人を狂気に誘う星。
プロローグ 前編
その日、彼は自らの父親の書棚を訪れていた。
一般の公共図書館などの施設ではなく、父親が個人的に有する書棚に足を運んでいるのには理由がある。
私的な理由で娯楽や安息を求めての事ではない。
学生として勉学に励む為、と言うのが正しいのだろうが、彼にとってはそれすらあまり正しくなかった。
彼にとって、勉学の課程教習などを経験する時代は過ぎ去っている。
ならば何故書棚に足を踏み入れたか。
言ってしまえば、思考の整理。知識の俯瞰。所属を改めるに当たって、経験の穴を埋めに来ただけであった。
彼を一般的に捉えるなら、まだ学生である。
見た目の話だ。彼はまだ十六歳の若者だった。
ただ、年齢不詳と思われがちな東洋人の顔と冷たく熱のない眼差しが、十代の青年には到底見えない佇まいを作り出している。
更に経歴を見るなら、彼はもはや学生などではなく、筋金入りの麒麟児だ。
幼少期から父親の聖地巡礼に同伴し、マンレーサの神学校を二年飛び級且つ主席で卒業。
枢機卿にでもなり兼ねない勢いの逸材だっただろう。
だが彼は、卒業と同時にとある組織……いわゆる暗部への所属を自ら志願した。
同期からの驚愕もあった。身を落とすような行為とも言われたし、他にいくらでも道はあると諭された事もあった。
それでも尚、彼はその組織に身を置く事を決心したのだ。
それが今から二年前の話。
所属が変わる前の話だ。
そう彼は、再び所属する部署が変化したのだ。
もはやこの部署で腐って良い存在ではないのだと、全く以って望んでいない賞賛を背中に受けて。その事に対し、内心忸怩たる思いはあるものの、彼は修行と試練という名目を傘にし受け入れている。
元より彼に意思はない。介入する余地も元々なかった。
彼が新たに与えられた部署。
部署というよりも、役職に近い。
世界最大宗教の裏組織の中でも、特に血に塗れた修羅の巣窟。
教典の保護や啓蒙活動といった行いではなく、異端討伐と涜神排除を名目とする、ある一種の暗部。
——代行者。
その名前を、彼は当然知っていたし、如何なる存在かも理解していた。
時に主の名に於いて、神罰を代行する存在。その名称を知らぬ者は教会内にはいないだろう。
見習いとはいえそんな役割を任命されたのだ。麒麟児と呼ばれた彼は当然、事前準備を欠かさない。一般の公用書物などはもう役に立たなかった。故に彼は、許可を貰い父親の書棚を訪れたのだ。
彼は目についた本を手に取っては目を通し、再び本棚に戻す。
新たに読まなくてはならない書物など存在しなかった。
何せ彼は神学校を主席で卒業した人間だ。聖書などはもう暗記しているし、福音書の難解な解釈は頭に入っている。現代によって複雑化し変容した定義すら、一定水準以上の理解度を彼は示していた。
理解度……というよりは、純然たる知識と言う方が彼には良いかもしれない。
共感ではなく、把握。過去の歴史を知識として知るだけで、思い出にはならないように。
故にやはり、彼にとって父親の書棚を読み漁るという行為は、勉学にはなり得なかった。
知識が広がる娯楽にも、己の認識が深まる快楽にもならない。父親が持つより深い教会の書物は、彼に何の呼び水も齎さない。
そう。やはり結局、最初の通りだった。
つまり思考の整理、知識の俯瞰。
一般的な定義、言うなれば常識というものを再認識しただけに彼は終わった。
隣人を愛せよ。善なるモノを尊ぶべし。
そんな当たり前とされる事が、世間一般の常識であり、万人が描く美しいモノであり、幸福であるという事を改めて理解した。万人が幸福だと定義するモノを、己は幸福だと定義出来ないでいるのだと。
あぁ、何か理由があったのだろうか。
彼の感性は、世間一般の価値観から乖離していた。
如何なるモノであっても、情熱を注げる対象が存在しなかった。
崇高な理念など何もない。
