結城友奈は勇者であり、彼もまたそうだった   作:ビブロス

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背水

 

大赦の会議室に立ち込めていたのは、まるで冷たい泥の底に沈んでいるかのような息苦しい静寂だった。

正面の中央モニターには、前回の凄惨な戦闘結果と、著しく低下した私たちの戦力データが容赦なく映し出されている。机の端に両肘をつくようにして座り込み、頭を抱えているのは、大赦第8技術課の最高神官であり、この戦いの指揮を執る大葉継人さんだった。彼の顔からは完全に余裕が消え失せ、その背中は小さく丸まっていた。

「……戦力補強の目処が立たない……、このままでは次の襲撃で負けるぞ……」

継人さんが吐き捨てるような声を漏らした、その時だった。重厚な自動ドアが、けたたましい音を立てて勢いよく左右に開いた。

「──継人!!」

朗々と響き渡ったのは、毅然とした、けれどどこか聞き覚えのある女性の声だった。

入口に立っていたのは、相良二夜さんだった。そしてその背後には、私たち──私=犬吠埼風、友奈、樹、夏凜、東郷、園子──そして、楠芽吹率いる「防人」のメンバー全員がずらりと顔を揃えていた。

「な…………っ!?」

継人さんは弾かれたように顔を上げ、茫然と彼女を見つめた。その瞳には、信じられないものを見たという驚愕と、戸惑いが混ざり合っていた。しかし、継人さんの口から溢れ出たのは、別の名前だった。

「……真優……?」

その言葉が引き金だった。

すたたっと素早い足取りで継人さんに詰め寄った二夜さんは、一切の躊躇もなく右腕を振り抜いた。

パーンッと静かな会議室に、高らかな乾いた打撃音が響き渡る。継人さんの顔が真横に弾かれ、その頬が瞬く間に赤く腫れ上がった。

「「「ひえっ……!?」」」

 私や友奈、防人のみんなから、同時に情けない悲鳴が漏れた。あの大赦の最高幹部であり、いつも冷徹で恐ろしい継人さんが、目の前で女性に盛大にひっぱたかれたのだ。誰もが口ぐちに「えぇ……」「マジか……」と引き気味に固まっている。

だが、当の本人の二夜さんは、痛む手を振り払いながら仁王立ちし、腫れた頬を押さえる継人を見下ろして一喝した。

「二夜よ! いつまでボケッとしているの! さっさと立て直すわよ、このバカ!」

あまりの勢いに、継人さんは腫れた頬を押さえたまま、ただ呆然と「あ、ああ……了解」と頷くことしかできなかった。

 

 

数分後。気を取り直した私たちは、長机を囲むようにして席に着いた。

中央の椅子には、片頬を大きく腫らせて氷嚢を当てている継人さんが座っている。そしてそのすぐ真横の席には、肩と肩が触れ合いそうなほど至近距離で二夜さんが座っていた。それも赤ん坊を抱いたまま。二夜さんは至極当然といった顔をしているが、継人さんはどこか居心地が悪そうに少し体を縮めている。その距離感の近さに、私や夏凜は思わず目を丸くして軽く引いてしまっていた。それより、継人さんみたいなおじさんの横に中高生みたいな見た目の二夜さんが赤ん坊抱いて座ってるのはそこはかとなく犯罪臭がする、

「……では、現状の整理と今後の対策について説明を始めるわ」

二夜さんが凛とした声で切り出すと、彼女の隣に立っていた三ノ輪銀がニッと白い歯を見せて頷いた。

「あたしからも補足するぜ! なんせ、あたしは向こうの“システム”の実験台みたいなもんだったからな!」

銀の威勢の良い声に促され、二夜さんはモニターのデータを操作しながら説明を始めた。

「まず、天の神『イザナミ』との戦いの際、真優の満開によってイザナミが保有していた膨大な力が神樹へと捧げられた。これにより神樹の力自体は大きく増強されたわ。……けれど、その時に致命的な問題が発生したの」

二夜さんが画面に示してみせたのは、神樹の内部構造を模した複雑な呪術回路だった。

「神樹はイザナミの力を取り込んだ際、天の神の側にあった『バーテックスの復活システム』の構造まで内部に内包してしまったの。……神樹が人間を、そして死者を再生させるためのシステムよ」

