しーっと、人差し指を口元に当てて——
それはまだ、彼女が穏やかでいられた時代の話。
まだ彼女が嵐の王と呼ばれず、人々に押し付けられた暴君である事を演じる必要もなく、それ故に人智を超えた存在としての振る舞いをしなくても良かった、過去の話。
暖かな太陽。柔らかな星の光。陽の光が差し込む庭園の大木のその下で、彼女が横になる事が出来た日の事だった。
「…………………」
「おはよう。そろそろ起こした方が良いと思ったのだが、邪魔だったかな?」
太陽が昇る真昼間。
樹々の木陰の下が、彼女にとって唯一心を平穏に過ごせる場所である。
花のキャメロットと呼ばれた白亜の城。
その中心に作られた、彼女の庭園。
彼女の庭園に足を踏み入れる者は少なく、そもそも彼女の許可なくして立ち入ってはいけないのが暗黙の了解だが、花の魔術師だけは特別だ。
彼こそが、この庭園を作り上げた者。与えた者は別だが、彼にもまぁその権利はある。
彼女から特別に許されているという名目でだが。
「………いや、良い。別にこれ以上睡眠を取っても意味はなかった」
彼女は気配というモノに関しては、その国で一、二を争う程に秀でた感覚の持ち主だった。
長い間、死と隣合わせに居過ぎたのもあるだろう。
敵意や殺意に対してもさる事ながら、他者がそこにいるというだけで彼女は容易く眠りから覚めてしまう。
彼女に近付いたのは、当然花の魔術師。ブリテンの王に仕えながら、まるで自分は関係ないとばかりに人類社会を俯瞰する宮廷魔術師。凡そ、人の輪には入れぬ弾かれ者だ。
「……なぁ、今更な疑問なんだが。お前が歩く時に咲く花って何なんだ」
体を起こし、起き上がった所で、彼女はその花の魔術師に問いかける。
ただ歩くだけで花を撒くというのは、彼にとっては比喩表現では無い。
その見た目と雰囲気からして、彼は花のような気配を漂わせる。しかも彼は無闇に胸焼けするような甘さを振り撒く虫にも似た生態をしている。
人で言うとそれを愛想と呼ぶが、彼は詠唱もなしに花という生命を弄る事も出来た。
だがその彼を前にしながら、彼女は忌避感も嫌悪感も出さず、むしろ自然体だ。
「あぁアレかい? あれは別に制御が利くから気にしなくて構わないよ。自身を変革する事も操作出来ない者は魔術師足り得ないからね」
「へぇ。それで本音は?」
「まぁ………少し全力を出すと花が咲き誇るという事もある。アレは所謂、ボクの魔力だから」
「……ふーん」
彼女はジト目で花の魔術師を見つめる。
当然だ。もしも花の魔術師がこの庭園でその魔力を振り撒けば、彼女の努力を蔑ろにし、剰えその心内を無造作に踏み荒らす事と同義である。
この庭園こそが彼女の心の防壁であり、彼女の一線であり、彼女の内部なのだから。
「あ」
その事に、今更になって花の魔術師は気付いたのだろう。
慌てて花の魔術師は彼女に捲し立てる。
「いや! ボクは最大限の注意を払ってるし、アレはアレだ、あの花がボクの意思に関係なく咲くという事はこのボクがかなり本気を出すという事で! それに今とかすっごい気を使ってるから決してキミの事を蔑ろにしている訳ではなくてだね——」
「慌てるな………別に怒ってない」
そしてつまり、その庭園に花の魔術師が居て。
尚且つ彼女がそれに忌避感を抱いていないというのなら。
……花の魔術師は彼女の心を開く事に成功したのだろう。
彼女の心内、彼女の領域である庭園に足を踏み入れる事が出来るというのは、それ程までに意味を持つ。
「本当かい? 実は、今まで一瞬でここを台無しに出来る力を持っているくせに、私に話さずここに来ていたのかとか思ってない?」
「思ってない。それを言うなら私も一瞬でここを台無しに出来る。だったら私もお前も変わらない」
「………ちなみにもしも、ボクがやってしまったらどうなる?」
「訊くのか……お前」
呆れた顔をして、彼女は花の魔術師の言葉を吟味した後に呟いた。
「そうだな……お前がここを台無しにしたら」
「したら?」
「多分泣く」
「な——泣く……!?」
「泣く」
彼女の発言があまりにも意外過ぎたのだろう。
年端もいかない華奢な見た目でありながら、無表情と冷たい刃のような切れ目の眼差しが似合う彼女の事だ。
そんな彼女が涙を浮かべるなど、誰も想像出来ない。
少なくとも、涙という悲しみではなく、冷たい無表情という怒りしか想像出来ない。
花の魔術師自身、無言で剣を振り抜いて来る姿は容易く想像出来たが、年頃の子供のように彼女が泣く姿など想起出来ていないのだ。
「本気で怒るという訳ではなく?
