ボーイ8メンタルアウトアウト~学園都市編~ 作:真夜中のミネルヴァ
JR
この夏には三十六歳の誕生日を迎えることになりアラフォーも間近だったが、未だ男を知らない体は二十代の若さと瑞々しさをとどめていて、ほの白い肌の上にはまるで散りばめられた宝石のように撥ねた水しぶきが珠をなしている。
まさか……こんなことになろうとはな――。
女はひっそりと囁くように、またひとりごちた。
長い栗毛も豊かな、いまだ衰えを知らぬ美貌。
木山春生――だった。
そして浴室の外には、かつての教え子で今は大学三年生になった井之上優樹を待たせている。
時刻は、午後の九時半を少し過ぎたところ――。
本来ならとっくに家路についている筈だった。
にもかかわらず彼女は生まれて初めて――こうした場所での夜を迎えようとしていた。
多分このまま居続ければ彼と一線を越えることになる。それは春生にも判っていたが、それが今も現実感を伴わずにいたのだ。
本当にそんなことが自分の身に起きることが信じられなかった。しかも相手は、あの、ゆうくん――なのだ。
もちろん、当時と今とでは互いに立場も容子も全然異なってはいる。
しかし、春生にとってはやはり幼い頃のイメージが焼きついていて、にわかには拭い去れずにいるのだった。
自分の胸にしがみついてよく泣いていた八歳の男の子、彼女が教室を去ると知って泣いて引きとめようとした男の子。
そして――。
「大きくなったら先生と結婚するっ」
そう言って、真っ赤になって必死で思いのうちを訴えた幼い子供の頃の彼の姿が、いまも微笑ましくも鮮やかに蘇ってくる。
優樹は教え子たちの中でもとりわけ親近感を覚える子で、肌あいとしては親子のような感覚に近かったのかもしれない。
実際、出生率の高い途上国では、並んで歩けば今もきっと親子としてしか見られないだろう。
ただ――。
そこから先、春生の心はなぜか落ち着かなくなる。
はたしてそれは本心なのか、と。
自分を偽るための、まやかしの母性なのではないかとの疑念がちらついていた。
その実、彼女はアパートを出る前に既に一度、入念な入浴を済ませてきてもいたのだ。まるでこうした事態になるのを予見してでもいたかのように。
優樹とこの日の夕食の約束をしてからというもの、ここ数日は鏡の前に立つことも増えて、その都度、自身の容姿のチェックをしては溜め息をついていた。怠っていたムダ毛の手入れや、付け焼刃のダイエットコントロールをして、普段はさして頓着などしていなかった身につけるものにも気を配り、その上、今日はうっすら化粧までもしている。
そんなことは記憶にある限りは、戯れに母親のルージュを塗って叱られた子供時代以来のことなのだった。
どうかしているのではないかと思わずにはいられないほど、おんな――としての自分を取り戻そうとしていた。価値を高めようと躍起になっていた。
教え子の一人と会う、というにしては構えが過ぎるのではないかと思うのだが、それを彼女は、
たとえ幼い思い込みに過ぎなくても、自分に悩める胸の裡を告白してくれた男の子の夢を損なわないように努めるのは当然のことで、むしろ義務なのではないかと言い聞かせて正当化していた。
けれども、それが体のいい言い訳であるのを、この日、彼女は戸惑いながらも認めるしかなかったのだ。待ち合わせの場所で優樹の姿が視界に入ると、とたんに別の感情が兆してくるのを意識せずには居られなかった。
それまでは、ただの気の迷いの所為にして済ませていたものが、おぼろげながら次第に形を成そうとしていた。そしてひとたび自分が相手を異性として見ていることに気がつくと、心とは
もし神が居るのなら、ヒトの心の仕様書には問題点ばかりだと、ユーザーからのクレームをてんこ盛りに書きなぐって送り返してやりたいところ。
これでは当初から事故を起こすことを企図されているようなものではないか。
そんなこともあって、夕食を不忍池近くの老舗の鰻店――彼は去年こっちに移って来てから初めてだと大喜びしてくれた――でご馳走し、送りがてら公園を横切って最寄り駅から帰途につくつもりが、なんとなく名残を惜しんで、未練がましくもそのまま駅を越えて彼の下宿のあるという方へと散歩を続けてしまったのだ。
意外だったのは駅向こうの街並み。線路を越えると、街の様子は一変して急にアダルトな雰囲気になっていて、いきおい色々なことを意識をしないわけにはいかなくなってくる。
本当にこんなところに学生寮があるのかと訝しんだが、本人によると大学まで近いことと、何はともあれ安さで選んだのだという。この時分に賄い付きというのも重宝しているそうで、寮費を聞けば確かに頷ける好条件だった。
これだとアルバイトをせずに奨学金だけでギリギリやりくりできるからと言って、大きな体で子供のように屈託なく笑うのだ。昔の面影の残るドキッとするほど魅力的な顔になって。
一緒に歩くと分かる、なにげない気遣いと心配り。寄せられる素直な敬意もくすぐったいが悪いものではなかった。
半分ほどの歳でしかない若い男性に守られている、というのが女にとってはとても特別な経験なのだと感じずにはいられない。
その上で――。
気持ちはあの頃と少しも変わっていない、と告げられた。
彼から何を言われているのか分った途端、春生は依って立つ足元を失ってしまうほどの衝撃を受けていた。
その後、どこをどのように歩いて、ここまで来てしまったのかよく覚えていない。
酔っているわけでもないのに、ふわふわとした夢の中を彷徨っているような心地のままに、気がついたときには彼にエスコートされて宿の軒を潜っていた。
