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何処か遠くで、大事なモノが壊れてしまったような感覚がした。
例えるならそれは、ガラス瓶が砕けた音だけが聞こえたような感覚。
自分の見えない範囲で、溜め込んでいた大事なものが何者かに根こそぎ奪い去られてしまった。そんな感覚だった。
直感というよりは、違和感と称する方が良い。
だからこそ、その感覚が無視出来ない。
体に纏わり付いた悪寒のように、ずっと体から離れないのだ。
「…………………」
不意に天を仰いで、モルガンは立ち上がる。
何に違和感を覚えているのか分からない。何が分からないのかが、分からない。
何故立ち上がったのか。どうして不吉な予感を感じているのか。
それがどうしても、モルガンには分からなかった。
そもそも一体何に不安を覚えているのか。漠然とした気配だけをモルガンは感じ取る。
今まで必死に積み上げて来たモノが、完成間近になって実は肝心な部分が破綻していた……もしかしたら、そのような事を違和感として受け取ったのかもしれない。
直感ではなく、様々な経験と諸要素から導かれた予見と言えるだろう。
モルガンは、まだ完成しえない眼前のソレを、もう一度最初から見直す。
だが、やはり分からない。
何も間違いはない、ように見える。
今までずっと、円卓もアーサー王もマーリンも無視して束ね上げ続けたソレ。生涯を費やせば恐らく出来るだろう、魔術王にすら比肩する、式。
時空断層。■■■の制御。そして■■■からの切り離し。
やはり、これには間違いがないように思える。
極めればこの三つだ。その過程で出来る事と、新たに付与される事によって獲得出来る式はモルガンの眼中にはない。
これはブリテン島だからこそ成せる事だ。故に前提となる魔術基盤は類を見ない程に特殊。
前提の魔術基盤が普通ではないのだから、肝心な部分が破綻しているのではないか、という違和感があるかもしれない。
だが結局のところ、やっぱり分からないという結論にモルガンは達した。
何故分からないのか、分からない。
それを理解しようとしているのだから、混乱もする。
いや、そもそもこれはさほど大事ではなかった。
ブリテンに興味を無くしてしまったモルガンからすれば、あの式はそこまで大事ではない。
ブリテンに興味を無くしたからこそ、あれが作れて、ブリテンに興味が無いからこそ、必要がないとは皮肉なモノだ。
時間と精神。その二つに余裕がなくては作れなかった。そして余裕があるからこそ、執着する必要も行使する必要性も見出せなくなったのだ。
つまりは、もしかしたら必要な時が来るかもしれないと作ったモノ。
手慰みの範疇。
でも、全力で取り組んだ。
自分ではなく、彼女にはもしかしたら必要になるかもしれないからだ。
「……………………」
不意に、モルガンは自室から出た。
特に当てもなく、部屋を回っていく。辿り着いたのは何もない部屋。
まるでその部屋だけ、時間が止まってしまった空間のように浮いている。空虚な一室がそこにはあった。
そういえば、ここには彼女が居た筈だったのだ。
だと言うのに、至るところに彼女の痕跡はない。
それは、当然と言えば当然だった。
ただひたすらに、力を授け力を高めた二人だった。
どう言う関係だったと言われたら、冷たい関係だっただろう。
親と子。愛情の代わりに、殺戮の技と心構えを伝授し続けた、主と使い魔。
それに近い。
殺す為の武器と使用者、くらいには割り切っていた。
今もそうだ、と言われたら否定は出来ない。
当初の願望通り、アーサー王を玉座から退かせ、尚且つその玉座に手が届いたのだ。
でも。
僅か二年の、たったそれだけの短い時間が、今は儚いものに感じる。
この、何も無い彼女の部屋が、とても悲しいモノに見える。
残す物などない。彼女もまた、何も残さない。
互いに、この場所ではない何処に、大事だったモノを置き去りにした二人だったからだ。
でもただ——互いに二人は優しかった。
冷たい関係。そしてそれは互いに何も踏み込まなかった関係でもある。
魔女は少女の絶望と憎悪を知りながら、その傷には踏み込まず、少女も魔女の慟哭と憎悪を知りながら、何も聞かなかった。
