暦の針が歩みを進め、六月が訪れるまで残り一週間という穏やかなある日のことだった。
不意にポケットの中で私=犬吠埼風の勇者端末が震え、取り出して画面を確認すると、そこには「大葉継人」の名が表示されていた。電話に出ると、彼は開口一番、こう告げた。
「風君、そろそろ勇者部の連中も含めて、これまでの祝勝会を兼ねてみんなで旅行に行かないか?」
突然の提案ではあったが、幸いにしてこの時期の勇者部の業務や事務仕事はさほど溜まっておらず、スケジュール的にも大きな支障はなさそうだった。私としては、どうせ近場の温泉か、あるいは香川県内のちょっとしたリゾート施設あたりでのんびりするのだろうと高を括っていた。
「それなら問題ないですよ、多分いけると思います」
軽い調子で返事を返した。
しかし、その直後、継人の口から飛び出した言葉に、風は盛大に耳を疑うことになった。
「じゃあ、愛媛の道後温泉に行くから、みんなに話を通しといてくれ」
「――は? えひめぇ……?!」
思わず電話口で、近所迷惑も省みないような大きめの奇声を上げてしまったのは無理もないことだった。香川から愛媛といえば、海を越えるわけではないにしても、立派な県外への大旅行である。心の準備が全くできていなかった風は、しばらく端末を持ったまま固まってしまったのだった。
そして迎えた、旅行当日の朝。
真優の自宅の玄関先で、迎えにやってくるはずのバスを待つ間、風は隣に立つ真優へとちらりと視線を向けた。
「にしてもさ、真優。いきなり旅行なんて言い出すから驚いたじゃない。いったいどうした風の吹き回しなわけ?」
風の問いかけに、真優はふんわりと柔らかい笑みを浮かべながら答えた。
「あ、うん。なんでも、ここのところずっと続いていた大きめの面倒な仕事が一段落して、一時的にまとまった暇ができたからって……」
「どこでそんな情報聞きつけたのよ?」
「それがね、夜継の健康診断に連れて行った時、春雄さんに偶然会って聞いたんだ」
そう語る真優の表情は、どこか嬉しそうにほころんでいた。自分を育ててくれる父親、家族との久しぶりの大きな旅行だからなのだろう。その姿を見ているだけで、風のほうまで何だか微笑ましい気持ちになってくる。
ふと、真優の腕の中に目をやると、そこには今日の旅行のためにと気合いを入れて選ばれたらしい、少しおめかしした服を着せられた夜継がちょこんと収まっていた。しかし、当の本人は『何でこんな窮屈な服を着せられなあかんねん』とでも言いたげな、盛大に不機嫌そうなブーたれた顔である。
「もう、そんな顔しないの。せっかくの旅行なんだからさ」
風が苦笑しながら「ちょっと抱っこさせてみなさいよ」と手を伸ばすと、夜継は風の顔をじっと見つめた後、『お、こいつならもしかして服を脱がせてくれるんか……?』とでも思ったのか、なぜか急に口元を緩めてニヤァと不敵な笑みを浮かべた。
その隣で真優は、「どう? うちの子、すっごくかわいいでしょ?」とばかりに、目いっぱいのドヤ顔で風のほうをじっと見つめてアピールしてくる。
──いや、親バカになるの早すぎないか? と風は内心でツッコミを入れたが、ふと自分の妹である樹のことになると、自分も負けじと似たような親バカ──いや、姉バカ全開になってしまう自覚があるため、強くは言えなかった。
肝心のその樹といえば、出発の朝だというのに見事に寝坊をかまし、今しがた家の中で「うわぁぁ遅刻するぅぅっ!」と絶叫しながら猛烈な勢いで荷造りと身支度に勤しんでいるところだった。もっとも、今回は一泊二日の小旅行なのだから、さほど大量の荷物など必要ないはずであり、すぐに準備も終わるだろう……と思っていたのだが。
ふと見ると、真優はなぜか普段使いの大きめなボストンバッグに加えて、旅行用としてはオーバースペックすぎるほどに巨大な大型スーツケースまで玄関に引っ張り出していた。
「……ねえ、ちょっと待って真優。その荷物の量はいったい何?」
風が引きつった笑顔で尋ねると、真優は微塵も悪びれる様子もなく、あっけらかんと言い放った。
「え? だって、夜継の着替えとか、おむつとか、ミルクの予備とか、万が一のための常備薬とか……いろいろ入れたらこれくらいになっちゃって」
「一泊二日だってさっき確認したばかりよね? 何があるかわかんないからって、いくらなんでも準備が重装備すぎやしないかしら……」
「これで最低限だよ?」と真優が真顔で返すものだから、風は思わず口をあんぐりと開けたまま言葉を失ってしまった。
そんなことを聞いていると、ようやく樹が息を絶え絶えにさせながらも大荷物を引きずって玄関から飛び出してきた。
まさにその絶妙なタイミングで、道路の向こうから一台の大型の送迎バスがスルスルと音もなく滑り込んできた。
シャッと勢いよくバスの自動扉が開いた瞬間、乗車口の目の前に飛び込んできたのは、なぜか全員お揃いの派手なサングラスをガッチリと装着した園子、銀、そして東郷の三人組だった。
