駅でピアノを弾いてから数日後、アヤはまた放課後の音楽室でピアノを弾いていた。今日は友人も一緒だ。ちなみに友人の名前はサヤという。名前が似てるという理由でたまたま話しかけてきた事が、話すようになったきっかけだ。
「ねえあやややや」
「次からその呼び方返事しねえからな。なに?」
「あのねー、私よく喫茶店巡りするんだけどさ。ふと気になってピアノが置いてある所とかないのかなって調べてみたのよ」
「うん」
「あったんですわそれが。割と近くに。今度聴きに行かない?」
「なるほど。いいよ」
という訳で、二人は土曜日の昼下がり、その喫茶店に向かった。どうやら時々小規模なライブハウスとしても営業しているようで、席の配置がピアノからできるだけ均等な距離になるよう考えられていた。ピアノはアップライトピアノで、ステージに横向きに置いてある。アヤとサヤは窓際の席に着き、演奏が始まるのを待つ。サヤがアイスコーヒーを吸いながらスマホを振った。
「ここSNSでいつ演奏やるとか告知してるからさ、これから聞きに来ようかなって」
「なるほどね。私も来ようかな」
「アヤは人の演奏聞くの好き?」
何気ない質問だが、アヤは少し考えてから答えた。
「堅苦しくなければ」
「なにそれ? あ、コンクールとかコンサート的な?」
「うん。こういうストリート的なやつは好き」
「なるほどね」
おしゃべりしていると、奏者と思われる女性が店員用のドアから出てきた。ピアノの隣に立ち、お辞儀をしてから椅子に座る。少し背が低く、顔立ちも幼めだが表情が鋭い。アヤは何となく見た事のある目つきだな、と思った。
客が静かになる。アヤ達も飲み物のコップを置いた。演奏が始まる。サティの『ジュ・トゥ・ヴ』だ。元々喫茶店などでシャンソンとして歌うために作られた曲で、ここで弾くのにふさわしいと言える。サヤがこそこそと訊ねてくる。
「これ、なんて曲」
「君が欲しい」
「さんきゅ」
サヤがスマホで調べ始める。アヤが教えたのは数ある和訳の内のひとつだが、その方が聴いてる時にイメージが持ちやすいだろうと思ってのことだ。この滑らかな柔らかい三拍子曲を『ジュ・トゥ・ヴ』という聞き慣れない横文字でぼんやり記憶されるより良い。アヤもジュ・トゥ・ヴは好きだ。堅苦しくなくて。
「ほんとはおしゃべりしながら聞く曲らしいよ。知り合いが言ってた」
「そういうのもあるのか。深いなピアノ」
演奏が終わり、客が拍手を贈る。アヤ達も倣った。その後も演奏は続き、その都度アヤはサヤに曲名を教える。
全ての演奏が終わり、奏者の女性が立ち上がった。もう一度拍手が贈られ、女性がお辞儀してから、客席を見回しつつ手を振った。そしてアヤと目が合う。
『あれっ』
そう唇が動いたのが見えて、アヤの拍手の手が止まる。サヤが「どしたん?」とサヤを見た。
「嫌な予感がする」
「ほえ? また前みたいに知り合い的な?」
「おん」
「ピアニストは引かれ合う、か・・・・・・」
「バトル漫画かよ」
ピアニストの女性は軽く挨拶を終え、店員用のドアの向こうに消えていった。思い過ごしだったのだろうか。もしかしたらアヤではなくなにか他の物に目が留まったのかもしれない。そういう事にしておこう。
演奏も聴き終え、飲み物も空になったので二人は店を出ることにした。会計を済ませ、ドアをくぐって歩き出すと。
「アヤさん待って」
(ああ〜〜〜〜〜)
背後から呼び掛けられ、アヤの顔が分かりやすく曇った。サヤは「悪いことしたなあ」と苦笑いする。二人は振り返った。奏者の女性がとことこと駆け寄って来た。太陽光の下で見るととても肌が白い。切れ長の目と相まってクールな印象だ。
「ごめんなさい。本当はこんな風に話しかけるのはマナー違反だろうけど。どうしてもお話がしたくて」
「大丈夫です。どこかでお会いしてましたか」
アヤが観念して訪ねると、女性が頷いた。
「あ、申し遅れました。花潟ミズキです。よろしくお願いします」
「えと、改めまして、静浜アヤです。よろしくお願いします・・・・・・」
「よろしくね。そちらのお連れ様は?」
「どうも、真島サヤです。アヤって有名人なんですね」
サヤの言葉にミズキが頷く。
「コンクール常勝の方よ。当時うちの教室でも注目の的だったの」
「えっ」
「昔の話でござりまする・・・・・・」
サヤのリアクションにアヤが小さくなる。ミズキが話を続ける。