「死者の……再生……」

東郷さんが息を呑む。

「ええ。けれど、その復活システムは完全な形では機能しなかったわ。もう一柱の天の神『イザナギ』の妨害によって、システムに必要な情報伝達が途中で阻害されてしまったの。その結果、神樹は現在、処理しきれない膨大な情報と不完全なシステムによって深刻なエラーを起こしている。防衛システムが作動しなかったのも、これが原因よ」

二夜さんは悲しげに瞳を伏せ、己の胸にそっと手を当てた。

「真優はそのエラーを修復しようとしたわ。イザナギに邪魔されて渡せなかった情報を補完するため、神樹は直近で死亡した……三ノ輪銀を復活させたの。時間をかけて肉体と魂を完全復活させ、その過程で復活システムを完成させるためのデータを取るためにね」

「あたしが生き返った背景には、そんな神様の都合があったってわけだ」

銀はどこか他人事のように笑いながら、自分の腕を固く握りしめて見せた。

「……けれど、その代償は大きかった」

二夜さんの声が低くなる。

「情報補完を行おうとした真優自身が、イザナギの本体に捕らわれてしまったの。イザナギは真優の精神を拘束し、彼女が持つ人間の戦闘技能や、こちら側の防衛データを逆利用した。……それが、前回の戦いに現れた『純白の人型バーテックス』よ」

会議室に緊張が走る。あの真優の姿をした異形。あれはイザナギによって真優の能力と情報が利用された姿だったのだ。

「……なら、あの赤ん坊は?」

私は二夜さんが抱いている赤ん坊のことを尋ねた。

「あれは……真優が最後の抵抗として、私の子供の魂をイザナギの『目』として現世に復活させたものよ。神という存在に、人間の感情を直接理解させるためにね。人間という種族が、神に対して自ら襲いかからない限りは決して敵対しない存在なのだと、神に教え込むための観測者として」

二夜さんはゆっくりと立ち上がり、自分の姿を見下ろした。

「満開の際、私と真優の魂はほとんど同一化していた。一人の人間の『表』と『裏』のような関係になっていたの。前回の戦いで私たちが神樹の核に触れた時、一時的に神樹の復活システムが起動したわ。その瞬間に銀の魂と身体が完全に定着し、同時に、右腕に宿っていた私の魂だけを切り離して、銀に切り取らせることで……私はこうして受肉し、復活を果たしたのよ」

あまりにも壮大な話、私たちはただ圧倒され、二夜さんの言葉に耳を傾けることしかできなかった。

「次の戦いが、すべての決着になるわ」

二夜さんは力強く言い放った。

「私たちが真優を取り戻し、神樹内に残された復活システムを完全に補完することができれば……天の神イザナギを完全に打ち倒し、この終わらない戦いに終止符を打つことができるかもしれない。……向こうもそれを見越しているはずよ。だから次の襲撃では、彼らは総力を挙げて、絶対にこちらを潰しに来るわ」

二夜さんは胸元から勇者端末を取り出し、継人さんの前の机にカトン、と置いた。

「これに、真優がかつて天の神を散華させた時に記録された解析データが入ってる。これを使えば、敵であるバーテックスの命そのものを、私たちの勇者システムの力へと変換することができるわ」

「なっ……!?」

継人さんが目を見開き、端末をひったくるように拾い上げた。

「これを既存のシステムに組み込めば、理論上は……だが、二週間だ、たった二週間でシステムの再構築と全員の端末への実装なんて、物理的に無理に決まって──」

「さっさとやる!!!」

言い終わるより早く、二夜さんは継人さんの腫れてない方の頬をひっぱたいた。

「ひえっ!?」

「みんなの未来がかかっているのよ! 弱音を吐いてる暇があったら手を動かしなさい!」

二夜さんは継人さんの襟首を力任せに引っ張り、まるで荷物でも引きずるかのように会議室の外へと引きずっていった。

「おい二夜! 待て、引っ張るな! 服が破れる! まだ作業が──」

「作業なら家でやりなさい! さあ帰るわよ!」

ずるずると引きずられていく大赦の最高神官の姿を、私たちはただ呆然と見送るしかなかったのだった。あと、普通に赤ん坊もそのまま連れていった。あんなに大声張上げていたのに終始笑顔だったのは母親が抱いていたからなのだろう、と変に納得した。

