ボーイ8メンタルアウトアウト~学園都市編~ 作:真夜中のミネルヴァ
「やっぱり怒ってるのかい?」
「怒ってなんかいないわ――」
先を行く舘野唯香は歩みをさらに速めた。
「ごめんよ唯ちゃん、もう勘弁してくれないか、僕が悪かった……」
年下の美女の機嫌を損ねて、島崎一成は平謝りで後を追っている。
ヒールのある分、二人の背丈はほとんど違わない上にモデル体型の唯香の歩幅は広く、男の方はピッチを上げて歩数を稼ぐかたちになっていて、ヒョコヒョコとした動きはさらに見栄えが悪かった。
「悪趣味だわっ、一成さんがあんなことするなんて、わたし、がっかりっ」
唯香が怒っているのは、二人でコンビニの会計をしているときに買い物カゴの中から“ゴム”の小箱が出てきたことだった。一成が悪戯心を起こして内緒でこっそりカゴの中に忍ばせていたのだ。
若い男性店員が商品を一つ一つ取り出してバーコードを読み取っていた中に見覚えのない小箱が出てきて、なんだったかしら? と目を凝らし、そこに『厚さ7ミクロンの超極薄!』のロゴが見えた瞬間、唯香は無言のまま一成を置き去りに店をひとり飛び出していた。
大慌てで会計を済ませて後を追いかけてくる男を無視して、駅前の商店街を抜けて一成のタワーマンションのある方へと歩みを進めていく。
男からすればちょっとした洒落のつもりだったのかもしれないが、唯香には少女らしい潔癖さから、大切な秘め事である性を軽んじられたようで許せなかったのだ。
アルバイトの店員の他にも客が並んで居たし、そもそもそんなに必要だったのなら無人のコンビニを使えばいいのに、それをわざわざ好奇の目を集めるような真似をするなんて、
信じられない――!
セックスって冗談扱いできるようなことなのっ?
女の子にとってはいつでも命をかけた大切ないとなみなのに……。
唯香は怒っているというよりも哀しかった。
愛されることで愛する、愛することで愛される、セックスは男と女のもっとも親密な愛情表現のはず。互いにその気持ちを届けようと必死になるから、だからあんなにも素敵で深い歓びの経験となるのに……。
共に過ごした時間は心と心を結び合わせる絆となって、ますます相手を思いやれるようになる。
女が肌を許すというのは、それほどのこと……。
またそういう相手に巡り逢えて初めて、女は本当の意味で自由になれるのだった。
親にも見せられないようなありのままの姿を、恋人の前でだけは何もかも
それを唯香は信頼できる“親友”の操祈との語らいを重ねることで強く思うようになっていた。
だから蔑ろにされると、一成に対して価値観を共有できる相手なのかどうかという疑念がわいてしまう。
大好きな恋人であるだけに落胆していた。
「本当にごめん、ちょっとした出来心で、ねぇ唯ちゃん、機嫌なおしてよ、もうあんなこと絶対しないから……」
「あたりまえでしょっ――」
「ホント、反省してるっ、だから待ってよ、そんなツンケンするなんて君らしくないよ」
「ツンケンなんてしてないわ」
「なら、もっとゆっくり歩こう」
「急いでるのはせっかく買った中華まんが冷めちゃう前におうちに帰りたいからよ――」
だが、買い物袋をぶら下げているのは一成だった。
「それならそこの公園のベンチでひと休みしていかないかい? まだそんなに遅い時間じゃないから」
街路樹の間から公園の時計塔が目に入って、唯香は歩みを緩めた。時刻は九時半を回ったところ。空を見上げて、
「お天気は大丈夫かしら……」
「うんっ、今夜遅くには雪になるらしいけどっ」
取り付く島もなかった唯香から、ようやく手応えのある反応が返ってきたと感じたらしく、一成は少し声を明るくしていて、唯香は振り返ると厳かな顔つきのままで男の目を見据えた。
美女ならではのオーラを放つようになったうら若き恋人を前に、月並みな青年は神妙になって頭を垂れるしかなかった。
「ごめん、僕が悪かった……君に恥をかかせて……」
「そんなことはいいの……でも、一成さんには解ってほしいわ、女の子にとって性はとても大事なことなんだっていうのを……けして戯れ言、笑いごとになんてして欲しくないわ……」