彼女たちはポーズを決めながら、腹の底から響くような大声で叫んだ。
『『『レッツ・エンジョイ! エヒメ・トゥルァァァベェェェル!!!』』』
そのあまりのハイテンションな登場に、風は思わずのけぞりかけたが、それに負けじと腕の中の夜継までが、『とぅぉおーーっ!!』と謎の気合の入った声を張り上げて叫び返している。
相変わらずこの面々は賑やかすぎる。
仲が良いのは結構だけど、もう少し静かに乗車しなさいよ、と風は額に手を当てて深くため息をついたのだった。
◆
愛媛へと向かう大型バスの車内は、乗車した勇者部員たち全員の熱気と興奮に包まれ、賑やかさに満ちあふれていた。
女子中学生と女子高生がこれだけの人数で一堂に会していれば、静かに過ごせるはずもなく、車内は常に誰かのおしゃべりと、カバンから取り出されたお菓子の袋のガサゴソという音、そして楽しげな笑い声が途切れることなく響き渡っていた。
最初のうちは、その賑やかな雰囲気を目をパチパチさせながら面白がっていた夜継だったが、さすがに旅の疲れと朝からの興奮が祟ったのか、いつの間にかパタリと動きを止め、心地よいバスの揺れに身を委ねながらすやすやと可愛い寝息を立てて熟睡し始めていた。
そんな車内の様子をバックミラー越しにちらりと確認しながら、運転席でハンドルを握る春雄さんは、どこか満ち足りたような、穏やかで満足げな笑みを浮かべていた。
後部座席に座っていた私=東郷美森は、そっと手元にあった冷えたお茶のペットボトルをキャップを開けた状態で差し出した。
「春雄さん、お疲れ様です。どうぞ、お茶を召し上がってください」
「おや、気遣いすまないね、東郷くん」
彼はありがたくそれを受け取り、喉を潤すと、ハンドルに片手を置いたまま前方の道路を見据えた。その横顔を見つめながら、東郷はふと気になっていたことを口にした。
「あの……今回のこの愛媛への旅行ですが、なんだか急に決まったように思えたのですが、何か理由があったのですか?」
東郷の問いかけに、春雄は小さく笑ってから答えた。
「あぁ、まあね。水面下で進めていた大赦の重要案件や、これからの方向性の調整がようやく一段落してね。こういうまとまった時間を無理にでも作らないと、みんなで息抜きする暇もないからねぇ。それに……こうして君たちを戦わせるばかりが、我々大人の仕事というわけではないさ」
そう言って優しい目を向けてから、春雄は少し声を潜め、意味深な笑みを浮かべて付け加えた。
「それに、今回は継人にちょっとした『サプライズ』も仕込んでいてね。まあ、それはまだ他のみんなには秘密なんだけどね」
その言葉を聞いた東郷は、ふっと優しく目を細め、上品に微笑んだ。
「ふふっ……サプライズ、ですか。承知いたしました。私からも、他のみんなには絶対に秘密にしておきますね」
──実は、この旅行の直前、銀から頼み事があった。
旅行の前日の夜、銀から園子と東郷の二人に急な連絡が入ったのだ。
「あのさ、まだ椿さんのお墓参りにちゃんと行けてなかったからさ……もしよかったら、みんなで一緒に来てくれないかな?」
と、銀からの突然の誘いに、園子が「どうしたの急に?」と首をかしげると、銀は少し照れくさそうに、しかし真剣な声でこう語ったのだ。
「うん、なんだか……私の中で、色々と吹っ切れたところがあってさ。これからのこととか、色々と考えたんだ。だから、実家に帰る前に、あのパーティーの夜に須美からかけてもらった言葉のおかげで本当に救われたってことも含めて、椿さんにちゃんと報告しておきたくてさ。」
銀のその言葉の裏にある決意を感じ取り、東郷と園子は二つ返事でその誘いを快諾したのだった。
その後、さらに銀から東郷へと直接電話がかかってきて、銀はこう打ち明けた。
「あの夜の須美の言葉があったからこそ、私は両親の仕事や実家を手伝うために地元へ戻る決心がついたんだ。これからは、普通に、平和に生きるための努力をちゃんとしようと思う。だから今回の墓参りは、私なりの『決意表明』みたいなものなんだ」
その銀の決意を聞いたとき、胸が熱くなるのを覚えた。
「わかったわ、喜んで付き合うわよ」
と、力強く返事をしたのだった。
過去の哀しみや戦いの記憶を背負いながらも、少女たちは確実に前へと進んでいる。そして今、こうしてみんなで笑い合える旅の途中にいる。
◆
バスは目的地である道後温泉の温泉街に到着した。
ホテル自体は少し山側の場所なのだが、まずは
みんなで温泉街を散策したり食べ歩きを楽しもうということになっていた。
ただ、出発前に、東郷さんが「ごめんね友奈ちゃん! 銀とそのっちとちょっとだけ大事な約束があるから、後ですぐ追いつくから待っててねぇー!」
「あ、うん! 気をつけてね、いってらっしゃい!」
元気に手を振って見送った後、二人に手を引っ張られながら温泉街に消えていった。
残されたメンバーはそれぞれの目的に合わせて二つのグループに分かれて行動することになった。
