騎士王の影武者   作:sabu

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 築くことはなく
 Nor known to Life.
 


第97話 レディ・ギネヴィアと双対の凶星 結

 

 

 その日は特に変わった前触れはない筈だった。

 誰しもが口を揃える。何も変わらぬ日々。いつもと変わらぬ空であると。

 過ぎ去る時間は静寂を貫き、流れる風はまだ日の出故に寒冷ではあるが、荒ぶ嵐からは程遠かった。夜明けの薄日に照らされた空はまだ暗く、陽の光を浴びた雨雲は灰色。

 直に雨が降るのかもしれない。

 

 所詮その程度。

 代わり映えのない空には何の変哲もない。

 これが白亜の城が如き晴天の青空か、魔王が君臨する廃城のように、轟く暗雲でもあれば分かり易かっただろう。

 

 身構え。覚悟。剣を手にし抗う本能。

 それはきっと、もうとっくに付いていた。

 天は我らを祝福していると思えるか、たとえ凶星によって空が荒れ狂おうと、それでも立ち向かうと思えていたのだから。

 

 ブリテンからの逃亡——もしくはサー・ランスロットの故国への帰路の途中、彼らは動乱の最中に捨てられた廃城を拠点とし、日の出まで待機していた。

 ランスロット卿の逃亡に加担した彼ら。その中の一人の騎士は、廃城の監視塔から空を見上げる。

 

 何の変哲もない空だ。

 晴れ渡る青空に陽が輝く日ならば、この行為の赦しを得られたようにも思えた。もしくは激しい雨が降れば、この罪の意識も何もかもを洗い流してくれたのかもしれない。

 そのどちらでもないなら、やはり変哲のない空と言える。

 しかしそれが——平穏を表しているとは思えなかった。

 

 言わばそれは、燃え盛る炎がすぅと音もなく消えてしまったかのような不吉さと同じだった。

 大地の脈動が如き溶鉄が冷え切り、研ぎ澄ませた刃と同じ鋭利さを得ようと変化している。そんな前触れ。即ちそれは——嵐の前の静けさと変わりがない。

 静寂に支配された廃城は、何かを恐れている。流れる風の音だけが辺りには響いていた。

 

 

 

「………ッ———」

 

 

 

 不意に風が、止む。

 

 刹那、風向きが変化した。

 その風に引かれるようにして、監視塔の彼は確かにそれを見た。

 平原を挟んだ丘の上に佇む人影。

 鈍色の輝きを不気味に放つ黄金の剣を携えて、此方を見上げる一騎。

 

 来た——遂に来た。

 

 狼煙が上げられる。号令が下される。

 それは只人には制御出来ない災害にも等しい暴威の化身。

 戦場に振り撒くあの暴威を一度でも見れば、彼女の姿は嫌でも覚える。

 瞳の裏に焼き付くあの姿はいつも後ろ姿ばかりだった。彼女が味方だったから。ただ——今回は真正面から、あの竜の化身と相対する事となる。

 

 それが意味するところはつまり。

 嵐がすぐそこに来ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ランスロット卿………あれを」

 

「………………」

 

 

 

 古錆びた古城。監視塔の青年からランスロット卿は報告を受け、視線を平原に向けた。

 平原の丘に佇む彼女。

 その傍らにあるは、日の出にありながら月下の光を照り返しているが如く、淡い輝きを晒す聖剣。黄金にありながら、黄金の輝きを放っていないカリバーン。

 半身に外套を纏い、燃え尽きた灰のような黒い首巻きを風に靡かせている彼女は、放浪の武者と思える出立ちだった。少なくとも騎士らしくはない。

 

 刀身を抜き身にしたまま、彼女は真っ直ぐに城塞を見上げる。

 勿論その視線の先にいるのは、湖の騎士、サー・ランスロット。

 外れたバイザーの下には、竜のような金色の瞳が見据えている。

 

 

 

「………私が行こう」

 

「ですが——!」

 

「いいや良い。彼女が……陛下が一人で来たという事はそういう事だ」

 

 

 

 ランスロットは側の青年を手で制止、監視塔の階段を下りる。

 彼女は自らの罪を裁きに来ているのだと。

 他でもなく彼女自身の手によって、王自ら。国の体裁として貴様らは許せない。その罪を裁く必要があると。彼女が聖杯探索に赴いている間に起きた出来事。それが何よりの、彼女への裏切りとなってしまった。

 

 

 

「すまない。ギネヴィア王妃を、頼みたい。私の領地に取り次げばきっと問題は無い」

 

「……………」

 

「今の内に裏口から。

 ただ私の為に協力してくれた貴公らまでもが罪を被る必要はない」

 

 

 

 以前ランスロット卿が力を貸してくれたから。彼の人格に惹かれたから。

 そう言う理由だけでついて来てくれた彼らに、ランスロットは王妃を任せる。ランスロットのすぐ側にいた騎士はその言葉に、無念を秘めながら深く頷いた。

 

 理由が何であれ一度彼女の手を取った。陛下ではなく、彼女を。

 ならば、守らなくてはならない。

 それは女性を慮る騎士としてか、もしくは支払った犠牲を無駄にしない為か。きっとその両方でありそれ故に——ギネヴィア王妃自身への情愛はないのだろう。

 そう自覚したランスロットの足取りは、決して重いものではなくなった。

 彼の歩みは罪人が絞首台に登るのではなく、巡礼者が棘の道を見据えて一歩を踏み出すのに似ている。

 ランスロットは廃城を降り、門を開け、平野を歩く。

 

 そうして、不気味な程に静かに佇む彼女と相対する。

 

 城の裏は森と茂みを挟み、その後ろに野原が広がっている。

 逃げるには良い地形だ。森に隠れて彼らは逃げるだろう。視界を塞ぐ物がある都合上、彼女には分からない。

 彼女と対面したランスロットに、恐怖はなかった。

 張り詰めるような感覚が二人の間にはなく、針を刺すような圧もないからかもしれない。

 吹き渡る風が、颯爽とランスロットの心を薙ぐに留まる。

 対面し、足を止めたランスロットを前にして、彼女はようやく口を開いた。

 

 

 

