しーっと、人差し指を口元に当てて。
その日、冬木市は明朝から雷雨に襲われていた。
天気予報の正答率が100%ではないのは当然だとしても、ここまで真逆の空模様になるのは近年稀に見る事態だっただろう。数日前までは予兆すらなかった、星の光を遮る程に黒い暗雲。
真昼間であっても、冬木市はどこか薄暗い。
気象予報士でもなくても、きっと明日は晴れだろうと確信する人間がほとんどだった。
現代の気象予測では数値予想が全く出来なかった怪現象として有名になる異常気象は、この日から始まっている。
「落雷、ですか」
鈍色の空。荒れる空の下で冬木教会の地下工房に身を隠す言峰綺礼は、蓄音機に対してそう返答した。否、正確には違う。古めかしい骨董品のように見える蓄音機だが、下にあるターンテーブルと針がない。代わりに、弦によって釣り下げられている大粒の宝石があった。
『あぁ。まさかここまで荒れる天気になるとは誰も予想していなかっただろう』
その蓄音機から、綺礼が知り得た人間の声が響いて来る。
当然相手は遠坂時臣。そしてこの装置は彼の手によるものだ。
遠坂家の工房と、冬木教会の地下に配置されている二つの蓄音機。吊り下げられた二対の宝石が互いに共振し合い、振動を音に変換する魔道具。
遠坂が作り出した、いわゆる通信装置と呼ばれる物だ。
『先日も郊外に八回、深山町に二回、新都に四回落雷が発生するなど、かなりの異常気象となっている。現在被害はないようだが、いつ都市主要部に落ちて地方を麻痺されるか気が知れない』
「私も、把握しております。
つい二日前までは、嵐の予兆など何処にもなかったというのに……」
『これでは聖杯戦争に影響を与える程の異常気象だと言わざるを得ないだろうな。
私もこの冬木で長年暮らして来たが初めての事象だ。早く過ぎ去ってくれるのなら幸いだが、私にもこれからどうなるのか皆目予想が付かない』
魔導器から響いて来る時臣の声に、綺礼は頷く。
暗雲の中に雷鳴が轟いている事は、冬木市の市民ならもう周知の事だろう。実際に落雷も発生しており、地方のメディア関係はもう動いている。
雨や風はまだ一般の台風規模だが、もしかしたら更に荒れるかもしれない。
綺礼も、気象庁が混乱する事態に陥ったという各関係者から聞き及んでいた。
これが聖杯戦争と関係あるのか無いのか分からない為、教会と協会が対応に困り、結局父の璃正が動いたのはつい先程の事である。
地方メディア関係には、もう働きかけが終わっている状態だ。
後々、あまりにも不自然な異常気象ではなく、現代技術を発展させる為に貢献した、観測史上初の嵐と気象庁が発表する形になるだろう。
恐怖ではなく、新たな未知を解明出来た歓喜へと変える。
今、世間の目が冬木市に向くのは避けたい事実だ。ならばその方向性を変えるだけでもかなり違う。
「聖杯戦争に影響を与える、と言うのは?」
ほとんど聖杯戦争が始まっていないような時から、もう様々な処理に追われ始めた者達に僅かな斟酌を抱きながらも、綺礼は尋ねた。
時臣の言葉は、そういう裏の方ではなく、表の事を言っているように聞こえたのだ。
教会と協会の隠蔽工作が働けば、聖杯戦争に影響を与える程ではないのだから。
『……遠坂家は、日本でも有数の霊脈を誇る冬木市を管理する者。霊地としての
「はい」
当然、時臣に三年間師事していた綺礼は知っている。
だからこそ、この地が聖杯戦争の土地に選ばれた事も。
『当然、この冬木一帯の霊脈は私が管理・保護している。
それ故に分かるのだが………霊脈が落雷によって荒れている。
無論、霊脈が荒れようが容易く崩れ去るような術式ではない。
各地に秘匿して配置された結界の要石は、相互に共鳴し合い、一切の侵入も崩壊も許さない防壁となっている』
時臣の言葉に、綺礼はネットワークの網を思い浮かべた。
外側からの侵入も許さず、内側からの流出も防ぐ、蜘蛛の糸のような網。
そして張り巡らされた糸の交差点には、要石。接続の起点を強化する要であり、同時に僅かな異常ですらすぐに知らせる信号塔でもある。
「……………嵐——」
しかし、綺礼にはどうにも不安が拭えなかった。
