アヤはピアノが弾ける。そう高校のクラスメイトには思われている。ただそれは弾けるという事実であって、自分のピアノを求められているということではない。大多数の人間は音楽を評価などしない。だからこそただの『静浜アヤ』で居られる。アヤ自身、ピアノの技術に価値を求められたくなかった。もしクラスの誰かから自分のピアノの音楽性とか、技術とかに興味を持たれても、その相手を好きにはなれないだろう。
めんどくさい奴だなと、アヤは自分でも思う。ピアノは好きだ。弾くことも聴くことも。だが、ピアノをやるからなんだと言うのだとも思う。ピアノと人間の価値を同一視するあの世界はもうごめんだ。
(あたしはなんで弾き始めたんだったかな)
うまく思い出せなかった。アヤがそんな事をぼんやり考えていると教師に名前を呼ばれる。
「静浜、次の段落早く読んで」
「えっ。あれ? すみませんどこでしたっけ」
「ばかもーん。二年に上がってまだ浮かれてるのかあ?」
クラス中に和やかな笑い声が満ちる。アヤは前席のクラスメイトに教えてもらい、慌てて国語の教科書を音読するのだった。
※
「アヤ、一緒に帰ろ」
友人の誘いを受け、アヤは両手を顔の前で合わせる。
「ごめん、今日は先に帰ってて!」
「あー、弾いてく感じ? おっけー」
アヤが時々音楽室のピアノを借りている事を大抵のクラスメイトは知っている。だから何かが変わる訳でもない。アヤにとってそれは幸福だった。
誰も居ない音楽室でピアノの前に座る。なんのプレッシャーも無く、ただピアノと、自分がここに在るだけ。弾くのは即興の曲だ。何も考えず、何にも従わない。それがなによりも楽しい。
(あ、思い出した。ピアノを始めた理由)
なんのことは無かった。小学生の時の宿題で、鍵盤ハーモニカの演奏を親に褒めてもらったからだ。もっと鍵盤が多ければもっと褒めてもらえるかもしれない。そんな無垢な理由。そうして親にお願いして教室に通っているうちに、アヤはコンクールに出ていた。結果は優勝だった。小さなコンクールだったが、アヤは有頂天だった。沢山褒めて貰えた。ただそれだけの事で。
その時の講師の熱烈な勧めで、名門とされる教室に通うことになった。アヤは才能を見込まれて入会を認められ、大きなコンクールにも出るようになった。良い結果も出た。だが、いつしかピアノを弾くことでなく、ピアノで評価されることに周りの興味が向いた時、アヤの情熱は冷めた。
「違う。やり直し」
「そこはもっと穏やかに」
「作曲家の指示をよく考えろ」
アヤは混乱した。とっくに世を去った人間の思惑など誰が知るものか。自分の中に反発心がどんどんと蓄積していくのを感じた。『正確な情緒豊かさ』というアヤからしてみればタチの悪いレトリックにしか思えない物を押し付けられ、我慢して弾けば叱られる。それでも、アヤの成績は揺るぎなかった。老若男女問わず、負けた者の視線に背中を灼かれながら。まだ中学生のアヤはピアノに向かい続ける。
もう何が楽しいのか分からなかった。そして、周囲の人間は何が楽しくてピアノを弾いてるのかと疑問に抱き始めていた。なぜ勝ち負けを決めるのだろう。どうしてあの子は泣いているんだろう。つらい。苦しい。そんな感情がピアノに絡み付いているのが見えた気がした。そして、アヤは指が動かなくなった。コンクールでもミスを連発した。譜面が覚えられない。鍵盤が白黒とした物言わぬ石塊へと姿を変えた。失敗したコンクールの帰り、車の中でアヤは母親に宣言した。
「もう楽しくないの。あたし、ピアノ辞める」
母親は「そうだと思った」と頷いた。
「あんた、昔はピアノ弾いてる時笑ってた。でも今はずっと難しい顔してたから」
「あたし笑ってたの?」
「そう。ピアニカの時から。だから習いたいって言った時も良いよって言ったんだよ」
「そっか。なんか、ごめんね」
「謝ることじゃないよ。でも、ひとつだけ覚えておいて」
アヤは運転席を見る。そこにはいつになく真剣な顔をした母の横顔があった。