二人は二人とも、互いを救えるような位置にいながら、救う事を選ばなかったのだ。魂の救済よりも違う何かを貫き選ぶ事を望んだから。
それが良かったかと言われたら分からない。
でも、優しかったのだ。
互いに踏み込まなかったから、傷付ける事もなかった。
雨荒ぶ嵐の中、小さな古屋の中で偶然出会い、何も言わず肩だけを寄せ合う。
そんな関係と変わらない。
あぁでも、どうして出来なかったのだろう。
まるで時間の止まったような、何もない空虚な部屋を見て思ってしまう。
互いに二人とも。置き去りにしたモノよりも大切なモノを、ここに詰め込めたのではなかったか。
「………………————」
気付けば、モルガンは涙を流していた。
堪らず、彼女は鴉を呼び寄せる。
腕に止まり、彼女の使い魔である鴉は鳴く。
時に遠見の魔術の媒体としても使うその鳥。初歩の次程度の魔術である遠見と、鴉は単純に相性が良い。
そして視覚だけを置換魔術で置き換えるのは、モルガンからすれば容易い。
過去の記憶すら、覗き見る事もまた。
鴉の瞳に映る彼女は姿には、何の異常もない。
平穏であるが、満ち足りる事のない顔。彼女が玉座を戴いてからずっと変わらない彼女の姿。
ただ、そこに。
違和感の正体があった。
自分は今、いや一体いつからだろう。
私はマーリンに幻惑をかけられ続けている。
「あ、ぁ…………」
分かってしまった。
全てをようやく、理解した。
叡智の才を持つ魔術師としての感覚と知識が、今まで何が起こっていたのかを、過不足なくモルガンに伝える。
唯一同じ方向を見ていて、しかし重なり合う事なく平行で……だからこそ、ずっと寄り添っていた二人の関係。
此方から、無理にでも我儘を貫けば、関係は変わったかもしれない。
だがならなかった。
彼女から、最初で最後の我儘を望んだから。
彼女は関係ではなく、自らを貫き通す我儘を望んだのだから。
無情で優しい嘘を、モルガンに残して。
「マーリン…………お前だけは——」
顔を覆い、涙を堪えながらもモルガンは呟く。
——もしも、もしもというモノがあり得たのならば、次は絶対に見逃さない。次は必ず間に合わせる。あらゆる理。あらゆる概念。時空や因果すら捻じ伏せ、届かせて見せる。
だが、今だけは違う。
今だけは、やるべき事が他にある。
かつての怨敵の名。自らに比肩する、この星有数の魔術師。
確かに、あの日、花の魔術師に宣言してやったのだ。
眠る彼女の隣に、彼女の心の横に、あたかも最初からそうであったかの如く滑り込んだ非人間に向けて。
「この身に代えてでも、道連れにする」
今そこに。
確かに。
復讐の魔女が蘇った。
そこは——色取り取りの花が咲き乱れる、なだらかな平原だった。
昼は春の日差しと夏の匂いに満たされ、夜は秋の空気と冬の星空に覆われる。
人々が思い描く楽園は、この土地の模倣に過ぎない。
人類未踏の土地。永遠の禁足地たる果ての島。
惑星の表層で繰り返される衰退と滅亡とは無縁であり、人間の歴史に寄り添いながらも、彼らとは一切関わりを持たない異郷。
その名を、アヴァロンと言った。
そして、その楽園を歩む人影がいる。
彼——マーリンは地に咲いた花の海を歩いていた。
遠くに見える美しい森や緑には目もくれず、水辺にて戯れる妖精達にもまた視線を向けず、歩みを進める。
アヴァロン。星の内海、とも呼ばれるこの惑星が持つ魂の置き場所。
ここは、現在惑星の表層から逃げて来た幻想種が住まう楽園だった。逃げて来た、というよりは移住して来たと称する方が正しい。
妖精などは、その一番の例である。
言わば、そこは世界から疾うに失われた神秘の世界。幻想の保管庫。魔術師というモノが追い求める、もしくは人類では決して築き上げられない世界がここにある。
楽園と言われるのならば、なるほどと頷く他ないだろう。
「これは、酷いな」
ただ、楽園に踏み入れた異邦の魔術師は、うーんと悩みながら呟いた。
この楽園の神秘は、神代のそれを凌駕し兼ねない。魔力の密度が高すぎる。この時代の人間がここで呼吸すれば、内側から破裂するだろう。
悲しきかな。
楽園と言わず、兵器に転用して使ったらどれほど有効なのか……楽園の立場の存在でありながら、人に寄り添った者としてマーリンは良く分かってしまった。