一つは、事前のリサーチをバッチリ済ませた風がリーダーシップをとる『食べ歩き・観光組』(風、真優&夜継、友奈、しずく、亜耶)。
もう一つは、到着するなり「まずは一刻も早く温泉で日頃の疲れを癒やすわよ!」と意気込む『温泉組』(夏凜、樹、芽吹、雀、弥勒)である。
「よしっ! この食べ歩きマップに記載されているお店は、一軒残らず全部制覇するわよ!」
先頭に立つ風が、気合いの入った声をあげる。
笑顔でそれに頷きながら、ふと自分の両腕に視線を落とした。いまだに身体の細かい力の加減が微妙に難しくなってしまうことがあるため、今回の散策では真優から交代する形で、夜継ちゃんを抱っこして一緒に移動することになっていた。
真優さんは、四六時中ずっと夜継ちゃんと接触しているせいか、力の加減が私よりずっと上手くなっていた。
「真優さん、力のコントロールが上手で羨ましいな……」
ちょっぴり羨ましそうに呟いたその時、隣を歩いていた亜耶がススッと音もなく近づいてきた。
亜耶は静かな声で友奈に語りかけた。
「あの……友奈先輩。実は私、こうして夜継ちゃんのお世話をしたり、近くで触れ合ったりしていると、なんだか巫女としての力が、強くなっているような気がするんです」
不思議な事を言い出した。
「えっ?」
「夜継ちゃんのお世話をした日に限って神樹様からの神託を受けるんです、それも強いイメージじゃなくて、ふんわりとしたイメージのものをです」
「神託って確か神樹様が私達に何かを伝えたい時に来るやつだよね?東郷さんが言ってた」
「はい、だから神樹様が強く私達を意識した際に神託が降ります、夜継ちゃんと接触した時は神樹様が私達を意識していなくても神託が降りるんです」
受信する力が強くなるんですよ、と亜耶ちゃんは続けた。
そうなると、夜継ちゃんには他人の力を増幅する力があるのだろうか?それも神樹様に由来する力を増幅する能力。
「夜継ちゃんが持っている力は、きっと特別なものなんだと思います。もしかしたら、いつの日か……私たちが直面するかもしれない困難の中で、夜継ちゃんのその特別な力に、みんなが助けられる日が来るかもしれませんね」
亜耶ちゃんの言葉に、私は「そっかぁ、夜継ちゃんは小さいのに、みんなを助けるすごい力を持っているかもしれないんだねぇ……」と目を細め、腕の中の赤ん坊の柔らかい頬を優しくツンツンとつついた。
しかし、当の本人は、亜耶ちゃんの予言的発言などどこ吹く風といった様子で、ちょうど通りかかった名物の「蛇口から出るみかんジュース」の特設スタンドを見つけて目を輝かせていた。
紙コップに入れられた新鮮なみかんジュースを豪快にがぶ飲みする様を、私達がじっと見つめていると、なぜか急にジュースの紙コップを両手でギュッと抱え込み、ジト目で私達を睨みつけた。
──『なんやおまえ、じっと見て……これ欲しいんか? やらんぞ、これはワシのや!』と言いたげな、なんとも警戒心の強い顔つきである。
「あははっ、なんだかすごい警戒されちゃった、私取ったりしないよー?」
楽しそうに声を上げて笑うと、亜耶ちゃんもくすくすと笑っていた。
──この子がみんなを助けるのは、もう少し先というか、まずはもう少しお兄ちゃんになってからかなぁと、ほんわかした気持ちで頭をなでるのであった。
◆
「はあぁぁ……最高……生き返るわ……」
温泉組の面々は、温泉街の一番大きい湯屋に入り広々とした湯船にそれぞれ体を沈めていた。
「昼間から温泉に入るなんて、なんだか贅沢すぎて落ち着かない気もするけど……」と言いつつも、実際にその極上の湯ざわりを肌で体験してしまうと、私=三好夏凜の身体はすっかりとろけきっていた。人間とは実に正直な生き物である。
ふと斜め向こうを見ると、あのいつもピリピリと厳格な芽吹までが、なぜか頭に小さな手ぬぐいを乗せたまま、魂が抜けたような呆けた顔で湯に浸かっていた。
「……芽吹、あんたも案外こういうの嫌いじゃないのね」
からかうように声をかけると、芽吹は少しこちらに目線を向け、言葉を発せずに、ただ静かに右の人差し指で隣の湯船を指さした。
そちらに視線を向けると、うわぁと声を漏らしそうになった。
そこには、想像を遥かに超えたレベルで完全に蕩けきっている弥勒の姿があった。
弥勒は全身の力を完全に抜ききった状態で、湯面の上にとろけるようにベチャアと半身浴のまま横たわり、「あー……もうダメですわぁ……今この瞬間に敵が攻めてきたら、間違いなく秒速で負けますわぁ……」と、完全にダメなレベルの独り言をダラダラと垂れ流していたのだ。
その惨状を目の当たりにして、芽吹は私に向かってどこか誇らしげに胸を張ってみせた。
「……ふっ、弥勒さんの堕落っぷりに比べれば私はまだマシよ、これでもまだ理性をしっかり保っているわ」
それを聞いた弥勒は、湯船の中で力なくうなだれたまま、半目になりながら反論の声を絞り出した。
「芽吹さん、それはいささかひどいですわ……。防人の誇り高き隊員であるこの私だって、普段はキチッとしてますし、たまにはこれくらい、骨抜きになって堕落したってバチは当たりませんわぁ……、まあ大丈夫ですわ芽吹さんいますもの」
