ぶどうヶ丘高校の体育祭
来る体育祭当日。
美晴は早朝から弁当作りに励んでいた。そんな最中、露伴が欠伸を漏らしながら台所に入ってきて「おはよう」と挨拶してくる。
「おはようございます、露伴先生。今朝は早いですね」
「ん……」
露伴は冷蔵庫からミネラルウォーターを出すとコップに移し、ゴクッと目覚ましに一気飲みしていた。
露伴は先日無事退院し、その夜はいつもの夕飯を食べて約束通り退院祝いのケーキを焼いた。悩んだ末に普通のショートケーキにしたが、これが意外と好評で思わず顔が緩んだのを鮮明に覚えている。
「なんだ、その……暢気してるな。"体育祭実行委員"とやらなんじゃあなかったの」
リビングのテーブルにつき、重箱のような弁当箱におかずを詰めているその背中を眺める。ようやくいつもの日常に戻った感じがした。
「だからこうして早起きしてるんじゃあないですか。これ、露伴先生持って来てくれますか?」
「ええー……大体なぜそんなに大きいんだ。その弁当箱、というより重箱……」
おかずを詰め終え重箱を組み立てるとその高さ2段。箱はだんだん風呂敷に包まれていく。
「仗助くん達の分もあるからですよ。露伴先生の分もあるし……ああでも、仗助くん達のお母さんと持ち寄るんでまだおかず増えますよ」
食べ盛りですから、と振り返る美晴の表情はどことなく母親のようにも見え、"あいつらに頼られてるんだな"と露伴は溜息を吐いた。この歳でおかん気質か。しかもバカ共の。
「分かったよ、そんなの持って学校行かせるわけにいかないしな。……というか今、"仗助達の分もある"と言ったか?」
渋々了承したが、ふとさりげなく示された不穏なワードを思い出して眉を潜める。その疑問に「そうですけど?」とさも当たり前のように不思議そうな顔をする美晴を見て、露伴は「うえッ」とあからさまに苦い顔をする。
「仗助達と昼ごはんを食べるのか!?このぼくがか!?おいおいおいおい…!待て待て待て待て…!なぜ?もう決まっている事か!?」
「当たり前じゃあないですか!仗助くん達にこないだの事、ちゃーんと謝ってください!これはそのための機会でもあるんですからね!」
風呂敷に包まれた重箱が喚いている露伴の前に置かれ、美晴は彼をビシッと指差す。それと彼女とを唸りながら見比べ、露伴はますますゲソッとした表情を浮かべていた。
「謝らないなら先生だけお弁当抜きですから」
「うぇー……クッソ、なんという事だ……なぜあんなセンスのないバカ共と美晴は仲が良いんだ……康一くんは別だが…!」
しかもそのうちの東方仗助は美晴の彼氏という。奴と美晴がキスの1回や2回既にしているのかと思うと気が狂いそうになる。
露伴は頭を抱えながら重箱をジッと見つめた。あんな奴らに頭を下げるくらいなら、弁当を食べられない方がマシだ。しかもこのテーブルから落っことしてしまえば、仗助達だって美晴の弁当が食べられなくなる。いい気味だ。己はコンビニでテキトーに昼飯を見繕えばいいのだ。
「朝ごはん、時間ないのでおにぎりとお弁当の余ったおかずを出しますね」
すす、と重箱を動かそうとした時、すみません、と一言添えてその脇におにぎり3個と玉子焼きやウィンナー、からあげに小さなハンバーグが並ぶ。
「先生にだけ、ちょっとだけ先出しです」
ふふ、と笑い声を零す美晴はエプロンを外し、いつも自身が座る席に置いていた鞄を手に露伴に背を向けた。
「じゃあ実行委員の仕事があるので早めに出ますね、お弁当よろしくお願いします。行ってきまーす」
顔だけ振り向いて手を振った彼女は早々にリビングを後にし、頭を抱えた露伴だけがぽつんとそこに残されて静まり返る。
「……くそーッ!こんなの持って行かざるを得ないじゃあないかッ!」
