鏡花水月
1. 目で見ることは出来ても、手に取ることが出来ないものの例え
2. 鏡に映った花や水に映った月のように、目には見えながら手に取ることが出来ないもの
3. 言葉では表現できず、ただ心に感知するしかない物事
4. 長く続かずに消えてしまいやすい幻
「綺麗な瞳……」
その日、彼女は失態を犯した。
自らの信条を裏切るような、失態だった。
彼女は仮面で隠していた素顔を、一人の子供に見られてしまった。
無論、油断や慢心をしていた訳ではない。
如何なる手段を講じたのか、北の蛮族達の一集団は密かに南へと進軍しており、少数故に発見が遅れていた。
ただ一人。単独で蛮族の足取りを探り、狩人よりも速く蛮族を追い詰める彼女の姿は死神のそれであったが、しかし遅かった。
いや、間一髪で間に合ったと言う方が正しい。
しかしそれが失態の原因である。
振り落とされる棍棒。
その下には一人の子供。
咄嗟に子供と蛮族の間に割って入り、彼女は頭に攻撃を受けた。
衝撃で外れる仮面。
年端も行かぬ少女でありながら、端正かつ可憐な素顔が踊り出る。
「カッコいい……」
「………………」
今しがた助けた子供。
少女と思われる幼子を無視しながら、彼女は砕けた剣を放り投げる。
彼女にとって、聖剣以外は有象無象の代物でしかなかった。
一合振れば砕け、折れる。敵の頭蓋と共に。
返す刃で、蛮族は死んだ。
残りの残党も、全て弓で一撃である。
彼女は如何なる時も無手であり、構えなどない。
信頼出来るのは、その場で刃を生み出すだけの魔術である。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「黙ってろ」
地面に落ちた仮面を付け直そうとするが、額の血が邪魔だった。
それに額を拭っても血が止まらない。
更には意識も朦朧としていた。
完全なる失態である。
咄嗟に、少女を庇わなければ良かった。
そう思った彼女の考えは、人道を無視したモノだっただろう。
しかしその通りでもあった。
少女一人を庇ったその代償に、彼女は暫く休養を要する。
つまり、その間に彼女が減らせる蛮族や異民族がいる筈だ。
その数は少なく見積もって数十。
そしてその数十は、ブリテンの民を殺す。
結果的に、彼女は一つの命を守った代わり、数十の命を損失した。
天秤は釣り合っていない。
「酷い傷。私なら治せるよ」
「………」
更には顔も見られた。
自らの性別が女だと周囲に知られれば、更に被害が広まる。
いっそ、ここで始末するべきか。
そんな危うい考えをしている彼女の事を知ってか知らずか、少女は無垢に話しかけていた。
傍から見ればおかしな光景に見えるだろう。
幼い故の成長差が激しいだけで、彼女と少女の歳はそう離れていない。
十二と九程か。彼女の雰囲気が、凡そ成人を迎えた騎士であってもしてはいけないモノでなければ、姉と妹くらいには見える。
「そんなに睨んでたら、顔に皺が出来るよ?」
「………………………」
その言葉を受け、余計に眉を顰める。
しかしそれを自覚して、彼女は悶々としながら額に手を当てる。
とにかく、血と痛みだけは絶対に邪魔だった。
「一日で治せ」
相も変わらず、刃のように鋭い瞳で無神経に応じているのに。
助けられた少女は花咲くような笑みで、うん! と答え、首を縦に振った。
彼女が気付いた時には、朝を迎えていた。
命を救った少女に案内されたのは、なんと洞窟。山の麓にあった横穴だった。
その瞬間に信用のなくなった彼女だったが、とにかく休めてそれなりに安全なのなら、そこで良かった。
ここなら私の命を脅かす者は居まいと、横穴の壁に背中を預けて眠る。
朦朧としていた意識。
気絶するように睡魔へと落ちたのだろう。
横穴に差し込む太陽の光は、目を覚ました身には少しだけ眩しい。
「綺麗……」
「………………」
だがそれよりも、目の前には邪魔な異物があった。
背中を預けて座っていた彼女の瞳を、やや屈んで覗き込むもう一人の瞳。
先日救った少女だ。
本当に目の前。息が当たる程の距離で、まるで花を見る幼児のように少女が覗き込んでいる。
