ボーイ8メンタルアウトアウト~学園都市編~   作:真夜中のミネルヴァ

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春の黄昏

          LⅩⅩⅣ

 

「久しぶりですね、木山先生」

 招待講演の後、木山春生は懐かしい人物と再会を遂げていた。広田(のぶ)之である。

「ああ、これは広田先生……ずいぶんご無沙汰をしています……」

「十七年ぶり、になるかな……」

「そうですね……」

「あの頃のキミは、まだ十代の可愛らしい女の子だった……」

 広田は美しい女性研究者を目の前にして、年甲斐もなくややはにかんだ顔をして言う。

「先生も少壮の研究者でした……失礼、今も気鋭の意識学者でいらっしゃいますね」

 木山春生がこの大学に通ったのはたったの一年足らずの間でしかなかった。

 知りたいこと、やりたいことが山ほどあって、一刻の猶予も惜しんだこの才気あふれる美少女は、ひなびた座学にはただただ辟易するばかりで当時、授業はそっちのけで動物学教室の向坂研究室に入り浸っていたのだ。そこで若い助教として自身の研究の傍ら、学生たちの指導にもあたっていたのが、この広田だった。広田はすぐに春生の卓越した才能に気がつき、上司で自身の指導教官でもある向坂享一(むこうざかきょういち)教授に彼女を紹介、向坂のつてで学園都市にある先端大の棡原晋(ゆずりはらすすむ)教授の動物生理ラボに招かれた春生は、当時最年少、十代で助教のポストを与えられたのだった。

 その後の彼女の活躍ぶりはめざましいものだった。水を得た魚のように、わずか二年の間に立て続けに合計七本もの論文をNATUREをはじめとする有力誌に掲載し、二年続けて獲得IF(インパクトファクター)が百を超えるという冗談みたいな離れ業を演じてみせて生理学研究者として一躍、世界の第一線に躍り出ることとなったからだ。

「いや、もうボクは若くはないから……髪もこんな具合にすっかり薄くなってしまって、ハハハ」

「そんな……先生の去年、EJNS(欧州神経科学雑誌)の論文は興味深く拝読させていただきました」

「そうかい、名刺代わりに別刷りを持ってきたんだが、それなら要らないかな」

「いえ、いただきます、是非っ」

 春生がそう言って恐縮するのを見て、広田は穏やかに笑んだ。擦り切れた茶色い皮カバンから取り出した別刷りの論文の余白に、ボールペンを走らせてサインをしながら、

「キミも随分、雰囲気が変わったね……以前なら、読んだ論文なんてジャマになるから要らない、と突き返されると思ってビクビクしていたんだが……」

「そんな失礼なことを……けれど、私も歳をとりましたし……いろいろありましたから……人は変わるものです……」

「うん……本当に、いろいろなことがあったね……」

 春生は差し出された論文プリントを両手で丁寧に受け取って頭を下げた。

「先生が学園都市に居られたのを知ったのも、あの事件の後のことだったので……」

「僕はキミのように目立たないからね、あそこでは能力者でもないのに僕は一貫して透明人間だったから、まぁそのおかげで今、ここにこうして居られるワケだから、人生、何が幸いするか判らない、塞翁が馬だよ」

 木原幻生が学園都市で権勢をふるっていた当時、末端の研究者がどこで何をしているかなど、それぞれ知りようがなかったのだった。一人一人の研究者たちはパズルのピースを与えられて、研究の全体像を統括していたのは木原を含む一握りの上層部だけだった。

「キミの経緯については大体のことを知っているつもりではいるんだが……お疲れさま……ただ、今はまた学園都市に戻ってバリバリ仕事を続けているようで、とても嬉しいよ」

「青梅財団の支援が受けられたのは運が良かったです……」

「キミの才能は折り紙付きだからね……まだ三十代半ば、研究者としてはこれからいよいよアブラがのっていい仕事ができる最高のタイミングじゃないか、進展を楽しみにしているよ……量子重力と遠隔透視か、実験デザインが実に巧みだね、キミらしい、豊富な資金も含めて羨ましい限りだ……」

「ありがとうございます、しかし先生も、まだまだ老けこむようなお年じゃないじゃありませんか」

「だといいんだがね……都落ちしたあげく、ながれながれて最果ての、だからさ、あったかい東京はいいよ……あっちだと、今の時分は外を出歩く時はセーターを何枚も重ね着をした上に外套を羽織るから丸っこくなってね、蓑虫の気持ちがよくわかるようになった」