「アグラヴェイン卿は重体。ガレスは目を覚さず、円卓は三名が死亡。

 彼らの部下はバラバラとなり、粛正騎士隊はその頭を失い、暫くの間は事態収束に翻弄され本来の役割に付けない。その代わりとして私が直接此処に。

 必要性の有無の確認は、今更必要ありませんでしょう」

 

 

 

 罪人を裁く事も出来ない国は、もう国ではない。

 それを表すように、無表情で彼女はそう言った。

 ……良く似ている。今更そう思った。あの魔女ともそうだが、何より——ガウェイン卿と。

 言葉は極めて丁寧である事を心掛けながら、しかし決心すると表情が凍り付く。

 その言葉を、そっくりそのままガウェイン卿に言わせても大した違和感がない。

 外れたバイザーより見据える彼女の視線は、瞳の色が違うのみで、太陽である事を辞めたサー・ガウェインの如く凍り付いている。

 

 

 

「許しは、求めてはおりません」

 

 

 

 ランスロット卿は、彼女にそう返す。

 跪き、言葉を続ける。

 

 

 

「この身は如何ようにも。

 我が身にはもはや償いのないモノばかり。ここで、罪を受け入れます」

 

「裁きを受け入れ、たとえそれが死であろうと拒まない、と」

 

「はい」

 

「円卓の騎士を手にかけた事は」

 

「……弁論の余地もなく」

 

 

 

 言葉が途切れた。

 跪いた視線の端では、眩い光と言うよりも光そのもの……白熱した光を不気味に照り返し続けているカリバーンが、冷たい圧を放っている。

 真上から落とされる彼女の視線には揺らぎもない。

 即ち彼女の心は揺れても居らず、感情には波紋の如き揺らぎもない。

 

 

 

「それで」

 

「陛下。今から私は、貴方と共にキャメロットへと戻ります。

 罪人として私を裁いてください。騎士の名誉などは……もはや」

 

「彼らは」

 

「……………」

 

 

 

 一瞬言葉に悩んだ末に、ランスロットは決心して告げた。

 傍から見れば、一介の騎士が主君に進言するような様子だった。

 

 

 

「彼らの事まで罪人として裁く必要はないかと、存じます」

 

「見逃しては貰えないか、と」

 

「いいえ……! いいえ、そう言う訳ではなく、ただ彼らは、私が……唆したにも等しい。彼らに罪はない。私について来てくれただけです」

 

「ではギネヴィア王妃もそうだと?」

 

「…………はい」

 

 

 

 だからどうか、とランスロットは更に深く頭を下げた。

 それを、冷たい瞳が見下ろしていた。

 吹き渡る風の音が響く。

 冷たい緊張が、ランスロットにのみ走っていた。僅かに身じろぎする気配も音もしない。いっそ不気味な程、彼女は無言だった。

 

 

 

「そうですか」

 

 

 

 ようやく、彼女は反応らしい反応をした。

 何かを理解し反芻するような声だった。

 

 

 

「分かりました」

 

 

 

 彼女に反応して、ランスロットは顔を上げる。

 見上げた視線の先には、鈍色の輝きが消えた聖剣があった。不気味な光が薄れていくと共に圧が消えていく。

 ランスロット卿が顔を上げるのと、彼女が聖剣を鞘に収めたのは同時だった。

 硬質な響きを残し、聖剣はその刃を鞘に封印する。

 彼女の半身に被ったマントに隠れ、聖剣の圧力は完全にその場から無くなった。底冷えするような圧力が消えた彼女は、そのまま何処かへと消えてしまいそうな程に穏やかに見える。

 

 交差していた視線が外れた。

 彼女はマントに隠れた鞘に手を当てながら、虚空を見つめていた。

 意志らしい意志はない。黄昏れているような風貌だ。

 

 

 

「感謝、致します。この御恩は——」

 

 

 

 虚空を見つめて黄昏れている彼女。

 複雑な感情を消化しているような佇まいの彼女に、ランスロットは再び頭を下げた。

 事がどうであれ、彼女は彼らの事を見逃してくれる。

 必要以上の殺戮を行わない。元々この罪は己が命のみで償うべきものだったのだ。だから彼らの命は、己が命で釣り合う——

 

 

 ——ビィィッ………ン!

 

 

 そこまで考えた時だった。

 それは、一体何の音だったのだろう。

 竪琴を弾いたように澄んだ、艶やかな音色がランスロットの耳を掠めた。

 涼やかなその音色は明らかに戦場には相応しくない綺麗な音として残響となり、ランスロットの耳に残り続け——その事実に、全身に悪寒が走り抜ける。

 残響と共に耳に走る、刺激。耳を縦に裂かれたかのような、痛み。

 

 

 

「首を狙ったものが、貴方にだけ当たらないとは」

 

 

 

 続いて何か、質量のあるものが落下した音が聞こえてくる。

 ドサッ、という音。

 後方から聴こえて来た。

 

 

 

「湖の加護………いや、精霊の加護か」

 

 

 

 ランスロットは振り向く。

 振り向かねばならなかった。

 振り向いた先では、一人の騎士がいる。先程まで会話していた監視塔の青年。

 正しくその人が——塔の真下に落下している。

 それだけならまだ良かったろうに、その残酷な光景が目に焼き付く。

 彼は首から上を、叩き落とされていた。

 

 

 

「どうやら貴方を育てた精霊が、その武練に相対しろと仰っているようで」

 

「——ッ!」

 

 

 

 ——ビィィッ………ン!

 

 再び全身に走った悪寒がランスロットを生かした。

 何かの目的がある訳ではない。反射がランスロットを動かしたのだ。

 再び奏でられる殺戮の音色。

 瞬時に飛び退き、引き抜いた湖の聖剣が真空の刃を辛うじて弾く。

 

 この土壇場でならもう勘違いしようはない。

 黄昏れを見つめたまま、彼女はまるで流れる風の如き自然さで、首を叩き落としにかかって来た。その手に握られているのは真空の弓。妖弦——痛哭の幻奏(フェイルノート)

 魔弓によって揺られた大気が、その姿を日の下に現す。

 彼女は半身に纏ったマント、アグラヴェイン卿のマントの裏側に隠して、まるで暗器の如く音速の刃を爪弾いて来た。

 

 

 

「何故——何故だ………ッ今君は」

 

「あぁアレですか。

 アレは別に、貴方の言い分は分かりましたと言う意味なだけで、何も」

 

 

 

 彼女が浮かべる笑みは、欠けらもない慈悲の表面上の表れか。

 いっそ甘さを感じる程の声。その口角を上げただけの笑み。まるでそれは、慈悲を込めたサー・トリスタンの頬笑みが如く。

 

 

 

「確かに貴方の言い分は的を射ていた。

 彼らに罪はない。故に私は彼らを罪人として裁く事はない」

 

「なら何故、何故今——!」

 

「すみません。生かして置く価値がありませんから」

 

 

 

 ——ビィィィッ………ン!

