結城友奈は勇者であり、彼もまたそうだった   作:ビブロス

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融和

 

不気味で重厚な振動が大赦施設の空気を激しく揺さぶり、世界から急速に色彩が奪われていく。そして世界は置き換わる。

大赦の巫女たちが提示していた「二月後」という神託をあざ笑うかのように、一週間も早く発生した「樹海化」。

時間が完全に停止した空間のただ中で、生身のまま手斧を構えた姿勢でピタリと動きを止めた大葉継人を思いだしながら、地面に叩きつけられて這いつくばっていた相良二夜は、絶望と恐怖に打ち震えていた。

「……嘘……なぜ……どうしてもうバーテックスが……!?」

膝から血を流し、痛む脚を押さえつけながら、二夜は必死の思いで立ち上がった。試作新型勇者システムの端末が不吉な警報音を鳴らし、神樹の防衛反応に従って敵が生じている方角を示している。

二夜は噛み締めた唇から血を滲ませながら、異形の世界へと飛び出した。

 

◆

 

樹海化の中へ足を踏み入れた二夜の視界に飛び込んできたのは、既に前線で死力を尽くして死闘を繰り広げている大葉椿と桑折晴美の姿だった。

「遅いよ、二夜ちゃん!」

「二夜ちゃん、無事だった!?」

空間を覆う破裂音の中、椿と晴美の叫びが響く。

空中には、不気味な光芒を放つ完全型バーテックス『乙女座』がただ一基、浮遊していた。

一基のみ──しかし、その脅威は過去のどんな記録に載っているものよりも実際に見る方が絶望的だった。乙女座の下部構造から、まるで雨あられのように全方位へ向けて高威力の爆弾が射出され、神樹の巨根や地上を次々と爆破、焦土へと変えていく。

しかし、さらに悪質だったのは、彼女たちに与えられた「試作新型勇者服」の欠陥だった。

個々の性能を極限まで尖らせ、独立化させた結果、勇者服同士の通信波形やエネルギーの波長が衝突し、相互の同期が一切取れない。連携を取ろうと近づくだけで、お互いの勇者服のシステムが干渉を起こすのだ。

結果として、3人はバラバラに散発的な攻撃を繰り出すことしかできず、乙女座の圧倒的な弾幕の前に前進すら阻まれていた。

「くっ……! 近づけない……! 爆風の圧力が強すぎる!」

椿が大型の盾を掲げて爆風に耐えるが、盾の表面が灼熱の破片で削られていく。晴美もまた、病弱な身体を押して杖を構えるが、次々と押し寄せる衝撃波に吹き飛ばされそうになっていた。

二夜は苛立ちを露わにし、足を引き摺りながら二人へ合流しようとする。しかし、システムの同期エラーを示すノイズがうるさく、思わず舌打ちを漏らした。

「何なのよこれ……! 全く噛み合わない!」

こんな不欠陥品で、どうやって戦えというのか。

その時、前線で盾を構えていた椿が、爆音を切り裂いて大声で二人に向かって指示を飛ばした。

「このままじゃ拉致が明かない! 二人とも、私の作戦を聞いて!」

「……っ! 勝手に仕切らないでいただけますか!?」

二夜は反射的に鋭い声を張り上げた。先ほど施設で生身の継人に手も足も出ず惨敗した屈辱が、二夜の誇りを激しく逆撫でしていた。自分より遥かに適性値の低い椿に指示されること自体が、二夜にとっては耐え難いことだったのだ。

しかし、椿は二夜の拒絶を意にも介さず、毅然とした声で叫び続けた。

「晴美ちゃんは後方から敵の爆撃を狙撃して撃墜して! その隙に、私と二夜ちゃんで一気に敵の真下に肉薄する! 敵の懐に入り込めば、爆撃は届かないはず!」

「……っ」

二夜は何か言い返そうと喉を詰まらせたが、咄嗟に代わりの対抗策を思いつくことができなかった。どれほど完璧を自負していても、この弾幕を突破して敵を穿つ明確な手順を、自分一人では組み立てられなかったのだ。