いつもキチッとしてるかは疑問です、と芽吹がボヤいていた。しかし頼られてる事は嬉しいのか、口元が緩んでいた。
呆れ顔で「もしここで何か緊急事態が起きたら、芽吹がいなかったらこの部隊は完全に崩壊ね」と言いかけたが。あまりにも弥勒が気持ちよさそうに蕩けているものだから、ツッコミを入れるのも野暮というものかと諦めた。
まあ良いかと、私自身も体の芯からじわじわと染み渡る温泉の心地よさに抗えず、再びふうっと大きく息を吐き出しながら、その温かな湯のなかに全身の力を完全に預けてしまったのだった。
◆
愛媛県内の温泉街へと車を走らせる車内には、どこか落ち着いた空気が流れていた。
俺=三好春信が少し遅れて合流することになったのは、先日の一件で身柄を確保し、詳細な事情聴取を行っていた「九十九」こと、芙蓉・チークウッド・九十九の対応に追われていたからに他ならない。
後部座席には、同じくその事情聴取や現場の確認に付き合っていた赤嶺と桐生の二人が乗っている。車内では取り留めもない、気取らない会話が続いていた。
「春信さん、さっきのサービスエリアで買ったみかん、めっちゃ美味い」
「赤嶺、お前はさっきからそればかりだな。もう少し落ち着いたらどうだ。あくまで大赦の公式な行事の一環なのだからな」
「いいじゃないか桐生 せっかくの愛媛なんだぜ? ……って、それよりさぁ、さっきから気になってたんだけどよ、大葉ってもう向こう着いてんだよな?」
「……お前、相変わらず大葉真優のことになると目が爛々と輝くな。少しは自重しろ」
「うるせぇな別にいいだろ、ちなみに弥勒来てたっけ?」
来てる、と言われ赤嶺はぬぁ~!と頭を抱えていた。
窓の外を流れるみかん畑の景色を眺めながら、思わず苦笑いを漏らした。
「そういえば、乃木園子様が最近やけに春信さんのまわりをウロチョロしてるように見えるが……気のせいか?」
「え、春信さんどうなんすか?」
「どうって……、園子君とは夏凜関係でやり取りしてるだけだよ」
ホントー?と二人が大騒ぎし始める。
やれやれ、と心の中でため息をつきつつ、頭の大部分は、先ほどまで向き合っていた「あのデータ」のことで埋め尽くされていた。
九十九との面談を通じて提供された、彼の親族──かつて世界を大きく揺るがした『芙蓉』と呼ばれた人物が残した膨大な量のデジタルデータ。それを継人さんが詳細にチェックしたところ、そこにはこれまでの大赦が研究してきた方向性とは、根本から異なる理論が記されていた。
継人さんたちが進めてきた研究は、あくまで「いかにして天の神を打ち倒すか」「どうすれば人類の生存圏を守り抜けるか」という、対抗することに特化していた。
しかし、芙蓉が残した研究データは違った。それは「天の神との協調路線」、言い換えれば完全な「共存」を模索するためのものだったのだ。
データによれば、天の神が人類をこれほどまでに徹底的に抹殺しようとする理由は明確である。それは、「人間がいずれ神に至る未来もしくは近付くこと」にほかならない。ならば、人間が神に近づくような進化や技術を持たなければいいのではないか──そう考えるのが普通だが、それでは天の神の基準からすると「不十分」なのだという。
「未来」というあまりにも不確定な要素。どれほど人間側が厳しく制限をかけたところで、とてつもなく偶然な巡り合わせやひょんな事象から、人間が神の領域に到達してしまう可能性を完全にゼロにすることはできない。完全にその芽を摘み取るためには、もはや人類の根絶やししか方法がないと、あちら側の神々は判断している。
では、芙蓉はそれに対してどうアプローチしようとしたのか。
彼は、それを否定するために「人類が神に近づく方法」を研究していた。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、人間が神になる方法をあえて突き詰め、その神格化のプロセスそのものを完全に解明し、そして「潰す」ことで、未来への扉を完全に閉ざそうとしたのだ。
データの核心には、神という存在の定義から始まり、その圧倒的な強大さと曖昧さが綴られていた。人類が目視できるような定型を持たない、あまりにも巨大な力の塊。私たちがこれまでに相対した神々の分体は、人類を滅ぼすためにその場で一時的に定型化された姿に過ぎない。
そんな不定形かつ不可思議な神の存在に、はたして本当に人間の身でたどり着くことができるのか。
芙蓉の導き出した答えの一つが、「人が神と魂ごと一体化する」というものだった。すなわち、神の「眷属」となること。
彼はそれを『神婚』と名付けていた。
そして、それ以外の幾つもの可能性や、神性との接触に関する禁忌のデータが、あの若き青年──九十九の家に眠っていたというわけだ。
「……厄介な置き土産を残していってくれたな」
「ん? なんか言いました、春信さん?」