 ——ギィィィッ………ン!

 

 

 彼女の慈悲無き断言と共に、再び弦が爪弾かれた。

 人差し指と中指が動く。

 辺りに響くのは、張り詰めた弦を弾く音。

 しかし、その音の中に収められた力の殺傷能力は人体など即座にバラバラに分解する程の力を持っているのだ。ランスロットがその音色を弾く後ろで、廃城の城壁が抉れていく。

 

 

 

「ところでですがランスロット卿。貴方は最初、何を己の信念にしましたか?」

 

 

 

 殺戮の雨にも等しい斬撃がランスロットに降り注がれる中、まるで何げない会話の延長線上であるかのように彼女は言祝ぐ。そこには殺意や敵意は欠片もない。

 だが、死を葬いしかし死を奏でられている痛哭の幻奏(フェイルノート)は、新たな主を得て歓喜したかの如く狂い咲いていた。

 

 

 

「やはり湖の精霊に育てられた経験から、女性は大切にせよという信念でしょうか。

 それとも自らの武練を正しく使う為、剣を捧げる主は正しく理想の君主にしたい、という騎士道精神でしょうか」

 

 

 

 彼女の弾く弓。

 それは正しく、完璧と言っても良い程の精度でランスロットを抉り続けた。

 まるで流れる風が全て斬撃に変わったようだった。この射は彼女のモノではない。トリスタン卿が生涯をかけて練り上げ続けたモノ。

 

 それを、彼女が使っている。

 

 感情になど一切左右されず。トリスタン卿の全盛期、完璧な精神状態、最高調の技量——それだけを抽出しているかのように。

 大気に躍る赤色の光。血色の糸。

 張り巡らせた蜘蛛の糸の如く、妖弦はランスロットを追い詰め、解れてしまい役に立たない筈の数本の糸は、曲を統制する指揮者の如く舞い踊っていた。

 

 

 

「どうなのですか、ランスロット卿。

 やはり罪無き人を一方的に手にかけるのは貴方の信念に反しますか?

 貴方の信念には……いえ信念など関係なくとも、弱き人を助ける事が騎士の本懐。騎士の騎士足る貴方なら、こんな問答に意味はありませんでしたね」

 

「—————」

 

「私の信念はですね。

 罪のあるなしに関わらず、人を殺す為に非情を受け入れる事。そして、その覚悟です」

 

 

 

 黄昏を見つめる彼女。

 返事をする余裕すらほとんどないランスロットに対し、彼女は極めて穏やかに言葉をかける。

 そう。彼女は未だ、凪ぐ風の如き自然体で、そして平穏さの塊だった。

 爪弾かれる殺戮の刃さえなければ、普段の何げない会話と変わらない程には、穏やかだった。

 その穏やかさで。黄昏を見つめながら、彼女はランスロットに死を振り撒いている。凪ぐ風は全て死神の鎌と同じ。無感動なトリスタン卿がそこにいる。

 

 

 

「そう例えば。

 一つの村を生贄にして大勢を生かす為の、覚悟とか」

 

「———ぐっ………——!」

 

 

 

 痛哭の幻奏(フェイルノート)の一撃が、遂にランスロットを捉えた。

 剣の弾きが甘く、顔の頬に赤い一筋の線を刻む。流れる血。疲労や痛みにより集中が削がれる事はない——ない筈だ。

 しかし、確かに一射届いてしまった。

 

 ——彼女の言葉に耳を傾けてはならない。

 

 そう理解していながら、意識の一部が彼女の紡ぐ声に引き寄せられてしまう。

 彼女は言葉をも使って、ランスロットを殺戮しようとしている。

 それはまるで、耳元で災いを囁く魔女にも似ていた。

 音の刃。言葉という剣。その両方を以って肉体と精神、彼女はその両方をズタズタにしようとしているのだ。

 

 

 

「そう言えば以前、あの日、ただ一人だけアーサー王に懇願した騎士がいた。

 私一人なら、片腕が封じられても支障はないからという懇願。せめて一人の少女は守ろうという願い。

 あれはその騎士の信念に関わる事……かは分かりかねますが、一体どうだったのか。

 あの少女は救えたのでしょうか」

 

 

 

 聞くな。悪意を持った言葉だ。

 

 

 

「あぁ、あの懇願は封殺されてましたね。

 そうでしょう。たかが小娘一人の命と国全体のリスクは釣り合わない。

 その事を真に理解しているのはアーサー王だけだった。だからその騎士も、あの少女を見捨てるしかなかった」

 

 

 

 聞くな。

 

 

 

「いや……同じように理解している騎士が、もう一人いた。

 アーサー王に懇願した騎士、その人が。

 だからその騎士は、己自身で懇願を封殺したのでしょうか。

 今度は違うかもしれませんよ。あの日アーサー王にしたように、私には説得を試みないのですか?」

 

 

 

 ……聞くな。

 

 

 

「教えてくださいよ、ランスロット卿」

 

 

 

 ……聞くな——

 

 

 

「あの時貴方は。

 昔置いて来た一人息子を、私に重ねていましたか?」

 

「———」

 

 

 

 再び爪弾かれる音の刃がランスロットを掠める。

 あぁ、今ばかりは彼女を魔女の手先だと、彼女こそが魔女そのものだという汚名を吹聴した騎士達にも同調出来よう。

 

 彼女に押されている。彼女に一歩も近付けない。

 凄まじい装填速度を誇る妖弦の雨の中ですら、一歩一歩と足を進められる湖の騎士が、追い詰められている。

 それは意識の違いだった。

 あらゆる手段を用いて殺しにかかる覚悟を決めた者と、そうではないもの。

 即ち、掲げた信念。

 

 

 

「ッ———君の怒りも分かる……ッ!

