——
創牙が番犬所からの指令を受けるより二時間ほど前。時刻は黄昏、逢魔が時。東京府東京市郊外、南に位置するとある山。
その山奥に、一軒の庵がポツリと建っている。その近くに、人の姿が三つ。一人は歳の頃は十六歳ほどであろう、赤みがかった茶髪をしたやや長身の少年。背に大きく白字で“滅”と書かれた詰襟の黒服を身に纏っている。
一人は彼よりもやや小柄で一つ二つ年下であろう黒髪の少年で、白の上衣に黒の袴姿。
茶髪の少年は
龍一は陽光を蓄えた特殊な鋼で造られた“日輪刀”と自身の力を高める特殊な呼吸法“全集中の呼吸”を用いた剣術を以て人喰いの“鬼”を狩る“鬼殺の剣士”。虎太郎はその剣士を集めて組織された“鬼殺隊”への入隊を目指す隊士候補生だ。
そしてその少し離れたところにある岩に座り、その様を見守る老人が一人。
その老人は白髪頭で顔には深い皺が刻まれているものの、その身体は程よく筋肉がついており、一般的な若者よりも逞しい体格をしていた。
彼の名は
数十合打ち合う二人。やがて拮抗は崩れ、龍一が虎太郎の脳天目掛け唐竹割りの一撃を放つ。
しかしその瞬間、虎太郎は大きく踏み込んで龍一の懐に入り、顎目掛け
「がはっ!」
「そこまで!」
龍一は顎を打ち上げられ、その場に倒れ伏す。その様を見守っていた河原が厳めしい声色で叫んだ。
「し、
「……ああ、大丈夫だ」
虎太郎が倒れた龍一に手を差し伸べ、彼はその手を取り立ち上がる。
「にしても……腕を上げたな。兄弟子として誇りに思うぜ」
「いえ、俺なんてまだまだです」
龍一は相手を讃えるが、虎太郎はかぶりを振って返した。
「然り。お前はまだ未熟、これに驕らず更なる修練に励め! そして龍一、お前もだ。儂の下での修練を終えたからとて、慢心はならぬぞ。常に研鑽し、己を高めるのだ!」
「はっ! 精進いたします!」
「……っ」
岩から降り、着地する河原。弟子たちの方へ駆け寄り、彼らを叱咤する。
一礼して元気良く返す虎太郎。対して、龍一は歯噛みして項垂れていた。
「今日はここまで。庵に戻って飯にするぞ」
河原は穏やかな笑みを浮かべると、庵の扉を開き中を親指で指し示して言う。
既に日は落ち、空全体に闇の帳が降りようとしていた。
「……師兄? どうしたのですか?」
「大したことじゃない。先に行っててくれ、俺は後で行くから」
虎太郎が項垂れたまま庵に入ろうとしない兄弟子に問うと、龍一は笑みを浮かべて弟弟子に返した。
「……程々にな」
「……はい」
龍一は師に視線を移し、その言葉に頷く。河原たちは彼を外に残し、先に庵の中へ入っていった。
——
龍一は、先程師が座っていた岩の方へ歩み寄る。
そして目の前まで来ると、気勢の叫びと共に木刀を岩目掛け振り下ろす。
「はあああっ!」
渾身の力で振り下ろした一撃が岩を真っ二つに叩き割る。
しかし同時に、打ち下ろした木刀も折れてしまった。
(畜生……! こんなんじゃ“奴”には届きゃしねえ……)
龍一は弟弟子の虎太郎と違い、鬼殺隊への入隊を済ませた現役の隊士だ。
しかし育手の下での訓練を終えた後“
最終選別の合格条件は、かつて剣士たちが生け捕った鬼が徘徊する山中にて七日間生き延びること。
彼は鬼を一体も倒せずに最終日を終え、生き延びたが故に合格となった。
入隊後初の任務においては低級の鬼と単独で対峙し、苦戦の末に討伐に成功するも、疲労からその場で倒れ伏してしまった。
挙げ句、加減したとはいえ入隊前の弟弟子との打ち合い稽古にも敗れる始末。
龍一は自らの力不足を痛感する。もっと強くならねばならない——彼の心を焦燥が満たしていく。