「邪魔だ」
「あぅ」
もはや危機管理と危険意識が決定的に欠如しているようにしか見えなくなった彼女は、目の前の少女を払い退けて立ち上がる。
そういえばいつの間にか、額の傷が癒えていた。
頭に撒かれた麻布と、何らかの薬草。
どうやら先日の言葉は嘘ではなかったらしい。
「………ありがとう。世話になったな」
その一言を残し、彼女は立ち去ろうとする。
もう用はない。
元より無駄だ。
今こうしている間に誰かが死んでいる。
それが、何よりの無駄。
戦いのない平穏な日々を愛せず、あまつさえ空虚さと焦りしか感じ取れない彼女の心は、きっと壊れていたのだろう。
十二の少女を苛烈な修羅へと追い立てる元凶を、彼女は何も拒絶しない。
「ねぇねぇ、どうしてお姉ちゃんの瞳はそんなに綺麗なの?」
「………………」
ただ、九の少女はそんな事お構いなしに彼女へと抱き着く。
血に濡れ、死の気配を漂わせ、決して十二歳の少女がしてはいけない瞳をしていながら、しかし九歳の少女はその瞳をずっと綺麗だと言う。
何故だろう。
それが彼女には——心も憧憬も、名前と一緒に捨てた少女には分からなかった。
「ねぇ、どうして?
なんでそんな真っ直ぐで、冬の日に出来る透き通った氷よりも、ずっと綺麗なの?」
「………良かったな、お前。私が帯剣していなくて。
私がそこな騎士であったのなら、お前は刃で斬り伏せられても仕方なかったぞ」
少女の言葉を無視して、脅すような口調で彼女は突き放そうとする。
心の底に、何かささくれ立つモノを感じて。
だが、
「それも、いいかも」
少女がそう返した事で、彼女は固まった。
自分に抱き着いている少女。
しかし今、その刹那、無垢な少女ではなく、血涙を流す迷子が自分にしがみ付いている気がした。
「……………」
そういえば、この少女に親はいないのかと思い至る。
九の少女だ。一人で生きていけるとは思えない。
更にはこの洞穴。そして傷を治す為の知恵。
思えば全てがチグハグなように、彼女は見えてならなかった。
「お前、親は」
「いるようで、いない」
要領を得ない、複雑な言葉だった。
ただそれは、幼子特有のモノではなく何かを悟っている人間のそれである。
決して、笑って良いモノではない。
勿論、大人が子供から理解を得る為に、問いただして良いモノでもなかった。
「そうか」
だから、彼女はそれ以上の追求をやめた。
元より彼女自身も、似たようなモノである。
彼女に親はいない。
里親と呼べるモノもいない。
居たのは母と兄だけだったが——騎士王への憧憬と共に、もう消えた。
彼女は、愛というモノを知らずに育った。
でも彼女は、少女の複雑な事情を悟り、言葉を続ける。
「お前、キャメロットに来るか?」
「……………」
「まぁ、食べ物には困らない。寝る場所もそうだ。
命を狙われる危険性がないから、傷を治す薬草も血を止める薬草も必死になって探す必要もない」
どうする、と、瞳と瞳を向け合って彼女は訊いた。
抱き付かれたままなのに離さないのもまた、彼女の不器用な慈悲だったのかもしれない。
普段の彼女を知るモノなら、驚くほどの。
「ありがとう。でも良いや。お姉ちゃんに迷惑はかけられないから」
その言葉を、彼女は否定しなかった。
抱き着いていた手が離れる。
「——そうか」
微笑むように笑う少女の姿を見て、彼女は視線を切った。
もう、慈悲はない。
それ以上真摯にもなれなかった。
ずっと変わらないままの無表情で、彼女は去っていく。
天秤は天秤のまま。
そう。情は最初からなかった。
ただ、それだけなのだから。
「じゃあな。
それと、生きろよ」
唯一、最後に一言がある事だけは。
彼女を知るキャメロットの騎士達には、誰も想像出来ないほどの譲歩だった。
南の領地より、異民族の反乱あり。
その報を受けたキャメロットは、俊敏さで知られるアグラヴェイン卿とその右手である彼女を遣わした。
正確には、アグラヴェイン卿が独断で動いた、とも言える。
彼はそう言う立場にあり、尚且つ、時に粛正を任される程に信頼され、独自の裁量権を持っていた。
