ボーイ8メンタルアウトアウト~学園都市編~   作:真夜中のミネルヴァ

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バレンタインデー前日

 

 その日の朝のホームルームで、食峰操祈は彼女の受け持ちクラスの教え子二十五名(女子十七名、男子八名)全員に手製のチョコレート――宝石もかくやとばかりに美しくデコレーションされたボンボン・ショコラ――を配っていた。

 円いもの、四角いもの、そしてひし形をしたもの……形の異なる三種類を二個ずつ丁寧にラッピングをして、ひとり/\に宛てたメッセージを封じた手紙を添えて、操祈自身が教室をまわって生徒たちに感謝の言葉とともに手渡すかたちで。

 その恭しい儀礼を前に、当初、彼女がバレンタインチョコレートを配りたいと切り出した時に、一部の男子からあがった

「先生、バレンタインデーは明日です。今日は十三日の金曜日なんですけど――」

「え、今日って十三日の金曜日かよ、なんかヤバくね?」

「ついでに仏滅だったりしてなっ、知らんけど」

「バレンタインデーチョコを配るのは明日の方が適当なのではないかと具申いたします」

 などというようなわざとらしい懸念の声はたちまち鎮まり、みな一様に厳かな顔つきになって操祈からの心からのプレゼントを押し戴いたのだった。

 そしてなにより男子生徒たちを安堵させたのは、操祈本人の口から、明日の予定は何もない――と明言されたことだった。

「あら、あたしどうして東京にまで行かないといけないの?」

 逆に問い返されて、訊いた側が言葉に詰まってしまう。

 操祈が高級チョコレートを購入した直後から既にその話は拡散していて、常盤台の生徒のみならず、このところは学園都市(まち)の一部でも、彼女が“例の都内在留の外国籍の男友達”に“告白”をするつもりなのではないかという噂がまことしやかに囁かれていて、男に限らず誰もが彼女のその日の動静に神経を尖らせていたのだ。

 だがチョコレートの行く先が、彼女の教え子の生徒たちへのものだったと明らかになってからは、さながら街全体が喉のつかえが落ちたかのようにまたいつもの明朗で快活な雰囲気を取り戻したようなのだった。

 チョコレートを受け取った生徒たちが直後に発信した“操祈のハートをゲットだぜ!”の写真つきツイートの影響はたちまち学園都市内ばかりか街の外にまであふれ出し、嫉妬と羨望、安堵と好奇のコメントが交錯する中、和やかな波紋となって拡がっていったのだ。

 一方、噂の中心となっていた当の本人は、よもや自分の行動が周囲にそのような影響を及ぼしているなどとは思いもせずに、バレンタインウィークに入ってからもいたってマイペースでいつもと変わらぬ日々――自宅に戻るとチョコレートとの悪戦苦闘の連続であった。そもそも「テンパリングってあによぉ?」から始まったのだから仕方がない――を送っていたのだが、親しい女子生徒たちからの助言にも従って、職場用としては、男性教員其々に義理チョコを配る代わりに、作ったチョコレートを菓子受けのバスケットに盛って、男性に限らず誰でも気軽に手に取れるようにしたため、その日は教務主任の村脇静繪ばかりか教頭の武識美奈世(たけしきみなよ)、果てはどこからか噂を聞きつけてきたのか校長の谷津城妙子(やつしろたえこ)女史までが職員室に現れて、みな一つ手にとって口にしては満足げに眉を吊り上げる、という珍しいシーンが演じられることになったのだった。

 チョコレートのフィリングにしたのは操祈の説明によると、オレンジマーマレードとストロベリークリーム、それにガナッシュの三種類で「俺、これ死ぬまで永久保存する――」という生徒の声には

「フィリングも手作りで防腐剤、添加物は一切なしよぁ、だから傷んでしまうといけないから、なるべく早く食べてちょうだい」

 と柔らかに諭していた。

 だが男子だけでなく女子生徒を含めて全員が、操祈からもらったチョコレートにはすぐに手をつけることなく、まずは共用の冷蔵庫に保管することを選び、そのため庫内のスペースを確保するために、放課後は各自入れてあった清涼飲料水のペットボトルや保存食の類を消費することになったので、その日の放課後はどこの部室でも寮室でも、ひとしきりスナック菓子などをつまみにささやかな宴が催されることになったのだった。