数年前のある日、彼の眼に焼きついた光景——突如家を鬼に襲われ、父と母を喰い殺された“あの日”の惨劇が脳裏に蘇る。
両親を喰らった鬼は師によって討たれた。しかし、それで鬼が全て滅んだわけではない。
鬼は元々人間であり、始祖たる
彼が剣士となったのは、鬼の犠牲者や残され哀しむ者を増やさぬよう、全ての鬼を——ひいては、元凶である無惨を倒すため。
だが今のままでは、その目的は果たせない。そのためには“力”が必要なのだ。
((
「だ、誰だ! どこにいる!」
その時、彼の耳に飛び込んできた謎の声。否、その声は頭の中に直接響いてきた。
その言葉は魔界語、声の主は魔獣・ホラー。彼の力を求める心が心の闇……
誰が発しているのかも解らぬ声とどこの言語かも解らぬ言葉に動揺し、辺りを見回す龍一。
狼狽える様子を見せる彼だが、その言葉の意味は感覚で理解していた。
((
「目の前……? ——っ!」
その言葉に促されるように、自身の手に握られた木刀を見る。
そこには、黒い靄のようなものが纏わりついていた。龍一の抱える陰我が折れた木刀に宿り、そこからホラーが顕現しようとしているのだ。
((
「力を与える……俺に?」
((
龍一は困惑しながらも、鸚鵡返しのように問う。するとすぐ直接脳内に声が響き、答えが返ってきた。
「俺の、力を求める心……」
靄の纏わりつく木刀を眺めながら、返ってきた言葉を復唱するように呟く龍一。逡巡の後、彼は声の主と思しき黒い靄に尋ねる。
「……その“力“を得るためには、どうすればいい?」
((
「望む……渇望……」
再び、龍一は返ってきた声の主の言葉を復唱する。話がうますぎる……望むだけで力が手に入るのなら、誰も苦労はしない。
心の底ではそう思いつつも、彼は焦っていた。故に“望んでしまった”のだ——。
「わかった、望んでやる……お前が俺に力を与えるために現れたのなら……そいつを寄越せ!」
((
龍一が力への渇望を口にすると、黒い靄は折れた部分から伸びるように噴き出す。
その様は、新たな刀身を形成していくようにも見えた。
((
「ぐああああああっ!」
ホラーが告げると、勢いよく噴き出し続ける黒い靄は眼孔・耳孔・鼻孔・口などに吸い込まれるようにして龍一の身体の中へと入り込んでいく。
悲鳴を上げもがく龍一だが逃れることはできず、ただその悲鳴が薄闇に染まった空にこだまするのみ。
靄が全て龍一の身体へ入り込む。先程まで悲鳴を上げていた彼は突如落ち着きを取り戻し、折れた木刀を放り捨てて前に向き直り笑みを浮かべる。
その顔は少年とは思えぬ不気味なもので、その瞳は一瞬だけ濁った白色に見えた。彼は、ホラーに憑依されてしまったのだ。
魔獣に憑かれた者は、その魂を喰われ自らも魔獣となる。彼は最早、人間ではなかった。
——
「何事だ!?」
「師兄、どうされました!?」
空に響き渡った龍一の悲鳴に、庵の中で食事の支度をしていた師と弟弟子が外に飛び出して彼の下へと駆け寄る。
「……ああ、師父。それに虎太郎も」
龍一……否、彼の身体を乗っ取ったホラーはかつての師と弟弟子に向き直る。
その表情と声色は彼らの知る龍一と変わらぬものだ。
「一体どうした? 今の声は……」
「……心配には及びません、大したことではないので」
「ならば良いが……庵に戻るぞ、飯だ」
龍一はやや俯き気味になり、河原の問いに返す。
師と弟弟子は龍一を連れて庵に戻ろうとする。だが彼は俯いたまま、その場から動こうとしない——
「師兄? どうされたのです? ほら、庵に戻りましょう」
「……いや、いい」
動こうとしない兄弟子を気遣わしげに見つめ、問いかける虎太郎。