「でも、スキーができるんじゃないですか?」

「まぁ、そうなんだが、年をとると、すぐ足にきてね……ハハハっ」

 自嘲した広田は古めかしいアナログ式の腕時計に目をやると

「おっと、もうこんな時間か……いや、吉崎くんとランチを一緒にする約束をしていたのでね、木山先生、キミも一緒にどうかな?」

「吉崎先生……吉崎慎吾先生ですか?」

 春生も驚いて興味が惹かれたように片方の眉を吊り上げた。

 広田と吉崎は同じ向坂研に居たのだ。同い年で同じ学年、そして研究室も同じという、リタメイト(同腹仔)のような間柄だった。春生がラボに出入りしていた頃、広田が助手で吉崎は博士課程の二年、立場は微妙に異なるが、親友で良きライバルでもあった。大学からの給与がある一方で学生の指導を課せられていた広田に比べ、学位取得は吉崎慎吾の方が先になったが、学園都市のスキャンダルが発覚するまでは互いに順調にキャリアを重ねていたのだ。

「ああ、去年、ボストンのICCPで会ってね、いま彼は理科学院の主任研究官をしているんだ。お役所仕事だから事務やら会議やらの雑用ばっかり押し付けられて、落ち着いて仕事ができないとこぼしていたよ。今日も班会議とやらの名目で、おエラいさんたちのグルーミングをしないとならんから、肝心の講演が聴けないと憤慨していた」

「お目にかかりたいですが……でも先生方のせっかくのデートのお邪魔をしてはいけないので……それに、ひさしぶりに懐かしいキャンパスに来て、学内を散策をしてみようとも思いますので……」

「そうか……それもいいかもしれない……じゃあ、また午後に……」

「はい……」

 互いに頭を下げて別れる。くたびれた上着の後ろ姿を見送っていた春生だったが、広田の足が、つ、と止まり、春生の方を振り返る。

「あ、そうだっ……忘れていた……」

 トコトコトコと小走りに駆け戻ってきて、

「実は先生にお願いしようと思っていたことがあってね」

「なんでしょうか?」

「いや……いま学園都市におられると言うから……」

 広田からは迷いを伺わせる様子で、視線を泳がせながら言いにくそうになっていた。

「ちょっとムシのいい話だから、ダメならダメとはっきり断ってくれていいんだが、一応、ダメ元で尋ねてみようかと……」

「あの、どういったお話ですか?」

「うん……キミは食峰操祈くんのことは覚えているかな? 精神系能力者としての唯一のレベル5だった少女の……」

「はあ……」

 いまや食峰操祈と言われて脳裏に蘇るのは、あのメンタルアウトとしての少女時代の彼女ではなく、教え子の少年からの熱烈な愛撫に身も心も蕩けていくひとりの女となっている彼女の方だった。

「……彼女が……どうかしましたか……?」

「もう何度か研究の協力を要請するようにお願いをしているんだけど、今もって、返事を貰えないのでね……彼女の脳は、おそらく現在の意識の標準モデルではカバーできない有力な反証例になると思うんだよ、いまボクが考えている仮説の強力なサポートになるのではないかと期待していて……」

「それで、実験に協力するように私に間を取り持ってほしい、と――?」

「いや、無理ならいいんだ……」

「いえ、伝えることならできると思います。ただ、それで応じてもらえるかどうかまでは……」

「だよなぁ……あの頃の我々を知っているんだもんなぁ……やっぱり難しいよなぁ……」

「昔のことはともかく、もう彼女もいい年の女の子ですから、さすがに体に何かをされるのは嫌がると思うので……」

「別に裸にしたり、血を取ったり組織を取ったりするわけじゃないんだ……理研にあるオクタゴン(重力場マルチ干渉解析機)を使ったいくつか非侵襲の実験におつきあいしてもらえると、とてもありがたいんだが……多分、半日もあれば済むはずなので……もちろん、少ないながら御礼はするつもりでいる……」

「彼女もいまは歴とした教師ですから、年度末はなにかと忙しいと思うので、春休みになったら、こちらから一度、面会のアポを入れてみます。話を聴いてもらえるかどうかはお約束出来ませんけど」

「そうしてくれるかい、ありがとう、助かるよっ」

 それまで疲れた中年男然としていた広田は、パッ破顔して、春生も、と胸を突かれていた。

 四十半ばの、毛髪が薄くなってすっかりオジサン顔になっていた広田だったが、初めて会った時のように自身の研究のことなるとキラキラと目を輝かせていたからだ。

「でも、あまり期待しないでください」

「いや、大いに期待するともっ、やっぱり女の子を相手にするのは、オジサンにはしんどいんだよ。だからそこは若い女の子同士、腹蔵なく話し合えるんじゃないかと思ってね」

 春生に言うべきことを伝えて安心したのか、

「おっとイカンっ、吉崎との待ち合わせにホントに遅れそうだっ、食堂までここからだと十分はかかるからなぁっ、奴から叱られてしまうよっ」

 親からお気に入りのおもちゃを買うと約束をしてもらった子供のように、広田はすっかりえびす顔になると小走りになって去っていった。

 その背に向かって

「わたし、もう若い女の子なんかじゃありませんからっ」

 春生は声を上げたが、果たして届いたものかどうかわからなかった。

 

