ボーイ8メンタルアウトアウト~学園都市編~ 作:真夜中のミネルヴァ
ペーパーフィルターを敷き、挽いたコーヒー豆を計量スプーンでたっぷり三杯、そこにポットで沸かした熱湯を軽く注いでしばらく蒸らしてから、湯をゆっくりとまわし掛けていく……。
ラボでドリップコーヒーを淹れるなんて、いつ以来のことだろうかと思う。
給湯室にあるコーヒーメーカーを使えばボタンひとつでそこそこの味のものが出てくるのに、わざわざ手間をかけて上手くできるかどうかも分からないものを自分で作る、というのは非合理的で時間の無駄だ――。
などと意識してそう思っていたわけではなかったが、いつもはラボに来るとすぐに実験室へと駆け込み、前夜からO/N――で仕掛けておいた結果のチェックにかかる、というのが身についた行動パターンだった。それが済んで一段落してから、やおらマグカップを持って給湯室に飲み物を貰いに行くのが七時五十分ごろ。
まだ多くの職員たちの出勤前で、混み合うこともなくゆっくりとその日の朝の気分に合わせてチョイスする。大抵はコーヒーになるが。
そして部屋に戻ってそれを飲みながらデスクで新着の論文等のテキストファイルにざっと目を走らせ、支援AIと議論をしながら今後の方針に修正を加えていく。
実際に手を動かして確かめたい実験屋の常として、事務処理はさっさと片付けて実技の時間を多くとりたいことから自然にこうしたルーティンになっていた。
日進月歩どころか秒進分歩、加速度がついて発展する研究現場において、数年のブランクは常人であればとっくに取り残されて後進に道を譲っているところ。
ただ、かつての天才少女、木山春生はやはり特別だった。
学園都市に戻ってきて以来、以前と同様、あるいはそれ以上の密度で仕事をこなして失地を回復、瞬く間にフロントランナーとして返り咲いてしまっている。
ラボに寝泊まりするのも彼女にとっては日常で、同僚たちからは、あの残念美人はいったいいつ寝ているんだろうと揶揄されるほど。
その春生が、今朝はのんびりとコーヒーなどを淹れているものだから、出勤してきた研究員の杉山明日香は目を丸くした。
「おはようございます、主任……また……徹夜明け……じゃないです……ね……」
上司の容子を窺って軌道修正をしながら言葉を紡ぐ。
「おはよう、明日香くん。きみも飲むかね?」
春生はコーヒーの入ったマグを持ち上げて誘った。
「あ、はいっ、いただきますっ……先生のコーヒーなんて、こんなこと二度と飲めないかもしれないので、一生の記念にっ」
明日香は白衣に着替えながら、冗談とも本気ともつかない言葉を口にして、マグカップを手にいそいそとやってきた。
「主任、今朝はどうされたんですか? 先輩が手ずから(コーヒーを)淹れるなんて天変地異の先触れになるんじゃ? お天気大丈夫かな?」
わざとらしく窓の外を窺って言う。
真冬の朝だが、七階の窓からは丹沢山系が望め、空気が澄んでいて空は青々と高い。
「かもしれんな……でも、たまにはいいではないか……」
「困りますっ、だってベランダに洗濯物を干しっぱなしにしてきてるんです」
若い助手の明日香は、木山春生のラボに来てまだ一年あまり。明朗で物怖じしない性格とざっくばらんなもの云いで、ともすればくすみがちになるラボの雰囲気をライブリーなものへと変えていた。
研究者としては並外れた天才でも、それ以外のことについては子供のように危なっかしいところのある春生を、雑事を含めて良く支えている。
専門は神経細胞工学で、今は春生の指導のもと細胞機能のミニマライズ化に勤しんでいて、自身のPCで論文を書いたり、データを処理するとき以外は地下にあるP3施設内に置かれた分子マニュピレーターを使って直接細胞に手を加えるという緻密で職人技的な実験に取り組んでいた。
学位取得未満の二十五歳。飛び級もなくキャリア自体は平凡で、才能も出色というほどではないのかもしれないが、原著、共著論文多数にして、将来を期待される若手研究者の一人だった。
「うん、合格です、ちゃんとコーヒーになってますねっ」
「いったい、君は何が出てくるかと思ったのかね?」
「もしかしたら硫酸かなって――」
しれっとした顔でジョークを飛ばしてきて、春生はしてやられたとばかりに軽く肩をすくめてみせた。
が、明日香は得意げに鼻孔を膨らませ、マグを傾けてコーヒーを啜っていたが、春生の顔を間近にするや改めて気がついたように怪訝そうな面持ちに変わるのだった。
「あの、なんかあったんですか?」
「ん、何かね――?」