「……ちっ、好きにしなさい! 精々足を引っ張らないことですね!」

不承不承ながらも、二夜は椿の作戦に従うべく地を蹴った。

 

◆

 

作戦が開始される。

「『遊火』……いくよ……!」

後方に陣取った晴美が、全身から精霊を出す。彼女の背後に、炎を纏った精霊『遊火』が出現する。晴美は手に持った長杖をキャノン砲の砲身のように両手でしっかりと固定し、遊火の生成する高密度の火球を杖の先端へと充填した。

「てぇぇぇぇっ!!」

晴美の悲痛な叫びと共に、巨大な炎の光線が放たれる。

後方支援に特化した晴美の勇者服と精霊の連動は凄まじかった。上空から雨のように降り注いでいた乙女座の爆弾が、晴美の放った極大の火球によって次々と空中撃墜されていく。

空中で次々と巻き起こる大規模な誘爆。激しい爆発の連鎖が空を覆い、爆風と熱風の嵐が吹き荒れた。

「今だ! 二人とも、走って!!」

晴美の射撃によって生み出された一瞬の隙。

降り注ぐ灼熱の破片と猛烈な衝撃波を泥臭く掻い潜りながら、椿と二夜は乙女座の真下へと向かって疾走した。

私だけが、この手でトドメを刺さなければならない。

走る二夜の胸中を支配していたのは、純粋な使命感ではなく、焦躁と執着だった。

継人に敗北し、椿に指示を受け、晴美に援護されているという事実。万能であるはずの自分が、誰かの引き立て役に甘んじているという現実が、二夜の自尊心をズタズタに引き裂いていた。

私が一番優秀。 私がトドメを刺して、私の存在価値を証明してみせる。

二夜は椿の横を置き去りにするように、精霊『姑獲鳥』を召喚した。

背中に白銀の羽が展開され、勇者服の限界を超えた。右脚の関節が悲鳴を上げたが、二夜はそれを無視して一気に急加速した。とんでもない速度で突撃する。

「はああぁぁぁぁッ!!」

白銀の刀を構え、乙女座の胴体へ向かって一刀両断に切り込もうとした、その瞬間──。

乙女座の胴体表面が不気味に歪み、死角となっていた下部から、大量の小型爆弾が突如として全方位へ向けて射出された。

「なっ……周囲への自爆……!? ぐあぁぁっ!?」

回避行動を取る隙すら与えられなかった。

間近で炸裂した激しい爆発のエネルギーが、二夜の華奢な身体を直接呑み込む。白銀の勇者服が火花を散らし、二夜は絶叫と共に吹き飛ばされ、神樹の根が引きちぎれた地面を無残に転がった。

「二夜ちゃん!!」

爆風の煙を破って飛び出してきたのは、巨大な盾を前面に押し立てた椿だった。

椿は二夜を巻き込んだ爆風の圧力を、自身の盾の分厚い装甲で間一髪防ぎ切っていたのだ。椿は速度を落とすことなく、二夜の横を風のように駆け抜けていく。

「お前なんかに……負けるかぁぁぁッ!!」

椿はエネルギーを盾へと集約させると、そこに仕込まれた大型打突兵器『パイルバンカー』の安全装置を解除した。

ドガンッ、というダイナマイトが炸裂したかのような炸裂音が樹海に響き渡る。

解き放たれた極太の金属杭が、乙女座の頑強な胴体装甲へと容赦なく打ち込まれた。メリメリと音を立てて強固な外殻が粉砕され、乙女座の胴体中央に、致命的な巨大な亀裂がピシリと走り抜ける。

「晴美ちゃん! 最大出力で!!」

「はあぁぁぁぁぁぁっ!!」

後方で待機していた晴美が、血を吐くような思いで杖を掲げた。精霊『遊火』が巨大な火炎の渦となり、晴美の放った砲撃は真っ直ぐに、椿が穿った乙女座の亀裂へと吸い込まれていく。