「本当にごめん……」
「わかってくれればいいのよ……」
すれ違いになって、どうしていいかわからずに少し頑なになっていたが、唯香も仲直りのきっかけをさがしていたのだった。
青年が顔を上げて、
歓迎の笑みを十とすると、その半分の半分、そのまた半分ぐらいの笑顔で。しょうがないわねぇ――というような、長上の者がオイタをした目下の者を許す時のような表情。
ロングストレートの黒髪にパッチリとした瞳、ふさふさの長い睫毛が愛らしい。生来の美貌にはメイクアップなどする必要は全くなかったが、事情もあって薄く整えている。
ベレー帽にトレンチコート、ロングブーツの組み合わせは、敬愛する女教師のプライベートを真似てのこと。ぐっと大人びて、とても中学三年生には見えない。
「うん、わかった、これからはもっとちゃんとするから」
「どうだか、本当にわかってるのかしら――?」
「わかってるよ、もっと真面目になるから……ただ僕は……」
「ただなぁに?」
「自慢したかったんだ……」
「自慢――?」
「君が僕の彼女だってことを……男にはそんな見栄を張りたい愚かなところがあるんだよ……」
「………」
「唯ちゃん、すごく可愛いし美人だから、ゼミのみんなにも見せびらかしたいくらいなんだけど……でも、今はまだ大っぴらにできないからさ……」
「よくわからないわ……男の人にとってそれってそんなに大切なことなの……?」
「だからバカだって……」
「将来、この国のルールを考えようかって人が、そんなお莫迦さんじゃ困るわね」
「ごもっともです、返す言葉もございません……」
「もう、またいい加減なことを言ってるし……」
「ねぇホラ、あそこのベンチが空いてるっ、あっついコーヒーもあるからさ」
青年はレジ袋の一つを持ち上げながらご機嫌をとっていた。
「いいわ……」
「そうこなくちゃっ」
一転、跳ねるような足取りになって美女の先に立つと、目指すベンチの上にハンカチを広げて唯香に掛けるようにと促している。
「姫、ここへお掛け下さい」
「そのハンカチ、きれいなんでしょうね?」
唯香も意地悪を言ってから白い歯並みを覗かせる。
「ホントにごめんね」
「わたしもちょっとムキになっていたから……」
仲良くベンチに腰掛けた二人は、買ったばかりのレジ袋の中を覗き込んだ。
「中華まん、どっちにする?」
「肉まんとトンポーローだったかしら? わたしはどっちでも」
「じゃあ、半分ずつにしよう、コーヒーはブラック? カフェオレ? それともこっちもまわし飲みにする?」
「ええ、それでいいわ――」
唯香は一成から手渡された肉まんの半分をひとくち含んだ。
「まだあったかいっ、良かった」
「うん、美味しい。コンビニのだけど、ずいぶん味が良くなって本格的だよね。値段もそこそこするけど」
缶コーヒーもドリップしたてのものに劣らないほど味が良かった。
落ち着いてからあらためて辺りを見回すと、テニスコート二面分ほどの公園内のそちこちにまばらな人影があるのに気がつく。
夜とは言っても週末の十時前は都内ではまだ宵の口、これから夜の街へと繰り出そうという学生風のグループやら、土曜出勤の帰りなのか駅へと向かうサラリーマンなど、人の気配が途絶えることはないのだった。
既にすっかりできあがっているのだろうか酔い覚ましにベンチで横になっているものも居る。
さすがにこの寒空の下だと凍死してしまわないかと心配になるが、よくしたものでアルコールが抜けてくると人は俄かに寒気を意識するようになって自然に目が醒めるものなのだ。
唯香は近くに他人の気配のないのを確かめてから
「ねぇ一成さん、さっきあんなこと言ったけど……」
声を低くして訊いた。
「私って重たい……?」
「そんなことないよ、唯ちゃんみたいな子の言うことは、なんでも正義だから」
「茶化さないで、真面目に言ってるんだから」
言われて青年も真顔になると
「唯ちゃんらしいっていうか、君がそう考えてくれてるのが判って僕もうれしかった……」