なるほど、人類未踏の土地。資格無きモノには辿り着けぬ理想郷。そう言う観点で見ても頷く他はなかった。
マーリンは、魔術師としての思考を切り離しながら、花の海を歩いていく。
思えば、いつの間にか現世に俗されたような気がする。もしくは人類に毒され過ぎたと言うべきか。
異郷に迷い込んでしまった賢者と言うよりは、最高位の魔術師として楽園の扉を開いた、人間。そのような面持ちで、マーリンはアヴァロンに訪れていた。
元々、マーリンの価値観は人間にも楽園側にも寄らないモノ。言ってしまえばどっち付かずのモノだった。人としての価値観と生態は得られなかったし、寄生する人間の夢によって性質が変化する夢魔としては、独自の自我や明確な肉体を得てしまっている。
だから人間の世界もこの楽園のような世界も、自らの居場所だ、と思えるような日は来なかった。
今もそうだ、と言われたら否定は出来ない。
ただ。
「ここよりは、人間の世界の方が良いなぁ」
呟きを口にして、マーリンは楽園を見渡す。
何か、この美しい光景が何処に響くか、と言われたら無い。
残念である。これが面白くない。つまらない、という感情だろうか。
快になる、ならないで測っている訳ではないが、多分言葉にするならそれが一番近いような気がした。
良く分からない。あまり好ましくない感情ではあるので、もう少し、尊いとか綺麗とか美しいとか、そう称されるタイプの感情が欲しいモノである。
うん、早く戻ろう。他人の家に一人残されてしまったような居心地の悪さだ。
マーリンは、物珍しさに寄って来た見目麗しい妖精達を、地に新たな花を咲かせる事で振り切りながら、また歩を進める。
彼がアヴァロンに足を踏み入れた理由は……——酷く自分勝手な理由でもなく、女性関係の揉め事でここに逃げ込んで来た訳ではない。
彼は、ある一人の女の子を探していた。
待ち合わせに行くような足取りで。でも絶対に遅れてはならないという真剣さで。
そして絶対に先に来ている筈だという確信を以って。
カムランの丘で戦い抜いた彼女。ルーナ、その人を。
永遠の禁足地、最果ての理想郷、辿り着きようのない楽園。
しかして、資格があるならアヴァロンに足を踏み入れる事も叶おう。
彼女の内側にある炉心ならば、この楽園では充分過ぎるほど活動は可能だ。同じ名前を冠した鞘も持つのだから、資格もある。
彼女に会ったらどうするのか……は、あまり上手く考えられてない。
彼女が勝利と共に、キャメロットへ凱旋すると言ったのだから、ちゃんと引き戻す。
マーリンはそのつもりだったし、あの言葉を、自分以外を突き放す為の言葉にする気はなかった。あんな言葉を、死に行く最期の言葉にするものか、という意地でもある。
が……では彼女がもしもここに残る事を選んだら。彼女が遂に剣を手放す事を選んだら。
「そうしたら、仕方ないかなぁ……」
どうやらかなり、彼女に毒されているらしい。
一番大事にするべきなモノ、大切にするモノが分かっているのに、違うモノの大切さも分かるから、仕方ないかと流してしまう。
もはやこの国は限界だ。だから彼女も、ちゃんと諦めて貰うのなら、なるほど仕方ない。どうしようもない。マーリンには変えようがない。
元々マーリンと彼女はそう言う関係である。
彼女が生涯を通して貫いたモノを、最後の最後で裏切らせてしまうとしても、その生涯の報酬と考えるのなら別にアヴァロンで飽きるまで眠っても良いのではないか。
これが非人間的な考えか、人間的な達観か分からないままマーリンは考えていた。
「楽園に到達できず星の内海にて彷徨っていたり、ブリテンの主の証のように、妖精達に見初められたりしていなければいいんだけど」
どちらにせよ、彼女に会わなくては始まらない。
未だ彼女を見つけられていないのだから。
進むにつれ、島の末端に近付きながらマーリンは待ち人を探す。
探す事に関しては、見え過ぎる瞳のお陰で得意ではあるが、異郷であるここでは勝手が違うからか、空間を飛び越える事は叶っても秘匿された世界を飛び越える事は叶わないからなのか、どうにも彼女は見当たらない。
島の末端に近付けば近付く程、花はその数を減らしていった。
楽園にも土地ごとの変化はあるらしい。
ブリテンという現実に似た、痩せた大地。楽園に於いてすら不毛の誹りを受ける荒野を、マーリンはひた歩く。
