ボーイ8メンタルアウトアウト~学園都市編~   作:真夜中のミネルヴァ

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夢の正夢 4

 教職員室に戻った操祈は、自身のデスクの上に生徒たちから回収した答案用紙を置くと、デスクワークの時にだけ使っている眼鏡を抽出しから取り出した。目許に細いシルバーフレームのレンズがかかると面差しはいっそう理知的な数学教師のものになるのだった。

 その容子を見て、

「食峰先生、またテストをなさったんですか?」

 ドアの近く、左隣の席にいた野々村凛子が興味深げにデスクの上を覗いていた。

 彼女は昨秋に国語科の講師として着任したばかりのいちばん新しいメンバーで、年齢は操祈よりも四つ年上の二十六歳だが形式上は唯一の後輩だった。中高年の教員ばかりで占められる中、同年代の同僚の存在は何かとありがたく、今ではシルバー・シニア連合国の中に生まれた少数民族互助会のようなものとなって、古株の教員には言いにくいことでも互いに融通して支え合うようになっている。

「なんだかとても難しいことをしてるんですね……それ、何のテストだったんですか?」

 凛子は畏敬の念を隠さずに、驚きに目を丸くしている。黒い髪をセミロングにした細面の楚々とした美人である。

「これは常微分方程式の計算問題なんです」

「常微分方程式ですかっ!? あの子たち、もうそんなに難しいことを……それ、塀の外(学園都市の外という意味)では高校のカリキュラムですよね?」

「そうらしいですね、一般には高等学校の二、三年次のカリキュラムだとか」

「わたしなんか微分って聞いただけで、もう怖くなってしまうのに……数学は高校に入って早々に脱落してしまったので、常微分方程式なんて、多分、習ったこともない筈ですよ、それなのに……」

「もしかすると文系では扱わないのかもしれません。でもこっちでは普通に中学の教育過程に入れてあるくらいで、実はそんなに大したことをしているわけじゃないんですよ」

 大人の女どうしになると、たとえ親しくしていても操祈も普段、生徒や友人相手にする時のようにくだけた言葉遣いではなく、やや堅苦しい物言いをするようになるのだった。

「大したことがないって……それは食峰先生が優秀だからで……」

「私、少しも優秀なんかじゃありませんから……」

「またそんなことを……」

「でも慣れていないと難解そう見えるのかもしれませんね……」

「わたし、全然、慣れていませんので」

 凛子は黒い目をクリクリさせて微笑み、操祈も笑みを返した。おっとりとした性格の凛子には、いつも癒されている。

「高等学校までで扱う数学は、子供たちが大好きなゲームなんかと同じでルールにさえ従えば誰でもできるものなんです。ただゲームと同じで上手くなるかどうかは、トレーニングの量や質もあって個人差はありますけど」

「必死で勉強していたつもりだったんですけど、それでも()いていけなかった私はどうしたら良かったんでしょう?」

「それは……たぶん、どこかで積み残しがあったのかもしれません……(つまず)きを放置すると先へ進めなくなるのが数学っていう科目の特徴なので。ちょっとしたところなんですけど……実は数学が暗記科目だってこと、知らない人って多いんですよ」

「数学が暗記科目なんですかっ!?」

「ええ、細かい約束事をしっかり覚えているかどうかが問われているんです。たとえば今日のテストなんですけど……ほとんど同じ内容の試験をしている筈なのですが、午前の三組での正答率と、今やったばかりのこの二組の成績は、パッと見ただけでもかなり違うんです。採点前ですが、たぶん後者は正答率が百パーセントに近いと思いますが、午前の組は八割にも届きませんでした」

 操祈はデスクの答案をパラパラと捲って目を落としながら言った。

「え、どうしてそんなに違いがでるんですか?」

「それは……ただ私の伝え方に問題があったんです。これは教師の責任ですね。午後のクラスでは、午前の試験結果を受けて生徒たちがどこで躓いているのかをこちらが知った上で、彼らが以前に学んだことを確認しながら進めたので……もともととてもスジの良い子供達ですから、ちょっと記憶の呼び水をさしてあげれば理解度は跳ね上がるんです」

