ボーイ8メンタルアウトアウト~学園都市編~ 作:真夜中のミネルヴァ
「待って、翔馬くぅんっ――!」
地下鉄の階段を降りかけた時、後ろから呼びかけられて少年は足を止めると声のする方を振り返った。
見ると自分の方へと小走りに駆け寄ってくる藤本絵美梨のスラリとした姿が目に入る。
どうやら学校から追ってきたものらしく美少女は翔馬のいるところまで来ると、肩を上下させて弾む息を整えながら、
「翔馬くん、あたしを置いていっちゃうなんてひどぉいっ」
ちょっと拗ねたようにしてしなをつくった。
やや赤みがかったブラウンのヘアをツインテールにした端正な面差し、くっきりとした目鼻立ちの愛らしい美少女ぶりは、行き交う人々が思わず目を留めずにはいられないほどである。それは傍にいる翔馬にとっても男の自尊心がくすぐられるようで、悪いものではなかったのだった。
「あれ? 僕、君となんか約束していたっけ?」
「別に約束はしてないけど……」
背は翔馬よりも少し高く、向き合うと視線をやや上げる形になるが、絵美梨の方が上目遣いになって少年を窺うようにしていた。
「ああそうだ、桜葉女学院に合格したってね、おめでとう」
「うん、ありがとう……」
「君が合格するのはあたりまえだから、お祝いなんて言わないほうがスマートかなとも思うけど」
「そんなことない、嬉しいっ、翔馬くんに言われるのがいちばん嬉しいわ」
少女ははにかんだように微笑んだ。そうすると意志的で利発そうな美貌にすなおな子供らしさが現れてくる。
それはついこの冬の初めぐらいまでは、けして翔馬に向けられることのなかった表情なのだった。
絵美梨とはクラスが別だったが、ほぼ全教科にわたって学内だけでなく全国でもトップクラスの成績で、長いあいだ翔馬のライバル――正確には絵美梨の方からライバル視をされていただけで、少年にはそうした感覚はなくて別の意味で意識していただけだったのだが――だった。
「推薦で決まっていたのに、それを蹴って受験して合格するなんて、さすが絵美梨ちゃんだよ」
一緒に駅の階段を降りていきながら
実際、桜葉女学院の推薦枠は受験するよりも狭き門とも言われていて、エントリーするだけでも同校が統一模試等の結果をもとに毎年選定する全国で僅か四十校余りの選り抜きの指定校にそれぞれ一、二名ほどしか振り当てられていないのだ。
翔馬たちの通う
こうして実績のある名だたる進学校から上がってきた優等生の少女たちの詳細な調査書をもとに、女学院側が新入生の一割程度、ほんの十数名を選別する、というのだからどれほどハードルが高いかがわかろうというものだ。
絵美梨は昨年暮れに合格内定を通知されていたが、彼女はそれを辞退して通常の学力試験に臨んでいた。
「だってせっかくトレーニングしていたのに、大会に出ないでメダルだけもらうなんてつまらないから。あたしはちゃんと戦って勝って表彰台に上がったんだってことを自分にも周りにも示したかったの」
絵美梨らしいと思う。
自信家で勝気、自他共に認める優等生で、抜群のルックスを誇る美少女。
誰もが一目置かざるを得ない。
午後の東西線の車内は空いていて、二人はロングシートの隅の席に並んで座るとひとしきり受験について振り返っての感想戦をしたり、互いのクラスの生徒たちの入試結果など差し障りの無い話題を重ねていた。
あくまでも子供らしく、そして最大の関心事が『お受験』にある受験生らしく。
だが本当のところ、既に進学先が常盤台に決まっている翔馬はもとより、試験を終えてしまった美少女の関心も、もうそこにはないのだった。
今のいちばんの興味は、緊張から解き放たれたこの午后の過ごし方。
いちばん有意義なことをしたい、そしてハメを外せる理由なら他人に配るほどあるのだった。
「今日はクラスのみんなと合格祝いをしなくて良かったの?」
「お祝い? そんなのないわ、だって学校によってはまだ結果が出ていない子たちも居るし……なのに翔馬くん、ひとりでさっさと帰っちゃうんだもん、慌てちゃった」