ある意味、時臣を信頼出来ないという意味の裏返しだったかもしれない。
綺礼は天井を見上げる。
無論、窓枠などないため空模様は見えないが、地下に響き渡る風と雨の音は終始消えない。
聖杯戦争が始まる前は、何の異常もなかったのにだ。
「……この異常気象は、冬木の霊脈を乱す程に強力なのですか?」
綺礼は、時臣に質問する。
ある種、当然の疑問だっただろう。
嵐とはいえ、雷は現代でもごく普通の自然現象だ。流石に巨大隕石が降り注いでくる程の異常ではない。可能性としては充分あり得るモノではある。
だからこそ落雷を伴う嵐でも、魔術的な結界を揺らがす程ではないのではないかという疑問が綺礼にはあった。
『そうではあるが……あぁ成る程。
綺礼。君はたかが天気で霊脈に荒れる程の影響を及ぼすのかと、そう聞いている訳だね?』
「………はい。確かに。時臣氏のような一流の魔術師が作り出した結界すら揺らぐ程の、異常気象なのかと」
『ははは、痛い話だ。
だが特段不思議な話ではない。そもそもこの嵐が特別という訳でもないんだよ』
綺礼の発言は、見方によっては時臣に皮肉を告げたようにも感じられただろう。
だが時臣はそれに気分を悪くする事はなかった。
更には、まるで師弟関係にあるかのような口調で時臣は説明する。綺礼が師事していた三年間で良くあった光景だ。
『確かに今日の嵐は激しいモノだが、今までも雷によって霊脈が荒れるような事は何回かあった』
「落雷で、ですか」
『そうだとも。
何より雷は、魔術世界では元々は神霊そのものであり、権能として振るわれる力だったとされる。それに人が最も神を見出したのは、雷だったのだから』
思い至る節は多かった。
何より日の本であるこの島国もそうだろう。
でなければ、雷の語源が"神鳴り"である訳がない。
世界的に有名なモノであれば、ギリシャの最高神ゼウスの雷や、ゲルマン語で雷の意味を持つ北欧のトールなども浮かぶ。
『現代でも、雷は
無論、電気に魔力を乗せて行使するなり、自然現象としての雨雲を利用した天候魔術はあるが、基本的にこの現代では人には制御出来ぬ代物だ。
一から雨雲を束ね、自在に稲妻を操るなどは流石に出来ない。
この嵐は災害と言うべきだろう。魔術といえど、災害は防ぐモノではなく、制御するものでもなく、災害の後を如何に対処するモノでしかない』
「………………」
『おっと。今はもう、私は師弟関係にはなかったな。
話を戻そう。雷はそれほどに強力なモノなのだ。天で最も強大な自然現象である以上、地で最も強力な自然エネルギーにも影響は与える。何より今日の嵐は雷の規模から今まで類を見ない。
これは私でも仕方ない事だ』
「それは冬木の管理者としてよりも、今聖杯戦争に参加するマスターとして致命的なモノなのではありませんか。聖杯戦争を行いながら、霊脈の制御も行うなど」
時に一流故の自負か、時臣は足元を疎かにする事がある。
しかし、実行段階なら兎も角、準備段階では彼は用意周到だ。
三年師事した綺礼はそれを良く知っている。
だから、始まりの御三家がそれぞれ持つ他御三家にはない切り札、遠坂はなら冬木市の霊脈を支配している者という前提を、逆手に取られているのではないかと。
時臣は僅かに間を置いた後に答えた。
『確かに、聖杯戦争の段階になってこのような煩瑣に対処しなければならないのは予想外だが、いや何、これも後々の戦いを考えれば、先行投資と言うもの。
今日の嵐は確かに遠坂の災いとなったが、聖杯戦争が始まれば、聖戦の裏を覆い隠してくれる影となる。まるで、今からの戦いを祝福してくれるようには感じないか?』
「……………」
自らに定めた家訓に関係なく、その時臣の言葉にも一理はある。
確かにここまで激しい嵐なら、サーヴァント同士の戦いの音も容易く覆い隠してくれるだろう。吹き荒れる風に叩き付けられる雨。何より爆音に匹敵する落雷。
それに真夜中はおろか、昼間であっても屋外に出る民間人は劇的に減る。
秘密裏に行われるべき聖杯戦争を考えれば、確かに天は味方をしているような気がしなくもない。
でもどうしてだろう。