「いや、何でもない。そろそろ泊まる温泉宿が見えてきた。到着だぞ」
赤嶺と桐生は「おおっ!」と窓の外に視線を向けた。
こうして温泉宿の敷地へと足を踏み入れたのだった。
◆
温泉街を散策した後、ようやく僕たちは今回宿泊する山手の大きなホテルへと到着した。
温泉街ですっかり遊び疲れてしまい、ぐっすりと眠りこけてしまった夜継を、夏凜ちゃんに託し、私=大葉真優は、東郷さんたちと一緒に「食べ歩き組」のメンバー含めて大浴場へと向かうことになった。
──先日パーティー後に宿泊したホテルのお風呂で、銀さんや園子さんから散々質問責めにされた経験があったので、「まあ、みんなと一緒に大きなお風呂に入っても、今度は大丈夫だろう」と、その時の私は心の底から油断しきっていた。
だが、私には決定的な見落としがあった。
……そう、僕は風ちゃんと一緒に大きなお風呂に入ったことがなかったのだ。かつての合宿の時や日々の生活でも、風ちゃんとお風呂の時間が被らないようにこっそりとシャワーを済ませていたことを、すっかり忘れていた。
浴槽に足を踏み入れた瞬間、風ちゃんがじっと僕の全身を舐め回すような──いや、品定めするような下卑た目を向けてきた。
「へぇ……真優、あんた、こうして見ると……その、なに、やっぱ、へへ、めっちゃデッカいわね」
「っ!? 風ちゃん、急に何言い出すの……っ!」
「いやさ、そんなにデカかったら、将来的に国から税金でも取られるんじゃないかって心配になるから……ねぇ?石臼みたいに重くてデカイ尻もお持ちのようで、うどん屋の粉でも挽く気なの?」
「ど、どうしたのさ……!いきなり」
「いやね、元男だからってバカにしてたさ、いやぁ、でかくて感動しちゃったよ、情熱を秘めた肉体」
「ちょっと!風ちゃんおかしくなってるんだけど!?!」
顔が真っ赤になる僕を見かねて、近くにいた東郷さんがスッと割って入ってくれた。
「ちょっと風先輩!真優先輩に対してあまりにもセクハラが過ぎますよ!女の子に向かって石臼なんて言うものではないですよ!」
石臼とか言う奴普通居ない。
東郷さんが庇ってくれた……までは良かったのだが、その言葉を聞いた銀が、なぜか横から割って入ってきた。
「 須美よぉ、須美だって結構デカいほうだろぉ?石臼なのか?」
「ちょっと銀! 何を言い出すの!」
「いやだって事実だし」
「どれどれ、わっしーもおっきいから石臼だねぇ」
「なるほど東郷も石臼なのね」
「「「安産型って奴ですなぁ!!!」」」
ガハハハ!!!と面白半分で園子さんも加勢し始め、セクハラの乱れ撃ち会場である。
やいのやいのと下品なヤジが飛び交う状況の中、銀はふと、一緒にセクハラしまくってる風ちゃんと園子さんをジッと見つめ、何かを思いついたように真顔になった。
「二人だって十分いい体つきしてるよな」
「「え」」
「風先輩、背が高いし、スタイルは高校生っぽくないよなぁ」
「え」
「園子も普通に胸がデカイよなぁ、同級生と比較しても明らかにデカイと思うぜぇ、須美が近くにいるから目立たないだけでよぉ」
「え」
「おいそれとあたしの前に身体をさらすもんじゃないぜ、そこは射程圏内だぜ?」
何のだよ、とは言えなかった。
銀は全方向に向けて無差別にセクハラし始めたからである。それはもう聞くに堪えないものだった。
曰く、そんだけデカかったら耐震性高そうだな!とか、真優先輩と須美が横に並んだらニュートンのゆりかご出来るよな、真ん中はあたしの頭な!とか、園子はエンゲル係数と胸のデカさに相関関係があるのかな?あとなんで春信さんが居る時は胸強調するような服着るの?とか、風先輩は女子力じゃなくてオカン力じゃないんですか?そんなんじゃ女子ロードはひらかれませんよ、海と大地をつらぬいてください。
言いたい放題である。園子さんが『ミノさん!元ネタとっ散らかってるよ!』と叫んでいた。
最初から巻き込まれないようにと遠くの湯船で静かに寛いでいた友奈ちゃんたちは、「あっち行こっか」と、そそくさと安全圏へと避難していた。
とってもかしこい。
◆
最終的に、見かねた東郷さんと園子さんが二人掛かりで銀の両手をガッチリと塞ぎ、体に密着して押さえつけたことでようやく鎮火し、銀はそのままの体勢で浴室の外へと強制連行されていったのだった。
「もっとくっつけ!須美!園子!あたしの肩に乗せる感じで!!」
「ミノさん、だいぶおじさんっぽいこと言ってるよ?」
「銀、これ以上やると吊るすわよ」
「おじさんでも吊るしても良いから!この重みを感じたい!!」
まだやってる。
そんなこんなで心身ともにヘトヘトになりながらも何とかお風呂を済ませた私は、「お風呂上がりだし、部屋着のジャージで楽に過ごそうっと」と気を抜いていたのだが、脱衣場で風ちゃんから「旅行なんだから、服装はちゃんとしなさい!」と強制的に浴衣を着せられてしまった。
前がガバァって開くから嫌なんだけどなぁ。