麒麟児、近年稀に見る逸材。そう呼ばれたのは決して、彼が才能溢れる神童だからではないのだと、一体何人が知っているか。
彼は単に、常人の何倍・何十倍も努力を重ねているだけだ。
それは、前向きな姿勢で取り組める情熱などなかった故の苦悩。一種の、恐怖からの逃避にも等しい。明確な信念もないまま、ただ苛烈な訓練に没頭し続ける。
いつの日か崇高なる真理と神聖な福音を感じられる日々を信じ、その希望に縋って。
だがその希望がいつしか絶望に変わり、修身という名の自傷になり、結果として鋼の如き強固な肉体を手に入れ、的外れた賞賛を向けられ始めたのはいつだろう。
なんて皮肉だったのか。今こうして、より深く、より強く人間の心に訴えかける経典を読めば分かる。
何も心など動かない。
あまつさえ経典の内容は、事実を文字に書き表しただけの物としか認識出来なかった。
ただの記号。文字列の羅列。それを実感すれば、改めて理解出来る。
自分の魂は、破綻している。
主の愛を以ってすら救われぬと、心の奥底で認め始めたのはいつだったか。
己の魂の有り様は人類社会に於ける異物であり、たった一人だけ世界から弾き飛ばされてしまったという感覚は決して錯覚ではないのだと。
この欠落した心は誰にも理解された事などなく、実の父親すら的外れな誤解をしている。
感情を全く表に出さないのは、求道者的深い信仰心の表れなのだと信頼している息子が、その実見た目通りに空虚で、激しさなどない虚無な人形など知れば父親は——
「…………………」
自らの視線が文字の羅列に固定されたまま停止していた彼は、疲れたような表情で、また本を書棚に戻した。
このペースでは、彼は数十分もあれば書棚を漁り終わる。
本を棚から出し、適当に見漁り、戻す。いやその繰り返しでは、更に早く終わるかもしれない。
ならば無為に時間を消費する事はせず、早々に切り上げるべきだろうなと彼は思案した。
父親には酷く申し訳ないが、元より必要ではなかった事だ。
この空間にあるものでは、息子は次なる信仰の芽吹きは得られないのだと捉えて貰えれば良いのだが。もしくは、ここで得た書物の解釈を説けば及第点かもしれない。問題はないだろう。
ここに足を踏み入れた時の期待は何もなく、もはや諦念的な面持ちで彼は書棚に目を滑らせていく。
古い本ばかりの書棚。その中でも、飛び切りに古い書物が彼の瞳に映った。
木の皮のような亀裂が走っている古書だった。
本の背の部分に名称はない。
恐らく表紙に書かれているのだろう。他者の手にとって貰える事を期待している訳ではない。
捻くれ者が自分の為にだけ書いた代物か、もしくは、何かを追い求めてひたすらに書き連ねた専門書と見て取れた。中世の洋書に多い代物だ。
だから少しは期待出来る——という訳ではなく、これといって特別な理由がないまま、彼は一番古そうだからという理由だけでその古書を引き抜いた。
分厚く、重い。
そして彼はその古書の表紙を見て、読み上げる。
「………
その物語は中世の黎明期にかけ、一種の信仰的対象として広まった流伝と言われている。
多くの伝説や神話的逸話を準えた以上に、後世の物語群や歴史の過程に影響を与えたその物語は、現代では知らぬ者の方が少ない。
しかしそれが、実は未だ民間伝承の域を出ない事を知る人は少なかった。
その物語の主人公として書かれる一人の女性。彼女と形容詞される少女。
名前のない少女が実際に存在した人物なのか、完全なる架空の人物なのか。
多くの謎を残したまま消えた、不透明なる少女の輪郭を捉え切れた者は、未だいないとされる。
同じ島国で語られるアーサー王伝説と違って、未だ完成されない彼女の伝説。
時に信仰の対象として扱われ、中世の黎明期……正確には中世の暗黒時代に深い根詰まりを見せたとされる。
与えた影響は測りしれず、評価は二極化している。その二極化こそがある一種の信仰へと繋がっているのもまた奇妙な事実だった。
話は西洋史。栄光の古代ローマが衰退し、転換をみせた中世時代からだ。
