ボーイ8メンタルアウトアウト~学園都市編~ 作:真夜中のミネルヴァ
「どうされたんですか? 美由紀先輩、さっきから少しも食べてないじゃないですか」
「………」
「もしかして、イタリアンはお嫌いだったりしますか?」
「………」
赤坂、一ツ木通りにあるトラットリア、“グロッタ”で、森下美由紀は社の後輩の斎藤俊介と少し遅いディナーを共にしていた。
二人の座る三階の窓際のテーブル席からは賑わう夜の街並と、そこを寛いだ容子で行き交う人々の顔が見えている。
時刻は午後九時半を回っていたが、土曜の夜ということもあって百平米足らずのさほど広いとは言えない店内はほぼ客で埋まっていた。
場所柄もあって出勤前の夜の蝶と思しきケバケバしい化粧をした女とパトロン、あるは学生同士といったカップルも居合わせる中、彼女の品のある大人の美貌はやはり他人目を惹いていた。
客たちの中には美由紀のことを、すぐ近くにあるテレビ局の女子アナかなにかだろうかと囁きを交わすものも居たが、実際、当たらずといえども遠からずだったかもしれない。
しかし入社早々に学生時代から交際していた一つ年上の、当時はまだ工業大の大学院生だった森下翔悟と結婚、その翌年、妊娠が判ってからは産休という形をとり、その後は業界の気風と水が合わなかったことや、夫の海外転勤への随伴、育児に専念するなどの理由で退社、ようやく子育てに一段落がついてから今の職場に再就職をして今年で七年目になっていた。
俊介とは十歳近くも歳が離れていたが、入社年次では三年しか違わず、また出身大学だけでなく学部までもが同じだったこともあって、社内ではいちばん近い後輩として、また気のおけない部下として打ち解けていた。
その関係に変化の兆しが現れたのは一昨年、夫と死別してからだった。
もちろんその頃の美由紀はプライベートでは翔馬のことで頭がいっぱいで、俊介を異性として意識するようなことはまるでなかった。
ただ、好意には気がついていて、はてどうしたものかとも思ってはいたのだった。気づいていてそれを利用していたとなると、やはり落ち着かない。
もっとも、幸いというべきか彼は他の若い女子社員からの人気もあって、とうてい自分などが立ち入る隙間などあるはずがない高を括っていられたのだった。
十歳も歳の離れた若い部下と関係を持つ、ということが絵空事のように思えてまるで実感が伴わなかったのだ。
振り返ると、油断していたのかといわれれば、きっとそうだったのだろうと思う。
彼から告白された時、初めはからかわれていると軽く受け流すつもりでいたのだが、本気だと踏み込まれてからは毎朝の出勤の足取りは重く悩ましいものになってしまった。職場でもなんとなく気まずく、つい意図に反して俊介を疎んじるような振る舞いになったこともあったのかもしれない。
それでも彼の真摯に仕事に取り組む姿勢には上司として好感が持てたし、それまで通りの関係を続けていれば、いずれ時が解決するだろうと思っていたのだ。
その上辺だけ落ち着きを取り戻していた関係に、決定的な変化をもたらしたのは昨秋のことだった。
その頃の美由紀は、夏休みを終えて以降の息子の思いがけない変わりように胸を痛めていたのだが、秋になってそれがいよいよ容易ならざる状況に陥っていた。翔馬が、それまで成績急降下しつつもなんとか合格圏内にとどまっていた都内トップの進学校の受験を止めて、いきなり学園都市への進学をすると宣言して塾も止めると言い出したのだ。
利発で聞き分けも良く、夫亡き後は美由紀にとって心の支えであり、生きていく意味、生き甲斐そのものとも言えた愛息の反乱は、彼女の心に大きな打撃となっていた。
さらに追い討ちをかけたのは、自分の与り知らないところで再婚話がトントン拍子に進んでいて、気がついた時にはすっかり身動きが取れなくなっていたのを実感させられたことだった。
妹の真彩の嫁ぎ先となった料亭グループが追加融資の必要に迫られ、美由紀の再婚相手候補と目される人物が経営陣に居る銀行から多額の支援を受けていることが明らかになったのだ。