竜の逆鱗のような………」
「まさか、さっきお前自身が言っただろ。
意思に関係なく花が咲いてしまうとしたら、それは本気になった時だけだと。
それ程にお前が追い詰められたのだとしたら、私はお前に怒るに怒れない。
だから泣く。どうしようもなく」
「……………」
「だからそうならないように気をつけろよ? いいな?」
「………———」
少女の問いに、花の魔術師はただ頷いた。
……このような時に、決して茶化す事もなく、感情を不自然な形で露わにする事もなく、自らの何かを彼女に押し付ける事もなく、ただ真剣になって頷くような男だったから、花の魔術師は彼女の心を開けたのだろう。
きっとそれが全てで、本当にそれだけの事だった。
愛想を振り撒くばかりだった虫が、唯一愛想を振り撒く事を良しとしなかったから、一輪の花は彼を受け入れたのだ。
これが今まで幾度となく交わされ、それ故に特別でも何でもなく歴史の中に消えて行った話で、それでも二人の中にだけは今も生きている——大事な時間だった。
Morgan・le・Fay
最古のサー・ルーク流伝より抜粋。
聖杯に招かれた英霊がどの
言峰璃正の手元には大聖杯と繋がっている、霊器盤という礼装があるからだ。
マスターの身元は個々の申告によって確かめる他ないが、現界したサーヴァントの数とクラスが表示される霊器盤がある限り、教会の監督役を偽る事は出来ない。
そして、つい先日の事である。
召喚されていたのは綺礼のアサシンのみだったが、キャスターを除く他六騎が全て埋まった。
どうやらほとんど同時刻に、五騎ものサーヴァントが一斉に現世へと降臨したらしい。
これで、他のマスターも行動を起こし始めるだろう。
サーヴァント達が召喚されてから、正確には一日も経っていないが、聖杯戦争の始まりは着々と近付いている。
しかし璃正には、その不安はない。
自らを隠蔽し、アサシンを操る自らの息子。そして父子共に遠坂時臣に味方する現状。何より、時臣自身が召喚した英霊の神々しい威容を見て、璃正は勝利を確信していた。
遠坂時臣が召喚したサーヴァントは、全ての敵に対して有利を誇る。
彼が、この世で初めて脱皮した蛇の抜け殻の化石を触媒にして呼び出した英霊に、璃正は畏怖を禁じ得なかった。
時臣が抱く鉄壁の自信は、至極当然の出来事だろう。
聖杯に招かれた存在が英霊である限り、あのサーヴァントに勝ち目はない。
後はまだ召喚されてないサーヴァントはキャスターのみだが、期限が迫って無理矢理聖杯が選んだ数合わせの存在には、然程警戒の必要はあるまい。
監督役として、璃正は堂々たる面持ちで、教会にて待機していた。
「む」
そして、遂に霊器盤が七騎目の反応を示した。
これで最後の七騎目、キャスターが召喚されたのだろう。
璃正は反応を示す霊器盤を手に取る。
「な——に……? こ、これは………!?」
だが、何かがおかしかった。
霊器盤には、召喚された数以外にも、如何なクラスで召喚されたかを示す特性がある。
だから璃正には分かった。
霊器盤に示されているのは、キャスターのクラスではない。