仕方なく、慣れない浴衣の裾をパタパタさせながら自分の部屋へと戻ろうと廊下を歩いていたその時、前方からちょうどホテルに着いた三好春信さん、そして赤嶺君と桐生君の三人組が歩いてくるのに遭遇した。
「お、真優君。お風呂上がりか? その浴衣、とてもよく似合っているよ」
「大葉、お疲れ、俺達もすぐに宴会場に行くからよろしく」
春信さんと桐生君は、柔らかい笑みを浮かべながら僕に軽く会釈をして挨拶をしてくれた。
だが、なぜか赤嶺君だけは、私の姿を見た瞬間、ピタリと足を止めて、言葉もなくじっと無言で私を見つめていた。
「……? 赤嶺君、どうかした? そんなにじっと見て……」
僕が首をかしげながら尋ねると、赤嶺君は少し気まずそうに目を泳がせながらも、ぶっきらぼうに
「いや……その、いっつもと髪型とか雰囲気が違うからさ……」
「あ、いつもポニーテールだしね」
少しまとめて団子にしており、いつもより首筋が涼しい感じにしている。
赤嶺君的には珍しいようである。首筋をチラチラ見てわ目線を反らしている。面白い。
「あー、そういうことか……浴衣、めちゃくちゃ似合ってて……そのままでちょっと待って」
赤嶺君は慌ててポケットから自分のスマートフォンを取り出すと、私に断りも入れず、一瞬の隙を突いてパシャリと私の写真を勝手に撮影した。
「あ、ちょっと…… なんで勝手に写真撮ってるのさ」
「い、いや、証拠写真というか、その、ありがとう」
赤嶺君は真顔のまま、まるで逃げるように早足でその場から去っていこうとした。
なんだ?と思っていたが、後ろからドタバタと足音が近付いて来た。
「おい、ごらぁあああっっ!! 許可なしでうちの真優の写真を勝手に撮るんじゃないわよっっ!!!」
どこからともなく飛んできた風ちゃん。怒号と共に、綺麗な弧を描いた見事な飛び蹴りが赤嶺君の背中へと綺麗に直撃。
赤嶺君はぐべーという情けない悲鳴を上げながらそのまま床に崩れ落ちたのだった。
◆
ホテルの大宴会場。
俺=大葉継人は、円形の大きなテーブルからスッと立ち上がり、会場にしつらえられたスピーチ用の小さなステージへと上がった。手渡されたマイクを軽く叩いて音を確認。宴会の開始を告げる挨拶と、今日ここに集まった全員の労をねぎらう乾杯の音頭を取った。
「──皆、本日は本当によく集まってくれた。これまでの戦いと、それぞれの労苦に心から感謝する。これからの平和な日々に、乾杯!」
『かんぱーーい!!』
会場中に大きなグラスがぶつかり合う軽やかな音が響き渡り、一気に賑やかな空気が広がっていく。
もっとも、ステージの上に立っている俺と、客席に座っている御柱、そして早崎の三人は、すでに宴会が始まる前の段階でかなり出来上がっていた。タクシーでホテルに向かう車内でも缶ビールを空けていたし、宴会場に入る直前にもホテルのラウンジで軽く一杯引っかけてきていたからだ。すっかり心地よい酔いに包まれながら、俺は自分の席に戻り、グラスのビールを飲み干した。
会場を見渡すと、勇者部員たちも赤嶺たちのグループも、それぞれに料理をつつきながら心から楽しそうに笑い合っている。ふと、遠くに見える赤嶺の顔面に見事な青アザがうっすらと出来ているのが見えたが、深く追求しないでおくことにした。
俺がぼんやりとそんなことを考えていると、スッと隣の席に春信がやってきた。彼は手元に持っていた瓶ビールを傾け、俺の空いたグラスに注いだ。
「継人さん……、例の九十九の件ですが、今後の処遇はどうしますか?」
春信は真剣な目を向けて、九十九について尋ねてきた。
現在の人手不足の状況において、あの九十九の常人離れした身体能力は、正直に言って喉から手が出るほど惜しい人材である。本人自身も、勇者たちやこの世界に関われることに対して大層なやりがいを感じているらしく、やる気自体は十分に認められる。だが、その一方で、彼が纏う「芙蓉」という血筋や、かつての因縁を考えると、そのまま野放しにして外に放り出しておくこともセキュリティ上の大きなリスクとなるのは明白だった。
手元に囲って厳重に管理すべきか、それとも──。
「……九十九の処遇については、もう少し様子を見る。本人の能力は認めるが、あいつの背景にはまだ見えない部分が多い。完全に信用するにはまだ早い。だが、あの特異な能力を放り出すよりは、手元に置いておく方が得策だと俺は考えている」
そう答えると、春信は深く頷いた。
「了解しました。では、その件の最終判断は後日に回すとします。……今日はせっかくの旅行ですので、考えないようにします」
そう言って笑う春信。近くのテーブルで楽しそうにはしゃいでいた園子くんが居たので
「園子くん、俺との会話が終わって春信が暇してるから相手をしてやってくれ」
「ちょっ、待っ……!」
「私も暇だったんよー、春信さん相手してくださいなー」
「あ、わかったから袖を引っ張らないでもらえないかな!浴衣はだけちゃうから!」
春信が焦る姿を横目に、再びグラスに口をつけた。
「……相変わらず冷たいねぇ、継人」