 

 

大赦の地下会議室での嵐のような説明会が終わった後、私=三好夏凜は一人、大赦の技術課の廊下を歩いていた。

ポケットの中には、前回の戦闘で破損し、二度と起動しなくなったアタシの勇者端末──壊れたスマートフォンが入っている。

ぎゅっと握りしめる。

真優が敵に捕らわれ、あんな惨い姿で利用されているというのに、自分の端末は壊れ、戦う術すら奪われている。この無力さが歯痒くてたまらなかった。

開発課の個室に入ると、そこには私の兄である三好春信が待っていた。

「夏凜ちゃん……」

 兄は私の顔を見ると、ホッとしたような、どこか寂しげな表情を浮かべた。私が無言で差し出した壊れたスマホを受け取ると、兄さんはその画面を見つめた。

「……端末の破損状態は重度だ。修復には数ヶ月はかかる。次の戦いには……とても間に合わない」

「知ってるわよ。だから来たの」

「……夏凜ちゃん、悲しむことはない」

兄さんはアタシの肩に優しく手を置いた。

「皆に悪いとは思うが、これで……お前はもう、戦わなくて済む」

兄さんの言葉には、偽りのない妹への愛情が籠もっていた。けれど、私が求めているのはそんな温かい言葉じゃなかった。

「ふざけないでよ!!」

私は兄さんに向けて怒鳴った。

「私が戦わないで、ただ指をくわえて待ってろっていうの!? 仲間が……真優が向こうで苦しんでるのよ!? 戦力が足りないって継人さんも言ってたじゃない! 」

「夏凜ちゃん、落ち着きなさい、新型の予備端末なんて存在しない」

「あるんでしょ!二夜から聞いてるわ!癪だけどね!」

私は兄さんの目を真っ直ぐに見つめ返し、大赦の機密データベースに記されていた“あの端末”を口にした。

「大赦が保管している……大葉椿と、桑折晴美のスマホを渡して」

「……っ!?」

兄さんの顔色が劇的に変わった。

「な、何を言い出すんだ……! あの二つの端末がどういうものか……」

「知ってるわよ! 大赦が作った試験運用型の勇者システムでしょ!」

「そうだ、あのシステムは現在の新型とは根本的な構造が違う、基本的な性能のアップデートはできても、根本的なシステム改修ができないんだ、満開機能の搭載は可能だが、その分、使用者の生命力や肉体へダイレクトに深刻な反動が跳ね返ってくる欠陥品だぞ! そんな危険な代物を、妹のお前に渡せるわけがないだろう!!」

兄さんは絶対に首を縦に振ろうとはしなかった。私を思ってのことだとは分かっている。けれど、ここで退くわけにはいかないのだ。

「お願い……頼むわ、兄さん……!」

両拳を握りしめ、兄さんに向かって深く頭を下げた。

「ここで戦わなかったら……絶対に一生後悔する! 真優を取り戻すのは、勇者部のみんなの役目だけど……それ以上に、あいつを助けられなかった私の役目なのよ!! あいつを助けなきゃ気が済まないのよ!!」

「夏凜ちゃん……しかし……」

苦悩する兄さん。その後すぐに背後のドアが、静かに開いた。

「──もう一つの端末は、私に貸していただきたい」

入ってきたのは、防人のリーダーである楠芽吹だった。

「楠……!?」

アタシが驚いて振り向くと、楠は鋭い、けれど揺るぎない決意を秘めた瞳で兄さんを見つめていた。

「楠さん……君まで何を言っているんだ、これは危険な物なんだ」

「ええ、知っています」

「だったら…」

楠は胸を張り、言葉を紡いだ。

「ですが、戦える力があるならば、私は戦います。仲間だけを危険な戦場に立たせ、自分だけが安全な場所で見守るなど、私には到底できません。……それに」

楠はちらりとアタシの方を見た。

「私のライバルが、こうして必死になって戦おうとしているのです。仲間を助けようと命を懸けているのです。……元・勇者候補生として、彼女だけに格好をつけさせるわけにはいきません」