その古代ローマを衰退させ、帝国時代のローマを崩壊させた元凶とされる彼女の流伝が広まったのは必然だったのだろう。
誉れ高き当時の騎士達に何の疑問も抱かせず人間を虐殺させ、あまつさえその是非を説いた人物。
生きとし生ける者を狂気に誘い、まるで亡者の群れのように変え、ローマを襲った軍団の主。ワイルドハントの主。亡霊の長。嵐の王。
かの海賊が、その功績を以って太陽を撃ち落とした者と謳い上げられたのなら、彼女はその暴威を以って星を塗り潰した者と恐れられた。
西洋史の信仰や文化形態に呑まれるどころか、むしろ侵食するが如く、歴史の中枢に蔓延った彼女の流伝は暫くの間、標としてあり続ける。
それが新たに、世界戦争の終幕と共に世界的に広まりを見せる頃には、現代らしく一種の歴史的価値のある文学へと変化した。
つまりは、世界各地に伝わる英雄譚の一つとなったのだ。
現代になって、ようやく。
そのような説明が、世界的な一般常識だろう。
だが、信仰宗教のそれなりの深度にいる者だと少々話は変わる。
たった一人の少女。その苛烈な姿勢と苛烈な生涯が、ある種の信仰と文化を生み出し、中世の暗黒時代を加速させている。
騎士道という文化をもっとも脅かした者。
後世の人々を、己が生き様で
間接的に、救国の聖女ジャンヌ・ダルクに魔女の烙印を押し、殺害した者。
強まり過ぎた正統信仰。行き過ぎた罰制。世界最大宗教の闇の側面、異端審問。民族浄化。魔女狩り。宗教戦争。
その体現者が異端者狩りのルーク。
ただし同時に、世界第二宗教から派生した暗殺教団——山の翁に一部思想と卓越した技巧が受け継がれたとも諸説ある者。
聖杯を己が手で汚し、救世主に弓を引いた背信者。異端者ルーク。
それは歴史的に見ても難しい問題だった。
相反する信仰。流伝内でも語られる彼女の二律背反。皮肉にもそれこそが信仰に昇華された。宗教論争を生み、中世を混沌に陥れた。
中世史の暗黒の原因とも、暗黒時代故に深い広まりを見せたとも。
はたまた……ただその時代の人類の背中を押しただけで、直接的な影響は殆ど無いのだとも言われたが、信仰宗教の土台を揺らがしたのは覆せない。
即ち——世界最大宗教の裏組織としても、彼女の流伝は決して蔑ろにしてはならないモノだった。
「……………」
思わぬモノを掘り出してしまった彼は、僅かに眉を顰め、額に手を当てた。
彼からしてみれば、扱いに困る聖遺物を発見してしまったような気分である。手にしてはならない呪われた魔剣が目の前にあるのと大差ない。
サー・ルーク流伝というのは、彼も当然知っていた。
世界最大宗教の裏組織、聖堂教会に身を置くからでもあるが、一般常識の範疇であっても知らぬ者は少ない。
架空の人物であると一応は現代史で定義されているが、世界史の教科書に名前が載る人物なのだ。中世の歴史と信仰宗教の成り立ちを語る上で、彼女の名前が出るのは避けて通れない。
ジャンヌ・ダルクすらも差し置き、世界で一番有名な女性の英雄だというのはそういう理由がある。
流石の聖処女ジャンヌ・ダルクも、世界信仰そのものと中世全体に影響を与えた訳ではない。
たった一言で要約すれば、彼女は歴史と信仰、両方から見ても扱いに困る人物だった。
そも教会だけではなく、神秘のそれなりの深度にいる者なら余計に扱いに困る。
教会と——協会は、過去こう断言したのだ。
彼女は実在する人物だと。
しかしその人物の名前は誰も知らない。少女の名前は誰にも分からない。
時代と共に風化し、多くが散文化し、偽りと真物が分からなくなり、尚も口伝と僅かな遺物によって広まり続けた上で、その名前に纏わる逸話だけは何一つ掠れる事なく、歪む事もなかった。
そこに如何なる狂気があったのか。如何にして彼女は狂信されたのかついて、彼自身には興味がない。
ただ知るのは、聖堂教会に身を置く者としての知識。知り得て来た事実である。