七番目の枠に座った者。今までに見た事がないクラスだった故に、思わず目を疑った。
だが霊器盤には確かに、本来の七つのクラスではないサーヴァントを示す反応が表示されていた。七のクラスから外れた盤外のクラス。枠外より、聖杯戦争の行方を見守る——エクストラクラス。
そのクラスは——
「何が起こっている………何故、聖杯は——」
分からない。
何故、七騎目のサーヴァントがこのクラスなのか。
いや違う。このサーヴァントは七騎目ではない。
——あり得てはならない、八騎目のサーヴァントが現世に降臨しているのだ。
早く、時臣に知らせなくてはならない。
これは聖杯戦争の前提を揺るがす大事態だ。
教会と遠坂家の結託すら揺らぎかねない程の事態。
最悪、監督役の特権を発動し、聖杯戦争を一時中断しなくてはならないだろう。
時臣が召喚したアーチャーですら、聖杯戦争の枠組みの中にいるのだ。
だからもしかすると——あの英雄王ですら、八番目のサーヴァントに対して敗北するかもしれない。
何より、召喚されたサーヴァントのクラスが危なかった。
そのサーヴァントは監督役の教会も、現世の法にも、他七騎のサーヴァントにも従わない、独自の判断で動く絶対的な審判者。
そのクラスが冬木の聖杯戦争で召喚されるなど、前代未聞の事だ。
つまりは、そのサーヴァントが呼ばれるにたる何かが起こったという事。そして聖杯は、それを受け入れたという事を。
——遠坂の陣営に加担した教会に代わる、天秤の役目を。
綺礼に令呪を託した聖杯は、教会が遠坂に後ろ盾するのを望んでいたのではなかったのか。
「何故だ………何故繋がらない———」
焦る璃正は、時臣から預けられている通信装置を起動させる。
だが遠坂邸と繋がっている通信装置をいくら使用しても、時臣は応答を返さなかった。
単純に今、時臣は工房内には居ないのか。
はたまた何かの妨害があるのか。時臣に何かが起こったのか。
もはや何も信じられない。不都合な事実全てに、何か陰謀があるような気配すら感じてしまう。このタイミングで霊器盤に顕れた第八のサーヴァントは、一体何を意味するのか。
今この瞬間だけ、璃正は時臣が古めかしい魔術による伝達手段しか持ってない事を恨んだ。
もしも時臣が、携帯可能な無線通話機を持ってさえいれば、今すぐにでも連絡が叶う筈なのだ。
繋がらなくても、誰にも干渉出来ない場所に言葉を残しておける筈なのだ。
ならばもう仕方がない。
自らが直接遠坂邸に向かうしかない。
遠坂と教会の結託が疑われてしまうかもしれないが、今はそれ程の事だ。
それに己の配下である教会の工作員は、昨日の嵐による隠蔽工作に掛かりきりな上、何より時臣との通信手段を持っている訳ではない。
しかも綺礼すら、何故か今教会にはいなかった。
だからあの事実を、まだ璃正しか知らない。
その事実が、どうしてか堪らなく恐怖を誘う。
この事実を璃正が失えばどうなるのか。第八のサーヴァントがいる事に気付いているのは、今は璃正だけなのだ。
何もかもが裏目へと回っているような感覚がした。
いや裏目になるように——まるで操られている。そんな錯覚が、璃正の背中を伝う。
