは、今のわたしにはかえってよかったのだろう(もしかしてそれも彼らの計算のうちだろうか? まさかねって感じ)。

 掃除は大変だった。

 彼はたまに帰ってきてやっていたようだから、一から全部、というほどではなかったけれど、それでも人が住まないと、家の中というのは荒れてくる。

 わたしはすべての窓を開け放して空気を入れ替え、動かせる家具を外に出し、片っ端から掃いて拭いて磨いた。家具や食器を磨くのに没頭していると、頭は考えるのをやめてくれた。

 そういえば彼らとは掃除夫(婦ではない。ナランチャは間違えていたし、ジョルノも勘違いしていた)として出会った——なんてつまらない回想は皿を曇りなく磨く間に消えた。

 洗濯しようにも服が足りなかったので、わたしは変装して隠れているミスタを捕まえると(このとき帽子を被っていない彼を初めて見た。いい頭の形をしていた)、印をつけたファッション誌を渡して、にっこり笑った。

 ろくな服も持たせず放り出したことに、彼らは初めて気づいたらしく、次の日には三人揃って服の山を抱えて戻ってきた。だけど靴を買うのを忘れていた。

 男たちだけではこんなものだろう。仕方がない。

 仕方がないので、その場で叩きだして、その日のうちに靴を買い揃えさせて、次の日には持ってこさせた。

 姿見の前で服を合わせるのは楽しかったが、お楽しみはそこまでだった。

 彼ら曰く「まだ情勢が安定していない。もうしばらくここに隠れていてほしい」。

 つまり、新しい服で街中を出歩くなんてもってのほかだ、というわけだ。

 それも仕方ない——存外に諦めのいいわたしに、彼らは驚いていた。

 わたしも驚いていた。外に出ていくことが、わたしには恐くて仕方なかったのだ。

 

 料理は楽しかった。

 掃除は仕方なくすることだ。選ぶ余地はない。だが、料理には選ぶ余地がある。

 漁村というのもあって新鮮な魚が手に入るのがうれしかった。

 食材を仕入れに行くと、村の女性たちが好奇の目でわたしを見てきた。

 遠巻きに眺められるだけで、話しかけても来ない。よそ者に対する態度だった。

 そのことは気にならなかったが、あるとき一人の女性が話しかけてきた。

 

 

「アンタ、あそこの家に世話になっているのかい?」

 

 

 わたしは一瞬迷ったが、うなずいた。

 女性は納得したと重々しくうなずくと、わたしの腰を叩いた。

 

 

「アンタも事情がある子なんだろうさ。辛抱するんだよ」

 

 

 翌日から、地元の主婦たちはわたしに普通に話しかけるようになった。

 彼女たちは親切におすそ分けを日替わりで持ってきてくれたり、日用品を持ってきてくれた。

 あまりの歓待ぶりに驚いた。彼女たちは口をそろえてこう言った。

 

 

「あの家にいるってことは悪い子じゃないんだろうさ。もう少しの辛抱だよ」

 

 

 彼女たちの口ぶりには純粋な親切心と、篤い信頼感があった。

 彼女たちはわたしを信じている……というより、彼を信じているようだった。

 

 毎日の家事はいいヒマつぶしだった。

 することがある、というのは悪くない。

 空いた時間は本を読んだ。

 ジョルノたちがヒマだろうと雑誌や本を送ってくれたのだ。

 しかし、一番繰り返し読んだのは家に一冊だけ残っていた本だった。

『老人と海』のペーパーバッグ。

 彼も繰り返し読んだのだろう。表紙はヤケがあり、ページには手垢のあとがあった。

 だけどその古びた本のページをめくるたびに、わたしは彼の心の内を覗きこんでいる気がした。

 日々は何事もなく過ぎていった。

 彼らは情勢が落ち着いたことを連絡してきた。つまり、わたしが外を出歩いても問題ない、ということだ。

 だけど、わたしはこの家が気に入っていた。

 ずっとここで過ごすつもりよ。

 そう告げると、彼らは難しい顔をして、結局退散していった。

 この家も、漁村も、ひどく穏やかな時間が流れていた。

 彼も、この家で穏やかな時間を過ごし続けていたのだろうか。

 だとしたら、この家から離れたのは何故だろうか……こんな満ち足りたところなのに。

 