「だって“東京都幕張人”の僕は、“痛学”ハンデがあるから、あんまりのんびりもしていられなくてサ。毎日往復二時間もかけてるのなんて、全校でも僕を含めてほんの数人しかいないしね」
田舎暮らしを自虐する。
本音は一刻も早く家に帰って、母親が帰ってくるまでの独りっきりになれる間、記憶共有能力で密森黎太郎から写し取ったあの記憶をまた盛大に弄ぶつもりでいたのだ。あれ以来、ここ数日はいつもそんな具合でいる。
ベッドで寝転んで、また心ゆくまで食蜂操祈の体を
それが翔馬の足を速めていたのだ。
「でも、途中までは一緒なんだから、今日ぐらいは待っていてくれても良かったのに……お礼も言いたかったから……」
「お礼なんて、僕はなにもしてないのに」
「そんなこと……だって……あのとき……」
美少女が何を言っているのか翔馬にもわかっていた。
彼女の纏うフローラルな香りの中にほのかに汗の匂いを感じると、多情な股間はすぐに目覚めて硬度を増しはじめ、やがてそれは行き場をなくしたブリーフの中で痛いほどになっていった。
長らく一番のお気に入りだった絵美梨と、とても“特別な”関係になってから、まだそんなに経ってはいなかったが、今では肉体――だけでなく戦略的な意味でも彼女は重要なパートナーだったのだ。
なんといっても絵美梨のおかげで仮想、食峰操祈とも言える憧れだった早川奈美をあっけないほど易々とものにすることもできたのだから。
藤本絵美梨、早川奈美、そして食峰操祈……。
操祈との“経験”は今はまだあくまでも借り物だったが、彼女が密森黎太郎からされていたことを、ある時は見よう見まねで絵美梨に対してもトライして、そこで新たな発見があると今度は早川奈美にもそれを試してみる、そんなことを今年に入ってから加速させていた。
このところ翔馬が女性に対する経験値をいや増しに膨らませているのは、ひとえに関係を結んだ女たちがとても上質な美女、男の好奇心をそそらずにはおかない魅力に溢れていたからに他ならない。
美女たちの体の違い――を比較するのは、いつだって男にとってまたとはないお楽しみなのだ。目鼻立ちが一人一人違うように、
食峰操祈をオーセンティックにして、いろんな女子たちの個性を自分だけの秘密の座標に書き込んでいく――。
こんなにも心躍る自由研究が他にあるだろうか?
あの悩ましき真夏の幻だった謎の美女が、ついに食峰操祈であると知った去年のミス学園都市コンテストには、彼女の他にもびっくりするような美女、美少女たちが参加していて、世の中には絵美梨や早川奈美以外にも、ものすごい美人が居るんだということを教えられたのだ。
胸の膨らみがとても美しくて手足が長くて、腰のくびれも艶やかな、愛らしい顔をした女神たち。
彼女たちは春先に咲いて夏が来る前には枯れてしまうような、マスメディアによってプロデュースされた取るに足らない凡百のアイドルなどとは違って、素材そのものの持つクオリティの高さが群を抜いていた。
あんな美女たちをみんな自分のものにできたらどんなに楽しいだろう。きっと彼女たちの肉体からも驚くような発見ができるにちがいない。
それが単なる妄想に止まらないのが今の翔馬のポジションなのだ。
力――。
それは夢を叶えるための強力なチートツールだ。
もしかすると自分に与えられた能力はそのためのものなのかもしれない、そんな夢想をしていると世界はバラ色に開けて洋々たる前途に期待がいっそう
事実、絵美梨も早川奈美もあの力――がなければきっと届かなかったに違いなかった。今も憧れの存在としてただ遠くから仰ぎ見るだけでいたことだろう。
そんなのは絶対に嫌だ。
ご馳走を目の前にしてもそれに触れることもできずに、他人が食い散らかしていくのをただ指をくわえて見ているのなんて!
翔馬は初めのころこそ自身の特異な能力の行使にためらいを感じることもあったのだが、結局は欲望の実現に忠実であるべきだとの結論に達していた。
みなそれぞれが己の力を駆使して自己実現を目指している。入学試験はまさにそれそのものではないのか? ならば自分の中にある力を自分のために行使することに何をためらう理由がある?
それに――。
ああ、セックスってなんて面白いんだろう!
