ボーイ8メンタルアウトアウト~学園都市編~   作:真夜中のミネルヴァ

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1週間、スキップしてしまい
また無駄に長めのものを



週が明けてそれぞれの朝、女たちは己がさだめを振り返る 1

 年上の男の巧みな導きで全身をくまなく愛されて、自分が相手から必要とされていることを体の芯に届くまで教えこまれる、そんなふうに思えるほど女にとって満たされる経験は他にはないのかもしれない……。

 独り寝のベッドで微睡みながら凛子(りんこ)は、昨日の朝は自分の裸の胸の上で眠りこけている武巳(たけみ)が居たことを思い出して満足げに薄く笑んだ。

 神経質で滅多に隙を見せない男が、普段とは別人のようにだらしない顔になって無防備な姿を晒していた。

 体を求めてくる時には逞しさを思い知らせてきたのに、すっかり弱々しく拙い感じになって縋りついてきていた。

 その時に感じた優越感は、きっと母性というもののひとつの現れなのだろう、林あまりの詩が頭に(うか)んでくるのだった。

 たぶん武巳は、あんな顔を妻や娘にだって見せないに違いない。深く睦みあった男女だからこそ分かち合うことのできた特別な時間(とき)……。

 その幸福感を思い出しながら寝返りをうってうつ伏せになった。

 時刻は、まだ五時を過ぎたばかり――。

 いつもよりも一時間ほど早かったが、寝足りない時の気だるさもなく、凛子はベッドを抜け出すとパジャマ姿のまま朝のルーティンをこなすのだった。

 コーンフレークとホットミルクの軽い朝食を摂って身支度を整え、今朝は早々に出勤することにする。

 外はまだ薄暗い真冬の払暁、気温は都心に比べ丘陵地域にあるこちらの方が低い筈なのだが、城域内の効果なのかそれほど違いは感じなかった。高輪にいた時と同様に厚手のセーターにロングコートで凌げるくらい。

 アパートを出て歩き始めてすぐ、折よく――恐らく、歩行者の凛子のデータを読みとって向こうから近づいてきたのだろう――無人巡航カートがやってきたので乗車の合図を送り停止させて乗り込む。凛子の暮らすターミナル駅近くのアパートから職場である常盤台中学まで徒歩で十五分あまり、カートだとものの五分ほどで校門前に寄せてくれるのだ。

 乗合タクシーの要領で、しかも無料。

 この便利さは、都内では業界の既得権もあってなかなか実現が難しい、まさに学園都市ならではのサービスの一つだった。

 そのうえカートはただ人を運ぶだけではなく、治安維持のための街の巡視という別の役目も持たされているらしい。

 そもそも警備は様々な種類の専用のドローンが担っているが、ここではそれ以外の自動機械類にも専業以外の機能を帯びさせていて無駄というものが無かった。

 さながら街全体が巨大な生命体のように恒常性を維持している。

 ここで暮らすようになって、まだ三ヶ月。

 目を瞠ることばかりの連続だった。

 世界最先端の電脳都市――。

 可能な限りの自動化が進み、都市(まち)の生業は教育研究を主としつつも一人あたりの生産性は抜きん出て高く、最高水準にあるとされる東京のそれを遥かに凌ぐ。機械、電子頭脳という欲望とは無縁の現代の神の庇護のもと、誰もが最大の能力を発揮しうるように調整されている。

 なにしろ企画段階から実際に現物になるまでの期間の短さが驚異的なのだ。外では月単位、年単位にもなることが、物にもよるが時間単位にまで短縮されることも珍しくないらしい。

 例えば、大学などの研究室で朝必要を感じて部品などを設計し、午前中に業者に発注すると夕方には試作品という形になって届くといった具合に。研究が加速するのも宜なるかな。

 また人々がもっとも気にする富の分配についても、偏りが生じないように常に修正されて合理化されていた。

 子供たちにとっては機会が、大人にとっては安定が保障された、まさに理想的な環境だった。

 既得権益のしがらみを排すると人はどれほどのスピードで進歩しうるかという壮大な実験の答えがここにあった。

 いま人類は、神の玉座の前に立って、チェック――!

 と、高らかに宣言していると言っても良いのかもしれない。

 しかし――。

 快適である一方で凛子は、この環境に危うさを感じてもいる。管理が行き届きすぎていて、まるで自分が街を構成する部品の一つにでもされたように思うことがあるからだった。

 それも、凡人であるが故のことなのだろうか……?