 眠りを破ったのは、電話のベルの音だった。

 長椅子に身を投げ出すように寝ていた私は手をついて跳ね起き、慌てて電話をとろうとして——手を止めた。

 窓の外はすっかり日が暮れていた。

 この家に電話をかけてくる人間はいない。

 ジョルノたちが電話をかけてくる時間が決まっている。様子見を兼ねた定時連絡なので、彼らから指定されて、その時間帯はいるように心がけている。

 この村で知り合った人間は電話なんかかけてこない。

 急ぎの連絡というのはほぼも存在しないし、本当に急ぎなら、急いで走って直接話に来る方が早いからだ。

 誰だろうか——わたしがここにいるのを知っている人間はいない。

 だとすれば……彼の親族だろうか。しかし、この家を空けているのは、親族ならば知っているはずだ。

 電話はコール音でわたしを急かしている。

 相手から電話を切る気はないようだ。

 

 

「…………あなたが誰か知らないけれど…………あきらめが悪い人みたいね」

 

 ジョルノたちからの緊急連絡の可能性もある。わたしは受話器を取った。

 

「もしもし?」

「――――――」

 

 

 電話の相手は何も言わなかった。

 だけど電話に出た瞬間、息を呑むかすかな音が聴こえた。

 

 

「もしもし?」

「――――――」

 

 

 呼びかけてみたが、やはり応答はない。

 わたしはしばらく黙って受話器を耳に当てていた。

 いたずら電話なら、ただ黙っているだけというのもおかしい。何かしらの反応を求めて電話をするのだから、自分の息の音を聴かせたり、何かささやいたりするものだ。

 相手はただずっと黙っていた。

 

 

「…………ねえ、あなたは誰なの? この家の家主なら…………いま、留守にしているわ。わたしはこの家を借りているだけなの。何か伝言があるなら伝えてもいいわ」

 

 相手は無言のままだった。

 

「まさかジョルノじゃないでしょ? ミスタならこんなイタズラしないわよね。子供の頃にゴムの蛇を人のポケットに放り込んで驚かしてたタイプだもの。もっと大げさなことをするわ…………ねえ、本当に誰なの?」

 

 無言。

 わたしはいらだって、電話を切ろうとした。

 だけど、あることに気づいた。

 声以外の音が、微かに聴こえる————

 

 

(なにかしら、この音…………)

 

 わたしは受話器を強く耳に押しつけて、その音を確かめようとした。

 寄せて——返す——繰り返される波の音。

 ここは漁村だ。ここでだって波の音は聞こえる。だけど、受話器の向こうから聞こえる波の音は、骨身を震わせて、揺さぶるような——不思議と懐かしい音だった。

 

 

「————」

 

 相手はやはり無言のままだ。

 わたしは長椅子に掛けると、小声で尋ねた。

 

「ねえ、わたしに何か用なの? 電話をかけてきたってことは、話したいことがあるの?」

 

 無言。

 

「…………話せない事情でもあるの?」

 

 無言……いや、微かな息を呑む音。

 

「話せないのね? わたしの声が聞きたいだけ?」

 

 また、微かな息の音。

 

「…………そう」

 

 わたしは仰向けに長椅子に横たわり、天井を仰いだ。

 喋れない相手がかけてきた電話している。まったく奇妙な状況だった。

 わたしがここにいて、この番号を知っている者がいるとしたら……それは『危険』だ。

 ディアボロから乗っ取った『組織』をジョルノは抑えた、と言っていた。反逆者が出てこないようにしている。

 だが、わたしがかつてのボスの娘というのは変わらない。

 わたしを狙う者がいてもおかしくはない——

 だけど、この相手が、わたしにはどうしても警戒するべき存在と思えなかった。

 わたしは波の音に耳を凝らしながら考えていると……また別の音が聴こえた。

 音色—―――歌声————女性の歌う声。

 