本物の聖杯を穢した背神者が、教会の代行者だった可能性のある記述、そして多くの魔術師を殺戮し、しかし彼女は原則を凌駕した魔術行使をしていたとしか思えない逸話の数々。それを裏付ける、ブリテンと大陸に残る神秘の痕跡。円卓の聖遺物やその欠片。
これだけで、聖堂教会と魔術協会が扱いに困るのが目に見えよう。
特に聖堂教会は、彼女の存在を極めて慎重に扱わざるを得なかった歴史がある。
世界最大宗教の主。救世主。その血を受けた杯を破壊し、魔術という教義の埒外に手を染めた者が教会の関係者ではないか、などという可能性は無視し難い。
かと言って彼女の存在を異端者の烙印を押して排除する事も難しかった。
かの騎士ギャラハッドと対を成す、もう一人の聖騎士。十三の名を冠した者。何より彼女は聖杯探索に失敗したのではなく、聖杯の奇跡を見ても尚、この器は人の手に余ると考え、手放した………と通説で説かれている。
それにたとえ異端者だろうとも、イギリスに於ける絶対的な救国の英雄を讃える声は根強い。なまじ世界常識的に有名な英雄だ。各地の記述や記載に手をつけるには、絶望的に規模が大きすぎる。
何より本家のウェールズ伝承は魔術協会の総本山がある土地でもあったのが、聖堂教会を苦悩させる。
世間一般には知られてはならない裏組織故の難題は教会を苦しめ続け、結果、聖堂教会は魔術協会とある協定を打った。
何故、魔術協会側が聖堂教会からの条約を呑んだのかを彼は知らない。
一度、父親に聞いた事があったが言葉を濁されるだけであった。
教会側の人間には分からない何かが、やはり魔術協会側にもあったのだろう。
彼女が行使したという原則を凌駕した魔術が、彼らの何かに触れたのか。はたまた別か。
そういえば、彼女の流伝の最初の原典が協会には保存されていると聞く。協会側もまた、教会とは違う視点で彼女の深淵を覗き見ているのかもしれない。
聖堂教会が、第二のジャンヌ・ダルクにはなりたくなかった様に、魔術協会もまた、何かを恐れたのか。
………斯くして、協会と教会は表面上の手を組んだ。
それが今日まで続く、協会と教会の不可侵を確かに補強したのは皮肉としか言いようがない。
ただ、彼が知るのは教会側が決めた条約だけである。
簡素に語るなら、教会内部でだけ彼女の存在を秘匿とし、触れてはならない禁忌として封印する、という事だ。
教義の名の下、奇跡や神秘、聖遺物を回収し時には葬り去るのとは訳が違う。如何なる理由があろうとも触れてはならず、知ろうともしてはならない厄災を教会内部で秘匿し、守護と言う名の封印をする決定を下したのだ。
魔術を秘匿するように、彼女の流伝を可能な限り徹底して秘匿し、表に出さず、時代と共に風化させる。
残念ながらそれは、何世紀とたった今でも、普遍的な英雄譚として扱われる程度に終わっている為、成し遂げられてはいない。
即ち、サー・ルーク流伝とは聖堂教会内部に於ける禁忌であり、忌むべき聖遺物。
故に今、彼が手にしているのは——呪われた魔剣と大差なかった。
「…………はぁ、何故このような物が……」
己の父親は、極めて模範的且つ敬虔なる信仰心のある神父である。
そんな信頼があったからこそ、彼は再三の溜息を吐いた。
自分が今手に持つ書物は、是が非でも焼き払わなくてはならない焚書である。この現代で焚書とは時代遅れな、と世間一般では思われそうだが、世間はともかく教会内ではそうなのである。
これは……本当にどうするべきか。
父親にこの事を素直に尋ねるのは得策とは思えない。
何しろ、父の書庫に保管された代物だ。最悪、息子からの密告により、今まで築き上げて来たモノを失い兼ねないと気付かぬ父ではない。
では、息子である自分ならこれを見過ごすと考えているのか。
否、それもあり得ない。父から感じている信頼と称賛の言葉を、彼は確かに偽り無きものだと確信している。
ならば………ならば実は——父も己と同じ破綻者なのだろうか?