己は盤面上に姿を見せず、指先一つと言葉一つで他者を嵌める。そのような魔女の気配を。
顕れたサーヴァントは、璃正達の敵になると決まった訳ではないのに。
地下の工房から階段を駆け上がる。
今は夜。時間帯など気にしていられなかった。
璃正は走り出す。
そして祭壇に掲げられた赤い黒鍵に背を向け、信徒席の最前列に踏み掛かった。
その瞬間だった。
ギィ……と音を立てて、教会の扉が開く。
「は———」
ゆっくりと礼拝堂に差し込む夜の光。
薄暗闇だった教会を、静謐に照らし出す月の光。
先程までは嵐だったのに、何故か教会の周辺は晴れ渡っていた。
そう、教会の周辺だけが晴れている。
渦を巻く嵐の中心点、台風の目から姿を現す月明かり。
その煌々と怪しく光り輝く月の逆光が、扉を開けた人物の影を、教会内に移し出す。
薄い金砂の少女が、教会の扉を押し開けていた。
薄い金色。
金砂の髪をした少女。
月の光を背にした少女は、赤く輝く黒鍵を背にしている璃正と相対する。
その身に、禍々しくも高貴な威容を纏わせて。
あぁ、どうしてそのサーヴァントがこの教会に現れたのだろう。
遠坂の陣営に加担した監督役の前に、聖杯を頼りに顕現した、無慈悲なる調停者は躍り出る。
「あな、たは———」
それ以上の言葉は続かなかった。
璃正はどうしてか、少女の瞳から目を逸らす事が出来ない。
竜の瞳よりも更に濃い、人ならざる金色の瞳。"神"のような金色の瞳。
その瞳を見ていると、まるで吸い込まれて行くような感覚がする。
今そこで自分が立っているという事実すら、思考と肉体の感覚と共にバラバラに堕ちていく。
その最中。
薄い金砂の少女、璃正しか知らない、第八のサーヴァント。
——ルーラーとして顕現したサーヴァントは。
しーっと、人差し指を口元に当てて。
まるでいけない事をした子供を咎めるように。
まるで気付いてはいけない事に気付いた子供をあやす、魔女のように。
薄く微笑んでいた。
申し訳ありませんが、監督役の役目を私に譲らせて貰えませんか?
教会の礼拝堂にて、璃正と対面する"綺礼"はそう告げた。
一体何故だ? 璃正は"綺礼"に尋ねる。
"皆、この杯から飲め"
何を言っているのですか父上。最初から私が、この聖杯戦争の調停を行う。その予定だったではありませんか。
あぁ——そういえばそうだった。
璃正は思い出す。璃正は最初から"綺礼"に全てを任せるつもりだったのだ。
それに自らもそろそろ良い歳だ。
次代の者に自らの役目を任せる頃合いだろう。
"これはその罪が許されるようにと"
ならばしょうがない。
それに、自らの息子ならば何の不足もあるまい。
"綺礼"がどれだけの功績を出したのか。如何に固い信仰心を持っているのか。
父として、"綺礼"のような息子を持てたのが誇り高かった。
だから璃正が、"綺礼"に監督役を引き継がせるのは当然だ。
自らの息子は、この役目を預けるのに値する聖人なのだ。
だが、どうすればこの役目を譲れるだろう。
"多くの人の為に流す私の血"
それは当然、父上が持つ預託令呪を私に預けて貰う事以外にはないでしょう?