ここに居るのだとしたら彼女には似合わないな、と、歩くだけで花を咲かせる花の魔術師は、荒野を花園に変えていった。
ただそこにいるだけで花を振り撒く魔術師が、意図的に行使したそれは如何なる大地であろうとも祝福に満ちた大地へと変革する。
広がっていく花の海。流れていく祝福の花。
その変化が、ある一点より前で止まった。
そこにあるのは荒削りな石で作られた門。
門の先には、これまでと変わりのない荒野が広がっている。
——門には一言だけ刻まれていた。
「これは——」
マーリンは足を止める。
その門に刻まれた文字を読もうとした途端だった。
突如——地面から分厚い石の壁が屹立し、マーリンを取り囲んでいく。
何処までも垂直に伸び、周囲を囲う石。楽園より切り取られた石の塔。マーリンを憎む者が作りだした檻だ。
決して逃げ出す事の出来ない石の監獄がそこにある。
振り返った足元には、門の名残として浮き出た岩があった。
その岩には、ただ一言刻まれているだけ。
罪無き者のみ通るべし。
「——はぁぁ………」
深い溜息を吐いて、マーリンは頭を抱える。
困ったからというよりは、その言葉があまりにも痛くて天を仰いだに近い。
罪無き者。
ではその罪とは、一体何を指した言葉か。
いや、もっと本質的に。
罪の意識がない存在は、罪無きモノと呼べるだろうか。
大局的に見れば、間違いなく人類の味方と呼べる存在。
人に力を貸す必要のない存在、上位者が手を貸したのだ。
滅亡するだけの国に力を授け、あまつさえ国を繁栄させる為の理想の王すら造り出した。
幸福な繁栄の名の下、善悪の感情すらなく、人命を虫のように消費したとしても、確かにその上位者によって多くのモノが生まれた。いわゆる美しいモノ。後世では間違いなく尊ばれる理想、という類のモノだ。
この星全体の流れ、人類史という観点からすれば間違いなくマーリンの偉業は讃えられる。
総数で見ればマーリンが後々に繋いだ命の方が多いし、結果的により良い歴史と偉業に繋がる起点を生み出した。
だから当然、そこに責任はないし、罪悪感もない。
罪の意識もない。
そんな存在に、罪の在処と是非をどうやって説けば良いのだろうか。
「参ったな、これは」
あぁ、そういえば、そう。
一人だけ、皮肉な形で説いた者がいたのだった。
糺弾でも叱咤でもなく、共感と感謝によって受け入れ、浮き彫りにして。
魔術師が作り出した理想の王を、理想ではなくしたように。
上位者たる賢者を、人間に撃ち落とした者が。
今、魔術師が探している、その人が。
「あぁ本当に——参った」
マーリンはこの檻に刻まれた、真の意味を理解していた。
この檻を作り出したのが、誰なのかもまた。
花の魔術師という人格にのみに狙いを定めた、夢魔と人間の混血児への凄まじい呪い。
不老不死を、生かさず殺さず、一生楽園に閉じ込める監獄。
自らの罪に向き合い続けろという事なのだろう。
しかもこれは、自らの命すら対価に成立する呪いだ。
マーリンがこの塔から本気で脱出しようとすれば、発動する呪術。
自身の生命力を釣り合いの天秤にして、マーリンを封じ込める事だけに特化した。
だからマーリンは出られない。
別に、この呪いをかけた本人が大事なのではない。ただ彼女に誓って、それだけは出来ないのである。
その事を、あの魔女は理解していたのかしていないのか。
「—————」
どうやらあの魔女は、もうこれ以上は何も許してくれないらしい。
関わりすら許されないと来た。選択と問いを投げかけ、ほんの一端すら彼女の思考にマーリンが入るという事への忌避感が滲み出ている。
一つだけ文句を言うのなら、門を通る前にもう罠にかけられた事だけは酷いが。
勿論それは綻びになる。花の魔術師として全力を出せば脱出出来ない事もない。ただ少なくとも、魔女が生きている限りは絶対に出来ないだろう。
そもそもしようとも思えなかった。
溜息を吐き、諦めるようにマーリンは空を見上げる。
狭い独房の檻には、唯一空いていた小さな窓があった。
窓越しに見える空は、決してブリテンの空ではないが、現在の全てを見通す目が島国の光景を映し出す。
世界でもっとも遠く閉ざされた、楽園の牢獄。
決して届きはしない空。決して届く事のない、ブリテン。