息子に向けた信頼は、己が破綻者であるが故に正しく育ってくれた事の裏返し。
暗闇の中、いつの日か福音に包まれると信じ、藁にも縋る思いで異端なる書物にまで手を伸ばした可能性は——
「…………」
的外れな解答を下そうとしている己の心に恥入り、彼は呆れ顔で額に手をやる。
落ち着け。父親がそのような人間でない事など疾うに理解している。
己にはなかった、生涯の目的として定めた何か。信念。それを全うする為だけに行動出来る鉄の意志を持った父を疑うとは、それこそ背徳である。
そして、そんな父の事だ。
この様な異端書を読んでも、己に一切の疑問を覚えないからこそ、この書がある事を知りながら息子に書庫を開いたのだろう。
冷静になれば簡単であった。動揺していた先程の自分を恥入り、彼は自らを整理する。
つまりは父に試されているのだ。
この禁忌の書を発見した時の反応、その後の対応を。
聖堂教会に於ける修羅の巣窟に足を踏み入れるのだから、この程度収めてみよという真意を彼は感じ取る。
が、自らの息子を一切疑わない故の信頼には、いっそ恐れ入った。
密告や糾弾でもされたらどうするつもりだったのやら。
いや、やはり大袈裟に捉えすぎなのかもしれない。
禁忌指定された書物………なんて存在は古い考えなのだ。
言ってしまえば、やや時代遅れ。何百年も前に定めた条約を守り続けるのはある種の美徳とも言えるが、それこそ彼女のようにやり過ぎであると言う声が上がっているのもまた事実だった。
行き過ぎた彼女のそれで、如何な災厄が中世に振り撒かれたのかを知ってるなら、教会の行いは同じ轍を踏んでいるとも言えるかもしれない。
聖堂教会といえど一枚岩ではない。
更に、様々な情報や思想が混沌とし、遂に神秘を科学が凌駕しかかった現代。変革の時を求められているのは魔術協会だけではなかった。
中世の暗黒期時代ならまだしも、彼女の流伝一つをここまで引き摺るべきなのか……?