この一件では実家も妹側にまわって泣きついてきて、彼女はすっかり途方に暮れてしまった。
そんな心の隙を突かれて――というとまるで相手に非があるようだが――美由紀は、ついに俊介の求めに応えてしまったのだった。
翔馬が学園都市での能力者育成ウインターキャンプなどという妙な合宿に参加すると言って家を出てしまい、冬休みの間中不在となったために十数年ぶりに独りで過ごすことになったクリスマスの夜、とうとう俊介を部屋に招き入れていた。
ただし、一度だけのつもりだった。
しかし――。
俊介は、亡き夫の翔悟と較べるとあらゆる意味でタイプの異なる男だった。それを
堅実なエンジニアで、今になって思うと恐らくセックスも淡白だったのだろう翔悟とは違い、俊介は女の扱いが実に巧みだったのだ。
結局、年を開けてからもあたり前のように週に一度、もしくはそれ以上の頻度で枕を交わす間柄となっていた。
情熱的で女体の機微に通じ、サービス精神に溢れたテクニシャンの若い男を相手に、美由紀は二度目の恋をしていた。
三十路の半ばを過ぎて再び――ある意味では初めて――女の歓びに目覚めた彼女は、また一段と輝きを増して二十代の初めの頃とは違う意味での匂いたつような色香を放つようになっていた。
「この店、値段も手頃で学校から歩いて来られることもあって学生時代から、部の連中ともけっこう利用していたんですけど、先輩のお口には合いませんでしたか?」
「………」
目の前には、アンティパストの生ハムとチーズがあったが、ほんの少し手をつけただけでそのままになっている。
味は悪くなかった。ワインもおきまりのブランドだったが不満はない。
ただ美由紀は、そのいずれにも始めにほんのお追従程度にお付き合いしただけで、あとは手を伸ばす気にはなれなかったのだ。
それというのも今の彼女は、とても呑気に食事を楽しめるような状態にはなかったからだった。
店内の喧騒に紛れて判らなかったが、もしも静かな場所であれば、きっとブーンというモーターの振動音のようなものが漏れているのが聞こえていたであろう。それはスマートフォンのマナーモードよりもかすかに、そして時に音程を上下させながらも執拗に長く続いているのだった。
美由紀は人知れずその音の発信源と必死で戦っている。
少しでも気を緩めれば、ああっ――と、甘い悲鳴が溢れてしまいそうになるのを堪えていた。
傍目には、太ももをしっかりとじ合わせて身をすくめてうつむく容子は、男から別れ話を切り出されて泣いているようにも見えたかもしれない。
だが、豊かに涙を溢れさせているのは彼女のもっとも密やかな部分なのだった。茂みの奥に巣くった卑しい玉子が時に振動し、時に戒めるように膨らんできて女の命の泉を無慈悲に絞り出そうとしていたからだ。
「……おねがいっ……斎藤くんっ……ここではっ……もう堪忍っ……」
声がうわずらないように、低い声で囁くように哀訴する。
「堪忍って、どうされたんですか?」
「………」
男は彼女をとことん追いつめるつもりでいるようだった。
薄切りにされたチーズの一つを口に含み、舌の上でキャンティで転がしながら、興味深げにこちらの容子を窺っている。
片手で長めの髪をかき分けながら、文学青年臭い生真面目そうな顔をして。
背は特別高いわけではないが胸板が厚く、ぴったりとしたタートルネックのセーターになるとそれが際だって、学生時代は演劇部で体型を整えるべく鍛えていたというのも頷けた。
本気になれば力づくで、ベッドの上の美由紀にどんな大胆なポーズを強いることもできるのだろうが、けれども彼はそれをけしてしないのだった。
その代わりに時間を味方にして彼女の方が音を上げるまで奉仕する。
「じゃあ、僕の言うこと、なんでも聞いてくれますね?」
彼女が応えずに居ると、テーブルの上に置いてあったスマートフォンの画面をそっと指でなぞった。
途端、美由紀は
ひぃぃっ――!
