重苦しい静寂が、集中治療室の前の冷たい廊下を支配していた。
耳に入るのは、壁の時計が刻む規則的な秒針の音と、エアコンの低い駆動音だけ。私たちは長椅子に腰掛け、ただひたすらに処置室の重い扉を見つめていた。何時間が経過したのかも分からない。私=犬吠埼風の隣では友奈が膝の上で両手を強く握りしめ、時折祈るように目を閉じている。東郷は車椅子の背もたれに深く体を預け、沈痛な面持ちで床の一点を見つめていた。夏凜は腕を組み、貧乏ゆすりを止められないでいる。樹はずっとそわそわしている。
カチリ、と処置室の上の赤いランプが消えた。
「──っ!」
私は弾かれたように立ち上がった。重い防音扉が滑るように開き、疲弊しきった顔の桑折さんが足早に出てくる。白衣の袖は少し乱れ、眼鏡の奥の目には濃いクマが浮き出ていた。
「桑折さん! 真優は……真優はどうなの!?」
私が駆け寄ると、桑折さんは一瞬だけ目元を緩め、深く息を吐き出した。
「……安心してくれ。一時はどうなることかと思っていたが、全てのバイタルデータは正常値へと戻りつつある。この状態なら……明日には目を覚ますはずだよ」
「よかった……っ! 本当によかった……っ!」
友奈がその場に崩れ落ちるように安堵の息を漏らし、隣で東郷がその肩を抱きしめた。夏凜も「まったく、脅かさないでよ……」と強がりながら、安堵の面持ちで目元を拭っている。
しかし、私の胸のざわつきは消えなかった。桑折さんの表情の奥にある、冷たい影が見逃せなかったからだ。
「……桑折さん。本当のことを話してください。一体、真優の身体に何が起きてるんですか?」
私の問いに、桑折さんは口を噤んだ。
「それは──」
「──俺が説明する」
廊下の暗がりから、冷徹な靴音が響いてきた。大葉継人だった。
その顔には息子──いや、娘である真優を案じる父親の表情は一切なく、ただ冷徹な研究者としての鋭利な光だけが宿っていた。
「継人……」
「桑折、お前は中で真優を見ててくれ、ここは俺が話す」
「……了解した、……良いんだな?」
桑折さんが継人さんを心配そうな顔を向ける。彼はああ、と彼が頭を下げるのを見届けてから、処置室へとむかった。継人さんは端末の画面をこちらに向けた。画面の中に浮かび上がったのは、真優の身体構造と、複雑に絡み合う勇者システムのバイタルグラフだった。
「単刀直入に言う。前回の戦闘中、真優のシステムを通じて、神樹結界の"内部"から何者かが真優アクセスを仕掛けてきていた」
「アクセス……!? ハッキングってことですか!?」夏凜が声を上げる。
「そうだ。こちらの戦術データ、システム情報、そしてお前たち全員のリアルタイムのバイタル情報が、真優の脳を経由してそのまま外部へと漏洩していた。今回の真優の昏睡はそれに関係している」
「そんな……誰がそんなことを……」東郷が息を飲んだ。
「問題は『誰が』だけではない。『どうやって』そのパスを維持していたかだ」
継人さんはホログラムの波形の一部を赤く発光させた。その部分は、心電図の波形を遥かに超える異常な高エネルギーを吐き出していた。
「外部からの接続、かつその接続を維持するために……真優の勇者システム内に存在する満開の機能の一部が稼働していた。言い換えれば……真優は認識のないまま、自分の魂を代償としてどこかと繋がり続けていたんだ」
凍りつくような沈黙が廊下に満ちた。あまりにも非現実的な言葉に、私の頭は理解を拒絶しようとする。
「魂……って、どういうことですか、継人さん……?」
友奈がおずおずと、震える声で尋ねる。継人さんは容赦のない言葉で、その希望を打ち砕いた。
「言葉通りの意味だ。満開システムの『散華』、満開の後遺症が身体機能を供物としているが、この現象においては魂を代償としている。勇者として変身すれば、真優の肉体と魂は解離し続ける。だが、これはパスを繋げる代償でジワジワとすり減っているからだ、もしこの状態で真優が『満開』を行えば、その代償はキッチリと払われる。結果として命そのものが完全に失われる」
