大赦の真っ白な廊下に、私=乃木園子とわっしーの叫び声が虚しく響き渡っていた。
「銀……ッ! 銀ッッ!!」
「ミノさんっっ!!」
胸が張り裂けそうな思いで駆け寄り、その小さな肩を力いっぱい抱きしめる。
二年前、あの凄絶な戦いの果てに私たちの目の前から消えてしまった、大切な大切な私たちの仲間。十二歳の姿のままそこに立つ三ノ輪銀の温もりを感じて、私の目からは溢れ出る涙が止まらなかった。
だけど──。
「…………?」
抱きしめられた銀は、暴れるでもなく、照れるでもなく、ただポカンとした顔で私たちを見つめていた。
その瞳には、かつて私たちに向けられていた眩しいほどの光や、勝気な情熱の揺らめきが何ひとつ存在していなかった。
「……ミノさん……? 私だよ、園子だよ……? わっしーもいるよ……?」
私が震える声で呼びかけても、銀は返事をしない。
ただ、声をされた方へ機械的に顔を向けるだけ。
私たちがどれだけ泣いて、どれだけ名前を呼んでも、彼女の口から言葉が紡がれることはなかった。
「乃木、東郷、先ほど銀を検査したが、彼女に記憶や意志は無い」
継人さんから今の銀には「記憶」も「感情」も全く残っていなかった。
歩くことや物を掴むといった、身体が覚えている習慣や日常動作はこなせる。けれど、言葉を通じた他者とのコミュニケーションは一切成り立たない。思い出も、誰かを愛おしいと思う心も、すべてがすっぽりと抜け落ちていた。
そこにいるのは、確かに三ノ輪銀という存在の「器」だけでしかなかったのだ。
「……っ」
わっしーが唇を噛み締め、銀の手を固く握りしめる。
奇跡のような再会のはずなのに、私たちの胸を塞いだのは、底知れない寂しさと冷たい違和感だった。
◆
その後、私たちは大赦の地下会議室へと集められた。
居並ぶ勇者部の面々の中央で、風先輩が腕の中の赤ん坊にミルクの哺乳瓶を咥えさせている。
赤ん坊はごくごくと勢いよくミルクを飲みながら、機嫌よさそうに足をバタバタと動かしていた。
「……現在の状況について、俺から説明しよう」
会議室のモニターの前に立った大葉継人さんが、疲弊の混じった乾いた声で切り出した。
「まず、前回の戦闘で樹海化が発生せず、大赦からの援護が得られなかった理由についてだが、……真優が『イザナミ』共々散華した際、天の神を集合体として結合させていた中心的存在の一つがイザナミであり、これが消滅した。これにより、天の神は一時的に元々の別個体の神々へと分裂を起こした」
継人さんは画面を操作し、複雑な構造図を示した。
「だが現在、天の神は別の中心的な神によって無理矢理ひとつの群れとして繋ぎ止められている。そのため、外の結界そのものに変化はない。問題は神樹側だ。真優は満開の力のほとんどを神樹へのエネルギー譲渡に費やした。その結果、現在の神樹は天の神の力の一部を内部に取り込んだ状態にある」
「天の神の力を……神樹様が?」
風先輩が思わず声を漏らす。
「そうだ。神樹のシステムが天の神の力に完全に順応しきれておらず、現在、一種の『エラー状態』に陥っている。前回の戦闘で大赦の自動防衛システムや衛使の援護が作動しなかったのは、これが原因だ。……そして、神樹によって再生された三ノ輪銀の存在もまた、その天の神の力の一端が顕現したものだと考えられる」
継人さんは、部屋の隅で静かに佇む銀へと視線を向けた。
「彼女に記憶や感情が戻らないのは、神樹に取り込まれた新しい力が未だ完全には馴染んでいない証拠だろう」
「そんな……じゃあ、神樹様が元に戻れば、ミノさんの記憶も……?」
私が身を乗り出すと、継人さんは小さく頷き、そして首を振った。
「可能性はある。だが、それがいつになるかは分からない。……次に、その赤ん坊についてだが」
継人さんの視線が、風先輩の腕の中でミルクを飲み終え、満足そうに息をつく赤ん坊へと移る。