そんな声は彼の耳にも届いている。彼としては、あまり興味深い話題という訳ではなかったが。
一部の者は、彼女を堕天使だと称した。
無論、堕天使とは宗教的に複雑且つ難しい立ち位置の存在である。彼女を堕天使と呼ぶのは非常によろしくない。
だが、それを理解しながらも彼女は堕天使と呼ばれた。
神に疑いを抱いた堕天使を忌む時代は終わった。存在そのものを封印し、忌避し続け、なかった事にするべきではない、と。
「……難しい時代に生まれたものだ」
恐らく父は、多くの艱難辛苦を乗り越えた半生を過ごしたのだろう。
世界戦争が終結してから半世紀近く。現代に入り更に混沌とする信仰の難しさは、彼にも全ての理解が及ぶ訳ではない。
だからこそ、それを乗り越えた父の信仰心に揺らぎはなく、しかし父は古い意義と威信に縛られては教会は形骸化すると悟った人物なのだろう。
これが自らに与えられた試練なら………己はやはりこの苦難を乗り越えなくてはならない。
ただの英雄譚の一つであろう……という気持ちが失せていく。自身が求めるモノとは正反対の話題だった故に、今まで積極的に取り組まなかった題材だが、良い機会だ。
多くの人々を狂気に惑わせた異端書。正統な理念を崩し、多くの信仰者を堕天させたとの忌み名を持つ流伝。
その少女の流伝を——彼は開いた。
彼女の人生は、何故、どうして、と問うばかりの人生だった。
何にも共感出来なかった生涯。あらゆるモノが通り過ぎた人生。
しかし彼女はそれを受け入れる事はしなかった。
したくても出来なかった。
魂の有り様を裏切れば、自分の命よりも大事な何かが壊れると理解していたから。
故に彼女は望んだ。
虚無ではなく苛烈。
全てに背を向け、草木の如く無為に過ごす事は出来ない。
自身の矯正ではなく、世界の否定。
その否定こそが、彼女にとって存在証明だった。
彼女は何かを否定する事でしか、自身の存在を証明出来なかった。
何て皮肉なのだろう。
それほどにアーサー王の理想と、アーサー王そのものは完璧だった。
だからまず、一切の隙間のないその誉れに穴を穿たなければ、少女は何にもなれなかったのだ。
故にこれは決して英雄譚ではない。
不透明な一人の少女の輪郭を、どれだけ鮮明に記せたかという流伝。
もはや失われた形を復元した断片。
だから彼女は英雄譚の主人公のような才能溢れる人間でもなければ、運命に真っ向から立ち向かえる程の精神もない。
騎士王からの裏切りに、遭うまでは。
「何故だ」
誉れ高き騎士道。
それに従う理想の名君。
そしてその名君を主君とした、荘厳華麗なる騎士達。
その全てが。
その時代、当然と思われていたモノが。
全ての人間が良いものだと、美しいものだと誉めそやした誇りが。
何もかも気持ち悪いモノに見えたのは、その瞬間だった。
「これが、私達の誇りなのか」
少女の目の前には、喧騒に沸く民衆がいる。
その民衆の群れを眺め、喧騒の中にいるのに、彼女はそれを遠くから眺めているように感じた。
だから、耳に劈くあらゆる全てが煩く、ガラスを爪で引き裂くように少女の心を軋ませる。
「これが、本当に、正しいモノなのか」
少女の前で、騎士が一人、剣を天高く掲げて叫ぶ。
なんて事はない騎士の誉れだった。
神の名に於いて神聖な一騎討ちを果たし、見事勝利した。
故に勝者が主の名に於いて正しく、敗者は正しくない。
それは一種の儀式でもある。
今まで培って来たモノが誠に正しいモノなら、正しい方が勝つという。
偽りと卑劣な手段で得た力なら、必ずいつかは敗北するのだからという。
そういう定めを信じ、そういう運命なのだと感じ取っている。
「あぁ………」
だが、何故だろう。
その当たり前が。
当然の形が。
僅かな差異はあれど不変の騎士道が、どうしても彼女には理解出来ない。
そこには流れる血があった。
砕けた剣や槍がある。
主人を守り切れなかった盾や鎧がある。
何よりも、無残に死んでいく人がいる。
「こんなモノが、尊いモノに見えるんだ——」
それが彼女には、どうしてか理解出来なかった。