「そんな……っ!?」
私は激しい眩暈を覚えた。絶句する私達に、継人さんは淡々と、だが絶対の命令として告げた。
「次回以降、大葉真優の勇者システムの変身権限は永久凍結する。あいつはもう戦えない。戦わせるわけにはいかない」
「戦えないって……じゃあ、真優はずっとあのままなんですか!?」
夏凜が詰め寄る。
「何とかしてそのパスを切ることはできないんですか!?」
「根本的な解決には、真優と繋がっている『対象』を特定し、排除するしかない」
継人さんは眼光を鋭くし、私たちを一人一人見回した。
「繋がる対象は、戦闘中の樹海の中に確実に存在していた。お前たち、前回の戦闘の終わり際……樹海が閉じる瞬間に何か異常を見なかったか? どんな些細なことでもいい」
「異常……?」
私は記憶を巻き戻した。だが、思い出せるのはいつものように星屑を散らし、バーテックスを撃破した爽快感だけだ。夏凜も、東郷も、樹も首を横に振る。
その時、友奈がぽつりと呟いた。
「……あの」
「友奈君、何か気づいたのか?」
「……私、樹海が消える直前……すごく遠くの方に……『白い女の人』が見えた気がしたんです」
継人さんの眉が跳ね上がった。
「白い女……? どんな姿だ? 年齢は?」
「ごめんなさい……遠すぎて、全体が眩しい光に包まれていて、はっきりとは分からなくて……。でも、なんだか……すごく悲しそうな感じがして……」
「……そうか」
継人さんは顎に手を当て、深く思考の海へと沈み込んだ。その瞳の奥で、恐ろしい計算が高速で回転しているのを、私はただ黙って見つめることしかできなかった。
◆
大赦の本部地下深くに存在する解析室。
無数の大型モニターが壁一面を埋め尽くし、冷排気のファンが低音の唸りを上げている。画面上には、前回の戦闘における樹海化解除直前『3秒間』の環境ログ、空間屈折率、そして勇者部全員の網膜視界データが膨大なパラメーターとなって流れていた。
「……不可解だな」
俺=大葉継人はモニターに映る友奈の視界ログを指でタップした。
友奈が証言した『白い女』。
だが、他の勇者部員──東郷美森、三好夏凜、犬吠埼姉妹、そして自律型ドローン『衛使』の高性能光学カメラに至るまで、その存在は影すら記録されていなかった。
「友奈君には見えて、他の者や精密機械には映らない。……桑折、友奈君の適性値の最新データを表示してくれ」
「ああ。……相変わらず異常だよ。神樹への親和性、勇者適性の高さ、共に歴代最高数値だ。讃州中学の勇者部自体が彼女を起点として集められているのも頷ける」
「適性の高さとは、神性への親和性の高さ……つまり『神により近い存在』であることの証だ。機械のレンズが捉えられない高次元の波長を、友奈君の脳が直接感知した可能性がある」
「しかし継人、可視光線から赤外線等に至るまで、友奈君の視界データにフィルタリングをかけたが、該当する光学反応はゼロだぞ?」
「見方を変えろ、桑折」
俺は端末を操作して動画データにフィルターをかけていく。
「勇者システムは神樹の力を利用している、勇者や勇者システムはその力を通して世界を認識している。もし……その『白い女』が、神樹の認識出来ない、存在だったとしたらどうなる?」
桑折が顔を渋くする。
「神樹が認識出来ない存在?……あり得るのか?」
「あり得るんだろうな、神樹は我々が認識出来ない波長を発してその跳ね返りを認識して任意の対象を"見て"いる。俺達人間が光の反射で対象を認識してるみたいにな。だとすれば、その認識されていない物体はステルスのように神樹の何らかの波長を神樹側に返していないということだ、吸収か相殺か、途方もない存在ではあるが、帰ってこない波長は影として残る。……故に神樹の発してる波長をエミュレートしたフィルターをかければ、それが出てくるはずだ」
「だとすれば友奈君以外の風君達には黒く見えるはずなんじゃないか?」
「人の見る物は帰ってきた波長を脳が変換しているだけだ、その変換に干渉すれば見えなくなる」