「こちらの観測と情報を整理する限り、この赤ん坊は『あちら側』から来たとしか言いようがない。発生の経緯としては真優と同じなのだろうが……なぜ天の神の側、あるいは真優が『赤ん坊』という意志の疎通が出来ない状態を必要としたのかは、現時点では不明だ」
「……」
友奈ちゃんが特注の眼鏡の奥で、じっと赤ん坊を見つめている。
「最後に、前回の戦闘で出現した新種のバーテックスについて。……奴は、かつて二夜があちら側にもたらした勇者システムのデータを元に作られた個体だ。いわば『バーテックス側の勇者』と呼ぶべき強力な戦力を有している。大赦では以降、あの個体を『参座(さんざ)』と命名する」
参座──あの恐ろしい人型のバーテックス。
「神樹のエラーにより、当面の間は樹海化が発生せず、勇者システムの機能も一部が制限される。つまり……最初期の戦いと同じく、君たち『勇者』の素の力だけで地表に来襲する敵を撃退しなければならない」
重苦しい空気が会議室を支配する。だが、継人さんの言葉はそこで終わらなかった。
「これを鑑み、勇者システムの機能向上および兵装の大幅な追加を決定した。さらに、別ルートでの極秘任務を終えた『防人』たちを、こちらの防衛戦力として回す。彼女たちはすでに、この施設へ到着している」
◆
防人のみんなとの面会が始まる直前、私=結城友奈は継人さんを呼び止め、別室へと招いた。
「友奈君……どうした?」
「私、病院で目を覚ましてから、時々大葉さんが見えていたんです。」
「見えていた?何がだ?」
「ボヤーっとした視界に突然、大葉さんの影みたいのが見えるんです、それもそこだけ鮮明に……」
最初はぼんやりとした影だったのが、クリスマスが近づくにつれて、どんどん鮮明になっていったこと。
私は、買い出しの途中に見た光景や、昨日の夜にベランダ越しに聞いた声をすべて話した。真優くんが赤ん坊を抱いていたこと、そして最後に『敵が来る、あの子を守って』とはっきり言ったことを。
じっと話を聞いていた継人さんは、深く息を吐き出し、考え込む。
「……かつて君が見たという神の世界に行った時、真優に助けられたことがあった、あの時君と真優の間に目に見えない『パス』のようなものが繋がったのかもしれない」
「パス……ですか?」
「ああ。真優はあちら側にいながら、そのパスを通じて重要な情報を君に伝えようとしていたのだ。そして、その最も重要な因子として、あの赤ん坊をこちら側へと送り込んできた……」
継人さんは私の目を見つめ、静かに、けれど強く言った。
「あの子がどういう素性なのか、まだ分からない。だが……真優が命がけで託してきた命だ、何か意味があるはずだ、守り抜いてくれ」
「……はい、絶対に守ります」
私が力強く頷くと、継人さんは少しだけ表情を和らげ、扉を開けて廊下にいた東郷さんと園ちゃんを呼び入れた。
「乃木、東郷。三ノ輪のことで話がある」
「ミノさんのこと……ですか?」
園ちゃんが不安そうに尋ねる。
「ああ。……実は、先ほどの戦闘際の混乱の中、三ノ輪が一時的に姿を消した。彼女は一緒に再生されたと思わしき勇者端末を無意識に操作し、勇者に変身して外へ出ようとしたのだ」
「えっ……! 銀が変身を!?」
東郷さんが息を呑む。
「幸いにも未遂に終わったが……身体の記憶が、彼女を戦場へ向かわせようとしている。神樹の力が不完全な現在、一度暴走すれば俺たちの手で彼女を止めることは難しいだろう。……二人にお願いしたい。次の戦闘時、三ノ輪の側についていてやってくれないか。彼女を止められるのは、かつての仲間だった君たちだけだ」
「……わかりました」
「任せてください、大葉さん。銀は……私たちが絶対に守ります」
東郷さんと園ちゃんは固い決意を込めて頷いた。
◆
「……久しぶりね、楠芽吹」
大赦の広間に入ったアタシ=三好夏凜は、腕を組んで目の前の少女を睨みつけた。
「……三好夏凜」
見たことない制服を身に纏った楠芽吹が、負けじと鋭い視線を返してくる。