何かがおかしかったのかもしれない。
心の有り様が、何かずれていたのかもしれない。
彼女には、目の前の全てが醜いモノに見えて仕方がなかった。
それは上位者が、下位の種族の生態を見て気持ち悪いモノと捉えるのとは訳が違う。
少女は花の蜜を吸う虫も、巣穴に帰っていく蟻の群れも、気持ちの悪いモノだと感じた事はない。
だけど、目の前にあるのはなんだろう。
表面上を取り繕っただけで、一騎討ちは殺し合いだ。
無益矢鱈に人を殺してはならない。
殺めてはならない。
当然傷付けてもならない。
勿論、騎士達はそれを知っている。
勝てば全てが許されるなんて風潮がこの国にある訳ではない。
それを少女も知っていた。
知っていた上で、受け入れられなかった。
目の前にあるのは何なのだろう。
それが、分からない。
どうしても共感出来ない。
殺し合いを。忌むべきモノを。
どうして当人達は誉れ高いモノだと叫ぶ事が出来るのか。
どうして周囲は尊いモノに見えるのか。
一騎討ちなら違うのだろうか。神聖な決闘なら何かが変わっているように見えるというのか。
ではその違いはなんだ。
相手の臓腑を貫き、その血を滴らせた槍を掲げるそれが、何で清く正しいモノに見えるんだ。
「これが………——これが?」
いつしか、少女は拳を握り締めていた。
拳には血が滲む。
噛み締めた歯はその力に軋む。
睨み付ける瞳は射殺さんばかり。
それは心から体に溢れ出した炎の揺めきのようだった。
少女はただ一人、孤独に耐え難きをその体で耐えていた。
主の名を借りた決闘。
それが、上面だけを正しいモノで覆い隠した、最も醜いモノに見えた。
眼前にあるそれが、最も騎士道を………否、人を穢した悪性に見えた。
もはや彼女の目に映っている騎士達とは、栄光と名誉を嬉々と持て囃す殺人者と変わらない。
しかしそう感じ、憤っているのは、彼女たった一人だけだった。
「分かった、もう分かった。私がおかしいんだ」
だからこそ、彼女は沈鬱に顔を俯かせた。
ただ、炎を宿した瞳だけは黒く濁っている。
少女がここで何を叫ぼうと、何を糾弾しようと世界は変わらない。
いや、時間も立場も全てが無意味だった。
間違っているから正す必要がある、なんて感情も彼女には欠けらもない。
彼女自身、間違っているのは自分で、世界に於ける異物が己だと理解出来たから。
「だから、必ず。
お前に——お前に否定させてやる」
それは、間違いを正さなくてはならないという善ではない。
酷く醜いとされた、どす黒い感情。
臓腑より膨れ上がる復讐の炎。
こんなモノの為に、このような騎士道に犠牲にされた、彼女の全てだった者の仇。
世界の全てと、この騎士道を作り出したあの王へのだ。
全てを奪い去っていった、理想の名君へのだ。
見ているがいい騎士王。
お前の前で、こんな尊いモノを汚してやる。
貴様の手で、こんな騎士道は醜いモノだと断言させてやる。
輝ける騎士王に憧れと尊敬を抱いていた時代は、彼女の中で終わりを告げた。
そんなモノ、今の彼女にはゴミ同然に思えて仕方がなかった。
全てどうでも良い。
たとえそれが醜いモノでも。
己が彼らの言う醜い獣に堕ちようとも。
それで、構わない。
「必ず、貴様に——」
目の前に映るモノ全てに、欠けら程も共感出来なかっただから。
それは少女が初めて、世界の普遍に訣別し世界を憎悪した日の事だった。
その日、言峰璃正は自らの家を歩き回っていた。
先日から息子の姿を見かけていなかったのだ。
「綺礼?」
その名前。
彼の息子——言峰綺礼の名前を呼ぶ。
璃正の記憶にあるのは、先日代行者への配属が決定した綺礼が、父の書物部屋に入る事の許可を求めた時の事だ。特に拒否する必要性もなかったし、悩む事もなかった。
璃正からすれば、息子の態度は極めて模範的なそれでしかなかった上、特に見られて困るようなモノは置いてないのだから。
あぁ、唯一あるとすれば——異端書と悪名高い彼女の流伝だろうか。
しかしむしろ、璃正は綺礼にこそあの流伝を読んで欲しかった。