「……人間の脳にそんな干渉出来る存在なんて…」
「そんな芸当が出来る存在を俺達は知っているし、今現在敵対している奴だよ」
フィルターをかけられた画面の色彩が反転し、ノイズのような灰色と白の世界へと変わっていく。
そして――動画の再生開始から3分42秒地点。
空間解除の瞬間で、画面の右上隅が一瞬だけ──漆黒に塗り潰されていた。
「……あったな、先ほど言ったとおりだ、黒は波長が無いことの証左。神樹からは見えない証拠だ。勇者は神樹の力を使って現世を認識している、だから見えない。だが友奈君は神性……つまり天の神の波長にすら認識してしまうほどだからこそ、この存在を認識することができたんだ」
「しかし継人、これではただの『黒い塊』だぞ。姿形など……」
「この黒い領域だけ波長が帰って来ていないということはその表面までは存在している。人型に見えているのが証拠だ。周りの情報からこいつの波長が消えている部分までを補正させれば、色はつかないにしても人間が認識できるようになるはずだ」
モニター上の漆黒に、少しずつ光と影の輪郭が形作られていく。髪の毛の質感、服の皺、そして──顔のパーツ。
画面のノイズが完全に晴れ、ひとつの少女の「顔」が鮮明に浮かび上がった。
「…………なっ!?」
桑折が椅子から飛び上がる。俺自身も、喉の奥からヒッと奇妙な息が漏れるのを止められなかった。
画面の中にいたのは──ドレスを纏い、絶望と憎悪に満ちた冷たい瞳でこちらを見つめる少女。
真優の顔だ。
──いや、違う。真優に極めてよく似ているが、その面影は、かつて俺がこの手で救えなかった奴、そのものだった。
「……二夜君……」
桑折が震える声でその名を呼んだ。
相良二夜。
奉火祭により死亡した大葉真優の実の母である。
今見ている画面内に存在していてはいけない存在。
「なぜだ……なぜ二夜が真優のシステムと繋がっているのか……? 樹海の境界で……あいつはまだ生きて、天の神側にいるのか……?しかしどうやって?」
俺の額から、冷や汗が狂ったように吹き出していた。
真優のバイタルが狂う理由、命が削られる理由──その元凶が、死んだはずの真優の母だったのだ。
なぜそんなことをする?実の子供に。
「継人……大丈夫か……?」
「大丈夫だ、なぜあいつがここに居るのか、どうしてこんなことをするのかは全くわからないが、こちらに敵対している者と繋がっていることは確かだ、こいつを認識出来るようにシステムを改変する」
「あの子達に伝えるか?」
「情報が不確定過ぎる、無用の心配をさせるだけだ、まだ伝えなくて良い」
解析室の青白い光の中で、画面の中の「二夜」が、まるで俺の狼狽を嘲笑うかのように、静かに歪んだ笑みを浮かべていた。
◆
「……ん……っ」
重い瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのは眩しいくらいの白色だった。
消毒液のツンとした匂い。規則的な電子音。自分=大葉真優が病院のベッドの上に寝かされているのだと理解するのに、数分かかった。頭が割れるように痛い。全身の関節がギシギシと悲鳴を上げていた。
「……あ……」
まだ視界がぼやけていて、周囲の景色が二重三重にブレている。だが、誰かが部屋の中にいる気配がした。
ふと、右手に温かいぬくもりを感じた。誰かがわたしの手を、優しく強い力で握りしめている。
「……真優。気づいたか」
掠れた、低い声。目を凝らすと、パイプ椅子に座り、僕を見つめるお父さん──大葉継人の姿があった。その顔には、今まで見たこともないような深い疲労と、酷く荒んだ色が影を落としていた。
「お……父さん……? 僕……なんで……」
「喋るな。……お前の身体の現状を伝える。よく聞け」
お父さんは僕の手を離すと、感情の籠もらない冷たい声で言った。
「お前の勇者システムは完全に破綻した。変身すればお前の命そのものが削られ、もし『満開』を行えば……お前は確実に死ぬ」
「え……?」
死ぬ? 僕が……?