「楠……あんた……」

私と楠の視線が交差する。かつて一つの勇者端末を巡って血の滲むような訓練を競い合った仲。相容れない部分は山ほどあるけれど、この土壇場で背中を預けられるのは、やっぱりこいつしかいないのだ。

私と楠、二人の決意に満ちた眼差しを受け止め、兄さんは長いため息をついた。

「……ハァ、本当に……頑固なことだ」

 兄さんは頭を抱えながら、デスクの引き出しから二つの厳重にロックされた保管ケースを取り出した。

「二週間だ。二週間後までに、君たちの身体に合わせた最低限の調整を行って引き渡す。……ただし、約束してくれ。絶対に、死なないと」

「……当然、私は完成型勇者・三好夏凜なのよ」

「感謝します、春信さん、必ずや、結果を出してみせます」

アタシと楠は顔を見合わせ、小さくニッと笑い合った。戦う準備は整いつつある。絶対に、真優を取り戻してみせる。

 

 

乃木家の邸宅。

その一室は、賑やかというよりは、どこかカオスな熱気に包まれていた。

「ほらほらミノさん! 次はこれ着てみて! ぜったい似合うから~!」

「待ちなさいそのっち! 銀にはこちらのシックなワンピースの方が似合います! さあ銀、腕を通して!」

「だーかーらー! さっきから言ってるだろ、あたしは服なんて何でもいいんだってば!!」

部屋の中央で、山のように積まれた洋服の囲まれながら悲鳴を上げていたのは、銀だった。

記憶を取り戻し、神樹の力によって完全に復活を果たした銀。けれど、復活の際に彼女の肉体は大きく成長し、二年前の小学生だった頃の服は当然ながら何一つ着られなくなっていた。

「戦いが終わったら、大赦の支給品でも何でも自分で買うからさぁ……!」

嫌そうに身をよじる銀だったが、私とそのっちは一切耳を貸さなかった。

「だーめ! 一応年齢的には女子中学生が見栄えのない服ばっかり着てちゃ夢がないでしょ~? 園子セレクトの可愛いやつ、いっぱい試着してもらうんだから!」

「そうです! 遠慮など不要! 私たちの気が済むまで着替えてもらいます!」

「うおあぁぁ!? 二人がかりで脱がせるなーっ!?」

 ドタバタと部屋の中で暴れ回る銀を無理やり着替えさせ、可愛いチェックのスカートとブラウスを着せ付ける。……うん、すごく良く似合っている。背が伸びて、少し大人びたけれど、やっぱり銀は銀だ。

「……ふふ、可愛いわよ、銀」

「だろ!?……って、照れるだろーが!!」

 真っ赤になって顔を背ける銀。その姿を見つめているうちに、そのっちがぽつりと呟いた。

「……前も、こんなことしたよねぇ」

「え……?」

「ほら、二年前にさ……三人でお出かけするとき、ミノさんの服を私とわっしーで選んであげて……あはは、あの時もミノさん、すっごく嫌がってたっけ……」

そのっちの声が、少しずつ湿り気を帯びていく。

その言葉が、私の胸の奥に閉じ込められていた感情の堤防を、一気に決壊させた。

「あ……」

視界が急速に歪んでいく。ボロボロと、大粒の涙が私の頬を伝って零れ落ちた。一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。

「わ、須美!? なんで泣いてんだよ!?」

焦った銀がオロオロと私の顔を覗き込んでくる。

私は声を上げて泣き出し、溢れる想いを言葉にして吐き出した。

「銀がいなくなってからの二年問……っ! たくさん……ほんとうに、たくさんのことがあったの……っ! 辛いことも、苦しいことも、絶望しそうになったことも……いっぱい、いっぱいあったの……っ!」

「わっしー……」

「……でもね、楽しいこともたくさんあったの…… 友奈ちゃんたちに出会えて、勇者部のみんなと笑い合って……美味しいものを食べて、綺麗な景色を見て…… でも……でもねっ……」