先出しされた数種のおかず達。どれも定番だがこうなると他のおかずも見たくなるし食べたくなる。それにこれは美晴が実行委員でありながら手間を掛けて朝早くから作ったものなのだ。これを落としただとか忘れただとかで腐らすのは彼女を悲しませてしまう。
露伴はあれから彼女を傷付けるような事はしないと心に誓った。スタンドを悪用しない事もだ。それを早々にこんな事で破るのは露伴自身が許さない。
「上等じゃあないか…!この岸辺露伴、乗り越えてみせるぞ…ッ!!」
もう腹を括るしかない。露伴は朝食をかきこむように平らげると席を立ち、昨夜からしていた持参するもののチェックを改めて行う事にした。
そうしてなんとか美晴が出場する"障害物競走"の時間までにぶどうヶ丘高校に着くと、既に生徒の応援に駆け付けた保護者達が、生徒達のいる応援席の真後ろに位置する観客席に詰めかけていて"のんびりし過ぎたな"と露伴は溜息を吐いた。
「美晴はどこかな……」
ぶどうヶ丘の体育祭は学年対抗となっており、1年生の応援席の真後ろまで移動してくるが、それらしい影は見つからない。代わりに仗助と億泰と康一の後ろ姿が見え、3人仲良く話しているところだった。
「美晴ちゃーん!」
もうトラックの方かとそちらに視線を向けようとした時、不意に仗助の声が響いてすかさず彼の視線を辿る。
「あっ」
その先にやっと美晴の姿が見えた時、パン!とピストルの音が響いてトラックを数人の生徒が走り始める。美晴はちょうど次の走者で、スタート地点で屈伸をした後に仗助の方に向かって手を振っていた。
「何アピールだよ…!次だろ、集中しろ!」
露伴はそんな事を言いながらもカメラを構え、スタート地点に立つ美晴をファインダーに収める。するとそこに映った美晴はこちらに向かってまた手を振った。
「……!」
いつも括って前に流している髪を、汗で肌にくっつかないようにポニーテールにしている。よーく見たら今日の彼女はそういう髪型になっていた。今朝はいつもの髪型だったので、登校した後に変えたのだろうか。それに加えて体操服にブルマという普段見る事のない出で立ちに思わず固唾を飲んだ、その時またパン!とピストルの音が響いて我に帰る。
「げっ、露伴先生じゃん……」
「うわっ、本当だ!」
美晴が誰に手を振ったのか疑問に思ったらしい仗助達がこちらを振り向いて気まずそうな顔を見せていて、思わず露伴も眉間にシワを寄せた。
「なんだよ悪いか。ぼくは美晴の保護者だぞ」
フン、と鼻を鳴らしてトラックを走る美晴に視線を転じる。彼女は先頭から2番目を走り、まずは網を潜る。それを抜けると次は平均台に乗り、慎重に歩を進めていた。
「落ち着いてーッ!美晴さん!」
「特訓の成果見せろーッ!」
果たしてその声は届いているのか。美晴は平均台が苦手なようで、グラグラと体を揺らしている。その間に他の生徒に抜かれ、彼女は3位に順位を落としてしまった。
「あ、あのっ、仗助くんっ!」
そんな彼女の応援をしている最中、仗助を呼ぶ声が聞こえてそちらに思わず視線が行く。
「こ、これ……一緒に走って……!」
見ると仗助の前に今しがた1位で通過していた女子生徒が"好きな人とゴール"と書かれた紙を掲げていて、彼は「おう……」となんともしっかりしない返事をしながら彼女とゴールに向かっていった。なるほど、ここは障害物競走の中に借り物競走も含まれているのか。
「仗助の奴、美晴と付き合い始めても女子に人気だなー」
「女子って結構ギラギラなんだね……」
億泰と康一が苦笑いしながら1位でゴールする女子生徒と仗助を見ている。あのセンスのないクソッタレがモテてるなんて、ここの女子生徒もセンスがないのだろうか。露伴が面白くなさそうに息を吐いた時、ようやく美晴も拝借する物が書かれた紙を拾い、キョロキョロと辺りを見回したかと思えば、パチッと露伴と目が合った。