 あの日不当に全てを奪われた嘆き、怒り、憎しみ、その全てを受け入れる覚悟はある……ッ! だがそれなら、私一人だけで——」

 

「いいえ、いいえランスロット卿。貴方はまだ分かっていない。

 ですので私は、まず貴方にこう言わなくてはならない」

 

 

 

 刹那、彼女から表情が消える。

 

 

 

「貴方はあの時、あの少女を殺すべきだった」

 

 

 

 脳裏に思考の空白が走った。

 それから現実に戻してくれたのは、眼前にて踊り出した死。荒れ狂う音の音色。

 脳天にて向けられた真空の刃を紙一重で避けた。それが額を掠め、後方の城塞を抉る。しかしその斬撃痕は余りにも鋭く、そして深い。

 

 

 

「何、を——」

 

「違いますか。あの日あの場所で、生かして置く価値などない少女を、貴方達は何故か生かした。見捨てるという選択の放棄を以ってだ。

 もはやアレは、生きる事が苦しみと同義になる事は目に見えている。ならばせめて、刃による死の方がまだ慈悲があっただろうに」

 

 

 

 攻撃が、止んだ。

 魔弓に手をかけたままの彼女だが、虚空を見つめて黄昏れるような気配は微塵もない。

 

 

 

「そして事後処理の判断でも、貴方達は間違えた。

 何の因果か生き残ってしまった存在。それはまだ良い。所詮はあり得ない可能性の具現。運良く生き残っただけの命。想定しようもない。

 ただ貴方達は、再び相見えたその存在、裏側に魔女の面影を潜めている事は明らかな者を手にかけず、見逃した。

 何か一つ掛け違えば、国を滅ぼし兼ねないモノを」

 

「何を、言って——」

 

「だから私は、そんな間違いだけは、犯さない」

 

 

 

 太陽が隠れ、大地が冷え切るように。

 暗雲が晴れ、月光が照らし出されるように。

 彼女の雰囲気がすっと染まり上がる。

 

 

 

「私は選ぶ。

 罪のあるなしに関わらず、私は彼らを一人残らず殲滅する」

 

 

 

 吐き出す言葉は、妄執に呑まれた呪詛と変わらなかった。

 そんな呪詛を、齢二十にもなっていない少女が吐いている。

 数百年と時を重ねた老人ですら、稀なのに。

 

 

 

「今は罪などなくとも、彼らは貴方に味方をした。

 ならばその叛意の芽、僅かにも芽吹く可能性があるのなら、私はその土壌ごと刈り取る。

 罪人で無かろうと、賢者であろうと関係ない。

 私は、手にかける」

 

 

 

 それは己がそうだったから。

 焼き払われながら、しかし刈り取られなかった芽。何の因果か、魔女モルガンが掬い上げただけの花。そこに同じ立場だった者の同情は、ない。

 ただ事実経験してきた出来事だけに裏打ちされた覚悟を以って、彼女は一切の迷いなく宣言する。酷い皮肉だ。もしもあの日、彼女がアーサー王の立場だったのなら、より徹底して己の手を汚すと言ったに等しかった。

 

 

 

「故に私はもう一度貴方に答える。

 私の信念は罪のあるなしに関わらず、人を手にかける為の覚悟です」

 

「…………」

 

「そして、もう一度貴方に問う。

 あの少女は救えましたか?」

 

 

 

 凪ぐ風のように自然で、悪意を持ち得て抉るように、彼女は淡々とランスロットに問いかけた。彼女の言葉と問いの全ては、ランスロットという存在の全てを縛り付ける為のモノだったのかもしれない。

 口の中はカラカラに乾き、言葉という言葉が出なかった。

 空白となった穴に風が吹き抜けていくだけのように、あらゆる言葉が通り抜けていく。手に残る剣の重さと冷たさは鮮明だというのに。

 

 如何なる言葉なら彼女に届くのだろう。

 幾つもの言葉が浮かんでは、所詮それが記号と記号の繋ぎ合わせのように思えてならなかった。否、事実彼女にとってそうなのだろう。あらゆる単語など、彼女は音の集合として受け流す。良心に訴えかける段階など疾うに過ぎ去った。心など置き去りにした人間に対し、心を揺らがせようなどと何と意味なき事か。

 

 あらゆる言葉を彼女は封殺する。

 何があろうと、彼らや己にどんな剣を取る理由があろうと。

 ケイ卿やトリスタン卿、そしてガウェイン卿にも、剣を取る理由があったのだから。

 

 冷たく荒ぶ風の中、彼は硬直する。

 その時だった。

 

 

 

「結構。貴方はやはりそうなのですね」

 

 

 

 ランスロットの後方。真後ろの廃城から——悲鳴が聞こえて来る。

 次いで、黒い煙と物が焼ける音が響いた。

 城の背後の森が燃え上がる。急速に広がる火の手は、明らかに人為的だろう。

 慌てふためき、逃げ場を無くした彼ら騎士達は、火の手が伸びない此方側の平原に雪崩れ込む。

 その騎士達に、彼女はトリスタン卿の魔弓を向けた。

 

 

 

「今回は説得すらなく、捧げる覚悟も、剣もない。

 ならばもう、必要はない」

 

 

 

 ——ビィィッ………ン!

 

 

 彼女は一人ではなかったのか。

 彼女の粛清に協力する騎士達がいたのか。

 背後の森の炎上は、火矢によるものか。

 駆け抜けた思考は、再び爪弾かれる音色によって現実へと叩き落とされる。

 しかしその音色の餌食になっているのはランスロットではない。逃げ場を無くして雪崩れ込んで来た彼ら騎士達だ。

 

 

 

「ま、待ってくれ——」

 

「申し訳ありませんが、私は先程言った通り。

 懇願だけでは何も変わりようがない」

 

「ルー、ナ——」

 

「ですが諦めてはいけなかった。

 説得はない。貴方の剣は在処は一体何処にあるのか。そも、願うだけの生き物には、やはり生かして置く価値を見出せない。

 私を説得出来た人間は、この世には一人しかいないようです。

 あぁ、その一人は………貴方が殺してしまったのでしたね」

 

「ルー、ナ……っ……!」

 

 

 

 ——ビィィッ………ン!