綺礼は、それだけは頷けなかった。
「時臣氏、不躾ながら——」
言峰綺礼がそう告げた瞬間だった。
遠坂家に繋がっている通信器から、凄まじい爆音が鳴り響く。
此方にまで響いて来る音の大きさに、吊り下げられた宝石が痙攣したように振動している。
凡そ人為的に再現出来ない程の音。人間界には無いその音は——まさしく雷の音でしかなかった。
「———今のは」
『あぁ、なんと運の悪い。どうやら遠坂邸に雷が落ちたらしい。
…………しかも結界を結んでいる要石を貫いたみたいだ。魔術防衛の強度が極端に下がっている』
「………」
『これは不味い。早く直さないといけないね』
明らかな緊急事態でありながら、時臣は余裕を崩さない。
何者かによる攻撃ではなく、自然現象によるモノだと確信しているのだから当然だろう。
『あぁ綺礼、心配はいらないよ。
何、ほんの数分で直せる。むしろこのような戦いも始まっていない早期の段階で良かったと考えるべきだ。
これが、他マスターの使い魔や諜報が右往左往するような時だったら、あまりにも致命的だった』
そう。時臣の言う通りだ。
まだ戦いは始まってすらいない。
先日、時臣は綺礼と璃正を招き、自らのサーヴァントを召喚したばかりなのだ。
それはおろか、同時刻、他のマスターもサーヴァントを召喚したばかりらしい。
聖杯戦争の監督役を務める璃正神父には、霊器盤という魔導機が預けられており、召喚された英霊のクラスを表示する特性がある。
当然、璃正と内通している時臣も、その情報を知る事が出来る。
つまり、各マスターがサーヴァントを召喚してからまだ一日目だ。
アインツベルンに至っては、まだ郊外の別邸は喪抜けの殻。
全てのマスターは、まず召喚した英霊との意思疎通に入り、しばらくは様子見に入るだろう。
何より先日、綺礼のアサシンから、まだ諜報の類はないと判明もしている。
そして今日もまだない。
『では綺礼、計画通りに』
そして、唯一マスターが警戒しなくてはならないサーヴァント。
気配遮断を持つアサシンは、時臣の味方なのだ。だから警戒の必要がない。
時臣は綺礼にそう告げて通信を切ろうとする。
『あぁそういえば、先程何を言おうとしていたのかな?』
「……………————」
その最後に、時臣は綺礼に問いかけた。
先程、綺礼は何を言いかけたのだろう。
「——いいえ、何でもありません」
しかし、綺礼はそう応える。
時臣も然程重要視していなかったので、それ以上の対話はなく、通信を切った。
「……………」
出かかっていた言葉を虚無に沈めて、綺礼も通信を切る。
果たして先程、自分は何を言おうとしていたのだろう。
何かの警告。不明瞭な直感。
分からない。何故止めたのか。
考えようとしても、それ以上に思考は進まない。
ただ分かるのは、不気味な気配を感じ取っている事だけ。
不自然な異常気象。
荒れ狂う嵐。そして荒れる霊脈。
そこに、狙い澄ましたように落ちた——遠坂邸への落雷。
それは一体、何を意味するモノか。
"一から雨雲を束ね、自在に稲妻を操るなど現代では有り得ない"
いや、時臣氏の言葉を信じるのなら偶然なのだろう。
確かに不気味な程に重なった偶然だが、それ以上の説明は付けられない。
そう。それ以外に、説明は付かない。
「……………」
そうだと分かっているのに。
どうしてか綺礼の心は、何かを訴えている。
もしくはそうであれと求めているのだろうか。
魔術的には説明出来ない嵐。しかし同時に、現代科学ですら説明出来なかった異常気象。
ではもう、それはもはや、人類という種族の常識から外れたナニかではないか。
"この嵐は災害と言うべきだろう"
なれば根本から考えを改めねば、恐らく見定める事は出来まい。
あらゆる認識の埒外にあるモノ。
魔術でも科学でもない、人の理から外れた異物。
ただそうあるだけで、そうする権利があるモノ。
それは、一体何と呼ばれていたのだったか。
時臣氏が言っていた、神が振るうとされる、人類の埒外にある力の名前を。
それが本当に神秘の途絶えたこの現代で、行使できる筈のない形が——もしも形になっていたとするなら?