直撃、そして炸裂。

内部から超高熱の炎を叩き込まれた乙女座は、内側から膨れ上がるように大爆発を起こし、無数の光の粒子となって樹海の空へと霧散していった。

静寂が訪れる。

空間を侵食していた停止した時間の世界が、ゆっくりと剥がれ落ちていく。

バーテックスの撃退には成功した。しかし、地面に倒れ伏したままの二夜は、泥に塗れた拳を握りしめ、溢れ出る屈辱感に全身を震わせていた。

何も出来なかった。脚を引っ張り、ただ吹き飛ばされて最後はあの二人に助けられた、その事実に打ちのめされていた。

 

◆

 

樹海化が完全に解除され、景色が元へと戻った、現実の灯籠前に自分達が立っている事を自覚した、まさにその瞬間だった。

「がはっ……!? げほっ、ぐっ……!」

「晴美ちゃん!?」

前線で精霊能力を極限まで酷使し続けた反動が、一気に晴美の身体を襲った。晴美は激しい吐血と共に呼吸を乱し、その場に崩れ落ちるように倒れ込んだ。

端末スピーカーから不穏なアラート音が鳴り響き、大赦の医療班が雪崩のように押し寄せてくる。

「晴美ちゃん! しっかりして!」

椿が晴美に声をかけるが、彼女は意識を失ったまま、急遽手配された救急車へと収容され、サイレンの音と共に走り去っていった。

遠ざかるサイレンの音を聴きながら、二夜は立ち上がろうとして、己の身体の「異常」に気づいた。

精霊『姑獲鳥』を発動させた代償か、右足の感覚が麻痺したように鈍く、まるで自分の足ではないかのような冷たい違和感が残っている。使えば身体に不調を来すと説明されていたが、あの短時間でこれである。

だが──二夜の視線が捉えた大葉椿の姿は、あまりにも対照的だった。

椿は擦り傷一つ負っておらず、過負荷による影響も見られず、心配そうに晴美の去った方向を見つめながら元気に立っていたのだ。

その光景を目にした瞬間、二夜の胸の底で、ドロドロとした黒い感情が激しく渦巻いた。

屈辱、敗北感、無力さ、そして自尊心の崩壊。それら全てが「理不尽な怒り」へと姿を変え、二夜は右足を引き摺りながら、椿へと激しく詰め寄った。

「……何よそれ。……椿さん……貴女、最初から本気を出していなかったのね!?」

椿が驚いたように振り返る。

「えっ……? 二夜ちゃん……?」

「作戦なんて言っておいて……! 私と晴美さんを危険な前線へ飛び込ませて盾にして……自分は最後に美味しいところだけを持って行ったんでしょう!? 自分が一番目立つために、私たちを利用したのね!? 汚いわ!!」

荒唐無稽で、理不尽極まりない言いがかり。

しかし、激昂して叫ぶ二夜に対し、椿は怒りの色を一切見せなかった。それどころか、心底申し訳なさそうに眉を下げ、二夜の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「そっか……ごめんね、二夜ちゃん。私、そんなつもりじゃなかったんだけど……二夜ちゃんにそんな辛い思いをさせちゃったんだね。……私の配慮が足りなかった。本当に悪いことをしたよ」

椿の瞳には、一切の偽りも計算も存在しなかった。ただ純粋に、仲間を傷つけてしまったことへの痛切な悔恨だけが宿っていた。

椿は優しく微笑み、二夜の肩にそっと手を置こうとした。

「だから!……次からは、私が貴女たちの完璧な壁になる!バーテックスの攻撃は、全部私が引き受けるから、二夜ちゃんも晴美ちゃんも、もう絶対に傷つけさせないから!」

「っ……!」

そのあまりにも聖母のような、無償の優しさに満ちた返答。

二夜の胸に渦巻いていた醜い怒りは、その圧倒的な光の前に毒気を抜かれ、二夜は言葉を失って口を噤むことしかできなかった。

やがて大赦の職員たちが到着し、二人は引き離されるようにそれぞれの送迎車へと押し込まれ、気まずい空気のまま、各自の家へと帰されたのだった。

 

◆

 

樹海化が解け、日常の色彩が戻った四国の街並み。

しかし、相良二夜の心に広がっていたのは、底なしの暗闇と冷たい焦燥感だけだった。

あの乙女座との戦いから数日後。桑折晴美は精霊能力の酷使による深刻な体調不良で長期の入院を余儀なくされ、勇者たちの訓練は大赦の方針により「完全個別化」されることとなった。