「確か年齢はひとつ下だったと記憶してるけれど、アヤさんは音楽学校に通ってるの?」
それを聞いて二人は顔に出さずに驚いた。年上とは言え、まだ高校生だったとは。確かに背もアヤ達より低く、幼めの顔立ちではあるが、表情や佇まいが大人びて見えるのだ。
「いえ、普通の学校ですよ。ピアノは時々音楽室で弾くくらいで」
「という事は、まだ弾いてるのね? よかった・・・・・・」
安心したような、とても嬉しそうな笑顔にアヤは驚く。どうして自分がピアノをだらだら弾いているというだけで、この人はこんな顔をしてくれるんだろう。それくらい綺麗な微笑みだった。
「ねえ、アヤさん。もし良かったら明日の午前にもここに来てくれないかな。準備中の時間はピアノの練習をしたりしてるの。土日はここでバイトしてるんだけど、多分店長も許してくれると思う。お友達も良かったら」
サヤは残念そうに首を振る。
「すみません、私は用事があるもんで・・・・・・。アヤは?」
「特に用事は無いですけど、いいんでしょうか」
心配そうなアヤにミズキが頷く。
「実はあのお店にはもう一台ピアノがあってね。店長が二重奏出来るようにってもう一人ピアニストを探してたの。だからもしバイトとか探してたらぜひ相談も乗ってくれると思って」
その言葉にサヤが背中を叩いてくる。
「いいじゃん。バイトやろかなとか言ってたっしょ」
「確かに」
ピアノで仕事が出来るとは。アヤも少しわくわくする。バイトも探してはいたものの、どうにも面白くないものばかりで踏み切れずにいたのだ。
「では、明日遊びに来させてもらいます・・・・・・」
「ほんと? 嬉しいっ」
なんだか、クールに見えて可愛い人だなとアヤは思った。少なくとも悪い人ではなさそうだ。約束の時間を決め、アヤ達はミズキと別れた。帰り道、サヤが空を仰いで言う。
「いやー、悪いことしたかなと思ったけど、いい感じになってよかった」
「気にしないで。というか割と私も助かった。面白そう」
乗り気なアヤに、サヤは意外そうな顔をする。
「聞かれるの嫌じゃないんだ。てっきりトラウマでもあるのかと思ってた」
「いや、駅みたいなやつはあれだけど。別に嫌じゃないよ。聴いてもらってこそだと思うし」
「ふむ」
「ただ・・・・・・、なんというのかな。楽しく聴いて欲しいの」
「なるほどね。なんか分かった気がする」
サヤは何か察したようだ。アヤも否定せず頷いた。スタンスを理解してくれるのは有難い。
「もしあんたが働くようになったら毎週聴きに行ったるわ」
「あ、どうも・・・・・・」
「何そのリアクション。喜べ」
「まあ、無理のないよう」
「おっす」
二人は別れ、それぞれ帰宅した。
※
翌日、午前九時。アヤは再び喫茶店を訪れた。店の前にミズキが立っていた。
「おはよう、アヤさん。わざわざごめんね」
「おはようございます。よろしくお願いします」
アヤとミズキは店内に入る。店長だという男性が挨拶してきた。
「初めまして、店長です。ゆっくりしていってね」
「初めまして、静浜アヤです。ありがとうございます」
ミズキとアヤは二人で交代でピアノを弾いたり、好きな曲について話したりした。音楽をする者と話すことはこんなに楽しいのだと、アヤは初めて知った。店長に呼ばれてカウンターに行くと、サンドイッチとコーヒーを用意してくれていた。もう昼前だった。アヤ達は礼を言って、昼食を頂くことにする。
「そういえば、ミズキさんは私がピアノを辞めた理由、訊きませんね」
「そりゃ、色んな事情があるし。失礼になるでしょう?」
「なるほど」
それもそうだ。好きでも続けられなくなる者も居る。アヤはミズキの中に『大人』を見る。なんというか、高校生だと思えない。
「でもまあ、実を言うと凄く気になってはいたの。だってあんなにも素晴らしい演奏だから。今日の演奏もとても素敵だった。むしろコンクールに出ていた頃よりも輝いて見える」
「それは、確かにそうかもしれません。コンクールとかああいうのが嫌いになって教室に通うのをやめましたから」
その言葉にミズキが微笑んだ。
「実を言うと貴方が居なくなってから私もコンクールとか行かなくなったの」
「えっ」
ミズキはカップを見つめながら続ける。黒い水面がきらきらと揺れている。
「私はとても負けず嫌いだったの。いつも先生に『あの子に勝てない』って泣き付いて、必死に練習して・・・・・・」
「・・・・・・」