俯いたまま呟く龍一。その呟きに、二人は首を傾げた。
「何故なら」
ゆっくりと顔を上げて龍一が口を開く。そして——
「ここに活きの良い“生き餌”が二人も居るのだからなぁ!」
その身に憑依した魔獣が、本性を現した。
龍一の細身だが程よく締まった身体は、筋骨隆々な六尺五寸(約197cm)ほどの巨躯となり、肌は静脈血のように赤黒く染まる。
口からは鋭い牙が覗き、頭には雄牛のような角が二本生じ、両腕の十指は鋭い刃のような鉤爪となる。それは昔話や民話に登場する“鬼”を彷彿とさせる出で立ちだった。
異形を露わにしたホラーは右手を振りかぶり、爪を振り下ろした。
「っ……!」
魔獣の爪が、かつての師と弟弟子を引き裂かんと迫る。
虎太郎が身構えた瞬間、河原が彼を後ろに突き飛ばして前に立ち、左右の肩から脇腹にかけてを交差状に切り裂かれる。
同時に僅かながら後退したため傷は浅く、薄皮一枚に留まった。
「師父!」
「……」
虎太郎が自身を庇い傷を負った師を案じ、立ち上がって駆け寄ろうとする。
しかし師は後ろの弟子を手で制し、変わり果てたもう一人の弟子の姿を無言で見据えた。
「虎太郎……すまんが、刀を取って来てくれ」
河原は虎太郎を手で制したまま、振り返らずに厳かな声色で指示する。
「まさか、師兄を………?」
「……うむ」
師の“龍一を殺す”意図を察した虎太郎が問うと、河原は依然振り向かず小さく頷く。
彼はただ鋭い眼差しで、鬼の如き異形の怪物と化した弟子を睨み据えている。
「行け!」
「は……はい!」
厳しい声色で命じる河原。虎太郎は短く返すと、勢いよく庵の方向へ走り出した。
「逃したか……まあいい、奴を喰ろうたところで大した力は得られまい」
先程まで龍一の姿をしていたホラーは庵へ走っていく虎太郎を一瞥した後河原に視線を移し、口角を吊り上げて不気味に笑う。
その口から覗く鋭い牙が、禍々しく妖しげに輝いた。
「その姿、奴に……鬼舞辻無惨に唆されたか……何故だ!」
「鬼舞辻無惨? ……ククク……ハハハ……ハーッハッハッハ!」
厳しい口調で問い質す河原。彼はホラーの存在など知らないため、変わり果てた龍一の姿を“鬼”と認識するしかない。
その言葉を聞いてホラーは高笑いし、薄暗い空に哄笑がこだまする。
「この力を奴如きが与えたものと思っているとは、笑えるな。そもそも俺は鬼などではない」
「……何?」
邪悪な微笑を湛えて言うホラーの言葉に、怪訝な顔で聞き返す河原。
一部を除きほぼ全ての鬼には無惨の“呪い”がかかっている。無惨はその鬼が何処にいようと居場所を感知し思考を読む。彼の名を口にした鬼は、それだけでその細胞を崩壊させ死んでしまう。
しかし眼前の弟子の成れの果てははっきりとその名を呼んだ。それも、『奴如き』と軽んじる意図さえ含んで。
それにも関わらず死なぬ上、自身を鬼ではないと言う。この目の前にある事実は、彼の理解を超えていた。
河原は様子見のため、大きく後方へ飛び退いて間合いを取る。
「何、すぐに解る……もっともその頃には、貴様は我が胃の腑の内だろうがな」
「師父! お持ち致しました!」
ホラーが嘲笑を張り付かせ、ゆっくりと河原へにじり寄る。
その時、庵の方から虎太郎が戻ってきた。その両手には、鞘に納められた刀が二振。
右手には、最終選別の後日に刀鍛冶より届けられた龍一の日輪刀。左手には河原が現役の隊士時代に使用していた日輪刀で、現在は主に型稽古などの鍛錬に用いられているもの。
虎太郎は左手の刀を河原に手渡し、右手に持った龍一の刀は自身が持つことにした。
「……うむ」
手渡された刀を腰に差した後静かに抜刀し、構える河原。抜き放たれた刃が、青い輝きを放つ。