でも同じ時代で有れば、マーリンは何処にいようと世界の全てを見届ける事が叶う。
そう。
だから。
見届ける事は叶っても。
決してマーリンでは届きはしない。
「待ってくれ……———」
紡いだ言葉は掻き消え、手を伸ばすには遠すぎる。
牢獄に空いた窓から、その光景が見えるだけだ。
ただ見えた。マーリンには確かに、カムランの丘が見えた。
今そこに何があるか。
もう一振りの聖剣は何処にもなく、鞘すら消えた屍の山。
その丘の上に、たった一振りだけ残された、星の聖剣。
地面に突き刺さったまま放って置かれた、焼け付く勝利の剣。
そこにはあった。
そして、それ以外には、何もなかった。
居る筈の勝者すら消えた、黄昏の戦場。
何もかもが虚無へと堕ちた、宵闇の戦場。
"責任もなく、罪悪感もないのなら、そこで見ていろ傍観者"
あぁ、一体どうして勘違いをしていたのか。
彼女の姿を見て、モルガンもまた変わったのだと考えていたのが、それはあまりにも甘い考えだと思い知る。
少なくとも、今はモルガンに魂の在処があっただけ。
そしてその魂の在処は、絶対に円卓ではない。
モルガンは、最初から最後まで、ずっと魔女だった。
マーリンが生んだ甘さに付け込み、油断へと変え、罪へと変えるそれは酷く迂遠で、そして的確だった。
ヒトにも非人間にも成れなかった半端者として。
ボクは傍観者だ。何も変える事が出来ない。
彼女に呟いた言葉は、まるで呪いのようにマーリンを縛り付ける。
「——アルトリア」
言葉は楽園にしか響かず。
美しいモノを愛した代償に、その手だけは檻に阻まれ届かなかった。
カムランの丘にいて、焼け付いた星の聖剣を握り直す、騎士王には。
目が覚めてまず頭に浮かんだのが、自らの命ではなく彼女の生存だった時、もはや全て遅いのだと悟った。
堕ちた夕陽。月の欠けた夜。不気味すぎる平穏。
その平穏は、何かの犠牲がある上で成り立つのだと、いつも知っていた筈なのに。
「アーサー王……!?」
傍らに控えてくれていたらしいベディヴィエール卿を振り切って、アルトリアは駆ける。
真後ろから、彼女に暗殺者めいた技で心臓を貫かれた事など、もう頭にはない。
今、ここに自分がいる。今、私は生きている。その理由だけで全てが足りた。
……いや生き残ってしまった、という方が正しいかもしれない。
聖剣もなく、鞘の守りも失い、焦燥と絶望を胸にただ駆ける姿には、竜の化身と謳われた騎士王の勇姿はもはやなかった。
「ルーナっ!」
ただ、その騎士王の姿を見た民は誰もいない。
カムランの丘にはもう、誰もいないから。一人剣を取ってカムランの丘に向かった少女が、戦線の撤退と称して退かせたから。
地を駆け、森を抜け、アルトリアは叫ぶ。
何でも良い。返す音が欲しい。この静寂が、決して会戦前の静けさなどではないのだと理解させないで欲しい。
だが無情にも、アルトリアに聞こえるのは自分の音だけだった。
大地を走り抜ける脚の音。風を切る音。血に濡れていない鎧甲冑の涼やかな音が、戦う事のなかった故の清廉さを物語る。
全て終わった。
目を覚ました時にはもう、全て。
何もかもが遅かった。
いつしか呼吸が上がっていた。
乱れる心を表すように荒れる息は、事実そうなのだろう。
ただ我武者羅に、脳裏の現実を否定するようにアルトリアは走った。
「嘘だ——」
森を抜け、丘陵の麓へと辿り付く。
大地の光景は一変していた。
焼け果てた戦場。死の気配に満たされた、暗闇の底のような光景。
会戦前は、ただの侘しい丘でしかなかったカムランが、一回り形を大きくしている。
砕けた鎧。ビビ割れた剣。折れた槍。溶け落ちた盾。視界の端まで広がる死体の山。
その全てが、人の亡骸だと誰が信じられよう。
この光景を為したのが、たった一人の騎士だとも、また。
「違う、こんな………こんな——」
数えるのすら夥しい屍がそこにある。
地獄の釜を裏返したのなら、この光景を再現出来るだろうか。
堕ちた黄昏の戦場。宵闇に支配された碑の大地で、騎士道の花は砕け散っている。
生きている者は一人もいない。
ただの一人も。
居る筈の——居なくてはおかしい、勝者の姿さえも。
「——ルーナっっ!!」
全てが虚無へと堕ちた戦場を、アルトリアは再び駆けた。