二夜に割り当てられたのは、訓練施設の最奥にある無機質で大規模な空間だった。

白銀の勇者服を纏い、機械的に送られてくる仮想ターゲットを黙々と刃で引き裂いていく。だが、どれだけ完璧にダミーを打ち砕いても、二夜の胸のすき間が埋まることはなかった。

「どうして……? 」

自分は完璧なはずなのに。私が一番適性値が高くて、誰よりも優れているはずなのに。

この有り様。

刀を振り下ろすたびに、脳裏に焼き付いて離れない光景がフラッシュバックする。

施設の床で生身の継人に手も足も出ず叩きのめされた屈辱。

実戦で何一つ成果を上げられず、爆風に吹き飛ばされた無力さ。

そして──擦り傷一つ負わず、聖母のような笑みを浮かべて「私が全員の壁になる」と言い放った大葉椿の姿。

二夜にとって、椿のその「無償の善意」こそが、何よりも鋭く胸を刺す毒刃だった。

自分の醜い嫉妬や言いがかりを、椿は一切責めなかった。それどころか全部包み込んで許してみせたのだ。それが、二夜には「お前など最初から相手にしていない」と見下されたように思えてならなかった。

個別訓練が終わると、二夜はいつも逃げるように施設を後にした。

廊下やロビーで椿の姿を見かけそうになると、即座に身を隠し、視線すら合わせずに立ち去る。椿から「二夜ちゃん!」と明るく声をかけられても、まともに言葉を返せず、引きつった顔で背を向けて走り去るばかりだった。

自分の無力さ。椿へ理不尽な暴言を吐いてしまった罪悪感。

そして──精霊『姑獲鳥』の過剰使用以来、右足の指先に残る、麻痺したような不気味な違和感。

あらゆる自己嫌悪と不安に押し潰されそうになりながら、二夜は今日も一人、大赦施設の最寄りにあるバス停へと歩いていた。

 

◆

 

夕暮れ時のバス停。

橙色と茜色が混ざり合う空の下、古びたベンチの横に立ち尽くす一人の影があった。

大葉継人だった。

制服のポケットに両手を突っ込み、つまらなさそうに地面の砂利を蹴っていた継人は、近づいてくる足音に気づいて顔を上げた。

お互いに視線がぶつかった瞬間、二人同時に露骨な不快感を顔に走らせる。

二夜は立ち止まり、右足の違和感を隠すように凛とした立ち姿を取り繕いながら、トゲのある声を投げつけた。

「……何をしているのですか、貴方は。このような場所で」

継人は気まずそうに視線を大きく泳がせると、心底嫌そうに、そして顔を僅かに赤くしてボソボソと呟いた。

「……待ってた」

「は? 待っていた? 誰をです」

「お前だよ、バカ女」

継人は深く溜息をつき、頭をガシガシと掻きむしりながら、意を決したように二夜を睨み返した。

「……謝りに来たんだ」

「……はあ?」

耳を疑う言葉に、二夜は眉をひそめた。

「喧嘩腰で何を謝るつもりですか? 私は貴方に謝られるような覚えなど──」

「この前、お前と戦ってお前をボコボコにした件についてだよ!」

継人は投げやりな口調で言い放った。

「あの後、家に帰ったら姉貴に速攻で何したのかバレた。『女の子相手に生身でイキって力任せに打ちのめすなんて最低だ』って、死ぬほど説教されたんだよ。……それと、あの時お前を泣かせたことも、ちゃんと謝ってなかったからな」