 

 

 振り直った先の彼女は微笑みを浮かべていた。

 あぁ——もしかしたらそれは、彼女の僅かばかりの慈悲なのかも知れない。彼女がその気なら、言葉を交わす必要すらなかっただろう。

 彼女の笑み。

 トリスタン卿が浮かべるモノにも似たそれは、彼女がやればまるで、人の愚かさを見ながら慈愛の笑みを浮かべる女神のようだった。

 もしくはこの世の不条理を正さぬまま、全ての責を人類に置き去りにした神格の類か。

 人類に理不尽という名の試練を一方的に振り撒く超常のモノのように、彼女は死の音色を彼らに振り撒き続けていた。

 

 

 

「—————ッ」

 

 

 

 また一人、また一人とランスロットの後方で人が死んでいく。

 炎による熱と黒煙は此方にまで広がって来ていた。

 交渉の可能性は潰えている。僅かばかりの可能性は闇へと溶けた。

 ならばもう彼らの言う通り、騎士達の献身に報いる為にも、逃げるしかないのか。

 逃げる——では何処へ?

 彼らを無為に犠牲にし、生き延びて、己は一体何を?

 

 

 

「どうしますか、ランスロット卿。私も殺しますか?」

 

 

 

 引き絞った弦、また一撃が装填される。

 

 

 

「殺せば止まりますよ」

 

 

 

 手を離れた弦。

 装填されている不可視の一撃。

 後方のボールス卿が斬り返し、弾く。

 

 

 

「殺さなければ、止まらない」

 

 

 

 秒の間すらなく弦に指がかかる。

 その弦が弾かれば、もう剣を振り抜き切っているボールスは首を叩き落とされるだろう。

 それほどに、トリスタン卿と同じ絶技を乱用する彼女は、疾い。

 

 

 

「止めれた筈の誰かを止めなかった、その代償を払うのは、いつも」

 

 

 

 彼女の指が走り、弦が弾かれる。

 

 

 

「関係のない民しか居ないでしょう?」

 

「………っ——ルーナァァァァッ!」

 

 

 

 ——その瞬間、悲鳴の如く張り叫んでランスロットは剣を抜く。

 放たれた一撃はランスロットの頬を掠めてボールス卿に届く事なく、湖の聖剣によって弾かれた。放った剣は殆ど無意識。落下した稲妻にも似た感情の濁流がランスロットを動かす。

 当然それは高鳴りなどではなく、追い立てられた死兵が一矢報いる為に突撃したようなモノだ。

 彼のそれは今までの怒りの瞬間的な発露、もしくは不条理への反抗や理不尽への抗いにも似ている。

 

 手負いの獣が、咄嗟の狂気に身を任せ暴れるが如し。

 彼の目。その表情。断崖へと追い詰められた只人と変わらず、多くの騎士と貴婦人から羨望の的になった美貌は見る影を失くしていた。

 何も見えない深い暗闇の中、僅かに見えてしまった光に向かって走る亡者が如く、ランスロットは彼女へと踏み込む。

 その瞳に、昏い光を宿して。

 

 

 

「…………————」

 

 

 

 すぅ、と彼女の表情が死んだ。

 彼女の微笑みが消えて標的が新たに定められる。

 その標的は当然、遂に湖の聖剣を抜き放ったランスロット。構えられた魔弓には一点の曇りはなく、爪で引き裂くように弦は弾かれた。

 爪弾かれる音色は音速。

 しかし、放たれる不可視の斬撃の数々を、まるで見えているかの如くランスロットは弾き返し、あまつさえ彼女に向かって走り抜く。

 致命傷には至らない攻撃は全て無視。必要なものだけを聖剣で防ぎ、弾く。突風を掻き分けるように進む。

 

 この土壇場に於いてのそれは、正に円卓最強。

 右に並べる者無しと謳われた彼の絶技だった。

 彼の技は、たとえ如何なる精神的制約を受けようと陰りもしない。

 心技体全ての合一を受けた彼の武練。そう、彼はどうすれば正しいのか理解している。その彼に、土壇場などありはしない。

 

 故に当然——その一刀は彼女へと届く。

 

 突き出される湖の聖剣。

 その刃の切先は、たとえ膨大な魔力で覆われた彼女であろうとも貫き、彼女の首を跳ね飛ばすだろう。

 ランスロットではなく、後方の無抵抗な騎士達のみを殺戮していた傲慢と慢心は隙となり、無窮と例えられた武練が彼女を斬り伏せる。

 今のランスロットにまともな自我はない。

 何が正しいのかも分かっていない。

 

 

 

「——————」

 

「——————」

 

 

 

 彼女は間に合わない。

 引き絞った弦を弾き、仮にランスロットを仕留めたとしても湖の聖剣の刃は止まらないだろう。

 湖の聖剣と必中の弓の刃が交差する刹那、二人は視線を先に交差させていた。

 

 

 "あの少女は救えましたか?"

 

 

 その刹那、ふと彼女の問いが脳裏を掠める。

 追い詰められた瞬間の最中、一瞬の忘我に先程のやり取りが浮かぶ。

 他人事のように投げられた彼女の言葉。断ち切るように捨て去っていた彼女の過去。

 

 

 "ならばせめて、刃による死の方がまだ慈悲があっただろうに"

 

 

 半ば狂気に追い詰められたランスロットの脳裏を、それが掠め続ける。

 今、こうして彼女に刃を振り翳しているこの状況と重なり続ける。彼女に刃を振り翳すという行為は、誰が為のモノか。

 彼女は果たして、一体何の言葉を期待していたのだろう。

 彼女の問い。欲している答えは何だったのか。詮無き言葉だと捨て置いて構わないモノであるというのか。

 いや。

 いや——

 

 

 "貴方はあの時、あの少女を殺すべきだった"

 

 

 そうなのか——?

 まさかあれは、あれが。最初に告げていたあれが、彼女自身の答えであるのか。

 生きるという行為は苦しみでしかない。故に、死以外の救済はない。

 それがまさか。そんな断定が、彼女が生涯をかけて求め続けた報いであり、彼女が下す結論であり、唯一の救いだと——

 

 

   ——ギィ、イイィッ………ン!