 誰一人落ちこぼれることなくほぼ希望通りの進学先を()めて、中学生活も残すところひと月余り。三年二組の生徒たちは、新しい春を間近に希望に胸を膨らませる一方で、刻々と迫り来る卒業に向けて一様に寂しさも覚えているのだった。

 三年間、起居を共にしてきた友との別れ、そして敬愛する師との別れ……。

 ただ、その一つの救いとなったのは、操祈が配ったチョコレートに添えられた手紙だったのかもしれない。

 そこには個々の生徒へ向けての彼女からの思いのこもった言葉とともに、三年二組専用の掲示板のウエブサイトアドレスと、それぞれ別個のアクセスパスワードが添えられていて、それがあれば卒業後もいつでも気軽に伝言を書き入れることができて、旧交を温めることができるだろうということなのだった。

 栃織紅音の発案で急遽、少女の設計により誂えられたものであり、実際、それは生徒たちにも歓迎されていた。

「ちゃんと先生も書き込んでくれるんですか?」

「ええ、もちろんよ。だって気になるじゃない? みんなが進学先でどうしているのかってぇ。でも夏上くん、君は後ろを振り返るよりも、まずは前を向いて全力疾走することを考えないといけないわねぇ。だってコースの変更をするつもりなんでしょ? あれは入学してからが勝負だからよそ見をしている余裕なんてあるのかしらぁ? 転科するのは大変なんだゾ、あたしだって必死だったんだからぁ。もう毎日/\朝から晩まで一生懸命脇目もふらずに、食べることも忘れるぐらい勉強に明け暮れていたくらいだしぃ」

 男子生徒は痛いところをつかれて絶句する。

「コースケ、おまえの負け」

「永久不沈空母、食峰操祈に竹槍で突っ込むドン・キ・コースケ、艦影さえ目にすることなくあえなく沈没、無惨」

 いつものように仲間から冷やかされて、教室はまた賑やかな笑いにつつまれるのだった。

 

 

 放課後――。

 舘野唯香は二階教室の窓から、正門前に横付けされた迎えの車――運転手(本来は不要なのだが富裕層では今も車内にひとり配置する場合が少なくなかった)の男が黒塗りのセダンから出てきて待っていた――に向かう小田切芳迺の後ろ姿を見送っていた。

 なるほど、そういうことか――。

 と、漸く得心がいった気分でいるのだった。

 よく知っているつもりだった小田切芳迺も、いわゆる超のつくセレブのお嬢様なのだった。実家が病院であるとは聞いていたが、全国展開する病院グループのトップのご令嬢となると庶民感覚からはかけ離れていて、それがどんなものなのか想像すらつかなくなってしまう。

 あの日、ペントハウスに招かれた三人の中で自分だけが庶民で、残りは紅音を含めてみな特別な人たち――だった。

 初めて見る富裕層、富豪の生活、暮らしむき。

 見渡す限りのリビング、というのは驚き以上に呆れるほどだった。掃除機をかけるだけでも、一人だといったい何日かかるだろうかと案じてしまう。

 もっとも、きっと何人もいる専門の使用人がさっさと片付けてしまうのだろうから、そんなことを考えてしまうところがどこまでも自分は庶民なんだと思う。

 ホテル王――紅音は大半が如何わしいラブホテルだと卑しめていたが――の孫娘と、巨大医療法人理事長の一人娘。

 そして……操祈先生も、あのヴィルダーベント家に連なる者だったなんて……。

「ちがうの、向こうの家とはもう全然、関係ないんだから……そもそも曽祖父の代から外戚だったし……私はさらにまたその外戚で……」

 と弁明していたが、

「でも、先生の英語名のミドルネームはヴィルダーベントですよね」

 紅音がそう指摘すると

「栃織さん……どうしてそれを……」

 図星を指されたのか操祈はびっくりした容子だった。

「ひとたびネットワークに繋がったら秘密はないものと思って下さい。例えばコンビニでカード決済をされるだけでも履歴は永遠に残りますので。カード番号の下にいったいどれだけの個人情報がぶら下がっていると思いますか?」

「やっぱりそうだったんですね……だって、先生ってなにからなにまで普通じゃないから……」

 芳迺はさもありなん、という容子で納得していた。

 結局、まったく知らなかったのは居合わせた者の中で自分だけなのだった。

 ヴィルダーベントという姓についてもその場ではすぐにはピンと来ず、後になって世界的にどれほど影響力のあるスーパーファミリーであるのかを知ってたまげてしまったくらい。