「っ……!? な、泣いてなんて……泣いてなんていません!!」

『泣かせた』というワードが、二夜のギリギリで保たれていたプライドを容赦なく叩き割った。二夜の頬が怒りと屈辱で真っ赤に染まる。

「この無礼者! 野蛮人! 誰が貴方ごときに泣かされたというのですか!? 自惚れるのも大概にしなさいッ!」

「あぁ!? なんだその態度! こっちは折れてわざわざ謝りに来てやってんだろうが! 現にあの時、お前は膝ついて目元濡らしてただろーが!!」

「濡らしていません!! あれはただの汗です! 貴方みたいな最低のクズの男に泣かされることなんて万に一つもありません!!」

「泣いてただろッ! 往生際の悪い女だな!! 女子が手斧持った生身の男にボコられたら泣くのは普通だろ、素直になれよッ!」

端から見れば何を言ってるんだこいつらは、という会話だが、本人達は至極真っ当に真面目なのである。

夕闇が迫るバス停で、むなしく怒声が響き渡る。

互いに譲らない不毛で不快な言い合い。継人の容赦のない言葉が、二夜の胸の奥底に溜まりに溜まっていた「感情の澱」を激しくかき混ぜていく。

どうしてみんな私を否定する?

万能であるはずだった自分。

母から「選ばれて当然」と言われて育った自分。

それなのに、目の前の少年に叩きのめされ、実戦では下に見ていた椿と晴美に助けられ、今や逃げ回ることしかできていない。

「……私は……泣いてなど……っ」

二夜は言い返そうと口を開いた。しかし、喉の奥が激しく痙攣した。

継人の呆れたような、だが誤魔化しを一切許さない強い眼差しで見つめられた瞬間、二夜の胸の中で堰止められていた感情の堤防が、音を立てて全崩壊した。

前回の戦闘で何も出来ず、足を引っ張った恐怖。

優しく接してくれた椿に対して、理不尽な暴言をぶつけて逃げ出した罪悪感。

万能であるはずの自分が、何一つ上手くいかないという猛烈な自己嫌悪。

溢れ出す感情の渦が怒りを完全に塗りつぶし、二夜の大きな深紅の瞳から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ出した。

「泣゛いでな゛んがいまっ……ぜん!!!あ……うぐっ……っ」

「え……おい、あ、まて…ウソォ…!?」

突然、二夜の目から溢れ出た涙を見て、継人は盛大に狼狽した。

二夜は制服の袖や素手で必死に目元を拭おうとするが、一度溢れ出した涙は止まるどころか、滝のように溢れ出てくる。喉から漏れるしゃくりあげる声が、もう抑え込めない。

「……あぁぁぁんっ……! っ……うぅぅっ……!もうっ……やだッ!!!ううううううう……!」

とうとう二夜はバス停のベンチの前でその場に膝をつき、まるで幼子のように大声をあげて泣き出した。継人は汚い泣き声だなぁ、と感じていた。

あまりの変貌ぶりに継人は固まっていたが、深く溜息をつくと、ポケットから折りたたまれた清潔なハンカチを取り出した。そして、地べたにしゃがみ込み、泣きじゃくる二夜の目の前にハンカチを差し出した。

「……ほら。拭けよ」

「っ……うぅ……っ! 嫌……触らないで……っ!」

「汚くねーよ!いいから受け取れ。袖がベタベタになるだろ」

二夜は鼻を鳴らしながら、ひったくるように継人のハンカチを奪い取り、顔を埋めた。

継人はそれ以上何も言わず、二夜の隣にどかと腰掛けた。

「……私は……優秀なの……。お父様みたいに……聡明で……完璧でなければ……いけないのに……っ」

ハンカチに顔を埋めたまま、二夜は途切れ途途切れに、胸の奥に抱え込んでいた弱音を吐き出し始めた。

「実戦でも……何も出来なくて……椿さんに……酷いこと……言っちゃって……。逃げてばかりで……私……私……っ!」

継人は隣で静かに二夜の言葉を聞いていた。口を挟むことも、軽蔑することもなく、ただ日が暮れていくバス停で、二夜が落ち着くまで黙ってその隣に座り続けていた。

 

◆

 

