ボーイ8メンタルアウトアウト~学園都市編~ 作:真夜中のミネルヴァ
逸楽の余韻も醒めやらぬうちに、背後を振り返って目だけで恋人に事態の急を告げる。
誰か来るっ――と。
操祈の不安をよそに、少年は心配しないでというように深く頷くのだった。その冷静な容子をみて彼女もコクンと頷いて落ち着きを取り戻した。万事について周到な少年には、きっと何か考えがあることだろうと信じることができるからだった。
どうするつもりなのぉ――?
大丈夫ですよ、心配いりません――。
目と目を合わせるだけで気持ちが通い合う。
操祈は後ずさってデスクから這い降りながら、少年が手際よくナプキンで顔を拭っているのがわかると、彼女もスーツのポケットの中からティッシュを何枚か取り出して、恋人が見ている前で大胆にプリーツスカートの前を持ち上げて開いた股間にあてるのだった。いつもならそのような、みっともないことはとてもできなかったが、今だけは気にしてはいられなかった。
気働きのある少年は、そんな彼女の胸の裡を察したように腰のくびれからお尻にかけてやさしく撫でてねぎらいながら、感謝の思いを伝えてくる。ベッドでは愛し合った後は身を寄せ合って、睦言をささやきかけて操祈の心に寄り添おうとしてくれるのだったが、むろんそうした時間もないのだった。代わりに、しどけない姿をさらして頼りない心持ちでいる女を、憧れのこもった見上げるような視線で迎えて励ましてくれている。
こんな眼差しを向けられたら普通でも気恥ずかしくなるのに、痴態を晒してしまった後でされると尚のこと申し訳なくなってくるはずが、どうした心の働きか、もう仕方のないこと――とも思えるようになってくるのだった。
操祈の方でも少年のそうした思いやりを、いまでは素直に信じて受け容れられるようになっていて、どちらにしても、心の負担はずっと軽くなっていた。
強い羞恥をいったん棚上げにして、どこか割り切ったサバサバした気分で、
どうしたらいい――?
と、操祈も前を向いていた。
同じ危機に取り組もうとする意識が、二人の紐帯をさらに強くしているようである。
口づけを交わす。
恋人の纏う、他ならぬ自分自身の臭いのする口許に瞬間たじろぐが、少年が舌を伸ばしてきてディープキスになると、それもすぐに些細なことに思えてかまわなくなっていた。
見つめ合って、
でも、二人だけで居るところを見つかったら、どう言い訳するつもりなのぉ――?
いたいけな少女のするように、また小首を傾げる。
誰にも見咎められずに、監視カメラにも映らずにこの場を切り抜けることなんて、とても出来るとは思えなかったのだ。仮に今すぐに彼女が先にキャレルを脱したとして、その後、レイはどうするのか?
愛されてクライマックスへ向けて駆け上っている最中だったのではっきりしないが、たしか閉館時間を告げるアナウンスは、もう既にあったような気がする――。
だとすると、間もなく各階への見回りも始まるのだ。
心もとなげな顔でいる操祈の前で、少年は
ボクを信じて――と、言うように微笑みを返すと、またデスクの下に身を潜ませていった。
そんなところに隠れてもすぐに見つかってしまうのに……。
相手が山崎碧子であれば、目を逃れることなんかできるはずがないと思う。
が――。
恋人は、デスクの奥に身を隠したと思ったと同時に、フッと、かき消えるようにその姿が見えなくなったのだ。
――っ???
驚く操祈の前で、少年は顔の上半分だけを覗かせていた。デスクの影に目を凝らすと、薄い膜のようなものが間にあって少年の体をすっかり隠していた。
レイはそのシート状のものを上下に動かして、悪戯っぽい顔を出したり隠したりして操祈を唖然とさせる。
透明化フィルム――?
噂には耳にしたことがあったが、成功したという話までは伝わってはいなかった。知る限りでは乗り越えるべき課題がいくつもあって、開発を目指していた各企業、研究機関はなべて難航していた筈だったのだ。
そんな最先端のアイテムを、レイはいったいどこから手に入れてきたのかしら……?