今度は、先ほどまで離れた席にいたはずの桑折春雄が、ひょいと音もなく俺の隣に腰を下ろしてきた。
「どうした?仕事の話か?」
「いや、仕事の話じゃないさ、良い話を持ってきたんだよ」
そう言って、春雄は懐から折りたたまれた一通の書類を取り出し、俺の目の前に置いた。
表紙には「親子鑑定結果報告書」と大きく印刷されていた。
「……おい、なんだこれ。今更何だこの書類は?」
怪訝そうな顔をする俺に、春雄はニコニコと笑みを浮かべながら促した。
「まあ、開いてみな。君が思っているものではないからさ」
言われるがまま、気だるげにその書類の封を切り、中のページを開いた。
そこに記されていたのは、紛うことなき「親子鑑定」の正式な判定結果だった。
──そこには、真優と夜継の間における母子としての適合率、そして、俺と夜継の間における父子としての適合率が、どちらも「親子」とハッキリと記載されていた。
「……は?」
思わず、心臓が大きく跳ね上がった。声が出そうになったが、喉の奥で完全に引っかかった。
「……これ、どういうことだ……?」
何とか声を絞り出すと、春雄は満足そうにグラスを傾けながら解説した。
「嘘じゃないさ、正真正銘の本物だ。思い出してみろ、あの時、君が急進派の連中に渡した『遺伝子改造技術』のベースには、他ならぬ君自身の血液データが組み込まれていたはずだ。あの当時、君は自分の血をベースにしたサンプルを作成し、同時にそのデータとサンプルをかの急進派の連中にも渡していた。だが、あちら側には、君が構築したそのデータを一から読み解いて遺伝子を自力で改造するだけの高度な技術力が不足していたんだよ。だから連中は、君が残したそのサンプルと、二夜の卵子を無理やり掛け合わせて一つの胚を作り上げるしかなかった」
いやぁ、あいつらそこまで大した連中じゃなかったってことさ、とケラケラ笑っている。
春雄の言葉を聞き、脳裏にあの日の記憶がフラッシュバックする。
二夜の息子、その血を受け継ぐ存在として生み出された夜継。そして、その根底には、あの時俺が意図せず提供してしまった『自身の血』が組み込まれていたというのか。
「つまりだね、継人。夜継は、まぎれもなく、君と二夜の血を引く、君の子供なんだよ。おめでとう、父親になった感想はどうだい?」
春雄はそう言って、俺の肩をポンと軽く叩くと、何食わぬ顔で別のテーブルへと歩去っていった。
──そうか。俺の、子供……。
あまりにも唐突すぎる真実の重みに、頭の中が真っ白になり、しばらくの間、言葉を失ってその場に固まってしまった。
頭のなかに、あの小さな赤ん坊の顔が浮かぶ。
「……お父さん? 何だかすごく難しい顔をしてるけど、どうかしたの?」
ふと、声をかけられて顔を上げると、そこにはいつの間にか風呂上がりの浴衣姿で、腕の中に夜継を抱えた真優が立っていた。
「あ、いや……なんでもない、少し酔っただけだ」
真優はきょとんとした顔で首をかしげ、その腕の中に抱えられた夜継は、相変わらず『はやくミルク寄越せや』と言いたげな不遜でふてぶてしい顔つきでこちらをジッと見つめていた。
正直に言って、自分の血がどうこうと言われても、目の前にいるこの生意気な赤ん坊の顔を見ていると、どうしても二夜の面影ばかりが目についてしまい、本当に自分の血が入っているのかどうか今ひとつ実感が湧かない。
だが――それでも、胸の奥底で、小さく、しかし確かな熱を持った何かが灯るのを感じていた。
大きく息を吸い込むと、真優に向かって静かに一つだけ頼み事をしたのだった。
◆
賑やかな宴会が終わり、ほろ酔い加減の参加者たちがそれぞれの部屋へと散っていった後、俺は真優から夜継を預かり、ホテルが完全に貸し切り状態にしている広大な露天風呂へと足を向けていた。
この温泉宿は今回の旅行のために大赦の権限で丸ごと貸し切られているため、一般の宿泊客の目を気にする必要は一切ない。広々とした夜の露天風呂の敷地に足を踏み入れると、湯けむりが立ち込める岩風呂のほうから、なにやら低い男たちの話し声が聞こえてきた。
近づいてみると、そこにはすでに先客がいた。湯船の縁にゆったりと体を預けて寛いでいるのは、桑折春雄、そして御柱と早崎の三人だった。
結局のところ、夜の男湯にはこのおっさん三人組に加え、俺と、そして腕の中に抱えられた赤ん坊の夜継が加わることになり、図らずも「おっさん四人とちびっ子一人」という非常にむさ苦しい顔ぶれが揃うことになった。
「おっ、来たか継人。」
春雄が泡立つ湯船の中から手を挙げて私を手招きする。私は夜継を慎重に抱えたまま、ゆっくりと湯船に身体を沈め、ふうっと大きく長い息を吐き出した。全身の筋肉の緊張がじわじわと解けていくような、極上の心地よさだった。
ふと見ると、腕の中にいる夜継は、人生初の本格的な温泉に驚くどころか、むしろすっかり気に入った様子だった。春雄にひょいと抱っこを代わられても、泣き出すどころか不敵な笑みを浮かべ、温泉の湯面を両手で「パチャパチャ、バシャバシャ!」と盛大に叩きまくって盛大に水飛沫をあげている。