大地に突き刺さった剣に阻まれながら、丘となった人間達の骸をアルトリアは進む。
場違いな光景だ。
血に濡れた戦場を、一人だけ何処も汚れていない清廉な騎士が走り抜いている。
どこにもいない。動く者は、誰もいない。
居る筈なのに。
確かに。聖剣を二つ握った、少女が。
「嘘だ、そんな、そんな……どうして、彼女が——」
チリチリと、とっくに焼け付いた過去が蘇る。
疾うの昔に置き去りにした幻想。一体何故、何の為に剣を抜いたのか。
人々の賑わいに背を向けて。
ただ一人、岩に刺さった剣を抜いたあの瞬間に、一体何を。
幻想は遠く、あまりにも隔たりすぎた理想は、光を失い曇る瞳では見通せない。
ただあの日。あの瞬間。
誓ったものがあったのだ。
運命を置き去りにしてでも、確かに望んだモノが、あそこに。
"——多くの人が笑っていました。それはきっと、間違いではないと思います——"
そうあの日、一人の少女は別れを告げた。
夢見た一番大切なモノに。
一番大切なモノを、守る為。
アルトリアは別れを告げたのだ。
人々の喧騒に背中を向けて。
外から祭りを見るような感覚にも似て。
人々の為に生き。
人々と共に生き。
人々に未来を遺す為。
「………ぁ、———」
ならば、アルトリアの目の前に映ったそれは何を表していたのだろう。
アルトリアの膝から、力が抜け落ちる。
視線の先には、力なく、まるで周囲の残骸と同じように、無造作に突き刺さっている剣がある。担い手を無くし、無造作に大地に残されたそれ。
それが——星の聖剣エクスカリバーであると、誰が信じられただろう。
大地に突き刺さったその刀身は、白銀に見えるほど白熱していた。
あまりの熱量に周囲の空間にまで影響を及ぼし、大気が蒸発する異音が響いている。
限界まで焼いた岩に、水をぶち撒けてもこうまでの音はしない。
周囲の空間ごと、大気の魔力ごと、あまりの刀身の熱量に周辺が蒸発しているのだ。
最強の幻想。最強の聖剣。
担い手を失った今になっても尚、酷使され続けた刃が悲鳴を上げている。
なのに、担い手の彼女の姿だけが何処にもない。
そう。何処にも居なかった。
聖剣の鞘も、もう一振りの黄金の剣も。
彼女がこの地獄を成した以外に痕跡はなく。
ただ、泥が剥がれ落ちるように、黒が消えて無へと堕ちていく星の聖剣だけを残して。
それが、一体何を意味しているか。
分からない。何も分からない。
彼女はどうなったのか。彼女は一体何処に行ってしまったのか。
どうして、彼女の亡骸すら無いのか。
分からない。
でも、ただ一つ分かる事はある。
それは、決してこのような結末だけは——受け入れてはならないという事だけ。
「………——違う、これは断じて違う」
自らの手が焼ける事すら構わずエクスカリバーを手に取った。
柄を握っただけで手が焼ける。
魂が焼け付くような痛みが内側からする。
それでも尚、アルトリアは染め上げられない。
その痛みは代償であり、アルトリアの意識を繋げ止めた。
ただアルトリアは、空を睨んだ。
必死に唇を閉ざし、涙する己を抑え、哀しみで呼吸を詰まらせながらも——最後に浮かんだのは……まるで、運命を憎み怒りに燃える壮絶な表情。
きっと、誰も見た事のない素顔なのに。
円卓の騎士なら、鮮明なほど焼け付いた表情がそこにある。
血塗られた丘で唯一血を纏わない清廉なる騎士王は、見えない何かを睨みながら、声にならない声でその運命を拒絶する。
「こんな終わりが、こんな結末が、今までの功への報いなんて——」
天に訴えるその声は、決してアルトリア自身に向けた言葉ではない。
幻想を残したまま運命から見放される事になった、この亡国を指した言葉ですらない。
だからこそ——"許してはならない"。
それを認める事だけは、どうしても。
世界の全て。この運命。そして何より、自分自身だけは、絶対に——
「私の死は容認出来ても、決して……これだけは………——これだけは容認出来ない」
それは、マーリンさえ——ルーナにしかないと思っていた、一人の少女の激情だった。
今までずっと、アルトリアの中で隠されていた慟哭。聞く者の胸を張り裂く哀しみと怒り。世界を呪うに足る慟哭。
血涙を流しながら、しかし天を撃ち落とすかのように空を睨み、亡国に君臨し、ブリテンを司る竜の化身は宣言する。