卑王ヴォーティガーンを苦難の末に打ち倒しても尚、勢い止まるどころか更に押し寄せる異民族。
サクソン人を率いてブリテンを苦しめた邪悪の王ヴォーティガーンの真意。
そこには受け入れ難き野望があったにせよ、不可能に等しいサクソンとの、ある種の融和策の形ではなかったのか。
皮肉な事に、その皺寄せを彼女は刈り取っていた。
異民族とて、人だ。
もはや、実際に手をかけ殺害した人間の数は夥しい骸の山を築ける程。
この時点で、彼女以上に手を血で汚した者はブリテンにはいなかっただろう。
そして今日もまた、血に濡れる。
反乱分子の命を、まるで草木を刈り取るように剣を振るった。
そこが戦場ではなく、蛮族や異民族の土俵である森の中でも変わらない。
森の民だった彼女は無敵だったのだ。
踏み込む足で大地が割れ、振り抜いた剣で木々が裂け、吹き抜ける風のように森を駆ける。
彼女が足を止めるのは、いつも敵を殺害し終えたその時だけ。
その——筈だった。
「……………」
「どうした、ルーク」
その日は血に濡れきっていないのに、彼女は足を止める。
明確な異常。
その事に疑問を持ったアグラヴェイン卿が尋ねる。
戦場に於ける彼女の暴威は、正に竜の領域だった。
それを一番知っているのは、ずっと目の前で見て来たアグラヴェイン卿である。
荒れ狂う竜が、他の何かに意識を向けているのは、何かの違和感や危険を直感した時の証だ。
戦場に於いて、鋼鉄のアグラヴェイン卿が最も信を置くのはサー・ルークという子供だった。
「あの、洞穴が……」
「そこが?」
彼女の視線の先には、洞窟がある。
山の麓にある、横穴。
彼女はそれに見覚えがあった。
見覚えがない訳がない。
彼女が忘れる訳がない。
「あそこに、人がいるかもしれません」
「そうか、分かった」
彼女の直感に対し完全な信を置いているアグラヴェイン卿は、短く言葉を残して去っていった。
残された彼女は、銘がなく雑多で、しかし己だけの騎士剣を両手に握り横穴に近付く。
小さい洞穴だ。
すぐに、突き当たりに辿り着く。
ただ、彼女には分かった。
幾度となく人間を殺戮して来た故の経験則。
そして生涯に裏打ちされた、鋭敏な感覚。
死神の気配には敏感だった。
だから彼女に答えを与える。
「………………………」
死臭がした。
「………お前」
横穴の突き当たりには、小さな少女の遺体があった。
首から胸にかけての刀傷。
その鋭さは、キャメロットの騎士達の剣だと彼女には分かった。
その横には、二人の亡骸。
抱き合ったままの男女。
恐らく父親と母親。
少女は一人、両親と同じようにその横で斬殺されている。
「お前、サクソン人、だったのか」
感慨もなく、人形のような面持ちで彼女は呟く。
かつて命を救った名も知れぬ少女は、異民族だった。
まともな住処を持たず、安住の地を持たず、生傷の癒えない侵略者達。
「……………」
しかし如何なる理由があろうとも異民族というだけで、彼女はきっと、あの少女を殺していただろう。
彼女の天秤が狂うなどあり得ない。
情はない。
仮にあっても、それごと殺す。
それに今更、そんな情に彼女が目覚める訳もなかった。
既に彼女は、罪もない幼子も手にかけて来ている。
自分と同じ、いや、更に年端も行かない子供でも。
生かして置く価値はない。
叛意の芽は摘み、悪意の連鎖を完全に断ち切るには、殲滅しか彼女は知らない。
特に子供は危険だ。
純粋無垢であればある程、契機さえあれば立ち所に自分自身を定め、人としての運命を、成長する為の本能も、全て才能へと変換して剣を持つ。
復讐。憎悪。そう言ったモノで心を括った子供ほど凄まじい災厄になる。
それを、彼女は知っていた。
他ならぬ彼女だけは、世界で一番理解していた。
何故なら彼女がそうだから。
だから必ずあの少女を、瞳が綺麗だと言った少女を殺していただろう。
ただそれが、偶然、どこの騎士とも知れぬ者の手で死んだだけで。
「…………」
剣の一振りを、まるで墓標のように突き刺す。
彼女の魔術で構成された剣だ。
永遠には持たない。