 

 

 彼の意識を浮上させたのは、湖の聖剣が彼女を貫いた音ではなく、鎖に剣を絡め取られたような音だった。

 否、それはだったではなく——本当に、鎖によって剣が空中に縫い付けられていた。

 その鎖は、赤く光る不可視の鎖。痛哭の幻奏(フェイルノート)の弦によって形作られた、真空の鎖。

 まるで蜘蛛の糸のように。もしくは鳥籠の格子のように。

 複雑に編まれた網は聖剣の刃を絞め落とす。

 弦によって編まれた不可視の鎖に絡み取られた湖の聖剣(アロンダイト)は、僅かにも動かない。

 そう。時に悪意を以って謳われる彼女の忌み名は、最も人間を殺害するのに長けた人間。

 ランスロットを掠め、彼方の騎士達だけを殺戮していた妖弦は、円卓最強の騎士を何重にも追い詰め、そして殺害する為の一手でしかない。

 

 

 

「ようやくだ」

 

 

 

 真下に向けられた痛哭の幻奏(フェイルノート)

 爪弾かれた弦は赤く煌めき、解れた弦の一部が地面に楔を放ったかのように固定されている。

 突きの一閃を僅かに屈んで避けても見せた彼女は、二人の身長差もあってランスロットが下を見下げる形になる。故に彼女の表情は分からない。

 

 

 

「ようやく、円卓最強に追い付いた」

 

 

 

 だと言うのに、どうしてだろう。

 ランスロットはまるで、彼女こそが此方を覗き込んでいるような気配がしてならなかった。

 暗い穴を覗き、逆に見返されている。黒い何かの先から、覗き込まれている。

 彼女の凍て付いた言葉は、しかし火山が噴火する直前の何かにも見えた。今、覗いている暗闇の底に眠るは、煮え滾る溶鉄の如き何かではないのか。

 

 停止した攻防。吹き抜ける風が彼女のマントを翻していく。

 風に煽られて空を飛んだ紺色のマントは、何重にも張り巡らされた妖弦の糸によって不自然な形で空中に止まっていた。

 

 

 

「だからもう」

 

 

 

 ゾワっ、と肌が逆立つ。

 それは、決定的な罠に嵌められたと気付いてしまった時の感覚と同じだった。

 警鐘を鳴らす自身の全て。湖の聖剣は引き戻せない。

 

 

 

「お前には追い付かせない」

 

 

 

 すぐ目の前。眼下で爆風が吹き荒れるような光と音が見える。

 いいや、それは錯覚でしかない。彼女から吹き荒れる見えないナニかは、彼女の桁違いな魔力そのものだ。

 下から上を睨み、天に浮かぶ星を射抜くどころか、穴を空けて地に堕とし蹂躙してやるが如き眼光で、彼女はランスロットを睨み付ける。

 その瞳の中に、ランスロットは揺らめく黒い焔を見た。

 

 

   "死を以って贖いを"

 

 

 刹那、トリスタン卿の弓が不気味な輝きを放つ。

 彼女の握る箇所から、赤い稲妻が走るように筋が刻まれた。それはまるで、大地に伸びる大樹の根のような形で、痛哭の幻奏(フェイルノート)を侵食する。

 

 

   "殺戮を以って収束を"

 

 

 張り巡らされていた全ての弦が輝きを放ち、不可視だったそれが空中にて踊り出した。

 触手が蠢いているような幻視は、不自然に止まっていた紺色のマントが瞬時に分解されていくのを見て止まる。

 ただランスロットが目に出来たのは、鎖状に絡まっていた糸がいとも容易く聖剣から解け——するすると彼女の妖弦に引き絞られていく事だけ。

 その全て。あらゆる行動が瞬間に行われた。

 

 タンっ、と後ろに退きながら、彼女は全ての弦を限界まで引き絞る。

 その弦は、一本一本全てが鍛え上げられ聖別された剣と同じ強度と神秘を持つ。

 全ての弦を一斉に引き絞って放つ最大級の一撃。担い手を失った筈の、トリスタン最大の絶技が、今確かに、彼女によって蘇る。

 

 

 

「——是・痛哭の幻奏(フェイルノート)

 

 

 

 彼女の矢は、周囲の大気を圧迫し空間を歪ませた。

 穿たれた一撃はその魔力量に屈し、不可視だった筈の一撃は赤い稲妻のような残滓を空中に残す。それを断ち切るなど、赤い落雷に向かって剣を振り、切って見せろと言われたような難業だった。

 

 落雷を受けた人間は、直前であっても何も出来ないように、ランスロットはその一撃を受ける。

 咄嗟に剣を引き戻しても尚、遅い。痛哭の幻奏(フェイルノート)の一撃は、ランスロットの間にあった湖の聖剣(アロンダイト)に的中しながら、その残滓を以ってランスロットを射抜く。

 湖の聖剣(アロンダイト)が軋み、叩きつけられた衝撃は脊骨に達していた。

 

 

 

「ぐッッ————は、ぁ……っ」

 

 

 

 ランスロットは苦悶の声を残して吹き飛ばされる。

 鎧を貫く代わりに、反動で弾かれ自らの胸を叩き付けた聖剣の衝撃は、ランスロットを容易く宙に浮かせた。すぐ目の前に隕石が落ちたのと変わらない。直撃を避けても爆風で空を飛ぶ。

 ランスロットが城壁に叩きつけられていた時には、胸の鎧が砕けていた。

 急停止した反動は深く、体が何倍にも重くなったような気がしてならない。

 たった一撃。それだけで戦いの趨勢は奪われ、湖の加護を受けた聖剣が軋みを上げている。早く立ち上がらねば、彼女は数瞬の内に距離を詰めるだろう。

 

 だが、立ち上がれない。

 その一歩が、どうしても動かない。

 体も心も、砕かれていた。

 

 

 

「……………————」

 

 

 

 思えば最初から、自分が今こうして生きているのは幸運だからなのではないだろうか。

 理想の騎士足らんと自らに課し、他者にもそうであるよう、なるように努めて来た生涯。その騎士足らしめる誉れが——破綻し始めたのはいつか。

 騎士道という峻厳にして明媚なる華。

 それを穢し、汚したのは……——彼女ではなく他ならぬ我らではなかったか。

 疾うに枯れた華を摘み取る事に、一体何の咎があろう。

 今まで摘み取られなかった事こそ、幸運の象徴。最早騎士道とは、疾うに美しさを無くした、古い遺産でしかないのかもしれない。

 

 であれば、彼女に騎士としての志が通じる訳もなかったのだ。

 