悩む璃正に向けて、"綺礼"はそう告げた。
あぁ——そうだった。
何故忘れていたのだろう。こんな大事な話を忘れていたなんて。
だが思い出した以上、早く"綺礼"に渡さなくてはいけない。それだけは分かる。
聖杯より、監督役に預けられる令呪。監督役の権威を示す聖痕。
これ以上、"綺礼"に継がせるモノに相応しいモノはないのだから。
"契約の血である"
璃正は何の躊躇いもなく、"綺礼"の腕に預託令呪を転写していく。
躊躇いなどある訳がない。
何せ相手は自らの息子。それも代行者にまで登り詰め、教会きっての逸材となった、誇り高い息子なのだ。
むしろ"綺礼"以外に、この預託令呪を預ける相手はいないと確信している。
"神は御霊なり"
そして、全ての預託令呪を"綺礼"に転写し終えた。
あぁ、一つ肩の荷が下りた気分だ。
決してこれを重いと感じた事はないが、一人息子の"綺礼"に自らの信を受け継がせる事が出来たのが、ただただ誇らしい。
璃正の心持ちは、どうやら"綺礼"も理解しているようだった。
"綺礼"は笑って、璃正に感謝を述べる。
"故に神を崇める者は"
ありがとうございます父上。これでまた、貴方の魂は一つ、天へと近付いた事でしょう。一介の神父として、私はそう確信出来ます。
璃正はその言葉に顔を崩す。
あぁ、それは良かった。"綺礼"がそう言ってくれるのなら、もはや何の心配もいらない。
そういえば、言峰神父。お疲れにはなりませんか?
そういえばそうかもしれない。少し疲れたようだ。
"魂と真理を以って拝むべし——………"
令呪の転写で疲れたのでしょう。もう父上も良い歳です。息子として、父を労わる資格をください。
その"綺礼"の言葉に、璃正は素直に頷いた。
信徒席に腰掛け、璃正は瞳を閉じる。
傍らの"綺礼"は、身体を崩さないようにと璃正を支えていた。
そして璃正は、眠りに落ちる。
深い深い、思考も記憶も沈んでいく泥のような眠りに。
結論から言って、綺礼の行いは全て無駄に終わった。
新都や冬木郊外。そして深山町に落ちた落雷の数々だが、これといって法則性が見当たらなかった。場所を点で結べば何か浮かぶという訳でもなく、落雷の威力もまちまち。
そもそも避雷針に落ちただけというのが大体の有り様だ。威力以前に大した被害はなく、所詮は自然現象の範囲に収まっている。
しかしどうにも、綺礼は不安だった。
例えば遠坂時臣と会話した内容。
荒れる霊脈に、霊脈に干渉する稲妻。
確かに時臣は、ただ雷という強大な力によって共振に近い現象を起こし、荒れているだけだと言った。
事実、綺礼が思い浮かべたネットワークの如き防衛陣を前にすれば、霊脈に干渉する事など不可能なのだろう。
大魔術を以ってしても難しい。
だが、本当にそうか?
もしも相手が、あらゆる常識の埒外にいるモノだとするなら。
現代の法則と常識が通用しないナニかであれば。
だとするならまず、相手が持ち得る法則性と魔術では測れない理を知る事から始めなくては、あらゆる前提が無為に還るとしか思えない。
此方の常識と前提を元に考える程、そのナニかに足元を掬われるだろう。
もはや陰謀論の域である事は分かっている。
一体いつから、冷静な判断が出来なくなったのだろう。
もしくはこのような思考に貶める事すらもが、そのナニかの策略なのだろうか。
「……………」
その事に、ただ積もっていく焦燥と焦り。
そして——忸怩たる思いを抱きながら、綺礼は冬木教会への帰路を黙々と急いでいた。
無駄な行為に終わった今日の行いだが、どうしても綺礼は意味ない行為をしてしまっていたと、そう納得する事が出来ない。
荒れる風と雨の雫すら、綺礼の意識にはなかった。
きっと今日の行いには納得出来ず、明日もまた冬木市を駆け巡るだろう。
そもそもこの行為に意味を見出せなかったのは、単純に試行回数が少ないからではないかとすら思っている。