アタシと楠は、かつて大赦の勇者選定訓練で、一つの勇者端末を賭けて競い合った仲だ。あの地獄のような訓練を共に生き抜いた仲でもある。お互いに相容れない部分は山ほどあるけれど、妙な連帯感のようなものが胸の底にこびりついていた。
だからこそ──顔を合わせた瞬間に、良くわからない口喧嘩が始まった。
「テレビであたし達の代わりをやってくれたそうね!感謝してるわ!!」
「……っ忘れようとしていたことをっ!? 」
「特番組まれてたわね!すごいわよ!」
「なんであたし達があんなことするはめになったか理解してるかしら?!貴女達が不用意に勇者の姿のまま救助活動なんてしたからよ?!」
「じゃあ楠は助けてって言ってる人いたら助けないのね?」
「当たり前に助けるわ!それよりもあたし達があの格好で人前に出る事を考えなさいよ!」
「楠さんって誰の格好してたんですかね?」
「東郷の格好らしいわよ」
「あー、黒髪ロング出来そうですもんねー」
「私、楠芽吹はあんなに胸とお尻は大きくないわ!」
「おいおいおい!!わっしーケツがでかすぎるんよ!!税金取れちゃうYO!!!」
「吊るすわよそのっち」
「犬吠埼風役してた弥勒夕海子ですわ!」
「……犬吠埼樹役してた山伏しずくです」
「犬吠埼風役、犬吠埼風です!」
「犬吠埼樹役、犬吠埼樹です!」
「混乱しますからやめてくださいよ風先輩」
「結城友奈役してました国土亜耶です、よろしくお願いします!」
「うわー!結城友奈役の結城友奈です!よろしくねー!」
「あんたも同じことやってるじゃないの」
わちゃわちゃである。
継人さんと横に立ってる兄貴が女子中学生って集まるとこんなうるさいんだな、と半ば感心したような目でこちらを見ていた。
ようやくアタシたちはフンと顔を背けて席に着いた。落ち着いたところで、作戦会議が始まった。
「……本来、今回からのバーテックス迎撃作戦に防人部隊が参加する予定はなかった」
継人さんが資料を提示しながら説明する。
「巫女である国土亜耶に、勇者システムに類似したシステムを接続してもらい、彼女が一種のフィルターとなることで、リアルタイムで戦況を把握し、タイムラグなしで勇者部へ的確な指示を送る役割を果たすはずだった」
「ええ」と楠が頷き、継人さんの代わりに続ける。
「ですが、亜耶ちゃんが戦場近くの通信要衝に身を置く必要があります。そのため、彼女の防衛および勇者部の背後からの援護任務を、私たち防人部隊から提案し、承認されました」
「ちょっと待ちなさいよ」
アタシは机を叩いて立ち上がった。
「あんたたちの防人装備って、勇者システムに比べて格段に性能が落ちるんでしょ!? 精霊バリアみたいな自動防御機能だって搭載されてないじゃない!」
「……それが何か?」
楠が冷静に返してくる。
「何か、じゃないわよ! そんな装備で前に出たら死ぬわよ! この任務から降りなさい!」
アタシが怒鳴りつけると、楠は凛とした瞳でアタシを真っ直ぐに見つめ返した。
「断るわ」
断固とした拒絶。
「亜耶ちゃんは、私たちの掛け替えのない仲間よ。彼女を守るのは防人としての当然の義務であり、誇りよ。……それに、私は今回の迎撃作戦で、誰一人として死なせるつもりはないわ」
「言ったわね……! あんたたち、あの『参座』の戦闘力を分かってないの!? 命がいくつあっても足りないのよ!」
アタシは前回の死闘を思い出し、歯を食いしばって食い下がった。アタシはもう、誰も目の前で傷ついてほしくなかったのだ。
「……そこまでにしろ夏凜、その説明は既に俺もしている、楠達は覚悟の上だ」
激しく言い争うアタシと楠の間に、継人さんが静かに入ってきた。
「防人たちの任務は、あくまで国土の防衛と、お前たちの後方支援だ。バーテックスの直接撃退はお前たち勇者の役割だ。……夏凜、お前が楠たちの身を心配するなら、敵を後ろへ『行かせるな』」
「……っ!」
「楠たちが後方から全力を尽くせるよう、前線でお前たちが完璧に食い止めろ。……そのための新しい装備は、我々が用意する」