「ああ、なるほど……」

「数学も人のやることですからミスによる失点は仕方がありません。でも積み残しによるものは、その都度、補っておかないと前には進めないんです。だいたい解った――では不十分で、百パーセント、完全に理解することを目指して一歩後退、二歩全進、積み木をするように慎重に学習を重ねていけば誰でも相当高い山にまで登れる筈なんですよ。ただ、ときには完全に理解できなくても、先に行くと解るようになるという場合もあるので、どうしても納得できないものが出てきたら、それは一時棚上げにしてそのことを忘れずに前に進む、というような態度で臨むのがいいんじゃないかと思います……凛子先生の場合も、おそらく躓きの回収が不十分で、どこで迷ったのかわからないままに進んだことで数学の山の中で遭難してしまったのかもしれませんね」

「そうですね……私みたいな凡人は、試験は結果が良ければ満足して悪ければ蓋をする、みたいなところがありましたから……そのうち数学が出来ないのは頭の悪さのせいにして嫌いになってしまったみたいです」

「それはもったいない。数学って楽しいですよ。ただ、先へ行くほど抽象性が増してくるので適性がはっきり現れる分野には違いないのですが……私も自分の力ではもう届かないなっていうのが分かったから、それで……」

 操祈は赤いペンを取って答案の採点に掛かりながら、自身の挫折と教師になった経緯のあらましを同僚の女教師に語るのだった。問題を抱えて悩ましい日々を過ごしていたハイスクール時代のことも含めて。

「お話を聞いてびっくりしました、とてもそんな風には見えなかったので……いつも判断が早くて的確で、やっぱり理系の方は違うんだなぁって、ただただ感心して見ていたので……」

「そんな……私の場合は、どこまでも自業自得でしたので……村脇先生には随分ご迷惑をおかけしていて……今もきっとそうなんですけど……」

「先生がそんなだったなんて、どなたか別の方のお話を伺っているみたいです……」

「ウソ偽りなく私のことですよ、本当にしょうがないバカ娘でしたから……でした、じゃなくて進行形にしないと国語の先生からは叱られてしまいますね」

「勘弁してください、先生にそんなことを言われたら、ますます立つ瀬がなくなってしまいます……」

 凛子も教材に使っている資料の整理をしながら、採点をしている操祈の答案にチラチラと視線を送っていた。

「でも、やっぱり数学は怖いです……それ積分記号って言うんでしたっけ? そのト音記号のようなマークが出てきただけで、アレルギー反応が起きてしまいそうで……そんな大人でも大変なことを、まだ中学生なのに易々とこなせるなんて本当に賢い子たちです……」

「そうですね、教えたことがすぐに定着するのは教師としてはやりがいがあります……ただそれは……あの子たちが“デザイナーズ”だからというのもあるのかもしれません……」

「デザイナーズ?!」

「ご存知ないですか? 遺伝的に大なり小なりの操作を加えられて生まれてきた子供たちのことを……」

「そのお話って……やっぱり本当だったんですか……」

 凛子はちょっと不安そうな顔をしていた。それは未知なるものに対する時の人の自然な反応ともいえるものだった。

「ええ……かつて、この学園都市では特区であることをいいことに様々な非合法的人体実験を行っていましたから……ヒトの配偶子や受精卵の遺伝子操作もその一つです。名目は病因となる遺伝子の修正でしたけれど実際は……最適化でした……」

「最適化――?!」

「私も知らないことがたくさんあるので、詳しいことはお話できないのですが……知性の他、各人の持てる身体能力をいっぱいに引き出せるように人為的に遺伝子のチューニングを行うことです」

 “能力”開発などの機微に触れる部分の他に、操祈にも守秘義務が課せられていて話せないことがたくさんあるのだった。成功例の背後にはそれよりも遥かに多くの失敗例があり、それらはみな“廃棄”されていた。人が人の命をまるで工業製品を扱うように軽々しく弄んでいた、というのが事件発覚以前の学園都市の裏の顔、おぞましい実態だった。

「じゃあ、あの子たちは……」

「そうです……本来備わっていた遺伝的能力を人為的に“最適化”された子供たちです。そして、そういう子供たちだけを集めて教育しているのが、この学園都市なんです……」

「それでなんですか……頭の発達度合いも発育状態も、外の中学生たちに較べると格段に違うので……背も高いし体つきも大人びていて、はじめは高校生かと思ったぐらいだったから……」

「でも精神年齢は、まだまだミドルティーン、ローティーンですよ」

「そうですね……みんな純朴というか、いい子たちですから……」

「だからあの子たちには健やかに育って欲しいんです。知育だけじゃなく豊かな情操の発育も大事で、その意味で先生のような方の指導を受けるのは、とても大切なことだと思います……凛子先生は小説を描かれているとか……素敵ですよね……人の心の世界に深く分け入って、新しい世界を生み出すなんて……」