一度でも裸になって体を許した女の子は、それまでとはまるで別人のように、愛した男にだけは特別な表情を見せてくれるようになるのだから。
絵美梨も早川奈美も、そしてあの食峰操祈も……。
いつも慎ましくて優しくて、セックスなんてするように見えなかった奈美先生が、絵美梨に煽られるままにとても淫らな恥ずかしい体位を取るようになった時、翔馬は女には誰でも二つの顔があることを確信したのだった。
一つは昼間の普段の顔、そしてもう一つは性をいとなむ夜の顔だ。
背反しているようで、どちらも一人の女の心と体に宿っていた。
それを建前と本音と言い換えれば、セックスをしている時の顔こそ女の本当の姿なのかもしれない。愛する男に身をゆだねる時だけ、女は他の誰にも見せない真の姿を見せてくれる。
どんなに美しくて身持ちのいい女性であっても、セックスをすると決めた時には日常の仮面を外して素顔になって、そして愛されることを自ら欲するようになるものなのだ。
年齢や経験こそ違え、絵美梨も、そして早川奈美も、その点については変わらなかった。
彼女たちは翔馬が本気であることを知ると、歓びにも素直に真正面から向き合うようになってくれたのだ。
そうだっ、舌の裏側を使うのを、まだ絵美梨には試していなかったっけ――。
翔馬は口の中にたまった唾液をゴクリとのみ下しながら思う。
記憶共有能力によって知ったばかりのテクニックを、今日は実際にこの美少女にもしてあげてもいいかもしれない。
盗み録りをした密森黎太郎の記憶の中で、なるほどと感心したのは、いちばんデリケートな部分へ触れる時に、いきなり舐めるのではなくて舌の裏を圧し当てるようにすること。
温もりを伝えるつもりで口の中の最も柔らかい粘膜の中に
その感動を絵美梨でも味わってみたい――。
翔馬は傍でうつむく美少女の横顔を見つめた。スッと整った鼻筋、白い頬をうっすらとバラ色に染めて、大人になったらどんなにすごい美人になるだろうかと思う。きっと大勢の男たちから心を寄せられて、恋に破れた者たちの累々たる死体の山を築くことになるのに違いない。
そんなすばらしい美少女を女――にしたのは他ならぬ自分なのだと思うと、勝利感、征服感に酩酊するような感じにもなるのだ。
会うたびにふっくらと膨らみを増していく胸、淡い下生えも色づきを増して羞恥の唇を覆い始めている。彼女の人生で一度しかない変化を目の当たりにできる栄誉をこの世界でたったひとり、自分だけが享受している。
「翔馬くんのおかげよ……」
美少女がせつなげにうったえた。
「試験に通ったのは君の実力じゃないか、さすが絵美梨ちゃんだよ」
こんな言葉を期待されていないことは翔馬にもよく分かっているのだ。彼女が欲しているのはもっと甘美なプロポーズだった。それは自分を追ってきた絵美梨の顔を見た瞬間に察したことだった。
それを知りながら出し渋っているのは……。
#次の停車駅は、大手町、大手町です――#
竹橋を過ぎて、車内の電子音声アナウンスが告げていた。幾つもの乗換え線が交差する巨大ターミナル。そこを過ぎると浅草線への乗換えとなる日本橋までは駅区間も短くてほんの僅かのことだった。
「ねぇ、翔馬くん……」
絵美梨がいつしか甘えるような声音になって自分を見つめていた。碧みがかった瞳を期待に潤ませて、まるで心の葛藤を映すように揺れる眼差し。
下車が近づくにつれて美少女の思いはじりじりとした焦躁へと代わっていたのだ。
言おうか言うまいか、言うべきか言わざるべきか――。
どうして翔馬くんは誘ってくれないの? こういうことを女の子に言わせるなんて……。
異能なんかを使わなくても、そんな胸の裡が翔馬には手に取るように窺えるのだった。
「……ねぇ翔馬くぅん……また……して……あれ、とってもステキだったの……」
「うん、いいよ……」
「あたしって、いけない子……?」
美少女が欲望に瞳を妖しく煌めかせながら問いかけていた。彼女が他の誰にもけっして見せることのない表情になって。
「そんなことない、すごく嬉しいよ。絵美梨ちゃんにそう言ってもらえるなんて、君が僕を男として認めてくれたようで光栄だな」
「本当?」
「もちろんだよ……だった絵美梨ちゃん、とってもいい匂いがするから」
「やだぁ、エッチぃ、翔馬くんのバカ……でも、うれしいっ……ねぇ、どうしてこんな気持ちになるのかな……?」
「きっとそれが、人を好きになるってことなんだと思うよ」
「……うん……」
初めての時、あんなにも恥ずかしがって躊躇っていた彼女が、二度目のデートの時には顔を真っ赤にしながら、それでも逆におねだりをするようになっていた。その変化がとても可愛くて、また翔馬自身の高揚感もすばらしかったのだ。
背がいきなり二十センチも高くなったような気分だった。
だから今も、できればそれを彼女に言わせたかった。欲望に屈した美少女の顔を見てみたい、そんな
だが今日の絵美梨はなかなか本音を口にしてはくれなかったのだ。代わりに拗ねたり甘えたり頑なになったり、女の武器をそれとなく匂わせて譲歩を迫ってくる。
翔馬もつい彼女の大きな瞳に魅入られて
「ねぇ絵美梨ちゃん、ウチに来ない? またこのあいだの続きをしようよ」
そう口にしてしまいそうになったのだが寸前のところで堪えていた。
互いの心の裡、欲望の在り処を探り合う我慢比べ。
ただそもそも翔馬には絵美梨を家に誘うつもりはなかったのだった。
週明けの午後、彼女をあまり遠くまで連れ出すのは憚られたし、そもそも今日は彼女の自宅で何らかの合格祝いなどのイベントがあるはずなのだ。暗くなる前に家まで送っていくことまで考えると、あまりゆっくりできる気分ではなくなってしまう。
だとしたら……。
浅草橋にある絵美梨の実家は、一階が父親の会社事務所などになっていてとてもデートを楽しめるような場所ではないし、なかでも母親のイヴォンヌは父親以上に娘の素行に常に目を光らせていて、とりわけ昨年の師走の一件――翔馬が絵美梨との関係を深めるきっかけとなった彼女のトラブル――では、激怒した彼女は絵美梨からしばらくの間スマホを取りあげ、モデルのアルバイトをするなど以ての外とばかりに門限の厳格化を確約させた上、SNSへの画像の投稿も御法度にされてしまっているような案配だった。
そんなところにボーイフレンドがのこのこついていけるワケもない。
こうしたとき子供というカテゴリーに居るのは本当に不自由なものだと思う。
これが中学生になるともっと自由度が増すのだろうか?
