ボーイ8メンタルアウトアウト~学園都市編~ 作:真夜中のミネルヴァ
結局、週末は実家に寄りもしなかった。
昨日の夕方、ひとりで女子寮に戻ってきたアリスは誰とも顔を合わせたくない気分で、相部屋の一年生にも、仕事――と、称して生徒会室に籠るようにしていたのだが、今朝も目がさめると、まだ惰眠を貪っている少女を気遣って起こさぬようにそっと部屋を抜け出すと生徒会室にやってきていた。
だからといって特に急ぎの事由があるわけでもない。
生徒会役員たちが作成した報告書に目を通し、会長裁可が必要なものの場合には承認のサインをするというだけのこと。
脳の僅かの部分を使うだけで粛々と処理は進んだ。
一方で、彼女の胸と心の大半を占めているのは、
彼――のこと……。
もう陽佐雄は弟ではなかった。彼とは男と女、恋人としての本気の契りを結んでしまっている。
そこには仲の良い姉弟が身近であることを言い訳に興味本位で体を重ねてみた、というような曖昧さなど一切なく、成熟したカップルそのものの濃密さで互いの体を求めて一心に愛し合ったのだった。
いったい幾度、愛情を注がれてから交わるという狂おしいいとなみを繰り返してしまったことだろう……。
体をいっぱいに開いて、親にも見せたことのない姿を彼には見せてしまった。
自分でもびっくりするくらい積極的になって。
とても恥ずかしいことには違いなかったが、その相手が幼い頃から心を許していた陽佐雄で良かったと思う。
「――もしも女の子の体に、十、の刺激を与えようと思ったら、それを十分の一にして十倍時間をかけるようにする、イカせるんじゃなくてイクのを待つ、男はその手助けをしてあげるくらいの気持ちでいると丁度いいんだって――」
陽佐雄は淫らな口づけのさなかにも、焦らすようにときどき顔を上げては得意げに言っていたが、そうなのかもしれないと思う。
それ以前の、交わりを急いだ二度の関係とは違って、土曜の夜は初めて女の歓びというものを感じていたのだ。
痺れるような鋭い刺激と、体が膨らんでいくような陶酔感、そして溜め込んだ熱を破裂させて真っ逆さまに堕ちていくときの失楽感。
どれも一度でも味わってしまったら、けして忘れることのできないこの上なく甘美なものだった。
そしてそれこそが自分が恋をしているとはっきり自覚した瞬間でもあったのだ。アリスは自分にとっての初夜とは、まさにあの経験だったのだと思う。
だから、お返しをせずにはいられなかった。
恋人のものを口に含んで自分の気持ちを伝えて、目の前で陽佐雄の体が歓びにひきつるのをどんなに愛おしいと感じていたことか……。
互いの秘所に顔を埋めて慰め合うという禁忌の行為も、言葉にならない一体感と密着感があって時を忘れるほどのめり込んでしまっていた。
二重にタブーを超えて、二人で描いた情熱の風景……。
アリスは、股間がまた潤んだように感じて悩ましげなため息をついた。
色白の小顔、鼻筋の通った清楚な美貌。大きな瞳に長い睫毛の愛らしい十四歳の美少女は、官能の逸楽を知ってさらにどこか謎めいた雰囲気を纏って一段と女らしくなっていた。
スカートの中に手を入れて、昨夜から肌着の中に忍ばせたままにしていたティッシュの塊が既にじっとりと湿っているのが判ると、もう生理のときと同様の扱いをしないといけないと思う。
デスクの引き出しの奥にしまっておいたナプキンを一つ取り出した。
「……恨みます……密森先輩……彼にあんなことを教えて……」
ひっそりと呟く頬には、泣き笑いの表情が作られている。
セックスが交わりを目的とする子供らしい素朴で単純なものから、愛を紡ぐための心と体の果てしのないいとなみになって、昨日、陽佐雄と別れるときの辛かったこと。
愛撫に馴染んでしまった肌は、男の手の温もりが自分の届かぬところへ去ってしまうことを惜しんでいた。
すぐにまた学校で会えると思っても、恋人として逢えるわけではないと判っていたからだった。
少し遅れて別々に帰ることにしたのも、一人になってからベッドに粗相を残していないかちゃんと後始末をしたかったこともあったが、濃厚な性愛の気配を漂わせたまま他人前に出ることが憚られたからでもあった。
外ではあくまでも姉と弟でいつづけなければならない。恋人に戻れるのは二人だけになった時だけ……。
寧ろ、これまで以上に努めて距離を置くようにしないとならなかった。さもないと目ざとい誰か――例えば山崎碧子のような――に気取られたりすれば、それこそ大変なことになる。
操祈先生はどうされているんだろう……?