「アサシン」
綺礼は堪らず、自らのサーヴァントを呼び寄せた。
存在の格で測るなら、間違いなく自分自身よりもアサシンの方が神の座に近い存在である。
精霊の領域に昇華した英霊。中には神霊の息子や血を引く存在も多い。
だからこそ感じ取れる感覚というモノがあるのではないかと、綺礼は期待していた。
「此方に」
寸分の間もなく、綺礼の傍らにて実体化するアサシン。
綺礼の召喚したアサシンは、百の貌を持つとされた百貌のハサンだった。
多重人格という形で多彩な才能を誇った山の翁の一人。その生前の性質は、サーヴァントとなってから個人ではなく総体という特性へとなったという。
どれが主人格であるかは綺礼には見当は付かないし、もしかしたらアサシン自身も分からないのかもしれないが、まとめ役とでも言うべきリーダーは彼らにはいるらしい。
それが今、綺礼の傍らに跪いている青色の頭髪の女性であり、綺礼が召喚した時の姿のアサシンだった。
「お前はこの嵐に何か思う事はないか?」
「思う事、とは」
「何でも良い。所感を話せ」
「…………」
綺礼のそれは、要領を得ない無茶振りにも等しかっただろう。
そもそも本人自身、何を以って問い、何を訊いているのかも良く分かっていない。
やんわりと受け流されるか、窘められてもおかしくない。明確な答えなどないのだ。
だが、
「貴方も、そうなのですか」
「———………」
その要領を得ないマスターの問いに。
まるで初めて賛同者を得たような雰囲気で、アサシンは同じく要領を得ない言葉で応じた。
髑髏の仮面で素顔は見えないが、きっとこのアサシンは驚いているのだろう。
綺礼はそう確信出来た。
「お前は………」
「私にも何かは分かりません。
ですが、感じるのです。闇に隠れる我らとは違う、闇そのもののような気配。
まるで……鐘の音のような天命にも等しく。しかし、ただただ不気味なだけのナニかを、あの嵐に」
「……………」
「何故なのでしょう。
我らとあの死を運ぶ風には、何か繋がりがあるのかもしれませぬ」
綺礼はただ、アサシンの言葉を噛み締め、反芻させていた。
あぁ——今ばかりは、このサーヴァントが自らに召喚されて良かったと思えたかもしれない。
方向性は違くとも、初めて綺礼は、誰かと共感したのだ。
天命。
その言葉にも、一定の理解が及ぶような気がする。
人には抗いようのない、天から降り落ちて来る理。
正にそれは天命と言うのだろう。もしくは神の天罰か。
そしてそれは、言峰綺礼が抱いた導きにも似ている気がした。
「アサシン、動くぞ」
「構いませぬが………何処へ?」
「冬木市に点在する、落雷が起こった地点へ向かう。
そこに何かあるかもしれない。無くとも法則性があるかもしれない」
その行動は間違いなく、聖杯戦争には全く以って関係ない、言峰綺礼自身が望んだ行動だった。
これが結果的に、聖杯戦争を万全に進める為の行いだと正当付ける事も叶うかもしれないが、抱いた欲求の方向性に聖杯戦争は関与していない。
いや、もはや聖杯戦争すら綺礼にとっては障害に等しいだろう。
ただ綺礼自身の疑問を埋める為の行い。
綺礼が答えを求めて問い続けるものと同じ行動原理。
綺礼はどうしても、自らを裏切れなかった。
だからただ、確かめなければならなかった。
「アーチャーのマスター、時臣氏の邸宅は、どうしますか」
教会を出る直前、アサシンは綺礼に尋ねる。
綺礼とアサシンの行動は、天を覆う嵐と落雷は自然現象ではなく、ナニモノかによって行われているモノ、もしくはそのモノの宝具などだと仮定した上での行動だ。
少なくともそのような想定をしなければ、二人の行動に意味はない。
だとするなら遠坂邸に落ち、あまつさえ結界の要を貫いた落雷こそ一番最初に調べるべきモノなのかもしれない。
「……………」
間を置いた後に、綺礼は答える。
「——いいや、その必要ない。
私と時臣氏は既に、表向き敵対関係にある事になっている。そこまでの干渉をする事は出来ん」
そう言って、綺礼は教会を出て行く。
今は聖杯戦争が始まったばかり。
綺礼は時臣氏との関係は破綻している事になっているし、綺礼と時臣がいずれ行う"あの茶番劇"はまだ先の事だ。
だからまだ、綺礼はアサシンのマスターとして表向き、行動する事が出来る。
「了解しました、マスター」
恐らくはマスターは、最初に起こった落雷から順番に確かめていくのだろう。
同じく違和感と恐怖に近い畏怖を覚えたのだ。実際に自分自身で目にするのとしないのでは情報量が違う事をアサシンは良く知っている。
だからアサシンは黙っていた。
マスターが教会に残り、アサシンが霊体化していれば——時臣氏の邸宅に落ちた落雷を調べる事も叶うだろうという事を。
その事を、マスターが考えていない訳がないのだから。