 故に心根などは通じて居らず。

 致し方のない経緯から剣を交えてしまったという事はつまり、彼女に正当なる断罪の刃を手渡したに等しい。

 ならばその刃を交わせたのは、やはりただの幸運でしかないのだろう。

 その幸運も長くは続かない。湖の精霊より委ねられた湖の聖剣。そして精霊の加護。たとえ二つが合わさろうと、賽を天に投げるばかりではいずれ限度が来る。

 長くは続かない。運を天になど預けない彼女を前にしてはそれも、風前の灯火程度の価値しかなかった。

 崩れた膝を前に、至高の宝剣であるアロンダイトは光を無くしていく。

 

 

 

投影、開始(トレース・オン)

 

 

 

 ——だが果たして、それはそもそも本当に幸運であったか。

 

 

 

投影、装填(トリガー・オフ)

 

 

 

 先の一撃で絶命するか、もしくは意識を失えているなら、その光景を見なくて良かった筈だったのだから。

 

 

 

全工程、投影完了(セット)——」

 

 

 

 大地を駆け抜け、竜に立ち向かう勇者達がいる。

 そう。彼らは勇者だった。決して英雄ではない。竜に立ち向かい、有象無象のように焼き尽くされる者を、せめてもの報いと表し勇者と呼ぶのだから。

 彼ら勇者達は、魔弓より発された音による刃に晒されながらも尚丘を駆け抜け、ランスロットに加勢しようとした騎士達だ。

 

 彼らはランスロットに力を貸す事こそが、己が生を繋ぐ最大の行為であり、ランスロットこそを救う道だと信じていた。

 

 だからこそ、騎士達はその丘に残された。

 助けるべき英雄が竜の薙ぎ払いで城壁に叩きつけられたから。

 故に英雄たるランスロットは、それを見ていた。

 

 

   "この剣は太陽の現身"

 

 

 空に浮かぶ——黒い太陽を。

 天に放り投げられた聖剣が、漆黒に堕ちていく姿を。

 

 

   "あらゆる不浄を清める焔の陽炎"

 

 

 いつの間にか、彼女の手に握られていたそれ。

 彼女はそれを——太陽の聖剣(ガラティーン)を天高く放り投げていた。

 途端、地面に刻まれゆく太陽の陣。炎を纏い回転する太陽の聖剣が上昇する度、黒い太陽が爆発的に膨れ上がるのは錯覚ではない。

 

 頂点に達した瞬間、黒い太陽の臨界は終了し、遍く全ての波動が聖剣の中に収まる。

 

 地面に落ちる太陽の聖剣が大地に突き刺さろうかという瞬間、当然の如く放り投げた片腕でキャッチする。

 旋転する勢いそのまま取った抜刀姿勢は、まさしく、太陽の騎士ガウェインと全く同じ。

 太陽の聖剣を最も有効活用するべく生み出した、片腕で真横へと振り抜く戦闘姿勢。

 

 ガウェイン卿に、彼女の影を合わせても何一つ違いなどない。

 唯一の違いは——模る太陽は黒く堕ち、太陽の聖剣も影に覆われたが如く黒く染まっている事だ。騎士王の星の聖剣にすら匹敵する極光を放つ彼女の魔力。人成らざる息吹が、太陽へと裏返る。

 それは霊長に対するカウンターとして顕現した卑王。ヴォーティガーンを幻視する程の竜の産声だった。ヒトに仇成す脈動が波動となり、太陽の聖剣を染め切る。

 

 

 

是・転輪する(エクスカリバー)——」

 

 

 

 その呼び声を皮切りにし、太陽の聖剣に宿る黒い炎が、生者を求めて蠢く亡者の如く暴れ狂る。

 おぞましい何かが、炎という形を以って襲いかかろうとしている。

 まるで剣そのものが殺意を持っているかのような意思は、ランスロット卿の救援のため平原に踏み入れた騎士達にも分かったのだろう。

 

 だがもう遅かった。

 ランスロットは先程の一撃で、城壁に叩きつけられている。

 彼ら騎士達は遮蔽物のない平原にいる。地面に刻まれた太陽の刻印は、彼らを完全に射程内に収めている事を証明していた。

 

 ランスロットは何も出来ない。対応出来ない。その時間がない。

 極点の星すら塗り潰す黒い波動。空に浮かぶ黒い太陽と脈動は、宙に空いた孔か。

 何かが這い出て来るかのように、一切の慈悲もなく太陽の聖剣が振り抜かれる。

 

 

 

「——勝利の剣(ガラティーン)ッ!」

 

 

 

 太陽の熱量を宿していながら、魂が冷え切る程に凍える冷たい炎が一閃された。

 騎士達の悲鳴すら許さず、灰すら残さず蒸発させていく漆黒の焔。

 焔が平原を駆け抜けた瞬間、大地に刻まれた刻印が臨界し、大地を捲り上げながら炎の壁が立ち登る。

 炎の津波が迫っているようだった。

 それをランスロットは止められないまま、彼らが焼けていく光景を見ていた。

 

 

 

「———ッ」

 

 

 

 遂に太陽の聖剣の一閃、ガウェイン卿の全力解放をよりも極めておぞましい光がランスロットにも迫る。

 ——あれには触れてはならない。

 己を冷静に保っていた訳ではない。ただの本能。反射的な行動がランスロットを動かす。

 

 断罪の刃を受け入れかかっていたのに、体は立ち上がった。

 浅ましさか。生への貪欲さか。

 だがそれらを容易く塗り潰したのは、目の前に迫る黒い光の奔流。底なしの沼に落ちていくように呑まれ、消えていった盟友達。

 

 跳躍して城塞の裏に隠れた刹那、城壁が破裂したように壊れ、一部は融解を始めた。

 彼ら騎士達が今の一撃で全滅してしまった事実を、敵対した彼女への絶望感が塗り潰す。

 灼熱の剣閃。彼女が扱う太陽の聖剣の極光に、騎士王の極光のような城を瞬間的に蒸発させる力すらあったら、もはや勝敗は決していただろう。

 

 黒炎が広がり、周囲の茂みや森すら焼け焦げている中、ランスロットは城を登る。

 ランスロットに広がるのは焦り一色。

 城から辺りを見渡せば、城の周囲は炎の海だった。

 後方の森は、恐らく陛下の差金と思わしき騎士達の集団により焼かれ、孤立した僅かな騎士達は、既に弓で討ち取られている。それらしき遺体が地に伏していた。

 仮に生きていたとしても、炎の中にいる彼らには、炎の外からの矢を避ける余裕などない。

 