 生徒たちも、そして同僚の食峰操祈も、この街の暮らしに良く適応しているように映るからだ。

 それにそもそも、この快適な環境での生活を謳歌するためには資格が必要で、そのハードルはけして低くは無いのだ。それを手にできている今は幸運だった。

 新規の転入者は学園都市内の教育機関に通う生徒、教職員にほぼ限定されると言ってよく、域内企業の採用需要もずっと自足状態にあった。

 こと、人――という面に限っては事実上、学園都市の門は閉ざされているといっていい。

 そして新たに“入城”してくる生徒たちも特別で、知能はなべて非常に高く、中には特殊な能力を有する者まで居るというのだ。

 要するにここは意図的に“人以上の者”ばかりを集めている異界――ということだった。 

 とても想像ができないが、あの愛らしい食峰操祈でさえ、かつては強大な能力者として人々から畏怖されていたというのだから驚きだ。

 たしか、デザイナーズと言ったっけ……。

 遺伝子を整えることで欠陥を補い長所を伸ばす、産まれながらに多くのものを与えられた人々。

 それに羨望を感じないかと言われれば嘘になる。

 ただ、高い能力にあの素晴らしい容姿、心優しい性格と接していると、自分とはあまりにも違いすぎていて、ジェラシーさえもどこかへ行ってしまうのだった。

 彼女――。

 男性との交際はどうしているんだろう?

 ふと考えてから、なんとなくではあるが、自分と同様に曰くのある恋をしているように感じていたことを思い出した。

 それなら……。

 恋とセックスは若い女にとっていちばん大切なプライベートであるはず。しかし、この街でデートをするときには常にプライバシーの問題が立ち上がってくるのだ。

 もしも誰かが電脳に蓄積されたデータを開示しようとしたら、たちまち何もかもが露見してしまうことになるのではないか?

 いくらシステムとして、そんなことはありえないと教えられても、文系頭にはなお懸念は残るのだった。

 嘘が暴かれては平静では居られない。

 悪徳なのかもしれないが、嘘は人を形作る上での重要な要素だった。嘘なくして人は人としてありえない。

 自分と武巳の関係も多くの嘘の上に成り立っている。というより恋そのものが虚構――それが言い過ぎであるなら互いの誤解の産物――なのかもしれない。

 恋をするのに秘密と嘘は欠かせないもの。

 とりわけ男性側には女の()く嘘を許容できるような寛容さがないと、関係はギスギスしたものになりがちだ。

 もちろん嘘にも色々あって、他人を傷つけ破壊するような嘘は醜く許されないだろう、魂を穢す愚かな行為に違いない。しかし、自分を守る為のものはギリギリ許されても良いのではないか?

 重要なのは動機、だと思う。

 嫉妬や憎悪、自身の欲望を満たす為の嘘には救いはないが、相手を守るための無償の嘘は許されてしかるべきだと思う。

 しかし、機械にそんな分別があるとも思えない。

 なんといっても人工知能は恋をしないから……。

 そういえば芸人の誰かがそんなことをテーマにしていたっけ……。

 

「――昨日テレビ見とったらな、芸能レポーターのオバハンがな“アップルコンピューターの最新モデルが、ウインドウズの最新モデルと製造元の制止を振り切って駆け落ちしましたっ! これはシリコン版のロミオとジュリエットですぅっ!”てな、大騒ぎになっとったで、おどろいたでホンマに、とうとう機械も運命的な恋をするようになったんやなぁて……なんやその顔、不景気な顔しくさって」

「ウチもやがなぁ……実はなウチのパソコンもな、隣んチのパソコンと不倫しておったのがわかってな、もうワシ、ウチに帰るンもおっくうになってもうて、アレの画面見るのも、ヤでヤでたまらんわ」

「そりゃお互いさまやろ、そういうオマエかて、この間まで会社のゼロックスと社内××(ピー音)××しまくりやったやろっ、この浮気もんがっ」

「アレは浮気やないで真剣やで、ワシらはガンバってコピーを作ろうとしとったんや」

「ならんて、ゼロックスはアメリカ製や、そやからでけんのはコピーやのうて混血や」

「ほんでか、カラートーンが微妙に黄色に寄っとったんは、おかしな、思うとったんや」

「黄色? キミ、見栄はったらあかん、キミのような地黒混ぜたら、ビーキリキリキリキリッ、フワーンって排紙口から出てくんのは貧乏くさーい黄土色の奴しかならへんやろ、古新聞みたいな」

 

 きわどいネタが蘇ってきて思わず(あだ)な笑みがこぼれた。

 機械は意識を持ちえない――。

 だから恋の悩みもセックスの歓びも、そして生きる不安も死の恐れも知らない……。

 喜怒哀楽を伴う豊かな感情世界は人ならではのもの。

 ただ、そんな素人考えさえ、この街に暮らす天才たちは、いつの日か軽々と乗り越えていってしまうのかもしれなかった……。

 正門をくぐるよりも先に、隣接するグラウンドから朝練に励む運動部の生徒たちの声が聞こえてくる。

 凛子も中学生になったばかりの頃は陸上部に所属していて朝のランニングを日課としていたこともあったが、その後いろいろあって部活動自体から距離を置くようになってしまい、そのまま今にまで至っている。地味な外見からインドア派に思われがちだったが、もとより凛子は体を動かすことは嫌いではなかった。