学校では毎日、恋人と顔を合わせている筈なのに……。
でも、いつでも端然としているように思う。
お辛くはないのかしら――?
やっぱり大人の女の人だから、そういうことへの経験値が高いのかな……?
けれど陽佐雄の話によると先生はまだヴァージンらしい……信じられないけど……。
でも、密森先輩がとてもいけない悪い人だとしたら頷ける。
ということは――。
きっと先輩からは、いろんなことをされて愛されてるに違いない。
あんなに綺麗な女の人が男の子に恋をしているなんて……。
操祈先生が教え子に体を与えている姿なんて想像もつかないが、もしも自分と同じような経験を重ねているのだとしたら……。
それなら……いまのわたしが感じているようなことも自身の問題としてご存知なのかもしれない……。
「今度、お話してみようかな……」
優しくて賢くて、そしてとても美しい人。
ずっと遠巻きにしていたのだが、もしも同じ悩みを抱えているのだとしたら……。
アリスは生徒会室のドアを施錠して化粧室へと向かった。
今の時間は朝食を摂りに集まってくる生徒たちで校舎内は次第に賑わってくるのだが、生徒会室のある地下一階に降りてくる者など誰も居なかった。
女子用トイレのコンパートメントに入ってロックをすると手早く処理を済ませる。
汚れ物を手に、
こうしたものの処理にも気をつけないといけなくなるなんて……。
と、当惑しながら用意していたビニール袋に入れて封をすると、それをジャケットの内ポケットに忍ばせることにした。
利用者が限られているところで汚物入れに投じることが躊躇われたのでそうしたのだ。
鏡を前に身づくろいをして、おかしなところのないことを確かめてから化粧室を後にして階段を上る。すると、折しも一階の職員用の化粧室から出てくる操祈の姿が目に入ってきて、美少女はちょっとびっくりした。
シンクロニシティ――?
まさか……それは考えすぎよね……。
でも……先生だって女であることには変わりないし……もしも週末を先輩と過ごしていたのだとしたら……教室で彼と顔を合わせる時には、それなりの覚悟が要るはず……。
「あら、生徒会長さん、今朝はもうご出勤だったの?」
アリスに気がついて操祈の方が気さくに声をかけてきた。
「おはようございます、操祈先生、先生もお早いですね」
「ええ、ちょっと仕事が溜まってしまっていて、能力不足で処理が追いつかないの、うふふっ」
「また、そんなご冗談をおっしゃって……」
この香り……ラベンダーかしら……でも、もっと甘い香りのような……。
操祈のそばに来ると、纏っている芳香を感じて少女の胸はなぜかドキっとする。こんな香りをさせている食峰操祈は、きっと初めてだと思った。
なんて綺麗な金髪、でも猛々しさや
男子たちが夢中になるのも無理はなかった。女の自分でも、うっとり見惚れてしまうくらいなのだから。
「あの……先生……」
「なぁに?」
「今度……折り入ってご相談したいことがあるんですけれど……」
勇気をもって切り出すと、目の前の操祈は一瞬、懸念を示すように目を瞠ったが
「なにかしら? いいわよぉ、どんなこと?」
すぐに普段どおりの顔に戻って応じてくれたのだ。
「大したことではないのですが……お時間のある時にでも……」
「珍しいわね、アリスさんからお誘いを受けるなんて……」
「お誘いだなんて……そんな……ただちょっと、お伺いしたかったことがあったので……」
「あら、わたしに聞きたいことぉ……? 今でもいいのよぉ……」
「い、いえ……ここではちょっと……」
上手く返せずに言いよどんでしまったことをアリスは後悔したが遅かった。案の定、また操祈は複雑な表情になる。曇りのない笑顔に兆した影。
「そう……わかったわ……」