言葉の意味がうまく脳に届かない。お父さんは立ち上がり、見下ろすような冷徹な視線をわたしに向けた。
「もう二度と変身するな。戦うな。これは大赦の決定事項であり、俺の"命令"だ。お前は今日限りで勇者を辞めろ」
「戦うな……って……でも、みんなは……? 僕が戦わないと、勇者部が……」
「死にたいのか?さっき言ったことは嘘ではないのはお前が一番知っているだろう」
お父さんは吐き捨てるようにそう言うと、一度も振り返ることなく病室のドアを開けて出て行った。
残された僕が呆然としていると、廊下からバタバタと騒がしい足音が近づいてきた。
「真優ッ! 目を覚ましたのね!?」
「真優~! よかったぁぁぁっ! 本当によかったよぉぉっ!」
ドアが勢いよく開き、犬吠埼さん、夏凜ちゃん、樹さん、東郷さん、結城さんの5人が雪崩れ込んできた。みんな涙目で、代わる代わる僕の無事を喜んでくれた。
「みんな……」
「本当にもう、心配させないでよ! 突然倒れるんだから!」
夏凜ちゃんが鼻をすすりながら怒る。
「ごめんね……でも、僕、もう大丈夫だから……」
そう言おうとしたけれど、声がうまく出ない。それ以上に……みんなの顔がしっかりと見えなかった。視界のモヤが消えず、みんなの笑顔がぐにゃりと歪んで見えてしまうのだ。
「継人さんから聞いたわ」
犬吠埼さんが優しく僕の頬を撫でてくれた。
「しばらくは入院して、ゆっくり休まなきゃダメだって。部活のことは気にしないで。私たちのことは心配いらないからね」
『そうですよ、大葉さん。今は自分の身体を一番に考えてください』
樹ちゃんの首元のスピーカーから、優しい電子音声が響く。
みんなは一時間ほど病室に滞在し、お菓子や果物を置いて、「また明日来るね」と言って帰っていった。
静まり返る、夜の病室。
カーテンの隙間から差し込む月光が、白いシーツを青く染めている。
ふと、枕元に置かれたスマートフォン――勇者端末に手が触れた。
スリープが解除され、暗闇の中にポツンと、あの「勇者アプリ」のアイコンが発光して浮かび上がった。
画面の中で、小さく明滅するアイコン。
押せば、一瞬で勇者へと変身できるアイコン。
押せば……わたしを殺すかもしれないアイコン。
その瞬間。
胸の中で、ドクンッ! と不気味な心臓の跳ねる音が響いた。
脳裏に蘇るのは、あの樹海化が解除される瞬間の記憶。
視界が急激に暗転し、体中の感覚が爪先から順番に失われていく感覚。自分という存在が、底なしの暗い沼へと沈んでいき、二度と浮かび上がれなくなっていく恐怖。
お父さんの言葉が、猛烈なリアリティを持って胸に突き刺さった。
『お前は確実に死ぬ』
死。
今までのわたしにとって、「死」とはどこか遠い場所にあるものだった。男として生まれ、勇者になり、女の子として生きるようになってから、どこかで「いつ死んでもいい」とさえ思っていた節があった。
でも、違った。
あの瞬間、わたしが感じたのは、圧倒的な絶望と消失の恐怖だった。
消える……僕が消える……っ! 意識が遠のいて……そのまま……二度と戻って来られなくなる……っ!
「嫌だ……ッ!!」
僕は叫び声を上げながら、勇者端末を壁に向かって投げ捨てていた、ガシャンッ、と端末が壁に激突し、床に転がる。画面は暗転し、静まり返る。
荒くなる呼吸。
ベッドの上で膝を抱きかかえ、全身をガタガタと震わせる。
怖くない、怖くない、大丈夫だと自分に言い聞かせようとすればするほど、湧き出してきた「死への恐怖」が雪崩のように僕を押し潰していく。
もし、次に変身したら?
もし、あの感覚がまた襲ってきて、そのまま二度と目が覚めなかったら?