 

ああ私には考えられない(Oh, I don't think) そんなに長く私が待てるなんて(I can wait that long)

 

 

  聞き覚えのある歌声に、わたしはいよいよ耳を疑った。

 母の愛聴していたレコードだ。フランスの女優が作詞をし、自らカバーをした曲なんだと話していた。

 懐かしい歌声。思い出そのものの響き。

 

「あなたは誰なの?」

 

 

 無言なのはわかっていた。

 だからわたしは構わず話しつづけた。

 

 

「ここは悪くないところよ。悪くない人が住んでいたところだから、家に人格が染みついているのね。ずっとここに住みたいくらいだわ……」

 

 わたしは取り留めなく、ここの生活を話して聞かせた。

 家を掃除するのが大変だが楽しかったこと。

 最低限の服しか持たされたなかったからジョルノたちに買いに行かせたこと。

 近所の主婦が毎日おすそ分けを持ってきてくれるので、食事に困らないないこと。

 刺激的なことがなくても、毎日心穏やかに気持ちよく過ごせていること——

 

 

「わたし、ここでならずっと過ごせる気がするわ」

 

 不意に相手が鼻を鳴らす音が響いた。

 

 

「…………あなた……もしかして…………泣いているの?」

 

 洟をすするような音、少し荒い息……わたしは頭の中で泣く子供の姿が浮かんだ。

 いや、泣く子供ではない。泣くのを我慢して眼を赤く腫らしている子供だ。

 

 

「ねえ、何を泣いているの……? わたし、なにかおかしなこと言ったかしら? 子供の時のトラウマでも刺激されるようなこと? それならわたしの知ったことじゃないんだけど……」

 

 無言。無言。無言——ただ、泣き出すのを堪える息の調子だけが響いていた。

 そこで、わたしの言葉は途絶えてしまった。

 泣いている相手にかける言葉が見つからなかった。

 そもそも相手が、誰かも知らない。母と同じレコードを持っている人間というだけだ。

 そこで私は、突拍子もないことを思いついた。

 まるで子供だましみたいな真似だけれど……どうせ話さない相手なのだ。

 わたしは好きにやることにした。

 

 

「歌を聴かせてあげるわ。母の子守歌よ」

 

 

 わたしは歌った。

 

 

子供の頃は生きるのが簡単だったわ(Childhood living is easy to do)——〉

 

 

あなたのほしがるものは(The things you wanted)なんでも買ってあげられた(I bought them for you)

 

 

 マイクに向けて、とはいかないし、母ほどに美しい歌声でもない。

 それでも母がわたしに歌ってくれたように——

 

 

あなたはもう私をひきずってはくれないの(Wild horses couldn't drag me away)?〉

 

 

 眼を閉じて歌うと、瞼の裏になく子供の姿が映っていた。

 その姿は何故か、子供の頃の彼——家に置いてあった写真で見た——の姿に似ていた。

 

 

鈍い痛みに苦しむ姿を見てきた(I watched you suffer a dull aching pain)

 

 

あなたはいま同じ姿を私に見せようとしてる(Now you decided to show me the same)

 

 

 自分の歌声が電話の向こうの相手なのか、子供の頃の彼に向けてなのか……それとも私自身に向けてなのか……判らなくなってきていた。

 

 

わかってる(I know) あなたがわたしが夢見た罪と嘘(I dreamed you a sin and a lie)

 

 

自由はあるのに 時間は足りない(I have my freedom but I don't have much time)

 

 

信じる心は砕けて 涙が流れ出す(Faith has been broken, tears must be cried)

 

 

死んだなら ふたりで(Let's do some) 新しい生活を送りましょう(living after we die)

 

 

あなたは(Wild horses)もうわたしを引きずってはいけないの?(couldn't drag me away)

 

 

ねえあなた(Wild, wild horses)いつかわたしたちは二人でいけるわ(we'll ride them some day)

 

 