綺礼は、様々な分野にて優れたスキルを持つアサシンの手を、可能な限り借りた。
それでも稲妻の法則性や不自然な異常気象の正体が分からなかったのだから、後は繰り返し回数を重ねるしかない。
もしくは、あらゆる障害を飛び越え真理を見透す眼でもあれば話は簡単だったのか。
そんな力や魔術、綺礼には無いのだから高望みでしかないが。
ただ、間違いなく嵐は更に強くなるだろう。
ならば繰り返せば良い。
教会の修錬でも当たり前のようにこなして来た事だ。
今日は無駄足に終わったが、明日がある。明日がダメでも更にその先。
それを繰り返せば必ず——
「繰り返せば———必ず?」
己の思考の無意味さに、はたと綺礼は気付く。
今、一体何を考えただろうか。
次の日、更にその次の日と繰り返せば———聖杯戦争が始まる。
いや、もう始まっているのだ。
どう考えても、今日の綺礼の行いは咎められてもおかしくない。
それがギリギリ開始直後だからと許容範囲内にあるだけで、もう二日も経てば、綺礼は満足に教会の外を出歩く事すら叶わなくなるだろう。
そしてその後には、時臣とそのサーヴァントと茶番を行い、アサシンを脱落させたように欺かなくてはならない。
つまりアサシンも、無闇に動かす余裕はなくなる。
「……………」
思わず綺礼は頭を抱えた。
もはや聖杯戦争という行いすら、煩瑣な障害でしかない。
ただ、それも当然の刹那なのだろう。元より聖杯など求めていなかったのだ。
目的と手段が乖離したままこの戦いに臨んだ手前、こうなる事が目に見えていたのは半ば予想していた事だ。
では、どうするのか。
これから己は何を。
無駄と分かる聖杯を巡った戦いに赴き、期限の定められた問いを、虚無へと捨ててしまうのか。
「…………————」
否——それだけはあり得ない。
きっと自分は幾度となりと忍び、教会を抜け出すだろう。
何かの形を求め。ナニかの影を追い求めて。
ただ確信だけが、確かに綺礼の心の内にはあるのだから。
深山町から新都の外れまでを歩き通し、自らの本心を確認した綺礼は教会へと戻る。
聖杯戦争は深夜に行われるのが常だ。
だから夜には出歩くのは厳しい。あの嵐が、夜に荒れるモノではないのを祈るしかない。
教会へと続く丘を黙々と登っていく。
嵐の影を追って外に出たのとは違って、足取りはやや重かった。
だが綺礼の意思に反して、教会の門前へとはすぐに辿り付いた。
深夜でも煌々と明かりの灯る教会。
その冷たい格子の門前。
何の変哲もない教会に——何かの違和感があった。
「……………?」
雨に濡れた教会。
吹き荒ぶ風で、周囲の木々の葉が舞っている。
でも何故だろう。まるで一度だけ、局所的にこの教会一辺が晴れたような、そんな感覚がする。
匂い、気配、感覚。それら全てに、何かの違和感がしてならない。
代行者として、時には魔術を学んだ者として、神秘の深淵のような得体の知れない気配に綺礼は敏感だった。
「………………」
ただそれは、気配を感じ取れるだけで、本質を見抜く力とは程遠いモノだった。
磨かれた感覚は、生死を賭す場で死に直結する事態に対処する為のもの。違和感だけを残して何も起こらないのなら、綺礼には対処の手段がなかった。
何も見当が付かないまま、しかし教会服の裏に装備した黒鍵をいつでも抜けるように警戒を強めて、綺礼は門を開ける。
絶えない違和感は、教会に近付く程に強くなる。
そして教会の中に入り、礼拝堂に一歩踏み込んだその瞬間、最高潮になった。
思わず鳥肌が立つ。
まるで知らぬ間に、死神が隣を抜けていったような気配。
それに教会の内部が、他人の部屋に踏み入ってしまったような錯覚を感じる程に変質している。
神の御家である教会から流れる、悪神を崇める宮殿になったような重苦しさを綺礼は今まで感じた事がない。
いや——いや一度だけ、ある。
それはまるで……——あの赤い黒鍵を初めて目にした日のように。
「……父上?」