「すみません、お忙しいところ足止めをしてしまって……」
「いいのよ……」
アリスは一礼をすると操祈の脇を通り過ぎようとした。
「……アリスさんは……たしかテレパシスト、だったのよね……」
いきなりの指摘に足が停まって顔を上げると、自分を見つめる茶色い瞳と視線が重なった。操祈はすぐに目を伏せて、飴色の長いまつ毛の作る翳りが教師のものではなくなっていた。隠れていた女の素顔が表になったように感じる。
「はい……」
アリスは自身の能力を公式に申告してはいなかった。能力といっても不安定なレベル0と1の間程度のもので、伝える必要がないほど低いものだったからだが、一方で操祈はかつてはレベル5、メンタルアウトと言われたほどの人、同系の高位能力者としてこちらの能力に気がついていたとしても不思議ではなかった。
何もかもお見通し――?
「やっぱり……ご存知だったのですね……」
「……勘違いしないで、今の私には何も見えたり聞こえたりなんかしないから……」
「……申し訳ありません……」
アリスは頭を下げた。何を謝しているのか自分でもよくわからないままに……否、判ってはいても言葉にすることが躊躇われて……。
「どうして謝るの……?」
「それは……」
「あなたの力は……きっと接触テレパスね……?」
ズバリと指摘されて、アリスは素直に頷いた。
操祈は手を差し伸べてくる。
「あなたが新年の挨拶にやって来た時に、そのことに気がついたわ……そして……いずれまたわたしのところへ来るだろうということも……」
何を言われているのかはすぐに判った。何を求められているのかも……。
「……手をにぎってちょうだい……」
操祈は心許なげに微笑んでいる。
笑顔を保とうとして努めているのが窺えて、促されるままに操祈の手に触れてみた。柔らかくてしなやかな指先……と思った途端、一瞬ではあったが彼女の心が流れ込んできて、慌てて手を引っ込めた。
イメージの鮮烈さにアリスは喉をごくりと鳴らしてしまう。
見えたのは飴色の髭を生やしていた密森黎太郎の顔と、彼女の不安や一途な思い、愛情、信頼……。
それは操祈の記憶の一部だったのに違いない。この女神のように美しい女性の身に起きたこと……。
そっくり同じようなことをアリスも一昨日、陽佐雄を相手に目にしていて、その時の自分の気持ちと操祈の思いとが重なり合っていた。
「……何か……見えた……?」
美しい女教師が窺うような眼差しになって、不安げな顔をして訊く。
恋をすると人はこんなにも儚げに、頼りなげになるのだろうか、と少女は心を動かされていた。
操祈はすっかり乙女の顔をしていたのだ。彼女のせつない心根が少女の胸に迫るのだった。
「それは……」
アリスは頬を鮮やかに染めていて、自分がどういう類いのものを見てしまったのかが操祈にも伝わってしまったようである。
低位の接触テレパスは、たとえ相手に触れたところで、見ようと思っても見えるものではないし、見たいものが見えるわけでもなかった。
その時、全くランダムに相手の心の欠片が見えることがあるかもしれない、という程度のもの。
しかし、いま垣間見てしまったものはとても口にすることができないものだった。
操祈は目のまわりを朱に染めながら、それでも気丈に少女を見つめていた。
「……いいえ……なにも……私の力は……以前の先生とは違って、ほんのわずかなものですから……見えないことの方が普通なので……」
「……それならよかったわ……生徒にみっともないところを見られずにすんで……」
嘘――が、交錯する。
互いに相手が偽っていることに気づきながらの。
アリスには、操祈が心を見ることを自分に許したのは、託されたからなのだと気がついていた。
頑なに心を閉ざして隠そうとするのではなくて、開くことで秘密を守ろうとしているのだということを。