日輪刀は持つ者によって色を変える性質を持ち、それは主にその者が適性を持つ呼吸法の流派によって変わるとされ、青い刀身は“水”の呼吸の適性を表す。
水の呼吸を用いた剣技は、あらゆる状況に臨機応変に対応する変幻自在の歩法を特徴とする。
魔獣は両腕を振りかぶり地を蹴って前に跳躍。河原との距離を一気に詰め、その身を鉤爪で引き裂きにかかる——その時。
「馬鹿弟子めが……この儂が引導を渡してくれる」
河原は流れるような足運びで自らも距離を詰め、刀をすれ違いざまに一閃。弟子の成れの果て、異形の怪物の首級を獲らんがため——刹那、ホラーはその斬撃の軌跡に流水を幻視した。
水の呼吸の剣技の一つ、参ノ型“
その刃は一撃で
「……」
異形を一太刀で斬り伏せた河原は、数秒残心したのち刀を鞘に納めようとした。
しかし、次の瞬間——
「ククク……フハハハハ! ハーッハッハッハッハ!」
禍々しい哄笑が、山中に響き渡る。その声は、今し方頸を斬られたホラーのもの。
河原が振り向くと、頭の無い身体が独りでに動き出し落ちた頭を拾い上げる。切断された頸部は瞬時に接合され元通りになった。
鬼という存在は“不死”とも言える異常な生命力を持ち、如何なる傷を負っても瞬く間に治癒するが、太陽を弱点とし、陽の光を浴びるだけで消滅してしまう。
また頚を急所とし、日輪刀を以て頚を斬れば再生することなく肉体を崩壊させ殺すことが出来る。
しかし河原が斬ったのは鬼でなく魔獣・ホラー。日輪刀で頚を斬ろうと、殺すことは出来ない。
ホラーを倒せるのは、ソウルメタルの武具を以て陰我を祓う魔戒騎士と、魔導力により様々な法術を駆使する“魔戒法師”だけだ。
「流石だな、一太刀で頚を刎ねるとは……だが無意味だ。これで解っただろう? 俺は人も鬼も超えた存在だということを」
「ぐあっ!」
河原を左右の鉤爪で袈裟懸けに斬りつけるホラー。
肩口から脇腹にかけてを交差状に深々と切り裂かれ、鮮血が噴き出す。河原は急激な失血により軽度の貧血を引き起こし、膝をついた。
「し、師父!」
「大丈夫だ……」
駆け寄ろうとする虎太郎を手で制して河原は立ち上がり、刀を構え直す。呼吸を深めると、徐々に血が止まっていった。
全集中の呼吸は身体能力を高めるのみならず、習熟すれば身体の隅々・血管の一本一本まで意識を巡らせることで血液の流れを制御し、止血することも可能なのだ。
「……呼吸による止血か。さて、ここからどうする? 攻撃は無意味と理解しただろう」
(……一か八かだ)
河原は思案し、結論に至る……もう一度頸を落とし、かつ身体に接合させず夜明けを待つ。
日輪刀を用いた頚部切断でも倒せぬなら、残る手は陽に当てることのみ。
ホラーが太陽光を浴びたところで消滅することはない。だが、本来の形態で活動できるのは夜間及び暗闇の中のみ。昼間の内は憑依した人間の姿で活動するため、その力も満足には振るえなくなる。
そんなことを河原が知る筈も無いが、現状考え得る手の中では唯一有効な手段であると言えた。
彼は勢いよく刀を真一文字に振り抜く。水の呼吸による剣術において基本となる壱ノ型“
「甘い!」
ホラーは右腕を胸の前で盾のように掲げ、頸を刈らんとする横薙ぎの斬撃を受ける。
金属と金属がぶつかり合うような音が響き、その衝撃により止血した傷口が再び開いてしまった。
「いくら無駄だとて、二度も同じ手を喰うと思うか?」
「くっ……!」
河原は後ろへ跳躍して間合いを取ろうとするも、時既に遅し。
跳躍の寸前、左の鉤爪が彼の顔面を捉え鷲掴みにしていた。
「し、師父!」