「夜継は泣かないなぁ、うちのはびーびー泣いてたぞ」
御柱が呆れたような、しかし感心したような笑みを漏らす。
それも無理はない。こいつは、生まれてから毎日、我が家及び学校の勇者や巫女といった年上の女性陣に代わる代わる抱っこされ、チヤホヤされて育てられているのだ。普通の赤ん坊とは経験値が最初から違っている。
心地よい夜風と湯の温もりに包まれながら、男たちはしばらく他愛のない雑談に興じていたが、ふと、私は頭の片隅からどうしても離れなかった深刻な懸念を、口に出すことにした。
「……なあ、春雄。少し、これからの『勇者部』のことについて話しておきたいことがあるんだが」
低く改まったトーンに、春雄は真剣な眼差しでこちらを向いた。
「なんだ、改まって。仕事の話か?」
「あぁ、今後の見通しについてだ。……ぶっちゃけた話、あの娘たちがいつまで『勇者』として戦える期間を維持できると思う?」
「勇者としての活動限界か……」
「正直なところ俺たちにはまだ分からない部分が多い。神樹が何歳までの女性を勇者として認識し、力を与え続けるのか……肝心のデータが決定的に不足している」
俺の言葉に、御柱と早崎も表情を曇らせた。
世界に平和が戻り、今はこうして笑い合っているが、天の神々との戦いが完全に消え去ったわけではない。いつか再び訪れるかもしれない脅威に備えるため、常に先を見据えなければならなかった。
「……要するに、『後釜』の育成や選定を真剣に考えるべき時期が来ているかもしれないと?」
春雄が静かに問いかけると、俺は黙って頷いた。
「そうだ。だが、問題はそれだけじゃない。勇者の数を増やすこと自体が、そもそも極めて難しい選択肢なのだからな。下手に新しい勇者を増やせば、それはダイレクトに神樹自身の寿命を削り、世界そのものの崩壊を早めることに直結する。だから、簡単に『じゃあ次の子たちを育てよう』とは言えないジレンマがある」
勇者システムは、人類の盾であると同時に、あまりにも繊細で不安定なのだ。
「もし、再び新しい勇者を増やすという決断をしなければならない瞬間が来るとすれば……それは、敵との完全な全滅戦争、人類の存亡を賭けた最後の戦いが始まった時だけだ。そんな状況には、二度と陥って欲しくないがな」
俺の言葉を聞いた春雄は、しばらくの間、湯船の揺らぎをじっと見つめながら黙り込んでいた。やがて、彼はふっと息を吐き出し、静かに口を開いた。
「……そうだな。お前の言う通りだ。だが、継人、もし万が一、本当に次の世代の子供たちを選定せざるを得ない時が来たなら……その時は、迷わず早めに俺に教えてくれ」
「……どういうことだ?」
疑問を投げかける俺に、春雄は力強く、しかしどこか切なさを帯びた目で微笑みながら言った。
「我々のような、奴等と戦うことのできない大人の代わりに、再び過酷な戦場に身を投じることになる子供たちには……大赦として、いや、大人としての責任を果たすために、可能な限り最も充実した、手厚いバックアップ体制を用意してやりたい。二度と、あんな悲惨な犠牲を出さないためにね」
その春雄の言葉に、隣で聞いていた御柱と早崎は力強くサムズアップのポーズを作ってみせた。
「春雄の言う通りだぜ! 俺たちがいるかぎり、次の世代にはできる限りの最高の環境を整えてやるさ」
「あぁ、任せとけって!」
戦い方しか教えてあげられねぇけどな!と笑う二人。
仲間の姿を見て、少しだけ肩の荷が下りたような気がした。と、その時である。春雄に抱っこされていたはずの夜継が、なぜか周囲の大人たちのやり取りを理解しているかのように、小さな右手をピッとピンと伸ばし、ぎこちないながらも必死に『サムズアップ』のポーズの真似事をしてみせたのだ。
そのあまりにタイミングが良すぎるドヤ顔の赤ん坊の仕草に、湯船にいたおっさんたちは思わず吹き出し、その場に大きな笑い声が響きわたった。
「おいおい、お前も将来は一丁前に戦うつもりか? まったく、先が思いやられるぜ」
苦笑しながら、夜継の小さな頭を撫でた。
「その時は……よろしく頼むわ、みんな」
静かに頭を下げた。
──ふと、男たちの耳に、温泉の露天風呂の壁を隔てた向こう側から、楽しげな少女たちの笑い声が風に乗って微かに届いてきた。
ホテルの庭園や客室の方角から響いてくるのは、今まさに青春を謳歌している勇者部員たちの、濁りのない無邪気な声だった。
できることなら、あの子たちが二度と戦う必要などなく、このまま末長く平穏で幸せな日常を謳歌し続けられること。それこそが、今を生きる大人である俺達が命を賭けて守り抜きたい物、唯一にして最大の未来だった。
腕の中に夜継をしっかりと抱き直し、私は夜空を覆う満天の星々を静かに仰ぎ見た。
温かな温泉の湯気と、子供達の絶えない笑い声を背に受けながら、俺たちは静かに湯船に身体を預けた。
日常の話は一旦終わります。
次からは最後の章になります。