 そのうち、また何か始めたいとも思う。

 独りでできることとなると、すぐにはジョギングぐらいしか思いつかないが、スポーツクライミングは機会があればトライしてみたいもののひとつだった。

 施設があってクラブの顧問にでもなれればお誂え向きなのだが、残念ながら常盤台にはそういったものはまだない。

 カードキーで下駄箱を開けると内履き用のローヒールに履き替えて校舎内に入る。

 生徒たちの多くは学寮で過ごしているのだろう、構内はひっそりとして静まりかえっている。食堂が開く頃になると朝の活気が蘇ってくるはずなのだが、そうなるまでにはまだ暫く時間があった。

 中央棟を挟んで正面左側が共同大食堂や男子用浴室、男子寮のある教室棟で、右側が女子寮棟だったが、教員室は少女たちの警護も兼ねているのか寮監室とともにその一階にあった。

 元は女子校ということもあって女子生徒比率が高いというのは判るが、男子と女子の待遇の違いがここまではっきりしているのも新鮮で、その環境に諾々としている男子たちの物分かりの良さも面白かった。

 高い知能を有しながらも純朴で、順法精神は大人さえも見習わなければならないと思うほど、規律正しくそして健全。

 以前にもいろいろな場所で教壇に立つことはあったが、授業をしていてこんなにも楽だと思ったのは初めてだった。

 エリート意識の高い子供たちにありがちな、大人を大人とも思わない不遜さや、ピリピリするような刺々しい空気もなく、授業中は常に熱心な態度でこちらの話に耳を傾けようとする。注意力の散漫や私語などで講義の妨げになるような経験はほとんどと言っていいほどなかった。

 そして授業が終わると、今度は自分のようなどこまでも平凡な人間に対しても胸を開いてうち解けようとする。

 優れた知識や技術を手にすると、ともすれば人は他人を出し抜いたり蹴落としたりすることに使おうとする誘惑に抗えず、結果としてそれが多くの災厄の苗床となるが、自分の知る生徒たちには公益への意識が常に上位にあって自己抑制的なのだ。

 善なるものへの希求が強いように感じる。

 それに比べると母校の大学生たちの方が、理解度もモラルもずっと見劣りするように感じてしまうのは、これも遺伝子の差、ということなのだろうか……?

 彼らを買いかぶっているのかもしれないが、こんなにも教えがいがあると、教師にとってはここは天国だ。

 この地へと赴任してきたのは、学位取得をしたのち大学などの教育現場に安定した職を得るまでの腰掛けのつもりだったが、もし仮に来年、去らねばならないとしたら……。

 もとより作家になるのであれば、大学という偏狭な村社会に引きこもってしまうよりも、許される限りここに居て若く賢明かつ懸命な生徒たちと共にある方が刺激があって良いのかもしれない。