花のキャメロットと呼ばれたその白亜の城は、名前に反して花の無い城だった。
花というのは、騎士道の華を指す。つまり実物の花がない。
妖精の手が入った白亜の城は、確かに美しい。
たが、決して野に咲く花で飾られた城のような、素朴な美しさは全く言って良いほどなかった。
区間整理された城の型は、剣の刃のように整然で、どこか無機質。
それを息苦しいと感じる人もいるかもしれない。
余りに綺麗過ぎて、気後れするという類の。
彼女も、その一人だった。
そして更に、素朴な美しさの欠けたキャメロットで花々を育てているとなれば、彼女は酷く目立つ存在だっただろう。
少年騎士と周囲には思われているのも、余計に拍車をかける。
だが彼女の行いは、極めて普通に受け入れられていた。
何なら、同情的な視線も向けられている。
そのこと自体を、彼女はまだ知らない。
「……また摘み取られてる」
片手にジョウロ、もう片方の腕に目一杯の土を入れた袋を抱き抱えながら、彼女は落胆する。
キャメロットに作られた庭園。
彼女が育てていた花が、幾つか摘み取られていた。
「………はぁぁ」
深い溜息を吐いて、彼女は普段通りにガーデニングを始めた。
土作りは基本的に出来ている。
が、だからといって簡単という訳でもない。
植え替えや、花殻摘みに水やりと、彼女の戦い振りから凡そ考えられないほど丁寧に、地道に彼女は花を育てていた。
彼女の真剣さは知れ渡っている。
一度、気持ち悪い"蛾"の匂いがすると、庭園の土を木々ごと全て変えようとした事があった程だ。
結局はアーサー王と円卓の騎士達に止められたが、アグラヴェインとケイ、そしてモードレッドとランスロットが彼女に味方した為に、円卓の騎士が一時的に二つに割れた……そんな出来事を引き起こすまでには発展した程である。
無論、彼女は諦めてない。
こうして、少しずつ庭園に染み付いた"蛾"の気配を消すべくキャメロットの外から土を運んでいた。
正にそれは鬼気迫る程だと言えるだろう。
故に誰も、彼女が庭園に居る間は話しかけないし、花々の庭園を無闇に荒らすような事だけは絶対しない。
だからもしも。
何の躊躇いもなく花々の庭園に足を踏み入れる者がいるとするなら。
「おお! たった一人で良くやるねぇ」
それは、人心の無い存在だけだ。
「………………」
その瞬間、庭園に冷たい雰囲気が交じる。
決して暖かではないが、それでも和やかだった筈の庭園と彼女が、途端に刃のような鋭さを纏った。
余りにも分かりやすく怜悧なそれは、どう考えても敵意でしか無い。
勿論彼女がその敵意を向けたのは、背後に現れた花の魔術師。
その寒々しい敵意を、花の魔術師は飄々と躱す。
好ましくない感情だが、慣れてしまったので仕方がない。
余りにも曇りない一方的なモノで、特に何も思わなくなってしまったのだ。
「うーん。私はそんなにキミから嫌われる事をしたのかなぁ。
全く以って覚えがない。覚えがないのだから、まぁ無視するしかないのだけれど」
「失せろ。穢れる」
「それは酷い。どちらかと言えば逆じゃない? 私がいると花々は活気付く」
「失せろ。自覚もないお前が花を語るな」
つっけんどんに返し、彼女はガーデニングを再開した。
振り返る事もなく、彼女は花の魔術師と視線を交わす事もしない。
その態度が、花の魔術師に対する嫌悪を雄弁に表していた。
しかし花の魔術師は、彼女の様子を意に介さず語りかける。
「それにしても良い庭園だねぇ。
キミは騎士を辞めても庭師として生きていけるだろう」
「…………」
「何なら要領の良いキミの事だ。
僅か数ヶ月程で、庭師として生涯を終えた人間と変わらない技量を得るかも知れない。
そこのところどう? 類稀なる麒麟児としては、所詮ガーデニングも手慰みでしかない?」
「……………」
「ちなみ、私としては凄い驚いているんだ。
種別とかに関係なく、多芸に過ぎるキミの幅広さにさ。その積極性は思わず周囲を唸らせてしまうだろう」
彼女は答えない。
徹底した無視。
冷たい刃のような嫌悪感だけが庭園に広まる。
そして花の魔術師も、それを無視する。
花の魔術師と、後に嵐の王と呼ばれる彼女。
二人は極めて空回りしていた。
「まぁ知っての通り、キミはそこで止まってしまうのだが。
残念だねぇ、努力と自らの才能が比例しないというのはさ。
特に魔術の適性は残念だったね、二重属性なのに。変換と強奪……だっけ? あれでは全く以って上手くいかない。継ぎ接ぎと小手先が上手くなるばかりで、キミ自身の特性は何も開かれなかった。
暗示とか人避けとか、初歩の魔術は極めて高精度で行使出来るのに、擬似的な天体運動や因果線に干渉するといった才能は何もない。
数年間の研鑽を積んだ魔術師数十人分の事は出来ても、天才魔術師一人が、一日で行使する大魔術とかは何十年経っても出来ないだろう」