みんなの顔が見えなくなる。犬吠埼さんの暖かい手に触れなくなる。勇者部のみんなと一緒にいられなくなる。僕という存在が、この世界から完全に消去されてしまう。
「……死にたくない……っ」
膝に顔を押し当て、僕は暗闇の病室で一人、声を殺して泣き続けることしかできなかった。死のリアルな恐怖が、僕の心を完全に破砕していた。
◆
真優が病院で倒れてから、一週間が過ぎていた。
讃州中学校の教室。授業を教える先生のダラダラとした声が、残暑の蒸し暑い空気の中に溶けていく。私は窓際の席から、ポカリと空いた真優の机を見つめていた。
一週間。
思い返せば、以前にも真優が喧嘩で大怪我をして、長期間学校を休んだことがあった。あの頃の真優は、クラスの誰とも喋らず、常に周りを威嚇するような鋭い目をしていた。クラスメイトたちも「気味が悪い」と言って近づこうとしなかった。あの時は、真優が休んでいても誰も理由を聞いてこなかった。
だが、今は違う。
「ねえ、風ちゃん」
休み時間、前の席の女子生徒が心配そうに私に声をかけてきた。
「大葉さん、今日も休みなの? 風邪……なのかな?」
「ええ……ちょっと体調を崩してね。もうしばらく入院が長引いちゃいそうなのよ」
「そっか……心配だな。大葉さん、最近すごく優しくてさ、この前も数学のノート貸してくれたんだよ。早く良くなるといいな」
「……そうね。ありがとう」
女子生徒が離れていった後、私は誰にも聞こえないくらいの小声で毒を吐いた。
「……ふん。なによ、前は真優のこと避けてたくせにさ……」
胸の奥がチクチクと痛む。クラスメイトの言う通り、今の真優は変わったのだ。勇者部でみんなと過ごすうちに、素直で、不器用だけど思いやりのある、本当の優しさを見せるようになっていた。あいつはもう、私にとっても、みんなにとっても、掛け替えのない「勇者部の仲間」なのだ。
なのに、私は部長でありながら、あいつが一人で命を削っていたことにすら気づけなかった。
「……犬吠埼」
低く、硬い声に呼ばれて振り返ると、そこに立っていたのは赤嶺と桐生だった。大赦の職員であり、かつて真優を誘拐した前科のある二人組だ。
「……何よ。真優の状況なら、継人さんから聞いてるでしょ」
私が嫌そうな顔を隠そうともせずに言うと、桐生が真面目な顔で頷いた。
「ああ、聞いている。大葉真優はもう変身できない身体になった……そして変身すれば死ぬかもしれないこと」
「だったら用はないでしょ。あいつをこれ以上刺激しないで」
「違う」
桐生は視線を逸らさずに言った。
「俺たちが、大葉真優の警護につく。病院の周囲も、大赦の残存警備部隊で固めることにした」
「……はあ?」
私は思わず呆れた声を上げた。
「真優を攫った前科者が、よくそんな口を叩けたものね。笑わせないでよ」
すると、隣にいた赤嶺が、今までに見たこともないほど真っ直ぐで、真剣な眼差しで私を直視してきた。
「……俺たちは、いつもお前たちに命を助けられてるからな」
「……え?」
赤嶺の口から飛び出した予想外の言葉に、私は毒気を抜かれて固まった。
「お前たちが樹海でどんな戦いをしているか、継人さんから映像を見せてもらった」
赤嶺は静かに、だが噛みしめるように続けた。「……あんな凄惨な戦闘、俺たちには逆立ちしたって出来ねえ。命を削って、四国全体を守ってるお前たちに、俺たちは護られてばかりだ」
「赤嶺……」
「でもな、俺たちには俺たちの戦い方がある
」桐生が言葉を継ぐ。
「生身の人間を守ること、施設を固めること、裏方に徹すること……それは俺たちの仕事だ。大葉真優の身の安全は、俺たちが死んでも守る。だから──」
桐生と赤嶺は、私に向かって深く頭を下げた。
「お前たちは、お前たちの戦いに集中してくれ」
二人はそう言い残すと、一度も振り返らずに教室を出て行った。
私は去っていく二人の背中を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……まったく。どいつもこいつも、いつの間にか格好良くなっちゃってさ……嫌味ばっか言ってる私が形無しじゃないのよ、ほんと……」
私はぎゅっと拳を握りしめた。真優が戦えないなら、私たちがその分まで戦うしかない。この四国を、日常を、絶対に守り抜いて見せると、心に強く誓った。
◆
四国の外縁をグルリと囲む、巨大な神樹の結界。
こちらと向こうを隔てるその絶壁を、一人の老人が這い登っていた。元・大赦最高神官。大葉継人のクーデターによって地位も権力も全てを追われ、逮捕令が出されていた男だ。大赦本部襲撃の混乱に乗じて逃亡していたが、その肉体はすでに限界を迎えていた。
「ハッ……ハッ……クソッ……大葉継人め……ッ!」
男の左手は、継人から撃ち込まれた弾丸により吹き飛び、壊死した肉がボロボロと崩れ落ちていた。傷口から入った雑菌により全身が高熱に冒され、視界は真っ赤に染まり、意識は途切れ途切れだ。
だが、男を動かしていたのは生存への執着などではない。
この世界に対する、ドス黒く渦巻く、激しい憎悪だった。
「わたしが……わたしが大赦のために……神樹様のために……どれほどの代償を払ってきたと思っているのだ……ッ!」
男は実の娘を勇者として差し出し、死に追いやってしまった。四国の秩序を維持するため、何千、何万という人々の人権を踏みにじり、あらゆる非道に手を染めてきた。
それなのに――結果はどうだ?