 ただ、そこで立ち上がってくるのは、やはり武巳との関係だった。

 そして、女である自分――。

 本当はどうしたいのか、わからなくなってくる。

 留学までして五年も考え続けて、結論が出せないままにうやむやに続けてしまっている関係を、自分から断ち切るなんてことは多分もうできないだろう……。

 結局、棚上げにする、今は考えないことにする……。

 目覚めた時の高揚感は、冷たい外気にふれて体が冷えてくるとともに、いつしかすっかり霧消してしまっていた。

 時間外ということでカードキーを使おうとして、教員室のドアが既に解錠されていることが判って、自分よりも先に誰が来ているのかしらと、恐る恐るドア開いた。

 と――。

「あら、凛子先生、今日はずいぶんお早いですね」

 すぐに中から明るい声がかけられた。一番乗りかと思いきや、まだ先入りがいたのだ。

 食峰操祈だった。衝立の陰から晴れやかな笑顔が覗いている。

「食峰先生、もうご出勤だったんですか?」

「私もいまさっき来たところなんですけど」

 彼女はそう言うが、デスクの上には書類が拡げられていて、既に執務中であるのが窺えた。が、操祈は、

「お茶、淹れますね」

 すぐに気働きを見せて椅子から立ち上がろうとする。

「いえ、私がやりますので先生はお仕事を続けて下さい」

「うちの給湯器、ちょっとクセがあって、朝一はいつもご機嫌ナナメなんですよ、喝を入れないといい加減なものが出てくるので、慣れてる私がやった方がいいんです」

 今朝の操祈は、また一段と楽しげな容子だった。幸せいっぱい、という雰囲気。

 そうか――。

 きっと彼女も週末を恋人と過ごしていたのかしら、と察する。

 目が覚めた途端にじっとしているのももどかしくなるくらい、心も体もフル回転、ナチュラルハイの状態。

 さっきまでの自分もそうだったが、きっと彼女もそんな感じなのかもしれない、と。

「じゃあ、その喝の入れ方を教えていただけますか」

「ええ、もちろんっ」

 モデルのような体型が軽やかに動いて先に立つ。

 その後ろ姿に、凛子はなんて綺麗な髪だろうと目を奪われていた。甘いバニラの香りが感じられて、パフュームを変えたのかしらと少し不思議に思うのだった。

 たしかに、教員室の隅に据え置かれた万能――給湯器はここが電脳都市とは思えないほど旧式で、電源を入れてから立ち上がるまでに少し時間がかかる上に、前日に溜まったドレーンの排水をして、新鮮な水で給水路系のクリーニングをしておかないとコーヒーやお茶を淹れるときに抽出ムラが出やすいのだという。

 調子が良いときはカフェのものと比較しても負けないくらいに抜群に美味しいのだが、そうじゃないときもしばしばで、外れ籤を引いた時などには、とっととお払い箱にして新式に交換してしまえばいいのにっ、と、教員たちの誰もがこのマシンを憎み、毎年、福利厚生費の中からそれ用の更新費が計上されるというのだが、なぜか実行に移されることなく年を重ねている。

 なにより学校創立以来ずっとこの場所にあって、今や教職員の誰よりも古株だそうなのだ。

 あまりにも骨董品過ぎて、少々くたびれていても時に磨かれた愛着から棄てるに棄てられないということらしかった。

 この気難しいロートルの扱いを操祈はよく心得ているらしく、

「いかがですか?」

 マイマグカップに落としてもらったエスプレッソのダブルは、ふだん自分が淹れた時よりも数段、美味しかった。

「全然、味が違いますっ、香りも立ってコクもあるし、渋みはあまりないし……どうしたらこんなふうになるんですか?」

 目を丸くした凛子の顔を見て、操祈はニンマリ得意げな笑顔になった。

 まるで、ちょっとおきゃんな女子高校生みたいな顔つきに。

 理知的な美貌に隠れて、こういう愛くるしい顔をされたら、きっと彼氏ならメロメロになってしまうだろうな、と凛子は思わずにはいられなかった。

「コツがあるんですよ」

「コツ、ですか?」

「おまじないと言ったらいいのかしら」

「そう言われても……」

 操祈の話によると、なんのことはなく、ただきちんと水の入れ替えをしてタンクを基準通りの水量にして、あとは正しい手順でボタンを押すだけだった。

「それから、美味しくしてくださいねってお願いするんです」

「あの、それも先生の何かの能力……だったりするんですか……?」

「え、能力? わたしもう能力なんてなにもありませんよ、とっくに失って、今はただの普通の女ですから」

 屈託無く言う。

 普通――と。

 操祈のような女性にはもっとも似つかわしくない言葉かもしれない。

 だが彼女が言うと少しも嫌味に感じられないのだ。自身がそれを心から信じている容子だからだった。

「わたしは何にしようかな……」

 白く長い指先がマシンのパネルの上を優美に動いて、それに応えて機械がシューっと音を立てる。今度はほうじ茶の香ばしい薫りが立ち込めてくるようになった。

 操祈もマグカップのお茶をひと啜りして微笑む。

「うん、美味しいわ、いつもありがとう」

 給湯器の四角いフロントグリルに労いの言葉をかけている。美しい王女が年老いた臣下の者に対してするように。これがおまじないなのかもしれないが、凛子はきっと自分がやったら全然サマにならないと思うのだった。