「親ってのはね、子供が楽しそうなのを見るのが幸せなんだよ」
なにげない言葉だったが、アヤは泣いた。悔しいのか、申し訳ないのか、分からなかった。
「あたし、ピアノは好き。でも、弾くのが怖くなっちゃった」
「うん」
「皆褒めてくれたのに、だから頑張ってたのに。あそこは皆難しいこと言って、難しい顔でピアノ弾いて、聴いて・・・・・・。楽しくなかった」
「うん」
それきり黙りこくったアヤに、母は優しく微笑んだ。
「あんたはあんたの為にピアノを弾きな。それだけだよ」
その言葉が今のアヤを作っている。いま誰もいない部屋で、音と私ひとり。ピアノは『独り言』でしかない。少なくとも自分にとっては。
一通りやりたい事を終え、アヤは音楽室を出た。一緒に帰ろうと誘ってくれた友人が壁にもたれて立っていた。彼女が軽く右手を上げる。
「よっ」
「あれ? まだ帰ってなかったの」
「たまには聴いてみようかなって」
「そっか。入って来たら良かったのに」
「邪魔かな〜って」
「お気づかいなく」
二人は学校を出て、夕焼けの町を並んで歩く。初夏の爽やかな風が心地良い。アヤはふと気になった事を口にする。
「あたしのピアノ、どうかな」
「え? 上手いと思う」
「ありがと。でも聞きたいのはなんというか、もっと表現とか印象のことなんだけど」
「あ〜。分かんないよそんなの。私シロウトだもん」
「・・・・・・ごめん、変な事聞いちゃった」
アヤが謝ると、友人は少し何かを考えてから、アヤの顔を見る。
「なんかね、楽しそうだったよ」
「ほんと?」
「だって笑ってたし」
「は? 覗いてた?」
「ちらっとね。だから、お邪魔かな〜って思ったワケよ」
「ぎゃ〜恥ずかしい」
アヤが顔を手で覆う。今度からマスクでも着けようかな、などとぶつぶつ言っているアヤに、友人が首を傾げた。
「そういや、あんた人に聞かれるのは嫌じゃないの?」
「えっ、なんで」
過去を見透かされたような錯覚を覚え、一瞬身体が強ばる。
「いや、一人で弾いてるから恥ずかしいのかなって。せっかく上手いんだからもっと聴かせればいいのに」
「・・・・・・ちょっと、ね」
口ごもるアヤに、友人が「あっそうだ」と声を上げた。こういう時、彼女は大体ろくでもないことを言い出す。
「帰る途中にある駅にピアノあるじゃん?」
「ゼッッッタイやだ」
アヤはみなまで聞かずに否定する。だが友人は食い下がった。
「なんで! 結構弾いてる人居るじゃんアヤもやろうよ」
「やだやだやだやだ」
「子供か!」
「あたち、じゅうななさいでちゅ・・・・・・」
「きもっ。いいから来るんだよ、見せたいものがあるから」
「ええ〜?」
そして十数分後、例のピアノが見える壁際に二人は立っていた。ここは新幹線なども通る大きな駅で、音楽機器の会社が県の有名な企業ということからか、立派なグランドピアノが設置されている。確かに今も弾いている青年が居る。大学生くらいだろうか。正確な演奏だった。
「なによ、見せたいものって」
「ほら、あの弾いてる人。時々居るんだけどさ」
「はあ」
「めっちゃイケメンじゃない?」
「どうでもええわ・・・・・・」
「なんでや!」
脱力してそのまま帰ろうとするアヤの手を友人が引っ張る。仕方なく演奏が終わるまで友人に付き合うかと思い、ふと目を細める。
「あれっ。あの人・・・・・・」
「なに、知り合い?」
「というか、たぶん同じピアノ教室に居た」
「それマジ? 紹介して」
「いや喋ったことないし」
そんな調子でごちゃごちゃとやっていると、ピアノを弾いていた青年が立ち上がった。ようやく帰れる、とアヤが安堵したのも束の間、なんとその青年がこちらに歩いてくる。
「アヤ、こっち来てるけど」
「は? 逃げよ」
「なんでやねん」
思いっきり目が合っている。もう逃げられないなとアヤは観念した。青年が会釈し、声を掛けてくる。
「あの、人違いだったら申し訳ないんですが。静浜アヤさんですか?」
「えと、はい・・・・・・ソウデス」