神樹の変革を謳う大葉継人の台頭により、自分は「悪」として切り捨てられ、犬のように追われる身となった。
「世界が……わしを拒絶するのか……!? 娘を殺してまで守ってきたこの四国が……わたしを捨てるというのかあぁぁぁッ!!」
呪詛を吐き散らしながら、男はついに結界頂点──神樹の壁の最上部へと辿り着いた。
そこは現世の高度数千メートル。激しい毒風が吹き荒れ、神樹の黄金の光が弱まる絶望の境界線だった。男の肉体はすでに限界を超え、皮膚からは血が滲み出ていた。
ふと、男の無事な右手に視線が落とされた。
いつの間にか、その手には漆黒の金属で出来た小刀が握られていた。大赦の武器ではない。どこで拾ったのかも覚えていない。だが、その小刀が男の脳裏に直接、甘美な毒のような声で囁きかけてきた。
『――報いを与えよ――』
『――お前を捨てたこの世界に、終わりの始まりを――』
『――そうすれば……お前は娘に“会える”ぞ――』
「娘に……あの子に……会えるのか……?」
老神官の濁った瞳に、狂気の光が宿る。
「そうだ……世界など……こんな歪んだ四国など、あの子の居ない世界など壊れてしまえばいいッ!!」
叫びと共に、男は黒い小刀を神樹の結界の壁へ向かって力任せに振り下ろした!
カキィィィン――――ッ!!
ガラスが割れるような高音が大気を震わせた。
次の瞬間、神樹の結界に一筋の「黒い亀裂」が走った。
亀裂はジワジワと広がり、結界を侵食していく。
そして――その黒い割れ目から、ドロリとした濃密な闇と共に、【黒い星屑】たちが雪崩のように現世へと這い出てきた。
樹海化は発生しなかった。
現世の空間そのものに、天の神の尖兵が直接溢れ出したのだ。
「あ……あはは……あははははっ!!」
古の人々が恐怖し、世界を滅ぼされかけた原初の絶望。それが目の前で大量に渦巻いている。
だが、老神官の心に湧き上がったのは恐怖ではなく、胸がすくような歓喜と安堵だった。
「これで……終わる……すべて……終わるのだ……」
次の瞬間、這い出てきた一匹の黒い星屑が、老神官に食らいついた。
バリバリッ! と肉が噛みちぎられる音。激痛の中で視界が薄れていく。
その薄れゆく意識の向こう側に、男は見た。
黒い割れ目の奥に……白の衣を纏った少女が立っているのを。
少女は、男に向かって――ニッコリと、残酷な笑みを浮かべていた。
◆
讃州中学校の教室。5時間目の数学の授業中だった。
突然、私=結城友奈の背筋を、氷の針で刺されたような猛烈な悪寒が駆け抜けた。
「っ……!?」
ガタタッ! と大きな音を立てて椅子を倒してしまう。
「結城? どうした急に、授業中だぞ」
先生の声など耳に入らなかった。心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴が開く。今まで経験したどんなバーテックスの襲来とも違う、絶対的な「気配」が、空から津波のように押し寄せてきていた。
「結城! 座りなさい!」
「ごめんなさいッ!」
私は先生の制止も聞かず、教室のドアを蹴開けて廊下へと飛び出した。
「友奈ちゃん!?」
教室にいた東郷さんが驚いた声をあげる。私は一気に階段を駆け上がり、校舎の屋上へと出た。そして海の向こう側──神樹の結界の方角を見つめた。
そこには──空の一部が泥のように黒く濁り、そこから「黒いナニカ」が膨大な量となってこちら側へと漏れ出している光景があった。
目を凝らす必要すらなかった。私の体の中に眠る勇者としての本能が、あれが【敵】であると、致命的な脅威であると叫んでいた。
背後から、騒ぎを聞きつけたクラスメイトや先生たちが屋上へ駆け上ってくるのが見えた。だが、躊躇している暇はなかった。