 早暁の静かな教員室で、それぞれマイマグを持って躊躇いがちの微笑みを交えながら、ちょっと互いの胸の内を探り合う感じになっていた。

 考えると操祈と二人だけになるのはこれが初めてかもしれなかった。

 背も高く、傍に並ぶと見上げる感じになるのだが、ただ、威圧感を覚えずに済むのは円やかな性格の所為だろう。

 本当に素敵な子だ――。

「先生は週末、どうされていたんですか?」

「うーん……いつもどおりですよ……怠け者なので夜更かしして、朝寝坊して……あとは……溜まっている家事を嫌々やっつけたりして……」

 操祈は白い歯を覗かせて言った。言葉の選択はくだけたものだったが、蔭のない表情も、考え事をする時に指を唇にそえる仕草もとても自然で優雅。

「あの、シャンプーかコロン、変えられたんですか?」

「え? いえ別に……どうしてですか?」

「今朝は先生から、なんだか甘い香りがするので……バニラみたいなとてもいい匂いが……」

 凛子がそう言うと、なぜか操祈は白い頬を朱に染める。

「いやだ、週末はお家でケーキを作ったりしていたので……染みついちゃったのかしら……」

 なぜか言い訳をしているように聞こえるのが不思議だったが……。

「お手製のケーキ? ご自分で作ったりされるのですか?」

「ええ……最近、お友達に教わったりして……ダメダメなんですけれど……」

「すごいですね、ケーキを焼いたりするなんて……」

 凛子は、彼氏さんにかしら? と、訊こうとして止めた。尋いた以上は自分も言わないといけなくなると思ったからだった。

 つまらない嘘をついてごまかすのも嫌だった。

 操祈はカーディガンの袖の匂いを嗅いで、

「授業が始まるまでになんとかしておかないと、また生徒たちからからかわれちゃう……でも、どうしよう……」

 困り顔も可愛らしい。

「コロンかなにか、お持ちではないのですか?」

「……私、普段はあまり使わないので不如意で……無精なものですから……干物女ですね、恥ずかしいです……」

 若い女の子で香りに拘らないのも珍しいと思う。リケジョだからかしらと思いながら、

「なに言ってらっしゃるんですか、いつも眩しいくらいにお綺麗なのに……私のでよければお使いになりますか? デスクの引き出しにあるので」

「えっ、いいんですかっ!? ああ、よかったぁ、助かりますっ、じゃあ後で……ちょっぴり甘えさせてください」

「私のなんて安物ですから、気になさらず」

 年が近いこともあって、会話を続けていると教員同士というよりも女同士の気安さが場を占めていくようになっていく。

 それは帰国して以来、凛子が久しく経験していなかったものだった。

 話題は差し障りのない教室運営についてのものから、操祈が週末に生徒に付き合うこととなったカラオケのことになり、彼女が生徒たちの前で何曲か歌わされたことを聞くと、是非、拝見したいからもし次の機会があったら自分も参加したいと申し出た。

 凛子がこんな風に思うのは、疎外感を抱かずにはいられなかった中学高校時代はもとより、大学時代も数えるほどしかなかったかもしれなかった。

 そして話はお気に入りのお酒の銘柄のことから、やがては好みの男性ついてのことにもおよんでしまった。

 この手の話題は努めて避けるつもりでいたのだが、異性の話題になって交際に触れないのも不自然な気がしてきて、つい踏み込んでしまったのだ。

 ひとつには操祈がとても幸せそうでいることも力になっていた。からかうつもりなど毛頭なかったのだが、うっかり

 お幸せそうですね――と、やってしまった。

 女であればその言葉の意味はわかるもの。操祈はまたポッと頬を染めて初々しいはにかみの表情を覘かせて、彼女の恋が順調に進展していることが窺えたのだった。

 ボーイフレンドと体の関係になって、まだそんなに日が経っていない雰囲気。

 凛子自身も互いの体の探求に興奮していたころの自分を思い出していた。

「わたしは、そんな……凛子先生こそ、とってもお幸せそうじゃないですか……あ、そうだっ、学位論文が上手くいってるんですねっ?」

 巧みに話題をすり替えられて、はぐらかされてしまう。だが逆に凛子もホッとする。

「え、ええまあ……」

「文学博士号だなんてすごいですっ」

「そんな、からかわないでください、大したことではないので……それにまだドラフトのチェックをしてもらっている段階で、正式に決まったわけじゃ……指導教授の先生からはあと幾つか文献を足したほうがいいと言われていて……」

「わたし、文学の方もさっぱりで……英文学って言われても、有名な作家の名前ひとつ出てこないくらい……寂しい限りですね……」

「またそんなこと言われて……」

「そうだっ、どなたかお勧めの作家を教えていただけませんか?」

「いいですけど……でも、人それぞれ、好みもあるので……先生はどんなジャンルがお好みですか?」

「好み、ですか?……うーん……それさえすぐに思いつかないくらいで……文学に親しむ経験があまりなかったので……」

「例えばシェイクスピアはご存知ですよね」

「え、ええ、それはもうっ」

「……でも古典すぎるかしら……ストーリーは広く知られているのでページを(めく)る楽しさを感じにくいかもしれないし……近現代だと、やっぱり入りやすいのはモームかな……サマセット・モーム……」