「そんな大したことをしているのじゃなくて、私のはただの手遊(てすさ)びですから……」

「わたし、芸術家が世界を描くとき、その瞬間、本当に世界もまた生み出されているんじゃないかって、そんな気がするんですよ……」

「……?……」

「あるいは、もともとそうした世界があって、作家や芸術家の方たちはその世界の存在に誰よりも先に気がついてスケッチをして、私たちのような凡庸な人間にそのことを教えてくれているのかもしれないって……」

「……?!……」

「永遠――というのもまた、人智の及ばない神の領域なんです」

 多世界解釈に倣えば、世界は無限、これに対して人類がこれまで描いてきた物語の数は有限。故に空想された世界を含めて全てが対応する世界を持ち、包含されると看做しうる。

 あまりにも現実離れしているが、数学の語る世界はそもそも現実離れをしていた。

「なんだか、難しいお話ですね……」

「芸術は人間がなしうる永遠との真摯な対話……私は、子供たちには神秘への厳かな意識を常に持っていて欲しいと思っています。かつてここで行われていた大きな過ちは、神聖なものへの憧れや畏敬の念を失った人の奢りが招いたものなので……」

「……食峰先生は……この常盤台の生徒さんだったんでしたね……」

「ええ……」

「じゃあ……先生も……その……デザイ……」

 凛子は、はたして立ち入って良いものかと案じるように操祈の顔色を窺っていた。

 操祈はすぐに首肯した。

「……学園都市では、もうかれこれ二十年以上も前からそうしたことをしていたので……私もです……」

「だからなんですか……」

 凛子は合点がいったというように大きく頷いた。

「きっとその所為なんです……こんな姿にされてしまったのは……」

 操祈は白い両手を拡げてため息をひとつ。

「こんな姿って……先生は超が幾つもつくくらいの凄い美人さんなのに……私なんか、いいな、素敵だな、うらやましいなって思うばかりでいるので……もしできるのなら遺伝子の全取っ換えだってしたいくらいに」

 凛子が笑んで、操祈も白い歯を覗かせる。

「……人の容姿の美醜は主観的、個人的なものですから……美って数学が一番扱いづらい概念の一つでもあるんですよ……人間が美について知っていることといえばシンメトリーに関することぐらいで、これもまた一般化のできない深遠な神の領域にあるんです。もしそういうものが女にとって大切なのだとすると、私はひとりの人から必要とされるので必要十分だと思うのですが……」

 操祈がそう言うと、凛子はと胸を衝かれたように、それまで笑顔だった表情が屈折した。

「一人……ですか……」

「多くの人から認められることよりも、たった一人から求められることの方が重要なように思うんです……わたし、子供の頃は学園都市(まち)の外で暮らしていて、近所の子供たちとは見かけが違ったので、仲間外れにされたりしてずいぶん居心地の悪い思いをしていたんです……でも一人だけ、仲のいいお友達ができてからはすごく愉しくなりましたから……」

「………」

「こっちに移ってきてからは、そういう面ではだいぶ楽にはなりましたけれど……」

「でもそれは……」

 凛子は口にすべきかどうか迷っていた容子だったが、

「……たしか……食蜂先生は、お父さまがアメリカの方だと……」

「……あの人のことを……父と呼んでいいものかどうか……」

 操祈の表情が明らかに翳り、

「……すみません……立ち入ったことを聞いてしまって……」

「いえ、いいんです……もう済んだこと、昔の話なので……」

 凛子との雑談はそこで終わり、操祈は赤ペンで生徒ひとりゝゝゝの答案に丁寧に書き込みをしながら採点を進めていった。これまでのところ全員正答で、狙い通りの成果が得られていることに安堵していた。

 が、その手がふと止まる。

 デスクの置き時計に目を遣り、そして振り返って壁の掛け時計の針も確かめた。

 時刻は午後三時を廻ったところだった。刹那、迷ってから、

「いけない、図書館に行かないと……」

「今からですか?」

 凛子が怪訝そうに訊く。

「ちょっと調べたいことができたので……」

「それなら急がないと、今日は整理日なので三時四十分に閉館のはずですから」

「そうですね――」

 操祈は少し慌てて、二つ折りにした答案用紙を小脇にすると、そそくさと教職員室をを後にするのだった。

 




つまらない誤記に気がついたので修正しました

申し訳ありませんでした
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