「…………」
「だけど安心なさい。出来る範囲で、私はキミに教えられる全てを教えよう。
キミの代わりは沢山居るが、キミの穴を埋められる存在は一人もいない。そして選べる道の多さは、その数だけ飛躍の可能性にも繋がる。
才能はなくても、未知なる可能性を一番秘めたモノはキミだけだ。つまりこれは、ある意味才能と言い変えても良い。
よし。何なら私を教師ではなく親だと思ってくれても良いんだよ?」
「死ね」
「ええーどうしてだい? 私はこんなにもキミに尽くしてるのに。
ここの庭園もプレゼントしたし、魔術もいっぱい教えたし、何ならあの趣味の悪い竜の兜を、黒いバイザーに作り変えても上げた。タチの悪い魔女の匂いも消して上げた。
どう見てもこれは、親が子を慈しむ類のモノじゃないか。
何より私とキミは似たモノ同士なのに」
「……寄生虫が」
「おお! じゃあやっぱり似たモノ同士じゃないか!」
彼女の言葉に、花の魔術師は心を乱さない。
花の魔術師は人と同じ精神構造を持っていないからだ。
確かに虫という表現は自分に合っていそうで面白いな、と考えられるくらいには。
「うんうん。私達は共に他者に依存しているからね。
つまり両方とも寄生虫という訳だ」
代わりに、花の魔術師の言葉に彼女が反応する。
肩越しに彼女が振り返った。
その瞳には、隠し切れない嫌悪感。
冷たい氷のような怒りとは真逆の、煮え滾る火山のような怒りである。
似て非なるそれを両立持つ彼女の怒りは、竜の逆鱗にも似ていた。
もはや敵意というより殺意に近い。
「あぁそうだ……じゃあ今日はキミにこれを教えよう! 絶対にこれなら気に入る! あぁもう……どうしてこれが第一に浮かばなかったのか。これは失敗したよ!」
すると、花の魔術師は突如歩き出し、花々の庭を散策しだした。
視線を下に向け、時折周囲に頭を振る。
何かを探しているような動作。
その瞳は、彼女が育てている花々一つ一つを観察するように捉えている。
「うんこれが良い。キミにはこれが似合う」
そうして、花の魔術師は。
特に躊躇いもなく。
大樹の下に咲いていた花を一輪——引き抜いた。
「————お前」
「しーっ。もう少し待ってくれたまえ。これならキミは必ず満足する筈だ」
花の魔術師は、彼女に向けて。
しーっと、人差し指を口元に当てて制する。
その次に、花の魔術師は摘み取った赤い薔薇に手を翳した。
すると赤い薔薇は、次第に色を変えていき、青い薔薇となった。
「どうだい? 凄いだろう?
これくらいならそう大した事じゃないから、キミがガーデニングをするだけでは作れない幻想の花だって——」
花の魔術師の言葉は続かなかった。
研ぎ澄まされてばかりだった殺意が消える。
代わりに放たれたのは——鋭い槍の切先。
嫌悪と敵意で溢れかえった殺意が、少女という形から溢れた。その具現だ。
溢れた殺意の上澄み。それは極めて無色かつ曇りもなく、故に速い。
背中を晒す花の魔術師。振り向くのにすら先じて穿たれた一撃は、まるで光に匹敵する雷の如く花の魔術師を襲う。
「——いけないなぁ」
だが、その刃は届かなかった。
槍の切先が花の魔術師の首元に届く寸前で、槍は魔力に分解され、花弁となって散って行く。
蛮族はおろか騎士達の鎧すら貫き通し、不意を突かれれば円卓の騎士すら反応させずに殺した槍の刺突は、花の魔術師には届かなかった。
「まあまあ、落ち着いて。
そう怒らない、怒らない。
決してキミの花々に対する努力を踏み躙った訳じゃないよ。
これは私からのプレゼントだ。是非受け取って」
「…………」
「それはそうと、さっきの一撃は良かったよ。
キミの隠し玉かい? 剣では間に合わないからと、槍による最速の一撃はかなり驚かされた。
もしかしたら更に速くすればどうにかなったかもしれないね。もしかしたらキミは剣より槍の方が強いかもしれないなぁ。うん、どう? 槍に稲妻でも纏わせてみる?」
「………その薔薇を返せ」
「うん? あぁ、はいはい。
勿論返すとも。これはキミへのプレゼントだ」
手にした槍が、全て花弁へと変わって消える。
その代わりに彼女は、花の魔術師から青い薔薇を受け取った。
「…………」
「おっと。無闇に作った花弁は景観を損なうし、他の花の害になる事もあるんだったね。キミから教えて貰ったからちゃんと知ってるよ。ごめんごめん、私は片付けているね」
まるで妖精が踊るように、花の魔術師が幻想的に花弁を浮かして光の粒子にしている中。
彼女は眉を顰めて青い薔薇を眺めていた。
怒り、憤り。そして——堪えようの悲しみが混じった感情。
プレゼントを渡された者がして良い顔ではない。
「これは、なんだ」
「うん? あぁもしかしてキミにも分かった?