声にならない悲鳴を上げて身を竦めた。
彼女の熱くぬかるんだ肉うろの中に居ついたそれが、ビュンと身じろぎをして、女の最も感じやすい部分を裏側から突き上げるようにして
タイトスカートの中で腰はブルブルとわなないている。もう一瞬でも気を抜けば、そのとたんに公衆のただ中で果ててしまいそう。いったん堰をきってしまったら、頼りないおりものシートぐらいでは粗相を隠すことはできないかもしれなかった。
もしもそんなことになれば……。
俊介は苦悶に喘ぐ女の艶めいた表情をひとしきり堪能して満足したのか、またスマホの表面を軽くタップした。すると美由紀が温めていた玉子も動きをピタリと止める。
責め苦から解き放たれて、ハァッと切ないため息をついた美由紀は、恨みがましい目をチラリとやって向かいに座る男の顔を盗み見た。
「すごく綺麗ですよ、美由紀先輩は……もう僕のコックはさっきからビンビンになって、Tボーンステーキなんてどうでもいいから早く先輩のあったかい肉の中に入りたいっ、ワインよりも先輩のラヴジュースを飲ませろって大騒ぎしてます」
卑猥なことを囁くのだ。
「それでご返事は? まだ伺ってなかったませんが」
「……返事……?」
「先輩のもう一つの処女を、僕にくれるっていう約束のことです。旦那さんだったひとは、手をつけたこともなかったみたいですから」
「………」
「もちろん今夜とは言いませんが、そのためには少しずつステップアップする必要もありますしね、でも必ずいつかは……」
それはぞっとするほど酷い提案なのだ。アブノーマルな要求。
「……どうして……そんなことを……」
「それは……罰ですね――」
「罰……?!」
意外な物言いに、美由紀は眉を翳らせて男の顔をまんじりと見据える。
「わたしがあなたに何か酷いことをした? それなら謝るわ……でも……わたしが何をしたっていうの?」
「しましたよ……というよりしてくれなかった罪です……」
「……?……」
「先輩は、本当は僕のところに最初に来てくれるべきだったんですよ……それなのに他の男のところへ行って、子供まで作るなんて、どんだけひどい裏切りだったか……」
「何を……わけのわからないこと言ってるの……」
「おかしいですか?」
「だって、私が結婚したのは二十三の時よ、その頃あなたは、まだ十二、三歳のほんの子供だったじゃない……」
とんでもない言いがかりだと思う。もちろん冗談だとは解ってはいた。
「でもあなたを愛することはできましたよ、今みたいに」
きっぱりと宣言して美由紀を驚かせる。
「今みたいにって……そんな……」
俊介のベッドでの振る舞いはとても濃いもので、およそノーマルな行為からは外れていると思う。あんな大胆なことを子供にできるはずがなかった。
だが――。
「そんなこと普通ですよ。憧れの人を抱けるとなったら」
「………」
「もしも僕が十三で、先輩がそばに居てセックスできるチャンスを貰えたら、いま僕らがしているようなことをそっくりやってる自信があります……だってこんなにすごい美人の体なら、どこまでも知り尽くしたいと思うのが男の
若い恋人からの思いがけない胸中の吐露に触れて、美由紀はと胸を衝かれていた。
はたして翔馬も、そういうことだったのではないかと思い当たるものがあったからだった。
ひとり息子の成績降下の理由が、どうやら学園都市のある中学教諭に思いを寄せているらしいことに気がついた時には、母親として少し寂しさを覚えるとともに、成長を微笑ましくも思ったものだった。
男の子が母親の代わりに年上の女に興味を抱くことがあったとしても、珍しいことでもおかしなことでもなかった。
だが、それが今や彼女の胸を悩ませる大きな懸念になってしまっている。
あの女教師……何という名前だったか……たしか変わった苗字だったことは記憶していたが……。
確かに写真を見るととても美しい女性だった。やさしげな顔立ちからして、きっと性格も温和なのだろうと思う。男の子が憧れる女性の特性をいくつも備えているように見えた。
でもだからといって、十歳も歳の離れた大人の女に子供が本気に恋をするなどというのは、やはり普通ではないと思う。
そう思いたかった――。
「ねぇ斎藤くん、男の子っていくつぐらいから異性を意識するようになるものなの?」
「それって、セックスしたくなるかってことですか?」
「え、ええ……まあ……そういうことだけど……」
「どうかな……個人差はあるかもしれないけど、でもマセたガキなら十歳かそこらあたりからじゃないかな?」
「そんなにっ? でも、さすがにいきなり大人の女に恋したりはしないでしょ? クラスメートの女の子とかで」
「いや、そんな線引きなんてないと思いますよ。好きになれば、それこそ歳の差なんて全然、関係なくなるから。だって、その年代からすればアイドルだってみんな年上になるし」
「そう……」
「どうかしたんですか? もしかして翔馬くんも最近、色気づいてきたとか?」
「え、うん、そうかもしれないって思うことがあって……」
「女親からするとヤキモキすることかもしれないけど、好きになったら周りが何か言ってどうなるもんじゃないから……そういうのって女性も同じじゃないのかな? わからないけど」