「女の子がみんながそうなのかは知らないけど、でもわたしのお友達のひとりも同じように思っているの……その人も素敵な恋をしていて、本当に一途に相手のことを愛しているのよ。互いに身も心も捧げるように必死に……見ているとこっちまで切なくなってくるくらい懸命に……きっとその所為で傷ついたり哀しかったりすることもあるのかもしれないけれど、でもその分、二人の絆はますます強くなって……だから二人を見ていると、私もそうありたいなって……」
食峰操祈の恋は教え子を相手にする危ういものだった。法的に問題がある上に倫理的にもギリギリかもしれない。それでも彼女がいとなむ恋はとても美しいと思う。それは二人の心が本物だからだ。
常に自分よりも相手のことを第一に考えて、大切にしようとしていて……。
それに……男の子の方にジェラシーを感じるなんて初めての感覚だった。
先生がいまもヴァージンのままにされてるなんて――。
自分たちが一夜で通り過ぎてしまったことを、二人は長い時間をかけて濃密な経験を積み重ねている。
自然数しか知らない人と実数を知るものとでは、数の世界で見るものも見える景色も違うように、きっと二人は、二人にしか分からない豊かな性を、愛を育んでいるに違いない。
しかし、たとえ辿る道は違っても、自分も二人のように強く深く結ばれたいと思う。
恋人と向き合うときは、どこまでもひたむきに心を尽くしたい。
「……一成さんは大切な人だから……」
「僕にとっても君は特別だよ……誰よりもだいじな……」
青年から仲直りのキスを求められて、唯香は相手の唇に立てた人差し指を圧し当てた。
「ダメ……」
「まだ姫のお許しを得られないのですか?」
「さりげなく周りを見てみて……さりげなくよ……」
美少女に促されて、不自然にならないようにぐるりと頭を巡らせた青年は、なるほど、とばかりに頷いた。
「気がつかなかったけど、こんなに人が居たなんて……目が暗さに慣れてきたからかな……」
広場を挟んで対面のベンチに居る男は、遠くからこちらにセルのレンズを向けているようにも見えなくもなかった。電話をしているでもなくゲームに興じているようでもなく、さっきから赤いLEDランプが点灯したままじっと動かない。
「だからお行儀よくしていないと」
「そうだね……」
「これを食べたら行きましょう」
唯香は食べかけの中華まんを食べながら、カフェオレ缶を傾けている。
「うん――」
「このメーカーのカフェオレ、わたし初めて……おいしいわ……」
「
「そうかもしれないわ。あっちにしかないものもあるけど、やっぱりこっちに来るといろんなことがもの珍しくて……」
「そんなもんかなぁ……」
さすがに都内の方がコンビニチェーンにも色々バリエーションがあって、いまだに有人店舗がかなりの頻度で残っているのも逆に新鮮なのだった。また扱っている品物の種類も豊富で、学園都市内ではお目にかからない商品などもあって、唯香にとってはお買い物はコンビニに限らずいつでもどこでも楽しかった。
「やっぱり東京はいいなぁ、わたし、春からこっちに来ようかな……」
「学園都市だって東京の一部じゃないか……といってもそもそも彼処は日本の中にあって日本じゃないみたいな所だからなぁ……唯ちゃんにはなにか不満でもあるのかい?」
「いいえ満足しているわよ。何をするにしても学ぶにしても、世界で最高の環境だと思うから。友達も先生たちも優秀で立派な人たちばかりだし……それに真夜中に子供が一人で歩いていても心配が要らないくらい治安も良いし……」
「それならどうして?」
「素敵なこともたくさんあるんだけど、ときどき管理が行き届き過ぎていて、こっちでの自由な生活を知るようになると息苦しく感じることもあるから……」
「君たちからすると東京は自由な所なのか……僕らも十分に飼育されている感があるんだけどな……」
一成は、二種類の中華まんをブラックコーヒーで流し込むと、ゴミをまとめながら応じた。
「だってあっちだと、例えば今こうして私がトンポーローまんを食べていると、それも記録に残るのよ。