実はそれ、摘み取った瞬間に花だけ凍らせていてね。時間ごと。
だから決して枯れないし、永遠に咲き続ける。ちなみに似たような物も何個かここから作っているんだ」
「…………」
「どう? ここの庭園の中心に、枯れない花の畑を作るというのは。
うん良い気がして来たぞ。ただ一点に、決して失われない理想の花があるというのも中々美しいじゃないか」
心地の良い未来図を語るように、花の魔術師は微笑みながら彼女に語る。
今しがた、一つの花を摘み取った事などもう脳裏にはない。
一輪の花の生命を停止させた感慨など当然ない。
当たり前だ。
花の魔術師のそれは、子供が無邪気に虫を踏み潰すのと変わらない。
いや、そもそも意味もなく踏み潰すといった愚行ではなく、ちゃんと意味のある事をしたのだから、尚更何かを感じる訳がないのだ。
何より花の魔術師は好きなように花を咲かせられる。
たかが一輪の花程度に心を砕く方がおかしい。
「——吐き気がする」
だから当たり前のように、彼女と花の魔術師は相容れない。
この二人だけは、何があっても相容れる訳がない。
確かに花の魔術師はブリテンの中でも忌避される者ではあったが、最も嫌悪し、最も忌避感を示しているのは彼女だった。
女嫌いのアグラヴェインが、自分の嫌悪を沈めてしまう程には。
「お前には、何も分からないんだろうな」
「全く、一体何がだい?」
さしもの花の魔術師も、善意でやってるのに嫌悪しか向けられないその空回り具合に、やや呆れた顔で返事をする。
「何もかも全て。
その呆れた顔も、ただの演技だろ」
それを彼女は、真正面から両断した。
「お前には、感情も、心も、理由も、人の法も、美しさすらも、全てが理解出来ないんだろうさ」
花の魔術師という存在そのものへ、ナタを振り下ろすような、そんな暴威。
そして外骨格を破壊し、中身を引き摺り出してやるような、怒り。
彼女の言葉は、酷く乱雑で荒々しかった。
「……いや、流石にそれは酷くないかい?
確かに私は人類の異物だが、私だって人間社会の事はそれなりに理解しているつもりさ。流石にそれは横暴というモノだろう」
「いいや。お前は理解していない。
ただ知っているだけ。自分の作ったつまらない比較で理解出来たと勘違いしているだけ。
そしてそこから、お前は一歩も進めない。
お前は、子供が訳の分からないままテーブルマナーに従っているのと同じだ。
ただ周りがそうしているから、自分もそうした方が良いと合わせているに過ぎず、その意味も必要性も理解してない。
故にお前は人の心が分からず、人間が作り出した法の理由も分からず、人の美しさも知らず、お前は世界を何も愛してなどいない」
「いやいや……私は世界を愛しているよ?
どれだけ醜くても、輝ける星が一つさえあれば人は進めるって信じて——」
「いいや、お前は人間など信じていない。
自分の庭を好きに作り変えてる超越者の気分で、人類に寄生しているだけ。
人類史という花園で虫のように人命を消費し、草木を刈り取るように無邪気に生命を摘み取り、自分の作り出した造花にだけ見惚れ、自らの感じた美しさを人間の美しさだと勘違いしているだけ。
お前は世界を愛してなどいない。お前は人類を信じてなどいない。
醜いモノを遠ざけ、作りモノの綺麗さを全てだと思っている寄生虫だ」
「…………」
花の魔術師の言葉。
それを彼女は、全て真っ向から否定していく。
冷たい無表情で、彼女は一つずつ土台を崩すように糾弾する。
花の魔術師は、不恰好な微笑みで固まっていた。
「造花しか愛せないお前が、人を愛しているだと?
流石。自らの手で造り上げたアーサー王だけは愛せるお前は違うな。視点に違いがありすぎて吐き気しかしない。
あぁ……お前は本当に見えるモノが違うんだったな。忘れていた。お前の事だけ記憶から消したくて堪らなかったんだ」
「…………」
アグラヴェインのような糾弾で心を止め、ケイのような皮肉で心を抉る。
彼女の言葉が、花の魔術師の真実であるかは分からない。
ただどういう形にしろ、彼女がそう告げる程度には、彼女と花の魔術師には隔たりがあった。
もはや埋めようのない溝が。
「なあ——マーリン。花の慈しみ方も知らないお前が、自分が手を加えた庭で花の美しさを語るのはもうやめてくれないか」
バチバチと、彼女の手から魔力が滲み始めた。
赤雷を瞬かせる鋭い魔力の残滓は、青い薔薇を襲い、元の赤い薔薇に戻していく。
ただ彼女の魔力に影響して、太陽のように赤い薔薇は、泥に呑まれたように黒赤の薔薇へと染まっていく。
そして彼女は——造花となって死んだ一輪の薔薇を握り潰した。
凍り、停止していた薔薇はいとも容易く、粉々に砕け散る。
標本のようにされ死を奪われた花は、儚く消え去った。
「その声で二度と私に話しかけるな"蛾"。
お前のせいで、小さくて素朴な、そんな大事なモノがまた穢れた」
「……………」
嫌悪感を顕にして、彼女は去っていく。
今まではほんの戯れ合いの範疇で済んでいたが、今日ばかりは違った。
大事なモノを傷付けられた怒り。本気の拒絶。彼女が初めて晒した、竜の逆鱗だった。
「………モルガンに似て来たねぇ、うん」
一人残された花の魔術師は思わず呟く。
彼女は否定するだろうが、本当にあの魔女に似て来ている。
何ならモルガンよりも怖い。
彼女を見ていると小さい頃のモルガンみたいで面白くなるが、あの怒りと本気の拒絶に、魔女のような淫蕩さはない。
「……………」
何の気なしに、花の魔術師は砕け散った花に視線を向けた。
"造花しか愛せないお前が、人を愛しているだと?"