「ああ、月と六ペンス、の作者ですよね、読んだことはないですけど……」

「雨、とか短編集から入られると楽しさが伝わりやすいかもしれません……」

「雨……ですか、あとで図書館で探してみようかな……」

「中学生のころ初めて読んで、それが私が文学に関心をもつようになるきっかけとなった作品なので……先生にも楽しんでいただけると良いんですけど……」

 (おもむろ)にドアが開いて村脇静繪が現れて、二人だけの雑談はそれまでになった。

「あら、若先生二人、今日はずいぶん早いのね」

「「おはようございます」」

 二人が唱和して頭を下げた。村脇はその前をそそくさと通りすぎて自身のデスクに腰を下ろした。

「何かお急ぎのご用事でもあるのですか?」

 操祈が尋ねた。

「今日は朝からリモートで会議があるのよ。始まる前にその準備をしておきたくて……そうだわ、食峰先生、あなたにも関係があることなので……」

「わたしに、ですか?」

「あの、わたしはこれで……」

 二人の間でこみ入った会話が始まりそうな気配に、凛子がその場を離れようとすると、

「ちょうどいいわ、野々村先生も居て下さい、あなたも聞いておいたほうがいいことだから――」

 凛子もひきとめられた。

「今朝の会議は来年度の新学期が始まる前の、各校への新入生の振り分けと受け入れ枠についてのものなんだけど……」

「……?……」

「ちょっと問題になりそうな子がうちへの進学を希望しているの、ほら、前に話したでしょ? 冬のキャンプに外からマルチスキルの男の子が来ているってことを」

 教務主任に促されて、傍らで操祈は記憶をたどっていた容子だったが、

「……テレパシストでリモートビューイングとプレコグニション能力もあるかもしれないとかっていう男の子ですよね……たしか森下くん……森下翔馬くんでしたか? 珍しいマルチの孤発事例で、そのうえナチュラルというとても貴重なケースだと」

「ええ、その子よ――」

「その子がどうかしたんですか?」

「たった二週間あまりで能力値がレベル2、一部は3ぐらいまで上がっているらしいの……まだそんなに安定しているわけではないらしいけど……」

「すごいじゃないですかっ」

 操祈は朗らかな反応を示していたが、逆に村脇の表情は冴えなかった。

「うちは女子校みたいなものだからご遠慮したいと言ってるんだけど、他校はこっちに押し付けたいらしくて……」

「はあ……」

「高度能力者たちへの教育経験がある上に、当事者だった人も居るからって……あなたのことよ、食峰先生」

「はい……でも、もう……」

「わかってるわ、あなたが能力を失っていることは……ただこうなってくると今はあなたが力を持っていてくれたら良かったのにとさえ思うのよ」

「そんなに扱いが難しい生徒さんなのですか……その子は……?」

「能力によってはそうなるわね……特にレベル3の直接透視能力となると……」

 それを聞いた操祈がようやく村脇の懸念を察したように

「そういうことですか……」

 納得して頷いた。

 凛子は二人のやりとりの意味がわからずに目を(しばたた)かせるばかりだったが、操祈が村脇に代わって説明を始め、彼女にもそのわけが理解できたのだった。

 その男子児童の前ではどんなに厚着をしていても裸でいるのと同じになるかもしれない――というのは女にとっては看過しがたい大問題である。

「レベル1、2ぐらいまでは、こちらもそれほど意識せずに済むものでも、これが3となるとそうもいかなくなるんです。レベル3というのはそれほど高い異能力で……発現頻度も極めて稀な……でも過度に恐れないで下さい……この子の場合も条件が揃うとそのようなことが起こりうるかもしれないというだけなので……」

「食峰先生はそれよりもはるかに高いレベル5だったんですよね?」

 凛子がそう言うと、操祈はきまりの悪そうな顔をした。

「今は違いますから……凛子先生と同じです、だから正直、私もその子の前に立つときには、きっと身構えてしまうと思うんです、女ですから……教師が生徒に対して口にすべきではないことかもしれないですが……」

「学園都市では豊富な経験から、そういう生徒の扱いには慣れているのではないのですか?」

「それは……村脇先生にお尋ねになって下さい……私の口からは……」

「まぁ確かに外の人たちよりも多少の経験はあるけれど、でも高度能力者の生徒の対応はいつでもとても大変よ……ただ昔を知っている者からすると、いまレベル3ぐらいでオロオロするのはバカみたいに思えるわ……だってあの頃は、この学園では三、四人に一人の割合でレベル3以上の子が居たんだから……この子みたいにレベル5の子だって二人も居たし……」

 村脇は操祈を見やりながら凛子に言った。

「でも二人ともとても賢明だったから、むしろこちらが助けられていたんだって、今はわかるけど……」

 美しい同僚が隣で肩を(すく)めて恐縮しているのを見ると、凛子にもどうやらそれだけではなかったらしいことは判ったのだった。

 しかしベテラン教師の操祈を見つめる眼差しは優しく、信頼を寄せているのが窺える。

「先生には、ご迷惑ばかりをおかけしていて……申し訳ありません……」

 操祈は深く頭を垂れた。

「昔のことよ、もう忘れたわ……それでね、キャンプ側は、とりあえず期間中は彼にブレスレット型のジャマーの端末を装着させることで、他の女子たちに納得してもらったみたいなんだけど」