継人さんの力強い言葉に、アタシはぐっと言葉を詰まらせ、悔しくなり腰を下ろした。
◆
「……国土の神託により、次の敵の襲撃は一週間後と確定した。各自、新装備と連携の熟練に努めてくれ」
継人さんの号令で、会議は解散となった。
けれど……私=犬吠埼風は会議の間中、ずっと胸の奥に引っかかる『違和感』を覚えていた。
大葉継人という男は、常に冷静沈着で、感情を排して最善の戦術を選ぶ人間だ。だが今日の彼の言葉の端々には、隠しきれない『焦り』と『憤り』のような感情が滲み出ていた。
「……風先輩? どうしたんですか?」
友奈が心配そうに声をかけてくる。
「あ、いや……何でもないわ! 夏凜と楠さん、新しい装備の説明を聞きに行くんでしょ? みんな先に行ってて! 私はちょっと大葉さんに用があるから!」
みんなを別室へ向かわせた後、私は抱っこ紐で胸にしっかりとおんぶした赤ん坊をあやしながら、一人残っていた継人さんの元へ歩み寄った。
「大葉さん」
「……犬吠埼君か、何か伝え忘れでもあったか?」
継人さんが書類から目を上げずに尋ねる。
「いいえ。……大葉さん自身のことですよ」
私はストレートに切り出した。
「さっきから、何か変です。……どうしたんですか?」
継人さんは一瞬動きを止め、深く、深くため息をついた。目線を上げ、疲れた手で目元を押さえた。
「……隠せないものだな」
継人さんは自嘲気味に呟いた。
「……自分に腹が立っているんだよ」
「自分に……?」
「俺達は、あんなにも威勢よく君たちを死なせないと語っていた。それなのに……真優を死なせ、守れなかった。そして今また、君たち子供に同じような過酷な戦いを強いている。それどころか、神樹のエラーでまともな後方支援すらできない……。……そんな無力な自分に、嫌気がさしているんだ」
絞り出すような、悔しさに満ちた大人の吐露。
私は胸がギュッと締め付けられる思いがした。けれど、首を強く振った。
「大葉さん。私たちは、誰も死ぬつもりなんてさらさらありませんよ」
「……犬吠埼君……」
「それにね……私、思ったんです。ああやって前の勇者が戻ってきたみたいに、今回の戦いを乗り越えたら……真優だって、帰ってくる可能性があるんじゃないかって」
私の言葉に、継人さんはポカンと口を開けた。いつもの知的な顔が嘘のように、少し気の抜けた表情になる。
「……そうだな、……そうなったら、本当に嬉しいな」
継人さんがぽつりと呟いた、その時だった。
「ふぁ……!」
私の胸元で丸くなっていた赤ん坊が目を覚まし、ちいさな両手を伸ばして「あーっ!」と継人さんに向かって抱っこをねだった。
「あら……大葉さん、抱っこしてもらえますか?」
「え……あ、ああ」
俺がか?と戸惑いながらも、継人さんは慣れた手つきで赤ん坊を受け抱いた。その手つきは驚くほど優しく、手慣れていた。
継人さんに抱かれた赤ん坊は、ニコニコと嬉しそうに笑い声を上げ、ミルクでパンパンになったお腹を満足そうに膨らませて、再びすやすやと心地よさそうに眠りに落ちていった。
眠る赤ん坊の小さな顔を見つめながら、継人さんは静かに微笑んだ。
「……そうか。君たちが守っているのは……こういうものだったな」
継人さんは私を見つめ直し、力強い瞳を取り戻していた。
「俺がここで腐っている場合じゃないな。……ありがとう、犬吠埼君」
「どういたしまして、さあ、新装備の見学に行きましょう」
私たちは、未来の光を抱くように、廊下へと歩き出した。
「というか、何でそんなに赤ちゃん抱っこするの上手いんです?」
「一応、真優を赤ん坊の時から育ててるしな」
◆
亜耶ちゃんの神託から一週間後。
年が一緒だったので、私=犬吠埼樹は亜耶ちゃんとは少し話したら仲良しになりました。
ついに、予言されていたバーテックスの襲撃が始まりました。
戦場となったのは、あの大きな事故があった瀬戸大橋の付近──海岸線沿いのエリアです。