質したいことは幾つもあったが、今はその時ではなかった。
アコーディオンドアの向こう、外の廊下に、こちらに向かってくる足音に気づいたからだ。それははっきりとした意思を持ってまっすぐに、刻々、迫ってきていた。
操祈も椅子に座ると体裁を整える。何事もない顔をして採点をしているふりをした。ただデスクの下では恋人の体を避けるためにだらしなく足を広げている。
だからって、もうへんなこと、しないでよね――。
太腿の間に少年の体を感じると、また腰のあたりがむずむずしてくるが、幸い相手も大人しく気配を殺していてくれて、操祈のほうもおかしな気持ちにはならずに済んでいた。
足音が二人の居るキャレルの前で止まった。
「失礼しまぁす」
ドア越しに声が響く。
「はい――」
応じると、アコーディオンが二十センチほど開かれて少女が顔を覗かせた。二年生の図書委員だった。
「あの、先生、閉館時間ですので、ご退室をお願いいたします、申し訳ありません」
「いいえいいのよ、わかりました、遅くなってごめんなさいね、あと少しだったのでと思ったんだけど、ここで切り上げるわ」
相手が山崎碧子ではなかったので警戒を一段階、緩めていた。きっとさっきのは自分の見間違いだったのかもしれない、夢で見たのと似たようなシチュエーションであることと、その時の印象とが重なって錯覚したのだろうと思い直していた。
女子生徒が立ち去ると、操祈も椅子から立ち上がった。ドアが開いたままになっていたので、気にはなるがデスクの下に隠れている少年のことは努めて意識しないようにして帰り支度を整える。
すっかりひと気のなくなった図書館の一階カウンターを通り過ぎる際に、
「あらぁ、もしかしたら、私がいちばん最後になっちゃったのぉ?」
受付に居た女子生徒に声を掛けた。
「いえ、まだ何名か居るみたいなので大丈夫ですよ」
少女は管理画面を確かめながら言った。
何名か――の、中にはレイも含まれているのだろうと思って案じるが、彼のことだから大丈夫だろうと胸の中で自分に言い聞かせていた。
透明化するアイテムもあるみたいだし……。
「そう、良かったわ――」
操祈はわずかに後ろ髪を引かれる思いを引きずったまま、図書館を後にした。
が、正面口を出たところで、ちょうど館内に入ろうとしていた碧子とすれ違って一瞬、ドキッとさせられる。
「あ、食蜂先生っ、こんにちわ」
美少女は如才ない笑顔で頭を下げた。
「あら、生徒会長さん、これから?」
「先生、わたし、もう生徒会長じゃありませんよ、今は一介の女子生徒ですから」
碧子は朗らかなあきれ顔になって言った。
「年末に選挙があったことをお忘れですか? 今の生徒会長は黒田アリスさんですので」
操祈は夢の中でも似たような会話をしていたことを思い出していた。
「そうだったわね、ついいつものクセで……私がここに来てからはほぼずっと、あなたが生徒会長だったから……あら、図書館はもう閉館よ」
「わたし、ちょっと忘れものをしてしまったみたいで」
「珍しいわね、あなたのような何でも完璧な子がミスをするなんて」
「わたし、先生のようなパーフェクトな女の子じゃありませんから――」
美少女は笑顔で言うが、その言葉の響きの中にかすかな棘を感じて操祈の心がチクっとする。
「それより先生こそ、さっきはどうされていたんですか?」
「え……?!」
「机の上に乗ったりして――」
「――!――」
やっぱり、気がついていたんだ――と、察して、頭をフル回転させるが、とっさに理由が思い当たらず、
「ちょっとペンを落としてしまって……」
口にしてから、こんな言い訳が通じる相手ではないと思いつつ、もうそれで押し通すしか無いと覚悟を決めた。問いつめられたらすぐにボロが出てしまうが、だからといって、それがなんだというのだ――とも。
操祈は夢の中だけではなくて現実でも、この犀利な美少女と対峙するかたちになっていた。
そして初めて、相手に畏れ――を感じてもいたのだ。
学園都市の有力者の独り娘にして、卓越した美貌と明晰な頭脳を誇る、学内最強のレベル2の精神系能力者に対して。
それにひきかえ自分は何の力も持たない一介の教師で凡婦。そのうえ年甲斐もなく、オトナかわいいチェックのプリーツスカートなんかを着るような身の程知らずの痛い女教師だった。
そればかりか、今の操祈は肌着を奪われていて、スカートの中はノーパン、股間にティッシュを当てているだけというなんとも情けない状態だったのだ。
早くこの場を逃れたい、と思う。それを精神力でねじ伏せて、努めて平静を装いながら
「立ち話していても大丈夫? 忘れものを取りにきたんでしょ?」
「あ、そうでしたっ、すみません、それじゃあ私はこれで――」
美少女は図書館の中へ消え、ホッとした操祈は肩の力を抜いて、あらためて自分が碧子の前で肩肘を張っていたことに気がつくのだった。
悩ましげに広い額に手をやる。レイのことを案じて図書館を振り返った。碧子と鉢合わせをするようなことになったら……と、それを思うとまた胸が騒ぐのだ。
イヤな夢の記憶が鮮やかに甦っていた。
夢は夢で済んだが、現実はそうはいかない。
レイくん――。
胸の中で恋人の名を呼んだ。それは、不安な時に呪文のように唱える魔法の言葉なのだった。
ほんの少し前まで必死に睦み合っていた最愛の人。
操祈にとって自分の命よりも大切な存在になっている。
だから――。
その時、悪戯なつむじ風がたって、長い金髪とヒラヒラのスカートが捲られそうになって、慌てて前と後ろを抑えて庇うのだった。学内だからと外套を羽織ってこなかったことが悔やまれた。
さりとて状況が状況なだけに小走りになるわけにもいかず、操祈は不自然にならないように気をつけながら、スカートの中からおかしな落とし物などをしないように、慎重に歩を運んで職員室のある本部校舎の方へと戻っていくのだった。
風が吹く度に、スカートを庇いながらの女らしい仕草を目撃した男子生徒たちの心臓を、恋の機銃掃射で蜂の巣にしていることにも気がつかずに――。
職員室に戻る前に、職員専用の化粧室に立ち寄る。
そこで情けないことになっている部分の応急処置を済ませると、ぐっしょり濡れた花紙をトイレットペーパーを幾重にも巻いた中に包み込み、スーツのポケットに忍ばせる。
と、指先がポケットの中にあった紙に触れて、覚えのないものだったので怪訝そうに取り出した。
それはメモ用紙の切れ端で、そこには――。
“今週の土曜日の夜、先生の部屋にお邪魔してもよろしいですか? 今日の続きをしたいので……今度はしっかり可愛がりたいからっ♡♡♡”
レイの筆跡のデートの申し出が記されていた。
「もう……レイくんったら……」
声にならない声音で呟く。
もちろん、是も非もない提案なのだった。
ちょっとだけ修正しました