「………」
「まぁ相手次第ですね……もし僕が翔馬くんぐらいの時に先輩を知ってたら、そりゃあもう絶対に夢中になるに決まってるから……子供だからって一生に一度の相手との出逢いがないって考えるのは大人の勝手な思い込みかもしれませんよ」
「そうなのかしら……」
「むしろそういう場合は、思いが届かなくて受けるショックの方がリスクが高いかも……僕は大人だから何とかできましたけど」
「それってどういうこと?」
「美由紀さんに旦那が居るって知ったときは、結構、しばらくの間、食事が喉を通らなかったりしてましたから」
と、苦笑いする。
美由紀には初耳だった。男の目線と女の自意識との間には、いつでも大きな溝があるように思う。
「そうじゃなくて、リスクの話よ」
「だから、なまじ相手への思いが大きかったりすると、失恋の喪失感に圧しつぶされちゃいかねないってことです。子供は経験値が低いから、やり過ごし方も知らないだろうし。その点で男の方がナイーブだったりするから」
「じゃあ……」
「例えば、最悪のケースとして失恋を苦にして自殺しちゃうとか、心を病んじゃうとかというのも否定はできないです」
「やっぱりそうよね……」
「まぁ子供の初恋は
「相手次第……」
美由紀のいちばんの懸念はまさにそれだった。
歳なりに等身大の相手に懸想するのならばともかく、あまりにも眩い相手だと、近づけば近づくほど燃え尽きてしまう恐れもまた大きくなる。翔馬が接近を図ろうとしている相手は、まさにそういう特別の中の特別。
聞けば、世界的なミスコンのファイナリストだったとか。
どうしてそんな傑出した女性が、一介の中学校の教諭職などに留まっているのだろうかと恨めしくなる。
さっさとスターダムを駆け上がって、子供の手の届かない所へと去ってくれれば、こんな思いをせずに済んだものを。
とんでもない言いがかりだと解っていても、現実に息子を奪われた親はそう呪わずには居られない。
何とかしなくては――。
でも親としていったい何ができるか……?
例えば、相手に直接会って、こちらの事情を訴えて最善の道を取るように配慮してもらう?
でも配慮って――?
息子があなたに夢中です。思いを遂げさせてやってください――とでも?
いくら親バカでもそんなことが言える筈もなかった。
「どうしたんですか? ボーっとして」
「ううん、なんでもないわ……」
「たぶん、翔馬くんにとっては大事なママが取られちゃうことの方がいちばんショックのハズですよ」
「わかってるわ……だからあなたとの事は、あの子には絶対に内緒――」
「それが分かってるのなら、さっきの話はあまり心配しなくてもいいと思います」
「どういうこと――?」
「自分のいちばん身近に特別な女性が居るってことに、賢い彼が気がついてない筈がありませんからね。それがただ母親だったっていうだけで――」
「………」
「仮に失恋しても、そばに先輩のような立派な女性が居てちゃんと寄り添えるのなら、男は立ち直れるものです」
「そうだと……いいんだけど……」
「僕は翔馬くんの初恋が上手くいくことを祈ってますよ」
「あら、どうして――?」
「男の子にとって最初のセックスは親離れする上での重要なマイルストーンになるから……彼に僕らの交際を受け容れてもらいやすくなる」
「セックスって、あの子、まだ十二よっ」
「話しましたよね、それはもう十二分に可能な年齢だってことを」
「………」
「それより今は息子さんよりも僕のことを考えてくれませんか? じゃないと、また“とびっこくんスーパー”のスイッチ入れちゃいますよ」
「待って!……わかったわ……お願いだから……もう堪忍っ……」
「じゃあ、続きは後にしましょうか……」
美由紀は安堵した。また責められたら今度こそ本当にどうなるかわからなかったのだった。
「ねぇ斎藤くん……あなた、わたしをどうしたいの……?」
「それは決まってるでしょ、先輩が僕にしか見せない可愛い顔を見ていたいんです」
「そんなこと言って……」
「じゃあ、先ずはキスしてください」
俊介がテーブルの上に身を乗り出してきた。
「ここで……?!」
「ええ――」
美由紀は当惑げな顔で、客で賑わう店内にぐるりと目を遣った。
デートらしいカップルは多いが、それ以外はグループが何組か入っているらしい。しかしさすがに子連れのファミリー客は居ないようだった。
「先輩が僕の恋人で、このあとめちゃくちゃセックスをするんだってのを、ここにいる奴らに見せつけてやりたいんです」
「そんな……」
「でも後一時間もすれば現実になる
「………」
切ないため息をひとつ。この後のことを想うと、たとえ淫らなたまごのスイッチが切られていても股間が妖しく疼くのだ。長い睫の大きな瞳の奥に情欲の焰を匿して清楚な美貌が花開いている。
美由紀は豊かな黒髪を耳にかきあげながら、唇を差し出してキスを受け容れるのだった。
それに気がついたのか、一瞬、店内の喧噪が鎮まった。視線が集まってくるのを感じる。
やがて客の誰かが拍手を始めると、それに呼応するように絵になるキスシーンを演じる二人に向けて店内は喝采に包まれるのだった。