 非凡な情報収集力のある紅音は当然としても、どちらかといえば仲間内では雑事にも疎い方の芳迺がそうした事情を知っていたというのは、エスタブリッシュメント階級は独自の情報ネットワークを介して互いを知るのだろうか、とも思ってしまう。

 棲む世界が違う――。

 それが偽らざる心境だった。

 だからと言って独り屈折したり、三人に対して距離を感じたりするわけではなかった。それまでどおりの接し方、付き合い方をするつもりではあったが、それでも見えている世界があまりにも違っているとなると、やはり気おくれを感じてしまう自分が居るのだ。

 気持ちの上で背伸びをしていると疲れてしまうかもしれない、と……。

 ただ、合点がいったのはそのことではなかった。

 今頃になってようやく胸に落ちたのは、なぜあの日、紅音が事情を知らない芳迺を操祈や自分とともに部屋に招いたのかということ。ずっと訝しく感じていたが、紅音からはその後も特に説明もなくそのままになっていたのだった。

 そのワケがやっと判ったのだ。

 適わないな……栃織さんには……。

 豪勢なペントハウスに招かれて、ふかふかの長椅子に座って四人でテーブルを囲み、紅音から供された“密森くんスペシャル”なるコーヒーを飲みながらの雑談の中で、やはり話題は美しき女性教師の異性関係に及んだのだ。

 そして、操祈には彼氏が居ること、

 既にプロポーズをされていること、

 相手は包容力のある優しい男性であるらしいことなど、

 十分に配慮された婉曲的な言い回しではあったが、そうしたことが小田切芳迺にも打ち明けられたのだった。

 たしかに全部、事実だった。

 そのときの判りやすい操祈の反応からも、芳迺の方でも今の話が全て本当のことであると思ったのに違いない。

「やっぱりそうだったんですね、女子たちの間ではずいぶん前から噂になってましたから、わたしもある程度は判ってましたけど……」

「でも小田切さん、このことは学校のみんなには内緒よ。まだここにいる私たちだけしか知らないんだから。いずれは表になるかもしれないけど、今はまだそっとしておいてあげて。先生のためにも、それからみんなのためにも」

 紅音が諭していた。

「ええ、わかってるわ、こんなことみんなに言えるわけがないでしょ。もしも男子たちが知ったら大騒動になるのは必至だし、それこそ本当に必死になっちゃうのも出てくるかもしれないし」

 少女が物騒なことを口にして操祈が唇を震わせる。

「おねがいよ芳迺さん、変なことを噂にしないで……」

「大丈夫です、先生、わたしもちゃんと節度は弁えているつもりですから……でも唯香ちゃんも知っていて、ずっと内緒にしてたなんて……」

「仕方ないでしょ、事が事だけに……噂って気をつけていてもすぐに拡散してしまうものだから、そのことで私が起点になるわけにはいかなかったし……」

「それはわかるけど……でも先生が……」

 少女は興味深げに瞳を輝かせて、少し言いにくそうにしながらも続けた。

「まだ……だったなんてちょっと意外です」

 まだ――というのは、操祈がまだヴァージンであるということで、唯香はそれが言葉通りの性的に潔癖、無垢を意味するわけではないことを知っているが、芳迺が誤解するのは好都合なのでそのままにしていた。

 口が裂けても交際相手がドのつくクンニストだから――などとは言えないし、言えるはずもない。

 密森黎太郎は女にとって最も嬉しい心からの友、セックスメイトであり、またある面で最大の敵なのだ。

 交わることよりも舐める方が好きだなんて、なんて罪作りな、許しがたいことだろう。

 でも実際に抱かれて、大好きな人から心のこもった愛撫をされれば女はもうダメになってしまう。

 自分だってそうだし……。

 だから操祈を見ているとそれが良くわかるのだ。

 唯香と二人で秘密のおしゃべりをしている時も、慎ましい彼女が話がそちらへ向かうと初々しい羞じらいを覗かせるようになって、それは胸がキュンとなるほどとても綺麗で可愛らしい反応なのだった。

 先生にこんな表情をさせるなんて、あのヘンタイはいったいどんなひどいことをしているんだか。きっとデートのたびに繰り返し恥ずかしいことをして、自分や芳迺でさえもまだ知らないような濃厚なプレイだって操祈の体はもう知っているのにちがいない。

 生クリームプレイですってっ――!