普通の剣とは違って、錆びて朽ちる事なく、砂のように崩れ去っていつかは消える。
彼女の剣は、戦場で狂気と死を振り撒くモノでしかないのに、その刀身は透き通り、儚かった。
まるで少女が、彼女の瞳を綺麗だと言ったようだった。
何故、そんな事をしたのか。
彼女自身にも分からない。
ただ、彼女は刻み付ける。
——あの時、殺していれば良かった。
深く、深く心に刻み付ける。
それは後悔。
それは何処ぞの誰かに殺された少女への、後悔。
——あの日、他ならぬ私が、この手で。
それは同時に、この世の地獄を知らず抗う力も持たない無垢の少女への、怒りでもあった。
何も知らぬ
これがこの世界の地獄だった。
騎士道という幻想で隠した、世界の影。
栄光や名誉で、殺人を如何に正当化するに長けた文化。
「さようなら」
直視するには眩しすぎる光の集合を前にして——名の消えた少女は洞穴に背を向け、去っていく。
洞窟の闇に、瞳を綺麗だと言ってくれた、名前の知らぬ少女を残して。
「何かあったか?」
彼女が洞窟から出て来た時、アグラヴェイン卿は尋ねた。
いつも二刀流である筈の彼女が、剣をひとつしか握っていない事に、彼は気付いていた。
「…………」
彼女は無手の左手を眺めた。
再び無から剣を作り、握る。
「いえ」
アグラヴェイン卿に向き直った時には、もう元に戻っていた。
ただ一つ。何処までも透き通る怜悧な刃のような瞳が、凍て付いた氷になっている事を除き。
「何も」
まるで人形のように呟き、再び彼女は地を駆け抜け、異民族達を殲滅しに向かう。
その戦途中、彼女は異民族達から恐怖と憎悪の瞳を向けられる。
当然だ。敵からすれば、彼女以上に有名な者はいない。
ブリテンに於ける絶対的な救国の英雄は、敵対者からすれば打倒しなくてはならない悪なのだ。
しかし彼女は、何をも意に介する事はない。
だからもう、彼女は誰にも情をかけない。
綺麗だった瞳は、氷のように冷たくなった。
それ以降、彼女は如何なる時も眉を顰める事もなく、感情すら停止した。
素顔を隠す仮面が、彼女を真に固定する。
名前の知れぬ少女は——名前を鋼鉄で封印しきった少女を、氷の騎士へと変え、冷酷無比な鉄面皮が形作られる。
何故、あのような慈悲を見せたのか。
何故、思考を巡らせれば気付くような事を見逃したのか。
その問いの答えを、彼女は捨てる。
だからもう、彼女は失態を犯さない。
その日、彼女は失態を犯した。
自らの信条を裏切るような、失態だった。
奇妙な三年間だった。
冬木の地。深山町の高台に作られた物々しい遠坂邸の屋敷で続けられた、時臣と綺礼の師弟関係は、何の溝も亀裂も生む事なく、無事に聖杯戦争開始まで辿り着いた。
聖職者として忌避すべき魔術を綺礼は学び、魔術師として警戒するべき神父に時臣は真摯になって魔術を教えた。
綺礼の成長速度は凄まじく、師の時臣をして驚かせるモノだったのだろう。
いまや時臣の信頼は揺るぎなく、綺礼もまたマスターとしてサーヴァントを従えるに相応しい魔術師となっている。
「では綺礼、召喚を始めよう」
そう。物事は全て上手く行っていた。
当たり前だ。最初からそう計画して来たからだ。
綺礼の横には綺礼の父親、璃正。
この三年で、きっと教会の修羅場を潜り抜けていながら、その威風堂々足る面構えは僅かにも歳による老いを感じさせない。
場所は教会。時臣は、ここにはいない。
既に、万事は計画通りに進んでいるのだ。
時臣氏とは予定通り決別したという事となり、綺礼は彼女の名の下、如何なる陣営にも加担しない者として聖杯戦争に望む。
手順と詠唱は、疾うに織り込み済みだ。
水銀で形作られた召喚の陣の前に立ち、言峰綺礼は十字架を握り締めながら、召喚の呪文を言祝ぐ。
「素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公」
召喚するサーヴァントはアサシン。
自らの勝利ではなく、時臣氏を援護する計画。
これもまた、事前に決めていた事だ。
そこに綺礼の意志はない。
三年前のあの日から、ずっと。
——本当にそうだろうか?