私は銀ちゃんの両手をごつごつとした手で強く握りしめた。

「その全部を…… 私は、銀と一緒に経験したかった……三人で……三人で一緒に、中学生になりたかった…」

私がずっと胸の底に抱え続けていた、叶わなかった未来への無念。

銀のいない日々の中で、どんなに幸せな瞬間があっても、心のどこかでずっと引っかかっていた欠落感。

そのっちも涙をボロボロと流しながら、銀の背中に抱きついた。

「三人で……一緒に制服を着て、一緒に学校に行って、一緒に部活したかったよぉ…… なんでもっと早く帰ってきてくれなかったのさぁ……」

二人に縋り付かれ、大泣きされる銀は、最初は気まずそうに目線を泳がせていた。けれど、やがてその瞳に優しい温もりが宿り、ゆっくりと私たちの頭を撫でてくれた。

「……ゴメンな」

 小さく、けれど心の底からの謝罪。

「あたしが不甲斐ないばっかりに……二人を置き去りにしちまって。辛い思いも、淋しい思いもさせちまった。……本当に、ゴメン」

「謝らなくて……いい……ッ!!」

私とそのっちは、さらに強く銀ちゃんに抱きついた。胸に伝わってくる、確かな体温。トクトクと力強く脈打つ心臓の音。

幻でも、記憶の残像でもない。三ノ輪銀という友達が、いま、私たちの腕の中に確かに存在しているという暖かみ。

 それが何よりも嬉しくて、私たちは陽が傾くまで、三人で泣き続けたのだった。

 

 

市立病院の静まり返った特別病棟。

芳香剤と消毒液が混ざり合った独特の匂いが漂う病室のベッドに、桑折春雄は横たわっていた。

「……やあ、継人、久しぶりだねぇ二夜さん」

包帯を巻かれた春雄が、力なく微笑む。前回の戦いで重傷を負った彼の経過は、一週間ほどで外傷自体は塞がる見込みだった。だが、深刻なのは傷ではない。彼の体を内側から蝕んでいる、進行した癌だった。

「……医者から話は聞いているぞ、春雄」

俺=大葉継人は椅子を引き寄せ、腰を下ろした。

「これ以上の身体の負担は命に関わる。大赦の任務からも外し、静養させるよう通達が出ているはずだ。……だが、お前は次の襲撃の作戦に参加申請を出しているそうだな」

春雄は少し視線を落とし、それから静かに頷いた。

「ええ。……次の戦いが、すべての決戦になるのだろう? ならば、私も行くさ」

「死ぬ気か?」

 俺の声が自然と冷たくなる。

「お前の体はもう限界だ。戦場に出れば、敵の攻撃を受けるまでもなく命を落とすぞ」

「分かってるさ」

春雄は穏やかな、けれど一切の迷いのない瞳で俺を見つめ返した。

「……子供たちが、あんな小さな女の子たちが命を懸けて戦っているんだ。……そして、私の大切な晴美や、先に逝った者たちの無念がそこにある。死んだ者の分まで、生き残った大人が戦わなければならない。……これが、私が選択した『命の使い方』だ」

「…………」

俺は何も言えなくなった。

大切な者を失い、その残影を追って自らの命を燃やそうとする男の覚悟。それを否定する権利は、俺にはなかった。俺自身が、二夜を失ってからずっとそうして生きてきたのだから。

沈黙が落ちる病室で、静かに一歩前へ踏み出したのは二夜だった。

二夜はベッドの脇に立つと、春雄の手を、両手でそっと優しく包み込んだ。

「……春雄さん」

「……二夜さん?」

「戦って死んでほしいなんて、晴美は絶対に思っていません」

 二夜の言葉に、春雄が目を見開く。

「晴美が望んでいたのは、貴方が生きて、貴方の人生を全うすることです。……だから、せめて死なないでください。生き残るために、戦ってください」

 二夜の顔に浮かんでいたのは、あの三十年前──俺たちがまだ若く、苦しみの中にありながらも互いを想い合っていたあの頃と、何一つ変わらない温かく優しい笑顔だった。

 春雄はしばらく呆然と二夜を見つめていたが、やがて目元を緩め、深く小さく頷いた。

「……そうか、晴美に怒られてしまうか、……もちろん、死にやしないさ」

 