その運命を呪って。その結末を否定して。
"——機会を用意する。その願いの成熟と引き換えに、その死後を貰い受けたい——"
——虚空に消える筈の、王の願いを聞き届けたのは、
それは、人間の集合無意識が作り上げた、人の世界の防衛装置。
それが何を意味しているのかを理解しながら……尚——それでも騎士王は縋る。
道は一つしか選べない。
幾多と悩み、最悪を想定して万全を求め、尚もこの結末を迎えた。
間違いはあったとしても、誰しもが最善を求めて、尽くした。全ての人間が正しくあろうとした故の顛末だった。
それがこれならば。
だとするならば。
だとするならば——そも、前提が間違えていた。
最初から、滅ぶと知っていた。
剣を抜いた日より、魔術師の預言より覚悟はあった。
だからこそ、望む。
終わりから始まるモノがある。死から始まるモノがある。
ならば——その死に報いる事が、叶うのなら。
あぁ、それならば。
その為に剣を取る者が、最初から……——居たのなら。
「私は、誓った筈だ。
あの時、あの瞬間、剣を抜いた日から、私は——」
それは、救いを拒絶する戦いの幕開けだった。
石の台座。黄金の聖剣に置き去りにした、アルトリアのもっとも大切だったモノ。その
奇跡が万能であるなら、その運命を"入れ替える"事も叶う筈。
対価であるなら、死の理すら覆す事が——確かにそれは受け入れられる筈。
だから、その為ならば、私の何を代償にしても構わない——
あぁ。
悪辣な奇跡が騎士王を掬い上げた。
否、もうそこにいるのは、騎士でも王でもない。
騎士である事も、王である事も辞めた、ただ一騎の英雄がそこにいる。
何をすれば良いかだけで定め、"機械"である事を受け入れた人がそこにいる。
救われる事のない地獄に堕ちた事を理解しながら、ただ唯一の報いを求めて。
時空が歪む。底なし沼のような重力源が聖剣の英雄を捕らえる。
聖剣と聖槍を星から預けられ、ブリテンの未来を背負った英雄はその結末を憎み怨む対価に、自らの救いを拒絶した。運命を憎み、その結末だけは許せないと否定した風貌。天を睨む横顔は何の因果か、黒き竜の怨讐と同じ。
奇跡を詐称する御遣いより、聖剣の英雄は奇跡を求めた聖戦へと向かう。
聖杯を求める争い。万能の願望器を巡る戦い。
アルトリアにとっての聖杯探索は、この時から始まったのだ。
"素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公"
遠い彼方。遥か未来。
幻想など潰えた現代にて、神話の再現が繰り広げられようとしていた。
英雄の召喚。
あらゆる時代から現代へと呼び出させ、覇を競い合う殺し合い。
聖杯戦争。
"降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ"
その呼び声は、この世ならざる経路を辿り。
そして天へと届く。
"
——冬木の聖杯が、それを手繰り寄せる。
詠唱という名の嘆願が祈りとなり、人々の夢で編まれた英霊達が現世へと復活する。
七人のマスター。七騎のサーヴァント。
己が願望。己が使命。
譲れぬ運命をその身に宿して。
"————告げる"
そして、その一騎。
金砂の髪。蒼銀を身に纏う騎士。
一人のサーヴァントとして、天に届いた嘆願は彼女を呼び寄せた。
"汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ"
逆巻く風と稲光。
目も眩むような光は、満ちる奇跡の証明。
魔術を遥かに超えた超常なる存在が、地上に君臨する。
幻想を超えた英霊が、和らぐ光の中より召喚された。
"誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者"
——そして。
夜の森に、闇に閉ざされた石畳に、
いま凛烈なる
"汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ———!"
刃のように鋭く。
氷の如く鋭利な。
機械と見違うほど、感情のない瞳と共に。
『問おう。汝が我を招きしマスターか』
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