とても居心地が悪そうなアヤに気付かず、友人が「お知り合いなんですか」と食い気味で訊ねる。青年ははにかみがちに頷いた。
「お話した訳では無いんですが、同じピアノ教室にいらっしゃったので。コンクールでも活躍されてたので、皆の憧れだったんですよ」
友人は驚いた顔をしている。アヤはコンクールうんぬんの話は誰にもしたことが無い。
「あれから、もう弾いてはいらっしゃらないんですか?」
「・・・・・・」
残念そうな青年の声に、アヤは応えられなかった。弾いてはいる。だが、それは彼の知る自分のピアノではない。彼の求める『静浜アヤの答え』ではない気がする。だが、友人が力強く頷いた。
「アヤのピアノ、大好きなんですよ。私」
「いや初耳だわ」
「ほんとほんと」
その友人の言葉に、青年の顔がぱっと輝いた。
「僕も好きなんです! 静浜さん、ほんとにもし良かったらでいいのですが、一曲弾いてくださいませんか。ずっとファンだったんです。教室を退会されたと知ってすごく残念だったのを今でも覚えています」
アヤが躊躇いがちに断ろうとする。
「あの、私はもうあの時とは」
「いいじゃん、ぶちかまそうよ」
「てめ〜〜勝手なことを〜〜」
無責任にノリノリな友人の頭をぐりぐりとやる。二人分の期待のこもった視線にアヤはため息をついた。もう知らない。そんなに言うなら聞かせてやろう。これは別れの曲だ。青年の哀れな憧憬と、自分の過去への葬送曲。
アヤはピアノの前に座り、深呼吸した。そして鍵盤を叩き始める。弾くではない。叩くだ。ボコボコにしてやるという気迫を持って。フリージャズのようにただ自分の持っているコードやリフを組み合わせ、あるいは崩し、曲名の無いなにかを奏で続ける。
解釈? うるせえ。
指定? 知らねえ。
音というのはこういうもんだ。なんでも叩けば音は出る。まるでバスドラムのようにペダルを踏み抜き、白黒の螺旋階段を駆け抜ける。そうして気が済むまでピアノに暴行を加え、アヤは息を切らしながら席を立った。見たかこの野郎。友人と青年の方を見ると・・・・・・見えない。
なぜか人だかりが出来ている。名前を呼ぼうとしたが出来なかった。拍手が鳴り止まないせいだ。アヤは呆然としていたが、慌ててペコペコと頭を下げる。拍手さえなければ謝罪会見のようだ。逃げるようにアヤはピアノを離れ、友人と青年を置いて駅を出ようとする。後ろから二人分の足音が聞こえた。
「アヤ、どこ行くのよー」
「帰る!」
「静浜さん、待ってください」
「うう〜」
アヤは渋々立ち止まり、振り返った。青年が深くお辞儀をし、頭を上げた。頬が紅潮している。
「凄いです。素晴らしいです。ジャズも弾けただなんてやっぱり凄いです」
「いや、その、あれは・・・・・・」
青年の崩壊しかかった語彙に気圧され、アヤは申し訳なくなる。あとピアノメーカーさんごめんなさい。ペダル壊れたかも。青年に負けず劣らず顔を真っ赤にするアヤに、友人が呑気に訊ねる。
「ねえ、あれなんて曲? めっちゃ好きなんだけど」
アヤは友人を睨み、投げやりに答えた。
「“shut up.I don't know”(うるせえ、知らねえ)」
※
青年と別れ、日が暮れつつある町をアヤは友人と歩いていた。
「めっちゃ人集まってたじゃん。天才なんじゃない?」
「いやもうマジで無理ほんと恥ずかしい」
「なんでさ〜。あ、私こっちだから。じゃね」
「あいよ。気を付けて」
一人になり、ようやく静かな時間を取り戻したアヤのスマホに一件の通知が入った。今しがた別れた友人からのメッセージだ。
『弾いてる時の動画と写真送っとくわ! また聞かせてちょ♡』
「あいつ・・・・・・ころす!!」
アヤは道を引き返し、全力で友人を追ってダッシュした。とことこ歩いていた彼女が振り返り、ギョッとして逃げ始める。
「待てコラ!」
「くそう、家に着いてからにすればよかった」
「消せ! いますぐ!」
スマホに表示されているアヤの顔は、かつてなく輝いていた。今の形相とは似ても似つかぬほどに──