 

 病院をあとにし、夕暮れ時の街並みを二人で歩く。茜色に染まる影が、路上にふたつ長く伸びていた。

「……継人」

 隣を歩く二夜が、不意に足を止めた。俺も立ち止まり、彼女を振り返る。

「……私ね、私が『私』という個の意識でいられる期間は、きっともう短いわ」

「……」

「真優を助け出したら……私は彼女と再び完全に同一化する。私の意思も、記憶も、魂も、すべて真優の中に一つに溶け込んでいくの」

二夜は穏やかに、けれどどこかすがすがしい表情で夕空を見上げた。

「でもね、悲しまないで。私は消えるわけじゃない。真優の中で、ずっと生き続けるわ。彼女が誰かを守りたいと思う心の中に、私がいるの」

「…………そうか」

俺は深く息を吐き出し、ため息混じりにそれだけ答えた。

多少は予見していたことだった。二夜の受肉は、神樹のエラーと一時的な奇跡が生み出した暫定的なものに過ぎない。彼女の本質はすでに真優という存在と固く結びついているのだ。

悲しくないと言えば嘘になる。だが、俺の返事を聞いた二夜は、花が綻ぶような満面の笑みを浮かべた。

「ふふ、やっと……やっと貴方と肩を並べて歩けたわね、継人」

三十年間、過去の呪縛に囚われ、復讐と大赦の影としてしか生きられなかった俺。そんな俺の隣に、今、彼女は確かに立っている。

「さて、しんみりするのはここまでね」

二夜はフンスと可愛らしく鼻を鳴らし、自信満々に胸を張った。

「今日の夕食は私が作るわね、料理を振る舞ってあげるわ」

「……は? いや、俺が作る」

「なんですって!? 貴方の雑な男料理より、私の料理の方が美味しいに決まってるじゃない!」

「お前、最後に料理したのいつだと思ってるんだ。俺の方が手際が良い」

「なによー! 料理の腕は勘なのよ! じゃあ、先に家に着いた方が作ることにしましょ!」

「おい、待て二夜、走るな——!」

言い終わる前に駆け出した二夜を追いかけ、俺は夕暮れの街を走り出した。胸の奥が、ほんの少しだけ温かかった。

 

大赦の本部施設内にある、広々とした大浴場。

大きな浴槽からゆらゆらと湯気が立ち上り、温かいお湯の匂いが満ちていた。

「ふはぁ〜〜……生き返る〜〜……」

私=結城友奈は湯船に肩まで浸かり、幸せな声を漏らした。前回のバーテックスの襲撃で、私の家のお風呂は倒壊した壁の巻き添えをくらって壊れてしまい、風先輩と樹ちゃんが暮らしているアパートには巨大な穴が空いてしまった。そんなわけで、私たちは三人揃って大赦の宿泊施設に泊まるハメになっていたのだった。

「本当に……大赦のお風呂を借りられて助かったわね」

風先輩が湯船の縁に腕を乗せ、長湯で少し赤くなった顔をほころばせる。

「そうだね~、 お湯も広くて気持ちいいし」

樹ちゃんも泡を頭に乗せてニコニコと笑っていた。

お風呂から上がった私たちは、用意された部屋の窓辺にある大きなソファで、三人でゴロゴロとくつろいでいた。外はすっかり夜で、遠くに街明かりが見えている。

「……ねえ、友奈、樹」

 ふと、窓の外を見つめていた風先輩が、静かな声で切り出した。

「二年前のこと……覚えてる?」

「二年前……?」

「お父さんとお母さんが死んで……私が樹を引き取って、大赦の人間として動き始めた頃のことよ」

風先輩は膝を抱え、遠い目をした。

「あの頃、真優は……最初は……ただのクラスメイトだった。……真優が学校で周りから浮いていて、酷いイジメを受けているのを見た時、私、助けてあげられるかもって思ってた」

風先輩の声が、少しずつ小さくなっていく。

「でも違ったの。真優は、自分の力で相手をどうにかしようと思えば、いくらでもできる子だった。……ただ、真優には『やり返す』とか『相手をどうにかする』っていう選択肢自体が存在しなかっただけなの」