すっかり日が落ち、周囲は街灯のぽつぽつとした光に照らされていた。

「ずびっ、ずびずびっ……」と情けない音を立てて鼻をすする二夜の手を、継人は無造作にガシッと掴んだ。

「ひゃっ……!? な、なにをするのですか……!」

「立てよ、もう夕飯の時間だ。送っていってやる」

「送るって……家までですか!?」

「当たり前だろ。こんな泣きじゃくったバカ女を一人で帰せるかよ。ほら、歩け」

二夜は右足の違和感を庇いながら、半ば引っ張られるようにして継人の隣を歩き出した。

二人の影が、街灯の光によって長く伸びていく。

しばらく歩き、二夜の自宅である一軒家の前に到着した。

立派な佇まいの邸宅だったが、一階の窓にも二階の窓にも、明かりは一切灯っていなかった。静まり返った家屋を見上げ、継人は不思議そうに眉をひそめた。

「……誰もいないのか?」

「……ええ。お母様は大赦の要職で忙しくて、めったに帰ってこないから」

二夜は伏し目がちに答えた。言葉の端々に、隠しきれない孤独が滲み出ている。

「飯は? 誰か作ってくれる奴とかいるのか?」

「……いつも一人で、冷凍食品を温めて食べてるわ。たまにお母様が帰ってきても……仕事と学校の報告ばかりで、会話なんてほとんどないもの」

「……そうか」

継人は短く呟くと、二夜の手を握り直した。そして、そのまま二夜の家の玄関とは逆の方向──自分がやってきた道へと歩き出した。

「なっ……ちょっと! どこへ行くのですか!? 私の家はここですけれど!」

「ウチで飯食っていけ。一人で寂しく冷てぇ冷凍食品食うよりマシだろ」

「はあ!? なんで貴方の家に行かなきゃいけないのですか! それにチンぐらい出来ます!冷凍食品だってチンすれば暖かいんですよ!離しなさい!」

「そりゃチンすりゃ暖かいだろ、うるさいな、いいから来い。姉貴もいるし、飯くらい奢ってやるよ」

「嫌です! 離しなさいと言っているでしょう、この野蛮人──ッ!」

二夜の抵抗も虚しく、二夜は手首を掴まれたまま、大葉家へと半ば強引に連行されていくのだった。

 

◆

 

夕闇が深まり、街灯がポツポツと灯り始めた四国の街並み。

二夜の抵抗も虚しく、継人に手首をガシッと掴まれたまま、二夜は大葉家へと引きずられるように連行されていた。

「離しなさいと言っているでしょう、この野蛮人! わたしの家を勝手にスルーして、何故貴方の家に行かなければならないのですか!?」

「うるせぇな、黙って歩け。文句は飯を食ってから言え」

二夜が右脚の不気味な違和感を庇いながら憤慨するのも意に介さず、継人はズカズカと自宅の玄関を開けた。

「ただいまー」

「ちょっ……勝手に連れ込まないで……!」

靴を脱ぎ、居間へと足を踏み入れた瞬間、二夜の視界に信じられない光景が飛び込んできた。

「あー、継人おかえりー。お腹減ったー……って、ええぇぇぇ!?」

ソファの上で、下着の上に薄手の羽織りを一枚羽織っただけの、極めてだらしない姿でゴロゴロと寝転がっていた大葉椿が、飛び起きるように跳ね上がった。

「つ、椿さん……!?」

「に、二夜ちゃん!? なんでうちに来てるの!?」

真っ赤になった椿は「ぎゃー! 待って待って!」と叫びながら自分の部屋へ駆け込み、慌ただしく部屋着のTシャツとショートパンツを引っ張り出して着替えて戻ってきた。この前まで勇者として頼もしかった人間の姿はそこにはなく、ただのだらしない女子中学生の日常が転がっていた。