そうでなくてはならない。
——そう考えているだけではないか?
「降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
言峰綺礼の後方には、赤い黒鍵が二本、教会の祭壇にて交差するように立てかけられている。
勿論当然だが、それは触媒ではない。
今は箱から出されているとはいえ、その刀身と柄にはマルティーンの聖骸布が撒かれ、力を封印されている。
何より英霊を呼び寄せる召喚陣から遠く離れ、決して触媒にはならないのだ。
しかし尚、滲んだ血のように、彼女の黒鍵は赤く輝いていた。
それはまるで、この状況を眺めているのではないか——そんな考えの下、言峰綺礼は呪文を続ける。
「
実際にその黒鍵に触れて良いのは、言峰綺礼だけだった。
時臣氏はおろか、父の璃正すら触れず、手に持つ事ももうない。
聖別した聖書の紙片を以って作られた刀身が、血の色に輝いているのだ。
現代では考えられないレベルの呪詛と呪いが込められている事は明白であり、決して長い時間触れて良いモノではない。
そも直に触れて良い物ではなく、そうでなくとも同じ空間にあってはならない——代物である筈なのに、言峰綺礼は全くの影響を受けていなかった。
もはやあの黒鍵は、綺礼の物と言っても過言ではないだろう。
とするならつまり同時に、あの血に濡れた黒鍵は言峰綺礼を選んだようなモノではないか。
まるで担い手を選ぶ魔剣のようにだ。
「——告げる」
全身を巡る魔力の感触。
人間としての本能が、体内中の魔術回路が駆動する悪寒と苦痛に悲鳴を上げる。
しかし、言峰綺礼の思考は全く別のところにあった。
彼を今苦しめているのは、魔術と魔力という軋轢に苛まれる肉体などではない。
ナニかに恐れを成して早鐘を打つ心臓の鼓動だけが、綺礼という魂の外殻である肉体に響き続ける。
如何なる数奇な運命か、神の御家にはあってはならぬ呪いの品が、綺礼の真後ろにある。
ここは冬木教会。その教会に禁忌とされた呪いの品がある。
真っ白な清浄のキャンパスの、たった一点にだけ泥を投げ付けたような異物だ。
それに引き寄せられているのか——言峰綺礼もまた、神の御家の下では相応しくない考えが浮かぶ。
聖職者として、聖堂教会の神父として、決して犯してはならない狼藉を働きそうになる。
「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に」
詠唱をする肉体とは全く無関係の機関であるかのように、綺礼は魂と思考を揺さぶられていた。
それはダメだ。それ以上、考えを進めてはならない。彼女を現世に復活させてはならない。
そう考える思考の裏腹で、ナニかを熱望するような己の心と心臓の鼓動が、言峰綺礼に訴えかける。
意志などない。聖杯戦争などどうでも良い。聖杯などに興味はなく、願いを叶える目的もない。だからこの三年間も空虚であった。
何もが綺礼の心を満たす事はなく、故に何かに対し前向きな情熱をかける事も出来なかった。
この三年間、ずっと。教会の修身に何も得る事がなかった故に、真逆の世界にある魔術という異端に、幾許かの期待をしていた言峰綺礼の心は、ただ新たな渇きを得ただけに終わったのだ。だから何も掠める事はなかったのだ。
——そうではないだろう。
「聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
——あぁ、そうだ。
自分は認めなくてはならない。
悲鳴を上げて痛感を叫ぶ肉体も、暗くなる視界からも外れ、言峰綺礼の思考は昏い闇のような、泥で出来た深海に等しいナニかの底にいた。
この三年間、本当に綺礼に意志はなかったか。
今までの生涯の如く、何の目的もないまま苦難な修練に没頭する言峰綺礼であったか。