「先生、いつもと違いますよね」
「いや、別に……何も変わらんと思うが……」
「いえ、絶対おかしいですよっ……だって、お化粧もバッチリキマってるし……」
今朝の春生はファンデーションを薄く塗り、目立たない色合いのものだが唇にはリップグロスものせていた。
地顔が端麗であるだけに、ちょっと化粧をしただけで一段と際立ち、輝いている。
春生は、週末に井之上優樹と会うときにしていたことをただ続けていただけだったが、事情を知らない者が目にしたら驚くのも無理はなかった。
残念美人の、残念――のところが蒸発して、その下からいきなり、超――の文字が現れたようなものだったからだ。
「なんかすっごくキレイなんですけどっ……そりゃ、先生が美人だってのは判ってましたけど、でも急にそんな本気だされたりなんかしたら、私みたいな中の上っくらいの女子は、差がついちゃって辛いじゃないですかっ……って、待ってくださいよっ!」
明日香は間合いをぐっと詰めると、巻き毛のショートカットの、クリッとした利発そうな大きな瞳をさらに大きくして、春生の顔を間近に見上げてまんじりとする。
「女の人がキレイになるときっていうのは、たいていオトコ関係ですよねぇ?」
部下からいきなり核心を突かれて春生は動揺した。
日頃、感情表現が地味である分、わずかな変化も目立ちやすい上に、たちまち頬を上気させて分かりやすい反応を示したものだから誤魔化しようもなかった。
否定するよりも先に、
「え!? えーっ!!! 先輩っ、まさかっ、そんなっ、ウソですよっ! ちょっと勘弁してくださいってばぁっ!」
「その先輩っていうのは許してくれたまえ、重すぎるんだ。わたしは教養を一年も保たずに中退してしまったのでな、しかも生理研に入り浸っていて、あっちでの授業にはろくに顔も出していなかったんだから、同級生ですらわたしのことを知ってるものは殆どいないんだ……」
「でも野口準教授は広田先生の教え子のお一人ですから、先輩は野口先生の姉弟子にあたる方になるので……って、そんなことじゃなくってっ、今は先生のカレシの話をしているんですっ、聞かせてくださいっ、週末、何があったんですかっ」
「いや、別になにもないが……」
春生は韜晦したが、そもそもそうした腹芸の類は得手ではなかった。
「なんにもって、そんなあからさまな反応されて否定されてもですね――」
「本当に何もなかったんだよ……」
嘘をついているわけではなかった。結局、井之上優樹とは一線を越えるまでには至らなかったからだ。
ただ――。
「何もなかったって……じゃあデートしてたのは認めるんですね?」
「いや、その、デートというのではなくてだな……」
詰め寄られて早速、口ごもったが、さらに馬脚を晒すことになるのだった。
優樹との一夜が蘇って、また羞恥のフラッシュバックに襲われて見事なまでに真っ赤になってしまったのだ。
異性に肌を許す、というのが女にとってどんなに衝撃的なことかを身をもって学んだばかり。
ただ彼女が未だヴァージンであることに気がついた優樹は交わりまでを望まなかったのだ。
春生はそのつもりでいたのに……。
「どうしてだね……? やはり年が離れているとまずいのかね? もしも子供ができることを気にしているのなら――」
およそ見当外れのことを言った春生に
「そんな大切なものを、こんな場末の安宿でいただくわけにはいかないので……」
肌を接していた優樹はそう言ったが、その顔はとても嬉しそうだった。
「わたしは構わんのだが……」
「先生が構わなくても僕は困ります……貴重なシーツを残していくなんてこと……」
理由を聞かされてもピンとこず、自分には特に拘りなどなかったのだが、
「きみがそう思うのなら好きにしてくれたまえ……」
「そうさせていただきます……ただその代わりに……」
と、言って求められたのが、あのワイディマ映像にあった食峰操祈が少年からされていたこと――だった。
「きみもっ、そういうことをするのかねっ?!」
脚を大きく開かされて、慌てて両手で股間を庇いながら訊いた。
「きみもって……経験、おありなんですか?」
優樹の声音には、かすかな落胆が覘いていて
「いや、わたしは……初めてだ……さっきも言ったように、わたしは男にはさっぱり縁がなくてね……体に触れられるのも、きみが初めてだよ……ただ知り合いの恋人たちが、とても熱心に取り組んでいたのを目にしたことがあったものだから……」
「そうなんですか、ああびっくりした……でも良かったです、すごく嬉しいっ……だって、先生の初めてを……みんな僕のものにできるなんて……信じられないくらい幸せなことですから……」