「みんな、ごめん……ッ!」
私はポケットから勇者端末を取り出し、大勢の生徒の前でアプリを起動した。
躊躇なく変身する。
眩い光が屋上を包み込み、私は一瞬でピンクの勇者装束へと姿を変えた。そのまま屋上のフェンスを蹴り、空へと大きく跳躍する。
「緊急波! 通信!」
端末が通信を繋ぐ。
「敵です! 大量の敵が、結界を破ってこっちに入ってきてますッ!!」
『敵?こっちに反応なんて…!』
春信さんの驚愕の声が響く。
私は自律型ドローン『衛使』の3機(命名:サクラ、バーベナ、ガーベラ)を展開し、その上に足場として飛び乗り、海へと向かった。
海岸線に着いた頃には、黒い星屑の群れは地上までわずか1キロの位置まで来ていた。
その時、上空の雲を切り裂いて、超音速で飛来する東郷さんが通過した。
『友奈ちゃん! レーダーに何の反応もないわ! 目視でも……何も確認できない!』
「え……!? そこにいます! 東郷さんのすぐ下に──」
言い終わるより早く、黒い星屑の群れが東郷さんへ襲いかかる。
『きゃあああぁぁぁッ!?』
東郷さんの衛使の1機が、星屑の突撃をくらい爆発を起こして粉砕された。東郷さんは瞬時に判断し、衛使の精霊カプセルだけを回収して間一髪で離脱した。
『何かが……目に見えない何かがそこにいる……!?』
「そんな……見えてないの……!?」
私は戦慄した。私にははっきりと見える、黒く蠢く星屑たちが、東郷さんには視認できていなかった。
黒い星屑の群れはそのまま地上へと降下し、人の多い駅前や商業施設へと雪崩れ込んでいった。
『友奈君、聞こえるか!? 春信だ!』
通信が入る。
『継人さんから連絡が入った、現在、こちらに侵入している敵は、神樹のシステムで認識できない特性を持っている! 風君、樹君、夏凜も現地に到着したが、敵を視認できない状態だ』
「そんな……じゃあ、どうすれば……!?」
『友奈君、君の2Aを経由して直接視界データをこちらに同期する、君の目に見えている映像をこちらでリアルタイム処理し、全員の網膜へ“マーキング”として表示させる!』
「わかりました! 同期しますッ!」
私は視界データの共有を承認した。
『よし、同期出来た。全隊、友奈君の視界データを元に迎撃を開始しろ! 東郷君、友奈君を連れて上空へ急上昇しろ! 敵の全貌をマーキングする!』
「了解!」
東郷さんが私を抱え、一気に高度数千メートルまで急上昇した。
小さくなっていく讃州の街。
だが、その街を塗潰すように、黒い星屑たちが黒墨のように広がっていた。それらは一直線に、「人間の反応が多い場所」へと向かっていた。
そして、空の亀裂──結界が切り裂かれた「黒い洞窟」のような場所から、今まで見たこともない不気味な形態をした【進化体バーテックス】がヌッと姿を現した。
網膜のホログラムに赤文字が明滅する。
「あそこを潰さないと……どんどん出てくるよ……!」
「友奈ちゃん、向かうわよ!」
東郷さんと共に亀裂へ向かおうとしたが、大量の黒い星屑が遮り、足止めされる。
その時――私の視界の隅で、地上の映像が拡大された。
「……あ……?」
駅前の広場。逃げ遅れたお母さんと小さな男の子。
そこに、黒い星屑が覆いかぶさった。
次の瞬間。
バリバリッ、グチャッ……という、生々しい音が通信越しに響いた。
お母さんの悲鳴が、一瞬で途絶える。地面が赤く染まり、肉片が散らばる。
「あ……あぁ……っ……!?」
息が止まった。
これまで私たちが戦ってきた樹海化では、人間は時間停止の中で守られていた。
でも、ここは現実だ。樹海じゃない。
バーテックスによって……直接人は、死ぬ。
「止めろぉぉッ!!」