 よくもこの心やさしい先生に、そんなひどいことができるものだわっ(怒)!

 げに憎むべきは密森黎太郎! 諸悪の根源、女の仇。

 でも操祈が未だに処女であることは、まぎれもない事実なのだ。なんといっても操祈先生からのお返しの愛撫の申し立てさえ拒むなんて、あの男のある意味ストイックな変態ぶりは徹底していた。

「芳迺ちゃん、先生はあたしたちとは違うのよ、とても身持ちがいいんだから」

 唯香は話をさらりと流す意図をもって無用の詮索をたしなめたが、

「だって操祈先生はこんなにお綺麗で可愛いらしくて、女の子のあたしから見てもステキだなって憧れてるのに、その上すっごいグラマーでスタイルが抜群で……なのにずっとおあずけさせられてるなんて、彼氏さんの忍耐力にびっくりしちゃいます」

 どうやら恋では自分の方が先輩であると錯覚したらしい少女からの素直な意見表明に

「芳迺さんっ――」

 操祈の諫止の声は半ば悲鳴になって、白い頬を見事に朱く染めあげていたのだった。

 結局、それで話はそこまでとなって、唯香自身が、そしておそらく紅音も知っているのであろう操祈の恋についてのもっと込み入った事情までは伝えられることは無かったのだが、それまでは少女たちの間で囁かれていた単なる憶測、噂にすぎなかったものが噂ではなくなって、芳迺はすっかり満足げであった。

 そしてその後、小田切芳迺は約束を守って、ごく親しい仲間の少女たちにもこの話を広めることはなかったのだった。

 

 

「あら、珍しいわね、舘野さんが教室で一人、居残っているなんて」

 声がして振り返ると、特徴的なハスキーな声音ですぐに分かったが栃織紅音が前のドアから入ってくるのが目に入った。クラス委員として教室の最後のチェックにやってきたものらしい。

「掃除の後始末が終わって、いま帰るところよ」

「何を見てたの?」

「別に何でもないわ――」

 唯香はすぐに窓際から離れたが、紅音は彼女が窓際に立っていたあたりにまでやってくると窓の外に目をやって

「ああ、お嬢サマのお帰りを見ていたのね……将来の医療法人興志会グループ理事長になるご令嬢の」

「そういうあなただって立派なお嬢さまじゃないの――」

「うちはもう、とっくに没落して、いまじゃいたって平凡、普通よ」

「どうだか、あの豪華なペントハウスを見てしまったら、本当の庶民の私から言えば、栃織さんのいう普通ってナニ? って気分になるわ」

「図体が大きいだけで維持するのが大変だから、あれも早晩、処分することになるわね。うちの爺さまの道楽に付き合わされるのなんてゴメンこうむるから。ローカルな老朽化したビルのペントハウスなんて二束三文の値打ちもないわ」

「あら、ご聡明な栃織さんが二束三文の“本当の意味”をご存知なかったとは驚きだわ」

 言い返してから傍らの顔を見ると視線が重なって、どちらともなく、ぷっ、と吹き出すかたちになった。そこで手打ちとなる。

「でもびっくりしたな……今の今まで知らなかったから……」

 唯香は芳迺が乗り込んだリムジンが走り出すのを視線の端で追いながら、

「とうぜん、あなたはみんな知っていた上でのことだったのよね……」

「まぁね……たださすがに今日、小田切さんが急に帰省するとまでは思っていなかったけど」

「島津レオナが芳迺ちゃんの叔母さんだったなんて……なんかもう世の中って広いようで狭いっていうか……」

 はぁーっと、ため息をひとつ。

 唯香を含む華琳、遥果、芳迺のいつものメンバー四人で掃除当番をしている間のおしゃべりのネタは、四人が全員“オトナクラブ”のメンバーでもあったことから、この時期は誰もがおきまりの関心事である明日のバレンタインデーのこと、デートの話になったのだが、芳迺は当日のデートはキャンセルにしてこれから実家に帰ることになったというのだ。

 ワケを聞くと、子供の頃から仲の良い叔母が急遽、父親の病院に検査入院することになって、それで心配になって見舞いに行くことにしたのだという。

 その叔母という人こそが誰あろう、あの島津レオナだというので、みな仰天してしまったのだった。

 かつて一世を風靡した人気歌手であり、現在は著名な音楽プロデューサーとして各方面で活躍する彼女のことは、音楽関係に疎い唯香のようなものにまで聞こえているほどのビッグネームだった。