「ジャマーですか……やっぱりそうなりますよね……」

「ウチで引き受けるとなると、こちらもジャマーを設置するとかして対応しなければならなくなるから、今から予算の工面もしないといけなくなるし……それにジャマーにはアレルギーを示す人も少なからず居るから……」

「あの、ジャマーっていうのは何ですか?」

 耳慣れないキーワードに凛子は操祈に尋ねた。

「脳の量子重力場に干渉することで能力の発動を抑えるんです……私もあまり詳しくないのですが……」

 知識が及ばないせいで説明の半分ぐらいしか理解できなかったが、電磁波の一種を使って思考を制御するもの、ということまではなんとか捉えることができた。

 操祈によると、建前上は装置は人体に対して非侵襲、無害ということらしいが、発育途上にある学齢期の児童生徒への適応は配慮するように、という但し書きがあるらしいことから推すと、やはり影響があるものなのかもしれないとのことだった。

「いくら扱いにくい子でも、そうしたものを生徒に使わないとならないというのは……」

 子供の思考や能力を機械の力を使って矯正する、ということには深刻な人権侵害の臭いを感じてしまうだけでなく、凛子は単純に電磁波イコール放射能のイメージからも拒否感を抱いてしまうのだった。

「たぶん、小型の端末を体に装着するだけなら害にはならないとは思うんですけれど……私たちの頃はもっと雑だったので、安全性なんて無視してずっと非道いことも普通に行われていましたから……いまのお話のジャマーも、何世代か前のプロトタイプというか、大掛かりで荒削りな装置が使われたりもしていたので……」

 操祈はキャンプ側に立って擁護していた。

「じゃあ、先生ご自身も以前にそういったことのご経験がおありなのですか?」

「ええ――」

 操祈が当時のことをあまり話したがらない雰囲気であるのを察して、凛子はそれ以上たち入るのを控えることにした。

 はからずも学園都市の影の部分に触れてしまったようで、三人の中にあって一人だけ部外者感を意識せざるをえなくなる。

「野々村先生にはいろいろショックなことかもしれないけれど、食峰先生が言うように、これでも以前に比べるとずいぶん改善されているのよ」

 凛子の表面的な認識とは異なって、学園都市は今も単純に、楽園、というわけではないということだった。

「能力――は、使い方によっては核以上に破壊的な影響を周囲に及ぼしうるものなの。だから制御についても人の知恵が試されるのよ。亡き者にできない以上、付き合っていくしかないから」

 村脇が何気なく使った、制御――という言葉に、事態の重さが自分の想像を超えたものであるのを思い知らされていた。事情を知らない者が底の浅いヒューマニズムの立場から軽々に嘴を突っ込むべきではないということも。

「それ以上に気になるのは、その男子児童の能力の伸張度合いが著しいことの方よ……昨年末にキャンプに参加した時にはレベル1程度だったのに、わずか二、三週間で部分的にせよレベル3になるというのは普通じゃないから……もしも今後も覚醒が続いて、これがもしもレベル4とか、場合によってはそれ以上になることもあるのだとしたら……その可能性も含めて原因等の分析も必要になるでしょ? だから仮にウチで引き受けたとしても研究機関と連携でもしない限り、こちらだけではとても手に負えそうもないと思うんだけど……どうかしら、食峰先生は、あなたはどうしたらいいと思う?」

「……初めから研究者の手に委ねてしまうのはどうでしょうか……能力のインフレーションも思春期での一過性の現象の可能性もありますし……力の正しい使い方を教えるのも教師の役目だと思うので……」

「そうよね……あなたならそう言うと思っていたわ――」

「………」

「理事会もね……その子の担任というので、ご指名なのよ……当面はあなたを充てるべきじゃないかって……アルマもそう判定したって言って」

「アルマがわたしを!?……そうですか……」

 アルマの判定――?!

 誰――?

「“彼女”がそう言ったのなら……きっとそれがいちばん良いのですね……」

 二人の容子から察するに、とても大きな影響力をもっている女性らしい。

 凛子は傍にいる操祈の端正な横顔――ちょっと当惑げな容子で、その憂いがまた一段と美しいと感じる――を見上げた。

「ちょっと待って、操祈さん、そう結論を急がないで。これはあなた一人の問題ではないの。だって、うちは三学年あわせて百五十名からの女子生徒をおあずかりしているのよ。彼のような生徒をわざわざ女子校になんて、そもそもおかしな話でしょ? もっと相応しい場所なら他にいくらでもあるじゃない?」