空を覆い尽くすような無数の星屑と、それを率いる大型の完全体バーテックス群。ですが、私たちは少し前の私たちではありませんでした。
勇者システムの強化、そして何より、新しく導入された勇者用の外部武装端末『袿』の面制圧能力によって、私たちは開幕から敵と互角以上の戦いを繰り広げていました。
上空では、東郷さんと園子さんが敵の航空戦力を足止めしています。
そして、地表の海岸線では──。
「みんな!目標は東郷達が取り零した連中よ!あの子達が全部マークしてくれてるわ!照準はオート!説明は聞いてるわね!」
「了解!追随衛使との目標同期完了です!」
「後ろには通さないわよっ……! 手数で押し潰す!」
「敵の第一波来ます!セーフティ解除!」
私、友奈さん、夏凜さん、お姉ちゃんの四人で『袿』を纏って陣形を組み、強固な防衛線を構築していました。
さらに、私たちの後方から──。
「第四班、射撃用意! 勇者部の射線を塞ぐな、撃ち漏らした星屑を掃討せよ!」
「了解! 楠班長!」
有線式の外部動力に接続された『袿』を装備した防人の方々が、寸分の狂いもない的確な援護射撃を繰り出しています。
その全戦況を、後方の通信要衝でシステムに深く接続された国土亜耶さんがリアルタイムでバーテックスの位置を把握し、春信さんの的確な指示がインカム越しに私たちの耳へ届いていました。
神樹様の機能がエラーしていたとしても、問題なく動けていた。
勇者の圧倒的な面制圧力。防人の方々の隙のない後方支援。そして正確無効な戦況把握。
激しい砲火が海岸線を埋め尽くし、戦闘開始から三時間が経過した頃──私たちは最後の完全体バーテックスを撃破しました。
「完全体全滅です」
私が声を上げると、生き残っていた星屑たちが、まるで潮が引くように一斉に空の彼方へと撤退を始めました。
「やったあぁぁッ! 引いていくぞ! 我々の勝利だ!!」
「勝った……! 守り切ったんだ……!」
無線からは、防人の皆さんや大赦のスタッフたちの歓声が湧き上がっていました。過酷な防衛戦を乗り切った達成感に、誰もが胸を撫で下ろしていました。
ですが……。
前線で『袿』の装甲を解除した勇者部の空気は、歓声とは裏腹に、異様なほど重く沈んでいました。
「……変よ」
夏凜ちゃんが剣を握り締め直しながら、眉をひそめます。
「バーテックスが……『撤退』を選択するなんて。あいつらは本来、殺戮と破壊の衝動だけで突っ込んでくる怪物のはずでしょ……?」
「ええ……」
空から舞い降りてきた東郷さんも、険しい表情で雲の切れ目を見上げていました。
「それに、何より……前回の戦闘で現れたあの強力な個体『参座』が、今日の戦闘には一度も姿を現しませんでした」
「相手は……本気で来ていなかった、ということでしょうか……?」
私が恐る恐る口にすると、東郷さんは静かに頷きました。
「おそらく……相手は今回の襲撃で、こちらの戦力を把握しようとしたのではないでしょうか……」
手応えのある勝利のはずなのに、私たちの胸には、気味の悪い不安の影が落ちていました。
◆
戦闘による被害は沿岸部に留まり、民間人の怪我人はゼロという快挙。
だけど、押し寄せた星屑たちの爪痕は凄まじく、多くの民家や建造物が残骸と化していた。
その破壊された瓦礫の山の中には……私=乃木園子とわっしーとミノさんの三人で、昔、青空を見上げながら寝転がった思い出の芝生がある公園も含まれていました。
「……あ」
黒く焦げ付き、無残に抉り取られた公園の跡地を見つめながら、私は足を止めた。
「どうしたの、そのっち?」
「ううん、何でもないよ、わっしー」
私とわっしーは、神樹の力で蘇ったミノさんの「護衛と日常の世話」を大赦から任されていました。
今日こうして被害地域の現場検証作業に同行させたのも、何か少しでも彼女の記憶や感情の刺激になればという、大赦と私たちのささやかな願いからだ。
私たちの後ろを、ミノさんはてくてくと小さな歩幅でついて来る。