その言葉を頭の中で繰り返す。
彼女の言葉の数々は、もはや人格否定の域と変わらない。
いや否定というよりも、花の魔術師の本質を暴き出す告発だろうか。
分からない。
それが——マーリンには分からない。
だから花の魔術師は、砕けた一輪の花を見て。
「………ふーん」
一人、小さく呟いた。
結界の要の修繕は、そこまでの時間をかけずに終わった。
元々時臣自身が敷いた防衛陣である、慣れ親しんだ術式だ。
時間にして、大体十分程だろう。だがその十分間、確かに遠坂邸の結界強度はゼロに落ちていた。
「ふう、危ない危ない」
時臣は立ち上がり、修復した結界を見直す。
敷地内部には、防衛と探知の両方を兼ね備えた結界が何十幾重と編まれている。
魔力を備えた存在が許可なく踏み込めば即座に感知されるものだ。勿論霊体に問わず、実体もだ。魔術的な意味合いで言えば、正に遠坂邸は要塞と同じ防衛力を持つだろう。
「やはり偶然か。何者かに介入された痕跡はない」
解れた結界は、人によるモノではなく、自然による壊れた方をしていた。
魔術的な干渉では必ず残る痕跡がない。ただ落雷によって結界が一部損傷しただけ。その程度、冬木の霊脈を支配している時臣には良く分かる。
やはり結界という魔力を帯びた起点には、雷のような自然現象が引き寄せられてしまうモノなのだろう。
ならばしょうがない。むしろ、このような早期の段階で不備が起こって良かった。
これが監視を目的とした使い魔が右往左往し始める段階に入ってからでは危なかったのだから。
あぁ良かった。何かが起こるという訳でもなくて。
修復した結界の出来に満足して、時臣は自らの邸宅に入り、そして再び地下工房に戻った。
尚、全く以って遠坂時臣には関係ない話だが。
もしも時臣が、科学技術というモノを軽視していない魔術師だったら。
もしも遠坂邸に、魔術とは無関係な科学技術による、赤外線探知機のような侵入者を知らせる警報機があったら。
もしも時臣が召喚したサーヴァントが、召喚者の意向を無視し、遠坂邸に留まらず冬木市を闊歩するような英霊で無ければ。
もしもこの早期の段階で、他陣営の使い魔による監視があれば。
もしかすると今日——遠坂邸に落雷は発生しなかったかもしれない。
そしてまた、全く以って彼には与り知らぬ話だが。
もしも先程の雷が、自然現象という形を以って再現された、人為的なモノではないとするなら。
あらゆる魔術防御陣の強度をゼロに落とした落雷の、その轟音と同時に遠坂邸二階の窓ガラスを叩き割り、正面からの侵入を成功させた者はいなかったとするなら。
その侵入者が自らの霊基情報を遮断し、現実の理すら捻じ曲げ、自らの存在を抹消し、遠坂の魔術工房の結界を素通りするような者ではないとするなら。
時臣が結界を修復している間に必要な事を済ませるほどに魔術師殺しの才を持ち、破壊した窓ガラスを初歩の魔術でしかないガラスの操作で直し、当たり前のように遠坂邸を脱出するような存在はいなかったとするなら。
遠坂時臣と彼のサーヴァントの性格性を何故か知っていた存在はいなかったするなら。
——遠坂邸を見上げる少女は、そこにはいなかったかもしれない。
「次は教会か」
そしてその薄い金髪の少女は、興味を無くしたように視線を切って遠坂邸から去っていく。
その刹那。その瞬間。
少女の手元で——赤い稲妻が、槍のように瞬いていた。
【WEAPON】
赤い稲妻
詳細
このサーヴァントの基本武装の一つ。
可視化し、武装化した【魔力放出 (雷】EXランク相当。
第一、第二宝具の性質に引き寄せられており、常に槍の形状をしている。
このサーヴァントは第二宝具と常に接続しており、第二宝具によって回収した魔力量と同じ数の稲妻を自身に装填している。