あの密森黎太郎は操祈と堂々とホテルでの密会を楽しんでいた――。
いくら時間があってもお金も資格もないなんて……。
翔馬の当惑は察しのいい絵美梨にも伝わったようである。互いに何となく索漠とした気分になって顔を見合わせた。
大手町での乗降客の派手な入れ代わりがあって
#次の停車駅は、日本橋……#
車内アナウンスが告げると、決断するまでもう僅か。
列車は既に減速を始めている。ややあって制動が一度、間隔を置いてさらにもう一度、深い制動がかかると、思う間もなくホームにさしかかっていた。
「……ねぇ、絵美梨ちゃん……」
持ち時間切れ、降参するかたちで翔馬が先に口を開いた。
少女は期待に長い睫をぱちくりさせている。
「ここで僕も降りるよ……」
「うん――」
不思議そうにこっくりとしてから、くりくりと瞳を輝かせて愛らしい顔を綻ばせる。翔馬は嬉しいが、ちょっと微妙な気分でもあるのだった。提案は必ずしも少女にとって手放しに満足のいくものではないはずだからだ。
「博物館に行かない?」
そう言うとその途端に、案の定、絵美梨の表情がかたくなり、まるで何かのスイッチが入ったように美少女からオンナになっていた。
女ならではの打算を巡らす大人の女の顔に。
だが、聡明で頭の回転の速い少女はすぐに最適解を導いたようだ。
並んで電車を降りながら、翔馬の意図を酌んだ彼女は
「いいわ……先生には私から電話してみる……」
言いながら既に制服の内ポケットからスマートフォンを取り出していた。人波を逃れて広いホームの真ん中まで来ると
「うん、たのむよ……たしか月曜の午後はご自宅にいらっしゃる筈なんだ……」
早川奈美のコンドミニアムは京成の博物館動物園駅を降りて徒歩五分ほど、恩師公園にほど近い閑静な高級住宅地にあった。仕事で日本を離れがちな旦那が留守のときに、何度か絵美梨とともに訪問したことがあったのだ。
「いいわ、翔馬くんにはいっぱい借りがあるから……」
「そんな……借りだなんて……」
「でも……今日は……今日だけはわたしがいちばんよ……約束……」
「うん、君の合格祝いだからね、でも君も忘れないでほしいな……」
「忘れないでってなんのこと……?」
「それは……君にとって僕がそうであるように、僕にとっても君は、これからもずっといちばんだっていうこと、それは永遠に変らないんだから」
だが絵美梨は、こんな安いレトリックが通じる相手ではなかったのだ。
「でも一番目っていうのはいちばんとは違うから……でしょ?」
ちょっと屈折した顔をしてから、雲が晴れたように白い歯を覗かせて頬笑む。その輝くばかりの愛らしさにはただ胸をうたれるばかりだった。
確かに学校の成績ではライバルであったのかもしれない。けれども容姿の偏差値はいつでも三十ポイントは置いてきぼりを食らっているのを自覚させられていた。
絵美梨は軽やかなタッチでスマホを操作すると優雅な仕草でそれを耳に当てて呼び出し音を聴いていたが、ほどなく、
「早川先生、藤本です。あの、いまお電話しても宜しいですか?」
少しも翳りを感じさせない澄んだ声音であることに、少年は密かに感嘆のため息をついていた。
とびきりの美少女がとびきりの美女と、何の屈託も感じさせずに楽しげに言葉を交わしていて、翔馬だけが取り残されたような気持ちになってしまう。
たとえ体の関係を結んではいても、きっと彼女たちの目に映っている世界はまるで違うのだ。
自分は、ズルい力――を使って背伸びをしているだけ。
やはりここでも翔馬の一人負け、完敗だった。