「来るな……まだ、戦える!」
河原は駆け寄ろうとする弟子を言葉で制した後、顔を鷲掴みにされたままホラーの鳩尾へ膝蹴りを叩き込む。
そして若干仰け反った隙に、頸目掛け刺突を放つ。水の呼吸の中でも最速の突き技、漆ノ型“雫波紋突き”だ。
「小賢しいッ!」
刃が喉笛を貫く寸前。ホラーが彼を放り投げ、直後両腕を大きく振るう。
するとそこから衝撃波が発生し、空中に投げ出された河原は全身を切り裂かれ無数の切創が刻まれた。
「ぐあああっ!」
空中に投げ出され、更には衝撃波による無数の斬撃に切り刻まれた河原は咄嗟に受け身を取り着地、膝をつく。
立ち上がろうとするも、失血により力が入らない。止血を試みるが、痛みと疲労のせいか呼吸が乱れ、満足な効果は得られなかった。
「どうした、引導を渡すのではなかったのか?」
嘲弄の笑みを張り付かせ、ホラーは河原に躙り寄る。とどめを刺し、血肉と魂を胃の腑へと収めるため。
「何故、そのようなざまに……何がお前を変えたのだ……」
ゆっくりと近づいて来る、死の足音。最早手に力が入らず、刀を取り落とす河原。
彼は己を喰らわんとする異形と化したかつての弟子に、息も絶え絶えに問いかける。
「“お前”とは、俺のことか? クク……愚問だな。俺は変わってなどいない。ただ、この男は力を求めていた。故に力を与えてやったまでよ」
「……何?」
魔獣は嗤いながら、己の器となった男の師の問いに答える。その言い草に、河原は違和感を覚えた。
人ならざる怪物となったとはいえ、自身を“この男”と他人のように言うかつての弟子。明確ではないが、薄々と感づき始めているのだ。眼前の男は“変わった”のではなく、そもそもかつての弟子とは“別の存在”であることに。
「貴様……本当に龍一なのか?」
「クク……この男の肉体は、この俺が人界に顕現するための器。貴様が弟子と呼んだ男は、もうどこにもおらぬわ」
龍一の身体を乗っ取ったホラーは、邪悪な笑みを浮かべながら言い放つ。
「人界……器……? 何の話だ」
「ふん、言ったところで解るまい。
そして河原の問いを一笑に付して彼の頭を鷲掴みにすると、そのまま力を込めていく。
「ぐあっ……!」
万力の如き握力で頭を締め上げられ、苦悶の声を漏らす河原。頭骨がミシミシと悲鳴を上げ、ヒビが入り始める。
「貴様の血肉と魂、そして力は我が内で永遠のものとなる……我が糧となれることを光栄に思い死ぬがいい!」
「ぐっ、がっ……!」
魔獣の鉤爪が、徐々に締め上げる力を増していく。河原は苦悶しながらも悲鳴を押し殺し、耐え続ける。
程なくしてその握力は頭骨を砕く。爪は皮膚と肉を破り、頭部から鮮血が噴き出した。
「し、師父を離せ! さもなくば……!」
先程まで兄弟子であった異形が師を殺そうとしている様を見て、虎太郎が抜刀。
そして眼前の怪物に刀を突きつけ、精一杯の威嚇を行う。
「さもなくば……斬る、か? 先程見たであろう、無駄なのだ。貴様らには一分の勝機も無い」
「よせ、虎太郎……! お前の敵う相手では……」
「わかっています! ですが、これ以上は看過できません!」
息も絶え絶えに声を振り絞る河原の制止を跳ね除け、虎太郎は呼吸を深めると同時に跳躍、一直線に間合いを詰め、師を捕らえている腕を断ち切らんと横薙ぎに刀を振るう。壱ノ型・水面斬り。
しかしその斬撃が腕に到達するよりも速く、ホラーは空けているもう一方の腕を振るい、彼の胸を鉤爪で斬り裂いた。
「ぐあっ!」
「彼我の力量も顧みず斬り込むとは、なんたる蛮勇。貴様如き未熟な弱者を喰らっても大した力は得られまいが、腹の足し程度にはなろう。師ともども我が糧となれ!」