「露伴先生!」
他の走者が観客席や応援席へ目的の物を借りるために声を掛けてまわっている中、美晴は真っ直ぐに露伴の方へ息を切らして走ってきた。
「ン、なに……?」
いつもと違う出で立ちの彼女を間近で捉え、柄にもなく心臓が高鳴る。もしや先程の仗助のように、条件に合う人物とゴールする指示がその紙に書かれていたのだろうか。だとしたらどんな人物か。"保護者"というのが妥当だろうが、もし別の、"好きな人"だとか"大切な人"だとかだったら?しかも仗助ではなく真っ先に己を頼ってくるなんて。
露伴は色々な可能性を考えて勝手に悶々としていたが、美晴がスッと紙を差し出してきてそちらに視線が行き、そこに並んだ文字を見る。
「"カメラ"を貸してくれませんか!?」
「えっ」
そこには確かに油性マジックで"カメラ"と書かれていてピシッと表情が固まる。
「早くしてください、順位これ以上落とせません…!」
美晴は平均台で順位を落としてしまった分を取り返したいらしい。現に今ゴールしているのは先程の1位の女子生徒のみで、まだ2位に返り咲ける立ち位置にいるのだ。彼女は足踏みをして露伴がカメラを貸してくれるのを待っている。
「ン、そうだね……うん、よく考えればそうだ。さっきのが特殊なパターンの方なんだよ。そう、そう……」
露伴は1人ボツボツと呟く。
大体借り物競走で挙げられる物なんてたかだか知れている。誰でも今持っていそうな物が書かれているのが普通で、先程の"当てはまる人物"を連れてくるという条件はレアケースだ。トラブルを避けるために最高でも1レースにつき1枠しか存在しないそれは既にゴールしているのだから、残されている他は普遍的な物でしかない。
この岸辺露伴がよもや、そんな初歩的な思考ミスを犯すなんて。
「露伴先生ッ!!」
「ン、ああ、そうだったね。はい」
露伴は首に掛けていたカメラのストラップを外して美晴に渡す。かつてこんなに虚しくなるようなミスがあっただろうか。しかし彼女はカメラを受け取るとパッと表情を明るくさせる。
「ありがとうございます!終わったらすぐ返しに来ますから!」
ストラップを首に掛け、落とさないようにしっかり持つと彼女はトラックに戻って行き、見事そのまま2位に返り咲きゴールを果たした。
「やったーッ!美晴の奴、強運の持ち主だぜェ!」
「身内に持ってる人がいると借りやすいんだよね〜!そこだけは露伴先生に感謝だね!」
「そこだけかよッ!もっと褒めてよ康一くんッ!」
億泰と康一の声に思わず声を張り上げてしまったが、それを聞いた2人はくるっと露伴の方を向くとジトーッとした目を向けた。
「だってよォ〜、あんな高そうなカメラで撮るのが美晴だけとかよォ、身内じゃなけりゃあヤベー奴だぜェ」
「誰が美晴だけって言ったんだよ…ッ!いや生徒は美晴しか撮らないが…!」
"保護者だからな!"と付け足すが億泰はまだ怪しげな目を向けている。というかこの場合、美晴以外の生徒をバシャバシャ撮影する方が怪しいだろうが。
このバカ——虹村億泰、確かこないだ読んだファイルの美晴に関する文章では、自分を美晴の兄貴分だと思っているらしい。なんておこがましい奴だ。そう思いながら露伴も負けじと睨み返していた。
「生徒は、という事は……他に何か撮影する予定があるんですか?」
そこで康一が意図してかそうでないか、露伴にとっていい質問を投げかけてきた。露伴はそれを受けて、ンン!と咳払いを漏らして気を取り直す。