いいや違う。
あの三年間——言峰綺礼には確かに、明確な目的があった。
教会の修身には何も得られず、真逆な価値観の修行に幾許かの期待を託した程度ではない。
忌避すべき異端。それを並々ならぬ集中と吸収力で、魔術の秘技を修めていったのは、近付こうとしたからだ。
それは同じく異端である——名も分からぬ彼女に。
「誓いを此処に」
軋轢し、軋む。
肉体がではなく、心が。
——受け入れては、ならない。
常識と良心。それに狭間する禁忌と堕天の闇がすぐ背中に迫っている。
そう本当に言峰綺礼の背中にはあるのだ。黒鍵の形をした血色の十字架の中に。
——受け入れれば、答えが分かる。
赤い黒鍵。呪われた聖具。汚染された教会の経典。
あれを触媒とし、今マルティーンの聖骸布を解き放ち、召喚陣に捧げれば。
たとえそれが、今までの生涯全てに泥を被せるような悪行でも。
——彼女を召喚してはならない。
遠坂時臣と言峰璃正。師と父。魔術協会と聖堂教会。その全ての禁忌を犯す事でも、今までの生涯、ずっと求めて来た問いがすぐ側に来る。
しかしそんな事をすればどうなるか。
封印指定。村を滅ぼした死徒。それ以上に重い罰を己が身に下される事は目に見えている。
それはおろか、一つかけ違えば世界を滅ぼし兼ねないモノが蘇る。
絶対にそれは、神に仕える言峰綺礼が望むモノではない。
——彼女を召喚すれば、全てが分かる。
……違う。決して、望むモノではない。そう、その筈なのだ。
では。
ではこの三年間——己は一体何を?
「我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者——」
聖杯に興味はない。
あるのは、出会い。
それをずっと、望んでいる。
あり得ざる邂逅。空想にしかあり得ぬ幻想が、形に出来る。
すぐそこに、二度と機会のない運命が近付いている。
何なら皮肉だろう。
今、綺礼は導きを感じていた。
生涯一度も綺礼を顧みる事のなかった神ではなく、堕天使とされた彼女に。
悪神に匹敵する災禍を撒き散らした少女。如何なる存在にも制御出来ない、嵐の王に。
いや、もしかしたらそれも、神の祝福であるのか。
だとするなら、聖杯を無に還したのを赦された彼女のように、綺礼もまた聖杯を虚無に堕とせという啓示がそこに来ているのではないか。
自戒しろと綺礼の良心が言う。
彼女の様な存在に、近付けば、破滅が待っているから。
だと言うのに、綺礼は答えを渇望する。
誰にも理解された試しのない破綻を。
内側に空いた空洞を埋めるモノを。
抱えた欠落の行き先を。
——汝三大の言霊を纏う七天、
そう。彼女にこそ答えがある筈なのだ。
——抑止の輪より来たれ、
だから決して、唯一愛した筈の女には——
——天秤の守り手よ。
「良くやったぞ……綺礼」
暗い闇の中にいた綺礼を、立ち眩みに似た感覚が引き戻す。
次に耳に届いたのは、父の言葉だ。
万事全てが、滞りなく進んでいる事を喜ぶ声。
感嘆の声を溢す、父親の声。
そう——イレギュラーなど、何も起こらなかった。
思考と肉体。
切り離された綺礼の身体は、彼の意識外にて、まるで別系統の部品であるかのように駆動し、英霊召喚を成し遂げる為の回路である事を成し遂げてしまった。
昏い闇に堕ちていた綺礼の精神は、逆巻く風と稲光によって、現実へと戻る。
目を開けていられない程の風圧の中、燦然と輝きを放つ召喚陣。
その眩い光の束、眼を焼くような光の奥に、綺礼は一騎の姿を見る。
骸骨めいた仮面を着けた浅黒の姿。
身軽な服装と頭を隠すフードは、砂の洗礼を越える為であり、また暗殺者としての服装か。
「———————」
言峰綺礼は立ち尽くす。
その様子を感嘆と疲労だと思っている璃正は、綺礼の肩に手を置いた。
だが綺礼はその事すら感知出来ない。