胸を斬り裂かれその場で膝をついた虎太郎の頭部を鷲掴みにし、魔獣が言い放つ——死の宣告を。
自身の力では敵わぬ相手。河原にも戦う力は残っていない。最早打つ手なし。
待っているのはこのまま頭蓋を砕かれ絶命し、師諸共に貪り喰われる未来のみ。
どう足掻こうと勝てぬと解っていたはずだ。斬り込まねば、あるいは己は無事だったやもしれぬ……彼の心に悔恨が浮かぶ。
徐々に強くなっていく万力の如き握力はついに師の頭蓋骨を破砕し、鮮血を飛び散らせた。
「……」
魔獣は虎太郎を投げ飛ばして近くの岩に叩きつけ、嘲笑的な眼差しで一瞥した後、河原の砕けた頭部に牙を突き立て、咀嚼を始めた。
骨肉を噛み砕き、血液と脳漿を啜る音が鳴り響く。虎太郎の胸中には、兄弟子の変貌に対する困惑、得体の知れぬ怪物への恐怖や蛮勇を振るったことへの後悔など様々な感情が渦巻いていたが、ただ一つの感情に上書きされる——それは“怒り”だ。
「ほう、怒るか。だがその程度の力では、俺に傷一つ付けられぬことは貴様も分かっておろう。見ろ、貴様の師もこの有様だ」
ふと虎太郎の方を見やり、挑発じみてホラーが言う。既に河原は頭を失い、頸のない屍となっている。
魔獣は河原の頭部を胃の腑に収めると、その屍を放り踏み躙った。
「ククク……なかなかに美味であったぞ、こやつの魂は」
「貴様ぁぁっ!」
師の亡骸を踏み躙りながら嘲笑うホラーに激昂し、斬りかかる虎太郎。
全集中の呼吸さえ用いず、ただ力任せに刀を振るうその姿は、もはや技も型もあったものではない。
「力量の差は理解しておろうに、またも無闇に斬り込むとは。激情に駆られて血迷うたか」
ホラーは当然その一撃を難なく受け止め、鉤爪で彼の顔を鷲掴みにした。
「ぐっ……がああっ!」
虎太郎はジタバタと身動ぎして抵抗し、苦し紛れに蹴りを放つ。
しかしホラーの身体はびくともせず、万力の如き握力が徐々に強まっていく。
「無駄だ。もはや刀を振るう力も残っていまい。もっとも、そんな余力があろうと無意味だがな」
ホラーは万力めいた握力で締め付けている虎太郎の頭部に己の顔を近づけ、口元から牙を覗かせてニヤリと嗤う。
「……!」
妖しく不気味に光るその牙に一瞬怯んだ後、虎太郎は抵抗を止める。
自分は数秒もせぬ内にこの怪物の餌食だと思うと、最早恐怖さえ感じない——彼の心身を諦念が支配した。
「観念したか……それが賢明だ。それ以上苦しむことなく一瞬で逝けよう」
その言葉通り、虎太郎が苦悶の声を上げることはなかった。
ホラーが彼の頚動脈を食い千切り、一瞬の内に絶命させたからだ。
鮮血と共に青白い燐光が飛び散り、魔獣の口へと吸い込まれる。それは虎太郎の“魂”だ。
「やはり、こやつ如きでは大した力は得られなかったか……」
骨肉を咀嚼し魂もろとも呑み込んだ後、ホラーは虎太郎の屍を河原の屍の近くへ放り捨てる。
その時、やや遠方の木に止まっていた一羽の鴉が飛び立つ。鬼殺隊への入隊時、隊士一人につき一羽付けられる伝令役”
鎹鴉は龍一に新たな任務の指令を伝えようとこの山へ来た。しかし龍一が異形の怪物と化して自身の師と弟弟子を喰らった場面を目撃し、それを鬼殺隊本部に報告するために再び飛び立ったのだ。
「鎹鴉……本部にこのことを伝えるか、それもよかろう」
ホラーは鎹鴉に気づき一瞥したのち、特に気にする様子もなくその場を後にする。
山の中には、頭の無い老人と頸を食い千切られた少年の屍だけが残った——。
1年以上公開に迷って色々書き足した結果かなり冗長になってしまった……同じ表現が何度も出てくるし……
何はともあれ、読んでくださりありがとうございます。