部屋に入り、畳敷きの寝室に置かれたダブルサイズのベッドが目に飛び込んできてから漸く、自分たちがこれから何をしようとしているのかが判って、にわかにたじろいで浴室へと逃れたのだ。だがそこでも結局、こんなのは自分じゃないと思いつつも、彼女はまるで何者かに操られてでもいるかのように服を脱いで裸になるとシャワーを浴びはじめていた。
はたしてこれで良いものか、大きな過ちを犯しているのではないかと、同じことを繰り返し問い続けながら。
温かい湯を体に掛けつつ、誰かの作った夢でも見せられているのではあるまいか……とも思う。
まっさきに疑うのは、やはり食峰操祈だ。
全盛期ではなくとも、彼女であればその程度の精神操作は
だが、そんな筈はなかった。
彼女が能力を回復などしていないことは、ワイディマでの盗撮に無防備であったことからも判っていた。高度な精神系の能力者であれば、自身が駆使する量子場の揺らぎに気がつかないワケがないからだ。
盗撮されているのを承知の上で、あんなにも一途な姿を晒すなどとは考えられない。
だから――。
「……わたしは……どうしたらいいのだ……」
両手で顔を覆う。優柔不断さが情けなかった。
いざこのような状況と向き合うと、女としての引き出しの貧しさを嘆くばかりになる。
もし自分が今よりも十歳若ければ……そして、あの食峰操祈のように自身の魅力に自信と誇りを持てるのなら……。
これを天の配剤、巡り合わせと都合よく捉えてすぐにも前のめりになれたのかもしれなかった。
けれども
運命が仕掛けた破滅への罠なのかもしれないと、たじろいでしまうのだ。
きっと彼女なら、こんな時、もっとスマートに処理できるのだろうに……。
年下の恋人の愛撫に、寝乱れていく姿の美しかったこと。
めくるめく陶酔の最中に刻々と表情を変えていく女体の魅力は、同性であっても官能の極みを感じずには居られなかった。
あの映像は、何度繰り返し見ても新しい発見のある、人のいとなみとしての性の奥深さ、豊かさを教える素晴らしい資料だった。
もしもあんな風に愛し合えるのなら、世界は光り輝いて見えるに違いない。
でも、それは自分には到底なしえないことだというのが解っている……。
彼女とは違うのだ……何もかも――。
シャワーの蛇口に手を伸ばしかけた時、浴室の扉が控えめにノックされている事に気がついて、
「なにか――?」
ドア越しに応えた。
「あの、先生、ヘアキャップ、お使いですか?」
「ヘアキャップ――?!」
「髪は濡らさない方がいいのかもしれません……」
「ああ、そうか……そういうものなのか……」
備え付きのアメニティーセットの中に使い捨てのものがあることに気がついた。
「これかね?……使ってみることにしよう、ありがとう、ちょっと濡らしてしまったのだが……まあ大丈夫だろう……」
きっと、彼はこういう事情には通じてるのだろうと思う。
それも宜なるかな。
並んで歩いていると、時にすれ違う若い女たちがハッとした面持ちになって、隣を歩く彼を振り返る場面に何度も
彼なら大学でも女子の人気を集めているのに違いない。
甘いマスク、落ち着いた響きで安心感を抱かせる声音、聡明さと誠実さを感じさせる振る舞い。きっと将来は、多くの患者からも信頼される優秀な医師になるだろう。
歳月は人を変えるという。確かに彼の場合はそうだった。
しかし、大人はそんなに器用に変われるものではないのだ。
たしかに彼女にも、十年という歳月の間にはさまざまなことがあった。
巨大スキャンダルの大波は、直撃こそ免れたものの、それまで歩んできた生理学研究者として順風満帆のキャリアに大きな軌道修正を迫られ、一旦は非常勤の講師として教壇に立つことで糊口をしのいだり、あるいは一般製薬企業の研究部門で陳腐なドラッグデザインに携わるようなこともあったりして、その都度、自分の人生を振り返るきっかけを得たように思うこともあったのだった。
しかし気がつくと、春生はやはりまた学園都市に舞い戻っていて、十年前と同様、まるでリメイク映画のように灰色の研究者としての日常を繰り返していた。
静かで、そして退屈な――。
表面的にはなにもかも昔通り。
ただ実際はゆっくりと坂道を転げ落ちていくばかりなのだった。
初めは変化に気がつかないほど僅かだが、やがては日々、そして刻々、それを感じざるをえなくなる。
殊に女の場合は――。
それを思い出して、まるで悪意のある高利貸しとの契約のようだ、と苦笑いをする。
人生のバランスシートに赤字だけが複利で累積していくのだとしたら、いっそのこと冒険してみるのも面白いのではないか?
どうせいつかは破産すると決まっているのなら、それが多少早まろうと大した違いでもあるまい。
開き直ってここに留まる理由を探し、すぐにそれこそが本音だったことに気がついたのだ。
女である自分を経験してみたい――。
それは悲鳴のように心の奥底から発せられる希いだった。
あらためて鏡に映った自分の体と向き合う。
本当は愛されることを望みながら、与えられることのなかった我が身が不憫に思えた。
「これも、自分の体を使った実験だと割り切ればいい――」
虚勢とも自己憐憫ともつかない言葉が口をついて紡ぎ出された。
どんな結果になろうとも、学びはある。
前後の心と体の変化を観察する為の人体実験のひとつだと思えば、いくぶん気持ちが楽になった。
そう覚悟を決めた木山春生は、脱いだ服を身につける代わりに、備え付きの白いバスローブにみごとな裸身を包んで浴室のドアを開いたのだった。
1000字余りですぐやっつけるつもりが・・・
例によって無駄に長くなり・・・
次は舞台を赤坂に移します
そうだ、ついに100回、到達です
お読みいただいている方たちに感謝いたします