「それでやっと今になってあなたの考えが分かったところよ、どうして芳迺ちゃんがあの場に招かれたかってことの理由が」

「いちいち説明しなくても、どうせあなたにならいずれは解るだろうとは思っていたから」

「………」

 あの日、小田切芳迺に伝えられたことは事実だった。だがもっとも重要なポイント、すなわち操祈の恋人というのが密森黎太郎であることは伏せられていた。

 というよりも、むしろ芳迺を誤った思い込みへと誘導する形になっていたのだ。

 キーワードとなるヴィルダーベントの名前とともに聞くと、半ば必然的にあの場で語られた操祈の彼氏というもののプロフィールは、全く異なる男性をイメージさせるものとなる。

 誰も嘘は言わずにレトリックを用いることで隠したいものには蓋をする――。

 操祈にはひとことも語らせずに、居合わせた唯香の存在によっても情報にはさらなる信憑性が添えられていたようである。

 お見事、としか言いようがない。

 嘘は真実の中に、真実は嘘とともに――。

 情報操作の基本だった。

 だが真実に優る情報操作はないのだ。

 しかもその情報は芳迺の口から、恐らくはこの後、島津レオナの耳にも届くことになるのだろう。そして各方面に影響力のある彼女を通すことでロンダリングされて、折り紙付きの情報となってさらに広範に拡散していく。

 こうしてミスコン以来、今や時の人になったとも言える操祈のアヴァンチュールは、逆輸入される形で学園都市にまでもたらされることになるのだ。

 きっとそのとき生徒たちはショックを受けるかもしれないが、それがひとたび外の世界からもたらされる時、食峰操祈の物語は、自分たちのすぐ隣にいた若く美しい女教師としてのものではなく、人の手の届かない天上の名花の恋となって、地上を這う人間とは無縁の神話となる。

 そして生徒たちは、改めて遠い存在――となった操祈について、彼女の恋路をより客観的に、よりマイルドに受け止めることができるようになるのかもしれない。

 この春の卒業というのは、みんなが事実を知るタイミングや場面を考える時、いい契機になるとも思えた。

 よりにもよって教え子の一人、それもクラスメートの密森黎太郎が恋人であると知るよりも、よほど受け容れやすい回答になるにちがいない。

「島津レオナはね、操祈先生を芸能界に引っぱり込もうとしていた大手プロダクションとも繋がりがあって、また彼女自身も先生のタレント性に興味があったらしくて、以前にも歌手デビューのオファーをしてきたことがあったのよ。だって先生、歌もけっこううまいし、カラオケでびっくりしたわ、正直、あんなに上手だとは思わなかったから」

 歌についていえば確かにそうだった。

 操祈がチョイスした曲はあまり知られていない歌手のものだったが、伸びやかな高音から深い低音まで豊かに表現されて、みんなが息を呑んで聴き入ってしまっていた。

 天は二物を与えぬどころか、まるで操祈にだけはなにもかも惜しみなく与えることにしたようだったのだ。

「で、それも栃織さん、あなたの計算に入っていたんでしょ?」

「現状、戦局は必ずしもこちらに利があるとは言えないから、使えるものは使わないと。あのラブラブの二人、慎重なようでいてずいぶん危なっかしいところもあるのよ。見守っている方としてはヒヤヒヤさせられてばっかり」

 紅音が柄にもなくメガネの奥の細い目をウインクさせて、唯香は参りました、というように頭を掻いた。自分も同じことを案じていたからだった。

 恋をすると、想うのは大好きな人のことばかりになって、まわりのことが見えなくなってしまうもの。

 女の子の場合は特にだ。

 そして素顔の操祈は、レディというよりもまだ女の子、自分たちといくらも変わらないメンタリティーの恋する乙女だった。

 そんないとけない娘にエッチな行為をいっぱいして、身も心も弄ぶ密森黎太郎はなんて悪いヤツなんだと思う。

「きっと芳迺ちゃんは話しちゃうわよね……あなたのねらい通りに……」

「こっちがいくら内緒にしててねと言ってもね……城壁の外だし、身内だし、大好きな叔母さまから……あの島津レオナがご執心の食峰先生のことを聞かれりゃ、そりゃ話してしまうでしょうよ」