「風先輩……」

「それから……真優と話すようになって、私、余計なアドバイスをしちゃったのよ」

 風先輩の拳が、ぎゅっと握りしめられる。

「『自分を一番に大事にしなさい』って……そう言いたかったのに。真優は私の言葉を誤解して……自分のことでも、他人のことでも、何かを成そうとするとき、自分の命や身体を『いの一番の消費コスト』として計算に入れるようになっちゃった」

風先輩の瞳から、ポロリと涙が溢れ落ちた。

「私が……あんな風になっちゃう助言をしちゃったから…… 真優があの時、満開の代償で消えてしまったのも私のせい……!今、敵に捕らわれて、私達と戦わされているのも全部、私のせいなのよ…… 真優は……きっと、私のことを恨んでる……ッ」

「そんなことないですよ!」

私は思わず身を乗り出し、風先輩の手を強く握りしめた。

「先輩! 大葉さんが風先輩を恨むわけないよ! 風先輩がどれだけ大葉さんのことを心配して、大切に思ってるか、絶対に伝わってるよ!」

「友奈……」

「お姉ちゃん、真優さんそんなこと思ってないよ」

それまで静かに話を聞いていた樹ちゃんが、ゆっくりと口を開いた。

「前……真優さんが、男の人から女の人に変わった時期があったでしょう? その時、私、真優さんに聞いたことがあるの」

樹ちゃんは当時のことを思い出すように、優しく微笑んだ。

「『私は戦うのが怖くて仕方ないのに、どうして真優さんは、いつもみんなより前に立とうとするんですか?』って。……そしたら、真優さん、なんて言ったと思う?」

「なんて……言ったの……?」風先輩が尋ねる。

「『自分だって、死ぬほど怖い』って笑ってたの」

樹ちゃんの言葉に、風先輩がハッと息を呑む。

「真優さんは言ってたよ、『こんなにも怖いのに、勇者部のみんなは、女の子なのに前に出ようとする。だから、僕が一番前に行くんだ』って。……そして、こう続けたの」

樹ちゃんは風先輩の目を真っ直ぐに見つめた。

「『昔、君のお姉さんに助けられた時、彼女の背中を見て思ったんだ。不良相手にあんなに怯えていて、足だって強張っているのに、一人で啖呵を切って僕を庇ってくれた。そんな背中を見せてくれた風さんに、僕はずっと助けられてきた。だから、助けられた自分も、誰かを助けたいと思ったんだ』って」

「あ……」

「真優さんは、恨んでなんかないよ」

 樹ちゃんの声に、強い力が宿る。

「真優さんは、お姉ちゃんに感謝している、あの時、お姉ちゃんが真優さんを助けたからこそ、今の優しい真優さんがある、だから……だから今度は、絶対にお姉ちゃんが真優さんの手を離さないで、絶対に助け出そう」

風先輩は黙って二人を抱きしめ、声を忍ばせて泣いた。大丈夫。私たちの絆は、絶対に負けない。真優さんは、必ず取り戻せる。

 

その夜。

風先輩と樹ちゃんが静かな寝息を立て始めた深夜、私はふと目を覚ました。

胸の奥が、冷たく締め付けられるような感覚。

意識がまどろみの中に沈んでいく中、私は再び“それ”を見た。

真っ暗な暗闇の空間。そこに、瞳を閉じ、意識を失った大葉さんの姿があった。

そして、彼女の体を巨大な漆黒の手が、強く、逃がさぬように抱え込んでいた。

もう時間がない、直感的に理解した。

イザナギによる浸食が進んでいる。次の戦いが、本当に最後のチャンスだ。でも──絶望はなかった。

奪われたものは、取り返す。

あの時私たちには届かなかった手が、今の私たちなら、きっと届く。少しは成長した私たちなら、みんなで力を合わせれば、あの神の手を振り払って、大葉さんを連れ戻せる。

待ってて、大葉さん。

私は暗闇の中で眠る彼女に向かって、心の中で強く語りかけた。

今度こそ。絶対に手を繋いで、みんなで一緒に帰ろう。固い約束を胸に刻みながら、私は静かに深い眠りについたのだった。

 

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