もちろんアリスの側にも彼女の禁断の恋を他人に吹聴するつもりなんか微塵もなかった。
それをどうしたら伝えられるだろうと考えて、覚悟を決める。
「……私も……弟を愛しています……」
女として――という意味だった。それは言わなくても伝わる筈。タブーの関係にあることを打ち明けることで自分の立場を訴えた。
「……そう……」
操祈は曖昧な表情のまま微笑んでいたが、躊躇いがちな視線を触れ合わせるうちに、やがて緊張が和らいで本当の笑顔になっていくのだった。
「ありがとう……」
操祈は周りに目を遣って誰も居ないことを確かめてから、声をひそめて続けた。
「大切な人を大切にね……」
「操祈先生も……」
「ええ……」
こっくり頷く仕草が愛らしい。
「お話ししたいことがあったら、またいつでもいらっしゃい……」
「はい……」
「じゃあね……」
操祈はくるりと背を向けると教職員室へと足を向けた。
その背中を見送りながらアリスは、既に気がついていたことではあったものの、それ――が、やはり現実であったことに感動していた。
食峰操祈も女だった。自分と同じに必死に恋をしている、一人の若い女の子。
そして、やっぱり密森黎太郎は悪い男だ……心優しいあんなに素敵な先生に、あんなに酷いことを“させて”いるなんて……。
操祈の手に触れることで心に映ったシーンが、自分たちが演じていたものとよく似ているようで、実は大きく違っていることにも気がついていたのだった。
視界に絨毯の模様が写り込んでいて、それで見えていた背景が壁ではなくて床だったことが分かったからだ。
それは淑やかで身持ちのいい操祈のような女性が、とうてい自ら望んでするとは思えないこと。
だからこそ彼女が恋人に対して、どんなに強く思いを寄せているのがよくわかるのだった。求められれば拒めないくらいに、懸命に男と女の恋のアラベスクを紡ごうとしていた。
それは自分が陽佐雄に対して感じているものと同じものだった。
だから、
二人を応援しないわけにはいかない――。
でも、どうして先生は……こんなにも大きな秘密を自分のような者に打ち明ける覚悟をしたのだろう……?
それがとても不思議なのだった。
これまで特別に親しくしてきたわけではなかったのに……。
操祈のまわりには常に上級生の女子たちが取り巻いていて、容易には近づけなかったということもあるが、アリスの方からもアプローチを避けていた面がないわけではなかったのだ。
圧倒的な美貌に気後れを感じていたということもあるが、なにより同系の、それも強大な能力者であったことへの畏怖がなかったかといえば、やはり嘘になる。
操祈が再覚醒しているのではないか、という噂は、一部の生徒の間では今も密かに囁かれていて、それは少女の耳にも届いていたのだった。
レベル5、
その力の一部でも蘇っているのだとしたら、自分のような矮小な能力者は近寄りがたかった。彼女が悪意を振るうはずなどないと判ってはいても身構えてしまう。
でも――。
今、はっきりわかったのは、食峰操祈は力の再覚醒をしてはいないこと。自らを守る術を持たない無力で非力な存在。
奇跡のように美しいひとりの女性に過ぎなかった。
それが己の全てを賭けて、教え子の男子生徒との恋に身をやつしている。
こんなに愛おしい人は他にはいない――。
安心して心を寄せられる大人の女の人だと思うのだった。
秘密を分かち合うことで絆を深めるのは、男と女の間だけに留まらない。人間関係の裏の不文律、決まり事のようなもので、大きな秘密になればなるほど紐帯もまた太く強くなるもの。
先生になら、きっとどんなことでも打ち明けられる――。
アリスはそう心に決めると、気分も軽くなって、朝食を摂りに食堂へと向かうのだった。