あの流伝を読んだモノは、自らの信仰心が揺らぐ。自らの信念に疑問が生じる………そう忌避され続けるのも、もはや過去の話。
数百年前の異端書を、現代にもなって焚書を行うのかという話だ。
無論、全てを詮無きモノと捉える訳でもなく、そう言う一種の成り立ちなどは理解出来るが、現代で魔女狩りを行うくらいの場違いであると璃正は捉えている。
強固な精神と、揺るがない考えを持つ者ほど、あの流伝は内側の狂性を曝け出すとされた異端書だとしても、言峰璃正は揺るがなかったのだから、疑う余地などない。
昔、死に至る病が星の輝きと関連付けられていたが、現代では全くの無関係のウイルスによるモノだった、くらいの乖離が彼女の流伝にはあると言う認識だったし、事実そう言う考えは現代の神父にも多い。
中世では異端書でも、現代では歴史書だ。
それは軽視ではなく、自らの信念に裏付けされた考えから成り立つモノである。
何せ言峰璃正は彼女の流伝を読んでも、全く信念は揺らがなかった。むしろ、成る程そう言う考えもあるのか、このようにして中世の暗黒期と、現代に続く悪名の多いイギリスという国家は作られたのかと、一部納得した程だ。
故に当然——自らの息子、綺礼に多大な信頼を置いている璃正は何も疑わない。
あの流伝を読んで、綺礼は何を思うか。
あれは遥か過去の産物でありながら、現代の混沌とした信仰に一石を投じる事が出来る代物でもある。
歴史書としても深い意味合いを持つと言って良い。英雄譚のような一本的な視点ではなく、善と悪、両方を捉えた書物だ。一方向のみの信仰ではすぐに衰退が及ぶ現代では、良い教材となる。
何より、行き過ぎた信仰の果てに何が起こったかは、宗教戦争や魔女狩り、救国の聖処女の、あまりにも早すぎる処刑といった歴史が表しているのだから。
綺礼にも、如何なる感想を得たか聞きたい。
複雑化する宗教形態を紐解くのに、あの流伝ほど適したモノはないと璃正は考えている。
「………まさか、まだ書斎に?」
家中を探し回ったが、何処にも綺礼の姿はなかった。
では後は、書斎にいるとしか思えない。まさか許可を受けた一日中、一切の時間を無駄にしてはならない為に籠り続けているのか。
時折見せる綺礼の熱心さや苛烈な姿勢に驚かせられてばかりの璃正だったが、その貪欲な向上心の姿勢には、一介の信仰の護り手としては尊敬する他ない。
心の中に歓喜と同じだけの賞賛を綺礼に向けながら、璃正は書斎の扉を開く。
「————————」
「おぉ…………」
開いた扉の先には、やはり綺礼がいた。
その様子に、思わず璃正は感嘆を溢す。
僅かな時間すら惜しいのだろう。椅子や机すら使わず、本棚を背にして本を読み解き続けてるその姿勢は、此方にまで伝わるほどの気迫があった。
傍らに積まれて本の数も、腰を下ろしている綺礼の肩程まである。
それが十数束もだ。その内容物は、信仰に関わるモノだけに過ぎない。
人の心理。心の有り様。何故人は、罪深い事を敢えて働いてしまうのか。更には、必要であれば人を傷付けて良いのかといった、哲学的な内容物まで含まれている。
そして、その綺礼の手に握られている書物。
——あぁ、やはりか。
綺礼が今、僅かに瞳を充血させる程に意識を向けているのは、先程から璃正が頭の中に浮かべていた少女の流伝だったのだから。
きっと綺礼は、良き出会いに恵まれたらしい。
今までにない熱心さを見せる息子の態度に、璃正は胸中で運命的な出会いを果たした綺礼を祝福した。
綺礼の瞳がナニかに揺れていた事には、終ぞ気が付かぬまま。
言峰綺礼についてはFate/Zeroの、24歳/34歳説を主軸に採用。
言峰綺礼の略歴や設定以外にも、zeroとstay nightの差異についてはその都度細かく記載はしないが、どちらかを主軸にする、両方が織り混ざった形にする、もしくはその部分を敢えてぼかす形になると思われます。
細かい差異の部分自体は全く物語の流れに影響しないので、もしかしたらいつの間にか変えているかもしれないです。