私の中で何かが弾けた。
「 人を……みんなを殺すなあああぁぁぁッ!!」
絶叫しながら、私は狂ったように拳を振るい、迫りくる黒い星屑たちを殴り、打ち砕き、粉砕し続けた。
これは……守るための戦いじゃない。
命を喰らい合う、本当の殺し合いなのだと、わたしは強制的に理解させられた。
◆
同時刻。病院。
ウー、ウー、と遠くで鳴り響く不穏な警報音。
そして結城さんからの緊急通信。
僕=大葉真優はベッドを抜け出して、ふらつく足で病院の屋上へと向かった。
屋上から見えたのは……地獄だった。
青空の一部が黒く濁り、そこから降ってくる黒い雨のような星屑たち。街のあちこちから上がる黒煙と、風に乗って聞こえてくる地鳴りのような悲鳴。
「……みんな……っ」
わたしは震える手で、ポケットの中の勇者端末を取り出した。
画面には、あの変身アイコン。
押せば……わたしは死ぬ……。
指が、アイコンの数ミリ上でピタリと止まる。
怖い……。死にたくない……。 お父さんも戦うなって言った……わたしはもう、戦わなくていいんじゃないか。
恐怖で指が固まり、動かない。生への執着が、わたしの全身を金縛りにする。
「──大葉ッ!」
突然、背後から腕を強く掴まれた。振り向くと、そこには息を切らした赤嶺くんと桐生くんが立っていた。二人は私服の上から防弾ベストを着用し、手には大赦製のアサルトライフルを抱えていた。
「なにやってんだ、バカ野郎! 屋上なんて危険だ、下へ戻るぞ!」
赤嶺くんがわたしを無理矢理抱え上げ、階段へと引きずり戻した。
「二人は……なんで……?」
「継人さんからの命令だ」
桐生が引き締まった顔で言った。
「『真優を守れ』とな。俺たちの命に代えても、お前を死なせるわけにはいかない」
直後、ドオンと爆音を立てて、僕の3機の『衛使(ぺむ、ぺら、ぺろ)』が屋上から滑り込んできた。
「下の大赦の車両で、安全な地下シェルターへ避難する! 走れ!」
私たちは1階の病院正面入口へと駆け下りた。
だが──1階のロビーにたどり着いた瞬間、わたしたちは絶句した。
「いやぁぁぁっ! 助けてぇっ!」
「押すな! 入れるなッ!」
ロビーは、外部から逃げ込んできた怪我人と市民で溢れかえり、パニック状態に陥っていた。充満する血の匂い。ガラスが割れる音。
その時――。
ドカンッ、と正面入口の外に停まっていた大赦の装甲車が、侵入してきた黒い星屑の直撃を受けて爆発炎上した。
悲鳴が飛び交う。
炎と爆風がロビーを襲う。正面の自動ドアが吹き飛び、そこからズルリと、巨大な黒い星屑が数匹、ロビー内へと侵入してきた。
「入って来やがったッ!」
赤嶺と桐生がアサルトライフルを構え、連射する。
タタタタタタッ! と激しい射撃音が響くが、通常火器の弾丸は星屑の表面で跳ね返されるだけだった!
「効かねえッ!?」
「ぺむ! ぺら! ぺろ! 射撃開始!」
衛使3機が前に出て、至近距離から弾体加速機を叩き込んだ。ドカン、 と星屑が吹っ飛ぶが、外からはさらに大量の星屑が押し寄せてくる。
市民の悲鳴。怒号。発砲音。
その混乱の中──わたしの裾を、ぎゅっと掴む小さな手があった。
見下ろすと、そこには頭から血を流した、5歳くらいの小さな女の子がいた。女の子は恐怖で全身を震わせ、涙でぐしゃぐしゃの顔でわたしを見上げていた。
「……助けて………」
声にならない声。
僕はその瞳を見た瞬間──頭の中が、サーッと冷えていくのを感じた。
……ああ……。
僕は怖がっていた。自分が死ぬことを。自分が消えてしまうことを。
でも──この子は?
この小さな女の子は、戦う術すら持っていない。逃げる力すらない。
僕がここで逃げ出せば、この子は数秒後