「お前がダラダラしてるからだろ。二人ともソファで待ってろ、今飯作るから」

継人は呆れたように溜息をつくと、慣れた手つきでエプロンを付け、台所へと向かった。

居残された二夜は、身の置き所がない様子でおずおずとソファの端に腰掛けた。隣には、着替えを終えて気まずそうに毛布を抱える椿が座っている。

気まずい静寂が居間を支配する。二夜は膝の上で制服の裾を強く握りしめ、消え入りそうな、蚊の鳴くような声で口を開いた。

「……椿さん」

「……え? なに、二夜ちゃん?」

「この間は……その……貴女に対して……理不尽で、暴言のようなことを言って……本当に……申し訳ありませんでした……」

深々と頭を下げる二夜。

施設での敗北、実戦での無力さ、そして身勝手な嫉妬。それら全てを吐き出し、バス停で継人の前で大泣きしたことで、二夜の頑ななプライドの鎧は既に粉々になっていた。

それを受けた椿の表情が、一瞬でパッと明るい輝きを帯びた。

「二夜ちゃん……! ううん、気にしてないよ! それより……私にそんな風に素直に気持ちを話してくれたのが、すごく嬉しい!」

「きゃっ……!?」

次の瞬間、椿は加減というものを一切知らない勢いで二夜へと飛び付き、ぎゅっと強く抱きしめた。

椿にとっては「二夜ちゃんと本当の意味で仲良くなれた!」という純粋で破天荒な喜びゆえの行動だった。だが、幼い頃から「選ばれし者」として厳しく育てられ、母親からの温もりすら知らずに孤立していた二夜にとって、その強引で柔らかい抱擁は──人生で初めて触れた、圧倒的な「人の温かみ」そのものだった。

椿の体温が、胸の奥で凍りついていた二夜の心を、じんわりと溶かしていく。

暖かい。人がこんなに暖かいなんて、と感じていた。

「よーし! 二夜ちゃんが来てくれたなら、私もお姉ちゃんとして腕を奮っちゃうぞー!」

「え、余計なことすんな! ロクなことにならないから引っ込んでろ!やめろ!」

継人の制止の叫びも聞かず、「どけどけー!私も頑張らないといけないんじゃい!」と息巻いた椿は台所へと突入し、腕まくりをして料理を手伝い始めた。

 

◆

 

数十分後、大葉家の食卓には湯気立つ料理が並べられた。

「はい! 私特製の隠し味入り野菜炒めだよ!」

自信満々に椿が差し出した皿。しかし、それを口に含んだ瞬間——継人、二夜、そして作った本人である椿の3人の動きがピタリと止まった。

「げふっ……!?」

「ごふっ……! げほっ、げほっ……!?」

激しい悶絶と共に、3人は同時にティッシュへとそれを吐き出した。

「不味い!! 頭が痛くなるレベルで不味いぞ姉貴! お前一体何を入れたんだ!?」

「ううぅ……隠し味に練乳とみそとイチゴジャムを入れたのがダメだったのかなぁ……」

「隠し味の領域を超えているでしょうがバカ!! 二度と台所に立つな!!」

惨劇と化した椿の料理だったが、続いて継人が運んできた「普通の肉じゃが」と「豆腐と油揚げの味噌汁」を一口食べた瞬間、二夜の瞳が大きく見開かれた。

「……おいしい……」

出汁の染み込んだ温かい肉じゃが。ホッとするような味噌汁の香り。一人で冷たい冷凍食品を温め、静まり返った家で寂しく食べていた日常とは、あまりにもかけ離れた食卓。

「そうか? 姉貴の毒物とは違うけど、気に入ったなら、どんどん食え」

「お、毒物とか言ったか弟よ」

「言ったよ、マジカルクッキングで当たり付きみてぇな料理作りやがった奴によぉ」

てめー!と椿は継人に飛び掛かるがそのまま後ろに放り投げられていた。

継人に促され、二夜は夢中になって箸を動かした。温かいご飯を口に運ぶたび、お腹の底からじわじわと生き返るような感覚が広かっていく。

「すみません……おかわりをいただけますか?」

「おお、いいぞ」

「……あの、もう一杯……」

「……ん?」

「……すみません、もう一杯……」

「「えっ?」」

華奢で可憐な二夜が、なんとご飯を合計三杯も綺麗におかわりした姿を見て、椿と継人は目を丸くして絶叫した。

「二夜ちゃん、すごい食欲……! 良かったぁ、お腹空いてたんだね!」

「……っ! 別に……ただ、残すのが勿体ないと思っただけです……!」

顔を真っ赤にして背を向ける二夜。だが、その顔には先ほどまでの刺々しさは消え、歳相応の少女の表情が浮かんでいた。

賑やかな笑い声が響く大葉家の食卓。

崩壊しかけていた試作勇者チームの綻びの中に、小さく、しかし決して消えない温かな居場所の灯火が宿った夜だった。

そして二夜だけで大葉家の米が6合無くなった。

 

 

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