「体育祭が終わったら、校内を見学させてもらおうかと思ってね。今日のような父兄も立ち入りを許可されている日なら問題ないだろう?外観だけじゃあなく、中も撮影出来る機会は貴重だ」
学校内の写真資料は己が学生だった頃のものも勿論あるが、校舎が違えば当然仕様も細やかだが違う。それにここにしかない特殊な教室だって勿論あるだろう。体育館やプールも是非見学させてもらいたい。それに、己が現役だった頃とは違い客観的にその風景を見れるという機会でもあるのだ。
その漫画家としての至極真っ当な理由に億泰と康一は「ほー」「へー」と声を漏らしていた。そう、岸辺露伴がぶどうヶ丘高校の体育祭に行きたいと思ったのは、何も来宮美晴の応援がしたいだけではないのだ。
(ま、あいつが戻ってくるまでカメラは使えないけどな……いや、使う必要がないな)
露伴がゴールした生徒達の待機場所に視線を向けると、待機位置が近いからか美晴は仗助と仲良く話に花を咲かせている様子だった。あんなのは撮る必要がない。
「おい康一……露伴先生の顔、スゲー怖くなったぞ……」
「多分、美晴さんと仗助くんの交際を認めてないんじゃあないかな……ほら、仗助くん原稿ごと露伴先生を殴っちゃったから……」
億泰と康一がコソコソと話す視線の先には、ギリギリと歯を食いしばりながら威嚇するように仗助に視線を送る露伴の姿があった。
そうこうするうちに障害物競走が終わり、美晴は露伴から借りたカメラを返しに小走りで観客席の方へ向かった。
「露伴先生!カメラありがとうございました!」
「ン、どういたしまして。2位おめでとう」
カメラの貸し借りが終わり、露伴が彼女の頭を髪型が崩れない程度に撫でてやるとはにかんだ笑顔を見せる。その姿がなんだか娘のように愛おしく感じた。
「あ、あの、先生……」
そんな最中、おずおずと美晴が露伴の顔を見上げてきた。彼が疑問符を浮かべているとカメラを指差され、それに視線を向ける。
「さっき仗助くんと一緒にこのカメラで写真を撮ったんです。記念にって。現像したら私にくれませんか?」
しかし、その言葉にピシッとまた露伴の表情が固まった。
(このカメラで仗助と写真を撮っただと?全く気が付かなかった…!)
というのもその時、露伴はちょうど億泰や康一と話をしていたところだったのだ。カメラが手元になかったのもあって暇だったし、美晴の出番はもう終わったからと油断していた。
まさか1番憎い相手と1番大切な相手がツーショットを、しかも己のカメラのフィルムに収めていただなんて。しかしその写真を現像しないとか処分するとかは出来そうにない。もしそうしたなら、美晴からの信用を大きく損なう事になってしまう。
こんな時、どんな選択が可能だろうか。露伴はぐるぐると短い時間の中で思案し、そしてひとつの答えにピンと辿り着いた。
「そうだな……せっかくだから美晴が現像してみたら?うちには暗室もあるし、やり方が分からないなら教えてやるよ」
「本当ですか!?」
露伴の提案に、美晴の表情がパーッと明るくなる。これならば露伴が直接現像する必要はないし、美晴も確実に受け取れる。彼女の期待に満ちた目に、露伴は密かにホッと胸を撫で下ろすとひとつ頷いてみせた。
「ああ、お安い御用さ」
「ありがとうございます、露伴先生!楽しみです」
今日の美晴は表情も声のトーンもいつもより明るい。体育祭という普段の机に向かって勉強するだけの日ではない今日この日が、楽しくて仕方がないのだろう。おまけにここには(バカばっかりで不本意だが)話の合う友達が何人もいる。今年は一層楽しいだろう。
「ああ、美晴」
露伴は応援席の方へ戻ろうとする美晴の背中に声を掛ける。
「今日の髪型、似合ってるよ」
振り向き様にふわりと揺れたポニーテール。彼女のはにかみ顔が見えるまであと何秒だっただろうか。