間違いなく自分の事だった。アヤは黙って聞く。
「その時、先生に言われたの。勝ち負けではなく、愛される者が評価される。あの子のピアノは『楽しさ』が強さを産んでいるって。私はよく分からなかった。いつも完璧に弾くことしか頭になくて、それが技術だと思っていたから。でも、貴方がコンクールでミスをするようになった時、分かった。貴方が・・・・・・『壊された』ことが」
ミズキの声が沈んでいた。
「音楽に勝ち負けだとか正解なんてあるわけないのにね。それを追い求めて、あるいは強いられて。違うでしょって・・・・・・。ある種、音楽に根付く権威主義が嫌いになったのかもしれない。それからコンクールに出なくなって、ずっと自由に弾こうとした」
アヤはコーヒーを啜る。まだ熱い。
「でも、出来なかった」
「出来ない・・・・・・?」
「うん。『正しく』あろうとしてばかりいた私は、音楽が分からなくなった。楽譜に書いてある通りにしか弾けない。なにが『楽しい』とか、どの様に弾きたいとか、そういう欲求が全然湧いてこなかった。自分を戒め過ぎたのかもしれない」
ミズキがコーヒーを飲み干す。まだ熱いとアヤは思っていたが、ミズキには丁度いいようだ。
「貴方に勝ちたいと思い続けた日々が終わったと思ったら、今度は貴方に会いたいとずっと思うようになった。会えて本当に嬉しい・・・・・・」
「え、えと。恐縮です」
ミズキがふふっと笑う。
「まるで恋してるみたいね。ごめんなさいね、急にこんなこと言って。貴方のピアノは本当に楽しそうで、自由で。なにより正直だわ。貴方のジュ・トゥ・ヴもきっと素晴らしいでしょうね」
アヤが照れ笑いしていると、店に誰か入ってきた。まだ開店時間では無いからおそらく従業員だ。その女性はミズキ達を見ると、「あれ〜」と声を上げる。
「花潟先輩、ナンパだなんて珍しいっすね」
「黙りなさい」
(ひえっ)
冗談の会話の範疇だろうが、ミズキの声には謎の迫力があった。貫禄が違う。その女性も首をすくめてみせる。
「他人様がいらっしゃる時に茶化すんじゃありません」
「はい、すみません。あーこわこわ・・・・・・」
そう言って女性は裏に消えていった。
「ごめんなさいね、アヤさん。あの子は演奏部の後輩なの。今日はピアノの他にギターを用意していて、その要員ね。ちなみに店長もギターを弾くのよ」
「なるほど。ほんとに音楽の店ですね」
「素晴らしいお店よね。だから、ピアノでも二重奏が出来る様にしたいのだけれど。アヤさんはいかがかしら。店長はアヤさんが良いなら是非と仰ってるわ」
アヤは強く頷いた。
「ぜひやらせて頂きたいです」
「やった。嬉しい!」
ミズキが手を握ってくる。アヤは照れつつ、その手を握り返した。
※
アヤが諸々の面接などを終えて帰った後、ミズキは開店直前の待機室で後輩と話していた。今日の演奏の確認をする最中、ふと後輩が雑談を挟む。
「先輩が知らない人と話すのほんと珍しいですよね。普段用がない人とほとんど話さないのに」
ミズキが頷く。ミズキは無愛想だと周囲には思われている。人見知りが激しいだけなのだが、本人が幼い身体つきや顔立ちを気にして必要以上にクールに振舞っているのも大きな要因だった。
「あの子は・・・・・・特別なの」
「へえ。特別ですか」
「誰かの演奏が『好きになる』って、実は滅多にない事なのよ。大抵の人はその『楽器』の演奏としてしか認識しない。あの子は、弾いてるあの子自身を含めた作品になってしまう。だからコンクールで負けない。音源だけの勝負なら分からないけど、ピアノを弾いている姿が見える環境ではあの子はまさしく『逸材』よ」
「ふーん。見てみたいですね」
「これからは毎週見れるわ。とても幸せなことに」
「先輩のナンパのおかげっすね」
「黙りなさい」
「ひえっ」
後輩がギターの調整に戻る。ミズキは楽譜を見ながら、かつての記憶を振り返る。コンクールの成績に固執していた頃、ミズキにとってアヤは宿敵だった。だが、彼女が『壊れた』時、ミズキの中に産まれたのは深い哀しみの感情だった。その時気付いた。自分は彼女のピアノを愛していた。いや、ピアノを弾く『彼女』を愛していたのだと。だから一緒に弾ける日が来たのがとても嬉しい。彼女がピアノを続けていた事がなによりも嬉しい。
(確かに、ナンパかもね)
ミズキはひとり苦笑し、楽譜の確認を続けた。来週が待ち遠しかった。