「ヴィルダーベント家のお姫さまには心に決めた許婚がいる、ってこと――?」

 唯香は半ば呆れ顔になって紅音の顔を見た。

「まあ、そんなところね……しばらくの間は虫除けになりそうでしょ?」

 虫除けか……なるほどね……。

 唯香も納得して頷いた。

 現状、学内に、そして学園都市内に、顕在者ばかりでなく潜在的に覚醒を待っている者まで含めると、どれだけ異能力者が居るのかわからない。山崎碧子だけでなく今この瞬間にも、操祈の危険な恋に気がつく者が現れるかもわからないのだ。

 唯香もつい先日、華琳の部屋っ子の少女が見たという“ヴィジョン”の噂話にドキリとさせられたばかりだった。

 幸い、あの時は噂は拡がることなく沈静化したが、またいつ思いもかけないところから吹き出すとも知れない以上、ガードは高くしておくに越したことはなかった。 

「降参よ、あなたには兜を脱ぐわ……このあいだスーパーで彼女に会った時、一瞬でそこまでのストーリーを思いついちゃうなんて、大したものね」

「さすがにそれはないわよ、ただ、小田切さんと島津レオナのことはいつかは使えるかもしれないとは思っていて、それでたまたまあの日、そのチャンスが巡ってきたので利用させてもらっただけ」

「ねぇ、どうして?」

 唯香が訊きたかったのは、どうしてそこまで、あの二人――操祈とレイ――に肩入れをするのか、ということ。それをいちいち口にしなくても察しのいい紅音にはすぐに伝わる。

 打てば響く会話のリズムはテンポがあがってやはり心地が良かった。

 これまでは自分も紅音も、操祈の秘密を守る、という一点において無言を貫くことで、彼女の恋を応援していた。今は、より積極的に庇護者であろうとしている。

「それはきっと……舘野さん、あなたと同じ理由からだと思うわ」

 栃織紅音も自分と同様に食峰操祈のことが好きだから――。

 というのを匂わせていた。

 だが、まだストンと胸に落ちない。なおわだかまるものがあるように思えて

「本当にそれだけ?」

「どうして――?」

「だって頭のいいあなたが、あたしのような、そんな一方通行の単線列車みたいな思考をするとも思えないから」

「そうね……」

 見ると紅音はずり下げたメガネのフレーム越しに唯香の表情を窺っていた。

「確かにわたしにもメリットを期待しているものはあるけど、でも今はまだその話はしたくないの……ただ心配しないで、だからといってあの人にハッピーになってほしいという気持ちに嘘偽りはないから」

「そう……ならいいわ、信じる……」

 唯香は諦観を含んだ微笑みで応えた。

「ところで、話はかわるけどあなたはどうするの? 明日……」

「どうするって?」

「密森くんにチョコレートをプレゼントしなくてもいいの? そうしないとあなたの描いたシナリオが完整しないんじゃなくて?」

「冗談言わないで、あたしがあの人と張り合って何とかなるとでも思うの?」

 その答えは唯香の予想していたものとは少し違っていて、目を瞠る。

 “あの人”“張り合う”というワーディングは、とても第三者の発するものではなかったからだ。

 紅音も自身の今の失言に気がついたのか、めずらしく狼狽えた容子になって言い直していた。

「わたし、別に手作りチョコなんて用意してないし、パスよ、パス。毎年毎年、バレンタインデーなんて来なきゃいいのにって思うわ。お美しい貴方たちと違ってね」

 そう言い捨てると紅音は背を向けた。クラス委員の顔に戻って、そそくさと教室内を歩き回って清掃作業後の点検を始める。それが済むと教室の後ろのドアから出ていくときに、

「舘野さん、帰るときには教室の電気を消していってね、後はよろしく」

 事務的な言葉を残していった。

「ええ、わかったわ……」

 唯香の返事を待たずに紅音の姿は見えなくなっていた。

 再び教室にひとりになった唯香は

「ねぇ、栃織さん……貴方たちって誰のこと……?」

 ひっそりと呟く。

 きっと無意識にだったのだろうが、紅音は、貴方、ではなく、貴方たち、と複数形を使っていた。

 とても頭が良くて、物事を常に合理的に進めようとする態度からついうっかりしてしまうが、栃織紅音もひとりの女の子、それも自分と同い年の女子中学生なのだ。

「……ホントにひどい(ひと)よね……あなたって……」 

 美少女は、当該の少年の机に目をやりながらひとりごちるのだった。

 




次話のバレンタインナイトに繋がる前の平和な日常を
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