相変わらず言葉は発せず、表情も無いまま。
だけど──。
黒焦げになった公園の残骸と、かつて私たちが遊んだ遊具の破片の前に立った時。
ふと足を止め、じーっとその惨状を見つめていた。
「……銀………?」
わっしーが息を呑んで顔を覗き込む。
ミノさんは無言のまま、ぽかんと口を開け……その瞳の奥に、どこか深い傷つきと、「悲しさ」を帯びたような色を宿していました。
記憶は届かなくても、言葉は出てこなくても。
この街を愛し、この街を守るために命を散らした彼女の魂の底にある「何か」が、傷ついた街を見て胸を痛めている──私には、確かにそう見えた。
やっぱり届いてる。
私は涙ぐみそうになるのをグッと堪えて、ミノさんの小さな手をぎゅっと握り締めました。
彼女の魂は、ちゃんとここにある。少しずつ、少しずつだけど、帰ってきてる気がする。
握られた自分の手を不思議そうに見つめた後、大人しく私に引き引かれて歩き出した。
◆
過酷な戦闘が終わった、その日の夜。
部屋で横になっていた私=結城友奈は、ふと目を覚ましました。
静まり返った部屋の隅──月光が差し込む窓辺に、その人は立っていました。
「……大葉さん……」
大葉さんの影。
クリスマスが過ぎても、彼女の影は消えることなく、むしろ前よりはっきりとその存在感を主張していました。
影は、静かに私の方を振り向き、透き通るような声で語りかけてきました。
『……天の神は、人を学習した』
「学習……?」
『彼らは人が何を愛し、何を必要とし、何を守ろうとするのかを理解した。……次の戦いは、これまでにないほど熾烈なものになる』
大葉さんの影の声には、深い憂いと切迫感が満ちていました。
そして彼女は、まっすぐに私を見つめ、静かに最後の言葉を告げたのです。
『……あの子に、人間側の“痛み”を見せて』
「え……? 痛み……?」
私が聞き返そうとした瞬間、大葉さんの影は夜の闇に溶けるように、ふっと消えてしまいました。
◆
翌朝、私はすぐに継人さんの部屋へ向かい、昨夜見た大葉さんの影の言葉をすべて伝えました。
「……『あの子に人間側の痛みを見せろ』……か」
継人さんは腕を組み、重々しい足取りで部屋の中を往復しました。
「真優は……あちら側にいながら、天の神に人類のことを伝えようとしている……。その行為によって、何らかの形でこちらに優位な状況を作ろうとしているのは確かだ。だが……『痛みを見せる』の意味が、俺にはまだ掴みきれない」
継人さんは足を止め、眼鏡の奥の瞳を険しくさせました。
「あるいは……真優は二夜とほとんど同一性の存在する個体だ。今の彼女の行動そのものが、かつて封印された二夜の『遺志』によって動かされている可能性もある」
「二夜さんの……? それって……」
私は思わずゴクリと生唾を飲み込みました。
「……敵になった、ということですか……? 大葉さんは、敵側の存在として動いていると……?」
私の問いに、継人さんは静かに首を振りました。
「……その可能性がある、というだけだ。あちら側に完全に取り込まれた以上、真優の意志が100%人間の味方であり続けているという保証はどこにもない」
どこか突き放すような、けれど哀しみを孕んだ継人さんの言葉。
だけど、私は胸に手を当てて、はっきりと首を横に振りました。
「いいえ……、継人さん、私は……私は大葉さんの影から、悪意なんてこれっぽっちも感じませんでした」
「友奈君……」
「大葉さんは、命をかけて私たちを助けてくれたんです。あの子を預けてくれたのも、警告をくれるのも、全部私たちを守るためです! だから……私や勇者部のみんなは、大葉さんを信じています!」
私の真っ直ぐな言葉に、継人さんは一瞬目を見開き……そして、どこか救われたような、小さな溜息をつきました。
「……そうか。君がそこまで言うなら……俺が疑うのは野暮というものだな」
継人さんは静かに微笑み、窓の外の青空を見上げました。
「俺も……あいつを信じるとしよう」