ただ綺礼は、ある一つだけを感じ取る。
心も肉体も、全てが冷え切っていくのが分かった。
先程感じていた魂の鼓動が、いとも簡単に消えていく。
自らに舞い降りていた導きが虚無へと溶けていく。
何もない。綺礼は、何かを見逃してしまった。
そこにあるのは命令を忠実にこなせた安堵でもなく、今の際に垣間見た昏い闇から逃れられた安息ではなく——魂が渇き切るだけの、後悔だったのだから。
紛れもなく、時臣と璃正、ひいてはこの世全てへの仇となる行為と知りながら。
綺礼は彼女を召喚しなかった事を、今までずっと空虚であった筈の魂で——心の底から後悔した。
"あぁ——"
呪詛に染まった
イレギュラーなど、起こらなかった。
たった一点。ただ一つの——芽生えを覗いて。
"——私は、そうだったのだな"
放心する綺礼の手から、握り締めていた十字架が溢れ落ちる。
余りにも強く握り締めていて、手の平を傷付けていたのだろう。
重力に従って落ちる十字架。流れ落ちる血液。
綺礼が落とした十字架は——ヒビ割れ、血に濡れていた。
その日、綺礼は失態を犯した。
自らの信条を裏切るような、失態だった。
後になって思えば——十日近く続く事になる、冬木市を中心とする怪異はこの日から始まっていたのかもしれない。
衣類盗難事件から始まり、相次いで起こった都市ゲリラ事件、猟奇殺人、幼児失踪、行方不明者多数、暴走車両による爆発火災事故。
そして——不明瞭な落雷による局所的な火災。
思えばそうだった。
連日の天気予報の全てを裏切って、急速に発達した雨雲。
台風とは違う局所的にして超強力な嵐は、連日の北風が国を跨いで運んで来た雨雲により奇跡的な形で収束したモノだと、世界規模でも珍しい事象だとして後々全国的に報道されたが、冬木市の人々はそれが何か別の、もっと得体の知れないナニかが引き起こしたものではないかと——そう感じていた。
「ヤな天気………」
だが少なくとも、今はまだ、誰もそのような予兆は感じていなかった。
多くの気象予報士を悩ませ、後に日本全土で知られるようになる異常気象も、まだ彼のような子供からすれば純粋な憂いにしかなり得ない。
テレビに映る今週の予報は、週末にかけてまで晴れ。
しかし空に集まる雲の様子を見れば、近々土砂降りになる事は明白だろう。
吹き荒ぶ風は鋭く、夜更けの空模様はそれほどに重苦しい圧力を放っていた。
「こら。もう寝なさい——士郎」
「……はーい」
そう呼ばれた、冬木市の一般住宅に暮らす、今はまだ何の変転もないただの少年はカーテンを閉める。
だが、カーテンを閉め切る刹那——不意に風が止んだ。
窓ガラスを叩いていた筈の風に疑問を持って、少年はカーテンに視線を戻した。
そして、視界の端に映った人影の姿に目が釘付けになる。
きっと珍しかったのだろう。
だって日本という、黒髪の人間が大半の国では、その姿がとても目を引くものだったから。
「………あれ?」
しかし、それは一瞬。
少年が見たそれは、路地裏に消えていった。
すぐに元へと戻った突風に驚いて、反射的にカーテンを閉める。
でも。
士郎と呼ばれた少年は。
カーテンを閉め切る瞬間。
そして視界の端に。
薄い金砂の外国人を見た。
言峰綺礼の与り知らぬ事だが、彼の魂の鼓動は、大きな影響を与えていた。
確かに、イレギュラーは起こり得なかった。
"マスターとサーヴァント"という関係には、確かに何も起こらなかった。
だからそう——彼の祈りは黒い泥を呑み込んだ聖杯を通し、嘆願となって、天へと届いていた。
綺礼本人にも分からぬ形で。綺礼本人には遠い彼方で。
その嘆願が如何な形で成就したのかは、まだ誰も知らない。
ただ。
少なくとも言えるのは。
冬木市に。
災害規模の嵐が、近付いて来ていた。
*本来なら第四次聖杯戦争が行われた期間中、最終日以外は——終始晴れ。