優樹の手が優しく、けれども意思を示して彼女の手をそこから引き剥がしてしまう。相手の面前に股間を晒すことになって春生は、あらためて身を竦ませるのだった。
想像していた以上に遥かに恥ずかしい行為であることを思い知らされて、たとえ覚悟を決めていたつもりでも、なんとか逃れるすべはないものかと考えてしまう。
「……あまり、見ないでくれないか……」
春生の懇願を無視して、指で粘膜を左右に分けられてしまった。
「綺麗です……すごく綺麗……ずっと想っていたとおりです……」
「あ……ああ……」
優樹の唇が落ちてきて、それから後のことは何が何だか判らなくなった。
記憶にあるのは、とても長い時間、丹念に愛されたということ。そして、どこまで行くのかわからないほどの高みに、なんども誘われたということ。
初めての試練を終えて、あのときの食峰操祈がそうであったように、自分もまた正体をなくして逸楽の海に漂うようになったのを春生は、何もかも全て肯定的に捉えていた。
これが……女として愛されるということ……なのか……。
このまま死んでしまっても構わないと思えるほどの素晴らしい経験だった。彼がどうしてこんなにも良くしてくれるのだろうと感謝の念に胸を熱くする。
しかし、体から情熱の余韻がゆっくりと引いていくに従って、再び理性が目覚めてしまう。
傍で満足げにしている優樹の顔が目に入ると、とたんに激しい羞恥がよみがえってきて、とても相手を正視できずに枕に顔を埋めて身を丸くした。
これは自分の体を使った実験なのだ――と、念仏のように胸の内で何度も唱えて言い聞かせたが、そんなものは何の頼りにもならなかったのだった。代わりに背中を愛おしげに撫でる男の手の温もりだけが心の支えとなっていた。
身も心も、魂までも慄える歓喜と感動。
恋をするというのは、こんなにも幸福に満たされることなのか……。
思い出すとまた少女のように胸がドキドキとときめいてしまう。
男の大きな手に包まれて安息と怯えとの間で揺れていた体……。
あの幼な子だった、ゆうくんが、あんなにも大胆な振る舞いをしようとは……。
食峰操祈が演じていた体位の幾つかを、自分もそっくりなぞってしまっていた。あの少年が操祈の体に対して為していて、とても驚いたことを彼女もまた経験することになっていた。
大きな手で、長い腕が体に巻き付いてきて導かれては、他にどうすることもできなかったのだ。
えっ? と思った時には、自分でも信じられないくらいの恥ずかしい姿になって、彼の愛撫を従順に受け入れる格好をさせられていた。
外部生殖器ばかりではなく、陰部にあるすべての器官が舌と唇によってなぞられて、そして確かめられてしまう。
この、確かめる――という言葉を厳密に考えると、とても強い羞恥にいたたまれなくなった。
それは女の本能だ――。
だが、好ましい異性に対して抱く羞じらいの気持ちは、愛情と表裏の関係にあるものでもあった。
女の恋の成立プロセスは、体の方、生理的な刺激が先立って発展するものなのかもしれない……。
相手の放つ様々なシグナルを受けて、それを肌を含めた多種多様な受容器で感じ取って……肉体が生み出すプラスの評価が、記憶に照覧されてさらに連鎖しどこまでも膨らんでいく……。
だが、性の歓びの圧倒的な輝きの前には、そんな言葉のどれもが一瞬のうちに消し飛んでいた。
知識もそれによる予測も、現実の前にはじつに些細なものでしかなかったのだ。
愛してる……わたしは彼を愛している……。
これが……恋というものなのか……。
こうして知った初めての夜はとても長く、あっという間に過ぎ去って、そして次の週末は春生のアパートでデートをすることにして、今度こそ男と女の契りを結ぶことを約束して別れたのだった。
「なんだかとってもいーことがあったみたいですねっ」
明日香がわけ知り顔で見上げているのに気がついて、一瞬、言葉を失った。
「今、すごぉく幸せそうな顔をされてましたよっ」
「え――!?」
「ねぇ、週末に何があったんですか? センセイ――」
「いや、わたしは別にいつもと変わらないはずなんだが……」
「ウソですっ! ウチのジロも、ときどきそんな顔する時があるからわかるんですっ」
「ジロ――!?」
「ジローラっていう名前の牝の柴犬なんですけど、アパートに帰ると、ときどきあの子がお気に入りのクッキーを食い散らかしてることがあって、いっぱい美味しく食べてハッピーですって風でいながら、あたしが叱ると、わたし、なにも知らないですって顔しますから。床がクッキーの破片で汚れていて、ウチにはあの子の他に誰も居ないのにですよっ」