 

 いつものことながら一人になった木山春生は、自身にとって最初のキャンパスライフを過ごした母校の敷地内を散策しながら、少女だったころを思い出していた。池のほとりの木製ベンチに腰を下ろして購買で買ったサンドイッチの袋を破った。

 さすがにこの時期、東京でも吹きっさらしの屋外で食事をするのは酔狂で、近くには誰もいなかったのは好都合、三角サンドに噛り付きながら熱い缶コーヒーで飲み下す。

 そうしながら、胸におこる漣を池の水面に立つ波紋と重ねてしばし黙考するのだった。

 思いがけない場所で、思いがけない人物から、思いがけない人物の名前が出たことが少なからずショックとなっている。

「また、食峰操祈か……」

 十代半ばの彼女と、いまひとりの大人の女として再び現れた彼女は、まるで異なっているにもかかわらずどちらも同じ人物なのだった。それが、春生の眠っていた女の部分を揺さぶっているのだ。

 忘れようと思っても、一度、目にしてしまったことは消し去りようもなかった。

 なまじメンタルアウトと呼ばれていた頃の角張った少女時代の印象が際立っていただけに、女の歓びにすなおになった彼女の艶やかな姿とのコントラストが、あまりにも鮮明で目に焼き付いて頭から放れないのだ。それは夜になるといっそう彼女の心と体を悩ましくさせて弄んでいるのだった。

 こうしたもどかしい感覚は、春生にとっては事実上、初めて――と、呼べるものでもあり、どう取りあつかったらよいものかも整理がつかないままに悶々とした日々を重ねている。

 食事を摂りながら何度か切ないため息をついた。

 研究者である自分と人としての自分、科学者としての誠実さと人間の尊厳を守ること。時として背反することもある大きな命題については常に思いを巡らせていたつもりだったが、だが、もう一つ、女としての自分への視点がまったくといっていいほど欠けていたことを、彼女はいま思い知らされていた。

 セックス――。

 愛を知らない女を、はたして女といってもいいのだろうか?

 子を宿す性でありながら、その試みからは常に距離をおき続けていたこと、それが年を重ねるたびにのしかかってくるような気がするのだ。

 だからと言って、今更この歳で色恋沙汰もあるまいと、理性は女の情念の手綱を握ろうとする。

 もう若くない……三十五にもなる女を、誰が相手になんかするものか……。

 そう言い聞かせても、自分が若さと引き換えにしたものと、帳尻があっているのかもわからなくなってくる。

 きっと、それこそが広田のような男性研究者と自分のような女性研究者との大きな違いなのだろう。男の場合、自身の生理と科学の信徒であることとが矛盾させずに済むことが、女の場合はそうはいかないようなのだ。

 自分にはもう選択肢はない、という現実を突き付けられて初めて身にしみて気がつくことになる。

「まったく、この期に及んで、こんな気持ちにさせられるとはなぁ……厄介ごとをもちこんでくれたものだ……私も、何をやっているのか……」

 ひとりごちてしばし瞑目する。

 食峰操祈……とても美しかった……。

 恋をすると、女はあんなにも魅力的になるものなのか……。

 いったい、女の歓びとは、どういうものなのだろう……?

 木々の間を渡る風音に混じって、石段を降りてくる足音が聞こえた。

 どうやら、ここをひとりで占拠していられるのもこれまでのようだ……。

 そう思って散らかしたゴミを拾い、纏めはじめると

「あの……」

 と、言って足音の主と思しきから声をかけられた。

「春生先生ですよね……?」

 顔を上げると、数メートルほど離れたところに頭身のある一人の青年が立ってこちらを見ていた。相手のなんとも名状しがたい表情と目があって、春生も首を傾げる。

「木山春生先生……」

「そうだが……君は?」

 瞬間、青年は端正な表情を綻ばせた。

「やっぱりそうだった、春生先生だっ、僕、ゆうですっ」

「ゆう……くん……?」

「先生に救われた置き去りの……」

「――っ!?――」

 突如、八年前の記憶が鮮やかに蘇った。

「まさか……ゆうくん……君はあの井之上優樹くんなのか?」

「ええ、そうですっ! やっと思い出していただけたみたいですねっ、春生先生、しばらくですっ」

 




よもやの木山春生ターン・・・?!
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