「ふーん、なるほど……自由か秩序か、人類の永遠の課題のひとつだね」
「すごく安全で清潔で、申し分のない環境だと思うの……でも人間にはやっぱり秘密が必要なんだと思うわ……」
「秘密っていうのはセックスのこと?」
「それも含めてよ……」
「まさか学園都市ではセックスも機械が監視しているの?」
「さすがにそれはないと思うわ……そう思いたいけど……でも、たとえば一成さんのアパートが
「ちょっとそれは嫌かもしれないな、女の子にとっては特に……」
「その上もしもスパイグッズの被害者なら丸裸にされているも同然――」
唯香はいつぞやの碧子との件を思い出して眉を翳らせた。
「それならやっぱりいちばん怖いのはスパイグッズだね、僕も君に言われてから“アシダカ軍曹”を各部屋に一つずつ放っているよ。幸い、これまでのところ異常はないみたいだけど……まぁ男のプライバシーなんてたかがしれてると思うんだけど、なんだか世知辛い嫌な世の中だね」
「守られていると思えば楽園なのかもしれないけれど……」
「蛇に
「でも……人は愛を知ってしまったから楽園を出たのよ……」
「それで君は楽園を出たくなったのかな?」
唯香は風になぶられた髪を片手でおさえて、傍らに視線を送った。
特に美男というわけではなく、容姿は凡庸なのかもしれない二十二歳の男。けれども努力家で誠実だと思う。
女が好みの異性を選ぶ時、相手の容姿などは所詮アクセサリーのようなものでさほど重要な要素ではなかった。一方、努力家であることは我慢強いことでもあり、それは人間にとって最も重要な美徳のひとつだ。
才能の上に胡座をかくような俗っぽさには、ただただ辟易するばかりだった。
そして何より重要なのは誠実であること――。
そのためには自分も誠実でなければならない。
男と女の間を埋める約束事は、実はとても素朴で単純なものだと思う。ただその簡素な道から外れてしまうと、とたんに道は険しく錯綜する。
結局、何を望むか――というのが人を
例えば羽振りの良さこそが人の価値だと信じるものは、そういう平べったい人生を生きることになる。
でも少女が心惹かれ憧れた人々は、食峰操祈を含めてみな虚飾とは無縁だった。
学園都市で不自由なく生きることを許された者が、それを言うのはおこがましいのかもしれないが、本当に良いものは背伸びなんかしなくても、きっといつでも手の届くすぐそばにあるのだ。
メーテルリンクの青い鳥のように……。
「寒くなってきたわ……お家に帰りましょう……」
唯香はベンチから立ち上がった。
「ああ、そうだね……帰る前にちゃんとゴミの始末をしないと」
「うん……」
一成は飲み終えた缶や紙クズなどを仕分けはじめる。
「コレも要らなかったな――」
“ゴム”の小箱も廃棄する方へと放り込むのを見て唯香は目を丸くした。
「どうして?!」
「だって、今夜は必要ないからさ」
「……わたし、まだ赤ちゃんをつくるわけにはいかないわ……」
驚いて訴える。
「使わなくても君を可愛がる方法なんていくらでもあるから」
「なにいってるのよ……」
唯香は恋人から淫らなことを仄めかされて唇を引き結んだ。
「だって君に、楽園よりもこっちの方を気に入ってもらえるようにさ」
「でも……棄てないで……」
「それは僕のセリフだよ。僕が唯ちゃんを棄てるなんて、ありえない」
「違うわ、私が言ってるのはそれのこと」
唯香はゴミ袋を指差した。
「物を粗末にしないで……使われずに廃棄されるなんて可哀想、ちゃんとお勤めをはたさせてあげないと……」
「わかった――」
一成はゴミ袋の中から小箱を取り出すと、買い物袋の方へ移した。
「じゃあ、お許しが出たので、今夜は使い切るつもりで頑張るよ」
「そういう意味で言ったんじゃないのにっ」
「うん、わかってる――」
「もー莫迦なんだから……」
すっかり仲直りをした若い恋人たちは、エロティックなニュアンスを含んだ言葉のキャッチボールをしながら、公園の遊歩道を明るい街路の方へと歩いていくのだった。