「いったいなんの話をしているのだね?」
「だから先生のことですよ、そんなにくっきりと恋する女の顔をされたら、いくら鈍感なあたしだって気がつきますってばっ! オトコっ気の微塵もなかった先輩が、いつの間にかちゃっかり、カレシ作っていて、週末らぶらぶデートなんて、あたしとしてはぜったい許せないですよっ、リア充反対っ!」
「だから、おかしな勘違いをしないでくれたまえ、わたしのはただの実験なんだから……」
「え、先生によるとデートまでも実験になるんですか? じゃあお尋ねします、いったいどんなあぶない実験をされたんですかっ?」
「いや、うむ……何と言ったらいいか……」
「ものは言いようですよねっ。わたしだってそういう実験ならいつだって準備完了してるのにっ、なのに材料に手が届かないんですよっ、材料にっ! 捕まえようと思って罠を仕掛けてるんですけど、いつでもスルッと逃げられてて……ねぇ先生っ、こんなあたし、どうしたらいいんでしょう? いったいどこに行くと捕獲できるんですか? “体長”百八十五センチぐらいで、顔は俳優のサミュエル・ロバートソン、年収は二千万以上って、ワリとどこにでも居そうなありふれた“マテリアル”だと思うんですけどっ」
「明日香くん、あまりわたしを困らせないでくれないか……」
春生はほとほと弱って表情を曇らせた。
「すみません、ちょっと悪ノリしすぎました」
「いいんだ、ただ、今の話は所内で妙な噂になると困るので、この部屋の外での言動には十分に注意をしてくれないか?」
「わかりました……」
素直に首肯する。
「そうしてもらえると助かる……」
「あの、それで……」
「なにかね……?」
明日香は再び好奇心に爛々と瞳を輝かせて春生を見上げていた。
「で、先生のカレシって、どんな人なんですかっ?! あたし、誰にも言いませんからっ」
誰にも言わないから――。
世界中でこれほど安易に切られる空手形はないだろう。辞書の該当項目には用例の一つに上がっていてもおかしくないと思うほどだ。
「明日香くんっ、もう八時もだいぶ過ぎたようだよ、仕事にとりかからなくても良いのかね? たしか学会も近いはずだが――」
「あ、逃げたっ……まぁ仕方ないですね、じゃあ、この続きはランチの時にでもっ、と」
杉山明日香は自分のデスクに引き返すと実験用のファイルとパッドを小脇に抱えた。
「あーあ、木山先生まであっちの世界に行っちゃったんだ……あたしショックなんですよっ、だって、先生みたいな美人でもリケジョは男に縁がないんだから、自分が彼氏いない歴イコール年齢なのも仕方ないと思っていられたのにっ……」
ドアに向かいながら、聞こえよがしにボヤきが続く。
「わたしを置き去りにして自分だけ幸せになるなんて、ズルいですよ、やっぱり男って所詮、面食いなんだから……そりゃ、先輩にはスタイルだって負けてますけど……」
しかしその声は、どこか楽しげにも聞こえるのだった。
「明日香くんっ、さっきの約束、くれぐれも忘れんでくれたまえよ」
念押しすると、
「わかってますっ、だから先輩も、あとでしっかり恋バナ、聞かせてくださいねっ」
春生が、否――と、返す前にドアの外へと出て行ってしまった。
「まったく……近頃の若いもんは……」
ひとりごちて、そして絶句する。
井之上優樹は明日香よりもさらに七つも年下なのだった。
「彼はああ言ってくれるが……」
別れしなに優樹がうったえたのは、彼が十年前に告白したことは今も、一字一句、違えるつもりはないということだった。
しかし――。
さすがにそれは難しいと思うのだ。
三十六歳にもなる女が十八歳の将来のある青年と結婚を前提に交際するというのは……。
きっと優樹のことだから言葉通りに有言実行、誠実にそれを果たそうとするだろう。
とても嬉しかった。
これ以上ない形で自分の女としての価値を認められて、その上……。
けれども先々を考えて、彼の幸福を第一に考えるのが年上の、大人の女の恋の仕方であり務めだと思う。
幕引きを考えながらの恋愛というのもせつないが、たとえ一夜限りであったとしても彼からはすばらしい贈り物をされたのだ。何があったとしてもその事実は揺るがない。
何ものにも代えがたい歓びと至福の経験。
「わたしは……幸せだ……」
言い聞かせるようにつぶやいた。
口元には以前の春生にはなかった婉然とした笑みが作られていた。