 何たる結末だろう。

 いとも容易く。こうまで簡単に決着が付き、追い詰められているのか。

 

 後方は炎の海。

 前方は、あの彼女がいる。

 皆死んだ。有象無象の、ゴミのように。

 

 あぁ、そうだった。

 これが当然の摂理だった。

 剣技、武練、力強さ。そう言う騎士達の名誉など関係ない。

 竜には人など脆弱すぎて区別が付かないのだ。

 だから人間など、英雄勇者有象無象の区別なく死ぬ。

 これが、ブリテンで絶対に敵にしてはならないモノ。

 人の形に留めただけの大災害。災厄の席に座った嵐の権化。黒き竜を敵に回すと言う事。

 

 

 

「ギネヴィア王妃ッ!」

 

 

 

 背筋に冷たいものを感じながら、ランスロットは城を駆け上る。

 彼女は後方に逃げた騎士の一人に預けていた。だがもしかしたら、戦況の推移を見極めて城に戻していたかもしれない。

 辺りは炎の海。波が駆け上がり、城を侵食している。ならば逃げ場は玉座しかあり得ない。

 

 そしてランスロットの予想は正しかった。

 

 玉座にて膝をつくギネヴィア王妃がいた。

 ランスロットは蒼白な表情をしている彼女の手を引き、ここから逃げようとする。多くが死んだ。だからこそ彼らの無念を思えば、彼女をここで道連れにする事は出来ない。そんな最後の一線が、バラバラになっている彼をなんとか繋ぎ止めている。

 今の彼は、ただそれだけの意思を以って、それだけに集中する事で焦りと恐怖を誤魔化していた。

 

 今までの生涯で、これ以上追い詰められた事はない。

 隣に死があった窮地は数多くあっただろう。

 だが今ばかりは違う。隣ではなく正面。それ以外に道はなしと相対させられている。

 ——勝てない。

 ランスロットは悟ってしまった。何処かで心が折れてしまっている。あの少女が本気で殺しに来ている事実に、足が竦んだ。

 

 では逃げるとしたら、——一体何処へ……?

 

 どんなに逃げても、何処へと行こうと、何度も追い払おうと、必ず彼女は追い付いて来る。確信があった。

 太陽の聖剣。燃え盛る炎の裏から此方を睨み付けてくる姿が。揺らめく黒い陽炎のような瞳が——いつまでも、脳裏に焼き付いて離れないのだ。

 

 

 

「真名、解放」

 

 

 

 あぁ、まただ。

 再び竜が息吹を上げる。

 彼女の竜が現世に顕現する。

 爆発的に膨れ上がる魔力。竜が産声を上げたような感覚は、人として本能が恐怖している証だ。

 周囲一体の魔力が、渦潮に巻き込まれて落下していくかのように、全て一点へと収束しているのを感じ取る。

 

 跳ねるようにランスロットは動き、玉座の間から彼女が居た平原を見下す。

 そこには、地面に膝を立て上空に弓を構えている彼女の姿があった。

 狙いは一点。ランスロット卿とギネヴィア王妃がいる玉座。

 

 彼女が手にしている弓はトリスタン卿の痛哭の幻奏(フェイルノート)ではなく、いつも彼女が手にしていた——無骨の黒い弓。

 番えるのは矢ではなく——剣。

 それはローマ帝国皇帝ルキウスに勝利してから彼女が扱い始めた、揺らめく炎のような赤い炎剣だった。

 その剣を弓に番え、彼女は此方を見据えている。

 

 もはや詰み。

 チェックメイトを下す構えに彼女は入っていた。

 

 

 

「我が錬鉄は崩れ歪む」

 

 

 

 彼女の声に呼応し、あてがわれた矢が輝き、大気が揺れる。

 収束する魔力。光へと変わる宝剣。

 もはや剣の形をした赤い光が、竜の息吹が如き圧力と産声を以って、彼女の手から離れる。

 

 

 

「——原初の火(アエストゥス・エストゥス)

 

 

 

 太陽が回転しながら迫って来ているかのような光量だった。

 放たれた剣は辺りの大気を空間ごと焼き尽かせながら迫る。

 

 あらゆる音が失われる。あらゆる光が塗り潰される。

 吹き荒れる烈風。爆心地から捲れ上がる瓦礫。放たれたネロ皇帝の炎剣は、寸分も違わず玉座の間へと直撃し、宝剣ごと廃城を破壊していく。

 爆風と崩落を最後に、僅かな抵抗も許される事なく、ランスロットは意識を無くしていった。

 

 

 




  
 
 弱体化(炎) D
 詳細

 栄光に輝き、無双と称されたその生涯だが、どの文献であっても彼は悲壮な最期を迎えている。
 その最期は太陽の騎士ガウェインに深手を取り、影武者の少女の手により、灼熱の炎剣によって殺害されたとされる。
 炎に対する耐性が他のサーヴァントよりも低い。


【WEAPON】

 原初の火
 詳細

 アエストゥス・エストゥス
 ネロ・クラウディウスが自ら鍛え上げた炎剣。隕鉄の鞴。
 所有者の精神状態、魔力によって炎を生み出す。

 数奇な運命の果て、ルーナの手に渡ったが彼女が壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)の弾丸として使用し、永遠に消失。


【宝具消失】


 是・招き蕩う黄金劇場(アエストゥス・ドムス・アウレア)(消失)

 ランク B

 種別  対陣宝具


 詳細


 ネロ皇帝が愛用した隕鉄の鞴【原初の火(アエストゥス・エストゥス)】に宿るネロ皇帝の経験と記憶の全てを己に投影し、現世に再現した黄金劇場。
 ランクは一切劣化しておらず、宝具の効果に欠損は一つもない。それどころか、内に秘める魔力量に絶対的な差がある為、この空間はネロ皇帝が使用するそれよりも高い持続力と強度を誇る。

 原初の火(アエストゥス・エストゥス)壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)の弾丸として使用した為使用出来ない。
 ルーナ自身が原初の火(アエストゥス・エストゥス)を持ち込む事は叶わない為、極めて特殊な現界であってもこの宝具は使用出来ない。
 
 

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