「そうかもしれないですけれど……でもアルマはそれを含めて判断しているはずなので……」

「ごめんなさいね、野々村先生はまだ知らないのね、アルマはこの街の最高顧問なのよ、以前にあった統括理事会に代わって、人――が判断に迷った時には意見を求めるの」

 凛子が話についてこられていないのを感じたのか、村脇は補足した。

「それは、もしかしてコンピューターなんですか? AIかなにかの……」

「もしかしなくてもそうよ、この街を支える量子コンピューターにして、刻々と成長をし続ける世界最高の宇宙シミュレーター」

 二人の会話の内容からなんとなく違和感を覚えていたが、やはりそうなのだった。

「人と馴染みやすいように擬似人格を与えられて、さながら人類が生み出した女神ね……だからって彼女の言うことに従う義務はないわ、あくまでも最終的な判断と決定は人間が下すのだけれど」

「この街の全てを監視しているという電脳……」

「監視ではなくて見守ってくれているのだけれど、まあそう感じる人もいるわね」

 凛子は目を丸くしていた。

「操祈さん、私はね、あなた一人に無理をさせるつもりなんてないの。この後の会議ではこちらの立場をしっかり主張するつもりでいるから。私、そもそもこの件ではアルマの判定が間違っていると思うのよ。だって普通に考えて、その子を担当させるには貴女みたいな人がいちばん相応しくないハズでしょ、ねぇ、野々村先生もそう思わない?」

「そうですね、わたしもそう思います――」

 村脇女史の意を機敏に汲み取って凛子も従った。

「私は思春期の男の子の心理に明るいわけじゃないけれど、でも自分のすぐ近くにすごく魅力的な女の人がいたら……? そしてその能力があったら……力を使いたいという誘惑にきっと逆らい難いと思うの。だから貴女のような子は、かえって彼の教育の妨げになりかねない」

「………」

「性っていうのは厄介なものよね……たとえ教師であってもその前には女であるわけだし、生徒であっても男であることには変わらないし――」

 村脇は書類を操祈に手渡した。

「私も一応、目を通したんだけど……理事会から送られてきた報告書よ。おかしなことが書いてあるから読んでごらんなさい……いちばん最後の行を」

 操祈は受け取ったA4サイズのブリーフを捲って視線を走らせている。

「読み上げてみて――」

「……なお事由についての詳細を確認したい場合には、希望すれば直接本人に伝えるものとする――」

 操祈は怪訝そうな面持ちのまま書面から顔を上げた。

「主語は理事会じゃなくてアルマよ」

「理事会はそれでいいのですか? 私が上の人たちの頭越しにアルマと直談判をしても……」

「アルマがそう言ってるのだから是非もないでしょ? 彼女がそのつもりなら、あなたに直接アクセスしてくることだってできるのだから」

 村脇は操祈に目配せをしてみせ、凛子は日頃いかつい印象の強かった教務主任の常とは違う仕草を、ひどく意外に感じるのだった。それを操祈が引き継いで言った。

「別に隠すほどのことではないので……」

「私には“彼女”の方があなたに会いたがっているように思えるのよ」

「“あの人”にはもう何年も会っていませんから……」

 二人がまるで人格を持った相手であるかのように、人工知能について語るのを見ていると、凛子は自分が暮らしていた旧い世界との隔たりを感じざるを得なくなるのだった。

「アルマはね、エクステリアの姉妹機なの、と言っても野々村先生には何のことかわからないかもしれないけど」

 二人から聞かされた話はさらに凛子を驚かせていた。

 この街の頭脳ともいえるAIがなんと操祈の脳から採取された細胞を増やして造られたデバイスで構成されているというのだ。

「いろいろあって、エクステリアの方は廃棄されてしまったけれど……だからアルマにとっては食峰先生はある意味では身内で、たった一人の“肉親”のように感じているのかもしれないのよ」

「あまり大げさに言わないで下さい。ここには、多くの人から採取した細胞のプールがあって、たまたま私のものが使われたというだけで、特に意味があるとも思えない話ですから……」

「アルマの心は私たちには窺い知れないわ、操祈さん」

「………」

「森下くんについての貴女の反応は予想どうりだったけど、まずはこの件は私に任せてちょうだい。会議の結果については後でお話しするわ。野々村先生にもね。長話におつき合いさせてしまってごめんなさい。でも、この学園都市(まち)が外とはだいぶ違うところだってことは、少しは解ってもらえたかしら? けして良いことばかりではないかもしれないけど、でも悪いことばかりでもないわ」

「私のような新参者をお話に混ぜていただいてありがとうございました」

 凛子は教務主任に丁寧にお辞儀をすると、操祈とともに自身のデスクに戻るのだった。

 ドアの外からは生徒達の声や足音が聞こえてくるようになっている。

 時刻は七時を回っていて、食堂が朝食を供し始めたようだった。

 

 




操祈先生がどうしてバニラの香りを纏っているのかは・・・
そのお話はのちほど
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