 歌い終えて……眼を見開く。

 電話の向こうからは繰り返される波の音だけが響いていた。

 

 

「…………ねえ、どうだったかしら……感想ぐらい聴かせてよ」

 

 わたしは気楽な調子で尋ねたが、やはり返事はなかった。

 それでもよかった。瞼の裏に焼きついた幼い彼の顔は、笑っていたからだ。

 長椅子に横たわって、まどろみにたゆたう。外からと電話から聞こえる波の音が二重奏になって、眠りに誘ってくる。

 それも心地よくて、ゆっくりと意識を手放しかけた時だった。

 

 

さようなら(アリーヴェデルチ)、トリッシュ」

 

 

 

「……え?」

 

 

 電話越しに、彼の声を聴いた。

 だけど、その時には通話が切れていた。

 わたしは受話器を耳に押しつけたまま、困惑していた。

 受話器からは単調な待機音が聴こえてくるだけだった。

 

 

 

「………………いいかね、ブチャラティ」

 

 

 ブチャラティは携帯電話を〈顔のない男〉に返した。

 

 

「…………演出過剰だったかな」

 

 

 肩をすくめて返すと、〈顔のない男〉は笑う雰囲気を顔から発した。

 レコードをかけたのは彼だった。何を話したらいいかわからず、戸惑っているブチャラティの代わりにレコードを再生したのだ。

 

 

「助かったよ。本当に満足した…………実を言うと、トリッシュがいる家だって、教えてくれた番号を打ち込んだだけで……オレは救われた」

 

「…………ほう? どうしてだね」

 

 

「あの家の番号だってのは解ってた……親父の家にトリッシュがいる……彼女があそこにいるってことは……フーゴが一人じゃないってことだ」

 

 

 ブチャラティが死んだときに心残りだったのは、ただ一つだけ。

 フーゴがどうなったのか、これから、どうなるのか。それだけだった。

 フーゴはブチャラティにとって腹心の部下だった。多くのことを任せていた。帳簿や縄張りの管理……それに『持ち家の管理』も。

 

 

「…………あの家のことを知っているのは……フーゴだけなんだ…………ジョルノはフーゴを——いや、フーゴがジョルノを、赦してくれた……ジョルノとミスタとフーゴの三人ならば……すべてを任せられる」

 

 ブチャラティは赤くなった眼を細めて、海の向こうを見据えた。

 暗い海と紫紺の空の狭間で、ゆっくりと赤い裂け目が広がりつつあった。昇りゆく太陽が黄金の輝きで夜の名残りを洗い流す時間も近い。

 

 

「トリッシュが安らかで……オレの部下が、孤独じゃないのなら……オレはもう、何も要らない」

 

 

 水平線の向こうから、ゆっくりと太陽が顔を覗かせる。

 朝日が濃紺の海を照らして、揺れる水面を黄金に輝かせた。

 空は陽光に透き通り、重たげな紫紺から澄んだサファイアの色に塗り替えられた。

 やわらかな光がブチャラティにも届けられる。

 朝日に照らされたブチャラティの身体は、おぼろげに透き通っていた。

 

 

「…………オレは『幸福』だ……死ぬときも幸福で……再びこの世を去る時も、こんな幸福な気持ちでいられるなんて……感謝するよ、あんたのおかげだ」

 

 

『顔のない男』は微笑んだ。穏やかな雰囲気を発して、慈父の如き眼差しを、ブチャラティに注いでいる。もはや言葉はなく、黙って見送っていた。

 太陽は夜を退けた。

 眩いサルディニアの陽光が、海面を、砂浜を、木々を、岸壁を、家々を照らす。

 しかし、照らし出された楽園の地に、一人のギャング——いや、一人の『戦士』の姿は消えていた。

『顔のない男』もまた、大気に溶けた泡のように消え去っていた。

 サルディニアが平穏を取り戻したことを、まだ誰も気づいていない。

 人々はまだまどろみの中にいる。

 ただ、繰り返す波の音と吹き寄せる潮風だけが、清新な一日の始まりを告げていた。

 

 


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