思わず不気味な気配を感じた瞬間、綺礼は見知った人影を礼拝堂の中に見つけた。
信徒席の最前列に座る人物の後頭部を、綺礼は見間違えない。
それは自らの父親。言峰璃正のものなのだから。
「……父上? どうかしたのですか?」
返事はなかった。
先程から感じてやまない、得体の知れぬ感覚に、綺礼は不安を覚えて璃正に駆け寄る。
「……………」
だがどうやら、綺礼の予想とは反して、璃正はただ眠っているだけだった。
信徒席に深く腰を落ち着けているだけで、何も異常はない。上下する胸は、璃正が正しく呼吸を繰り返している事を示している。
綺礼が自らの父親を見つめていると、璃正は目を覚ました。
「———…………綺礼?」
「起きましたか、父上。
どうやら眠っていたようですが」
「あぁ………」
起きたばかりで未だ完全な覚醒はしてないのか、璃正は普段の力強い顔持ちにはまだ戻らない。
すると、璃正は不意に自らの右腕に視線を向けた。
それが意味するところに綺礼が気付くよりも早く、璃正は自らの右腕を捲り上げる。
そこにあるのは——手首から肘にまでかけて、びっしりと刻まれている赤色の刺繍。
見間違う訳はない。聖杯戦争の監督役を務める璃正に与えられた、預託令呪だ。
「預託令呪が、どうかしたのですか………?」
「いや——何でもないよ、綺礼。少し幸せな夢を見ていたようだ」
璃正は、はにかんだ笑みを浮かべた。
一介の信仰者同士が交わすモノではない。
ここ数年、綺礼が久しく見る事はなかった、父親の笑みだった。
だというのに、何故だろう。
どうしてか綺礼は、そこに——得体の知れないナニかを感じ取る。
父親にではない。何にかも分からない。ただ意味の分からない焦燥を感じた。
ただそれは以前味わった事のある、混乱と畏怖と——天命が入り混じったモノだった。
そう。まるで。
彼女の流伝を読んだ日に、感じたモノと同じ。
得体の知れないナニかが、言峰綺礼以外の全てを騙して近付いて来ている。
それに導きを見出してしまった、夜の日。
あれには何か、意味があったのか。
「……分かりました。私は地下におりますので」
父親の姿に何かを背中に覚えながら、綺礼は地下に降りた。
違和感を解消出来ない事が堪らなく綺礼の焦燥を加速させる。しかし璃正はあれ以上に何も言わなかった。あれば必ず、何かを綺礼に伝える筈なのに。
綺礼とは違い、何かに焦っているという事もないのだ。
今日の朝、言葉を交わした父親と変わらぬ平穏さ。
荒れ続ける、空模様とは打って変わって。
地下に降りた綺礼は、ふと璃正が手にしていた霊器盤を見つけた。
もしかしたら、新たなサーヴァントが召喚されているかもしれない。
そうして見た霊器盤には——変わらず、キャスターを除いた六騎だけが表示されているだけだった。
何も変わらない。何もイレギュラーは起きていない。
まだ、何も。嵐が冬木市にいる事以外は、何も。
気付いた時にはもう、ナニかがそこにいたような気配を、綺礼にだけ残して。
その出会いが運命だというのなら、恐らく運命なのだろう。
それは本当に、ただただ純粋な好奇心だった。
或いは、芸術家気質なだけだったのかもしれない。
死という本質を見極める力に、彼は優れていた。ホラー映画やスプラッターなモノに映し出される、虚構の死。赤インクと迫真に迫る絶叫で構成された、子供騙しの安易なフェイク。
あの血と叫びが、もう少し真に迫ったものであったら、雨生龍之介は殺人鬼にならなくて済んだのだろうか。
ただ龍之介は知りたかった。
脈と共に波打つ出血の鮮やかな赤色。体の内側にある臓腑の手触りと質感。それらを引き摺り出された死に至るまでの全て。
苦悶の表情と奏でる絶叫は、決して偽物では得られないモノばかりで、彼は殺人に手を染め始める。
殺人は罪だと言うが、しかしこの星には一体幾つの人間が犇めいているというのか。
その数は何と五十億。
しかもそれが、毎日何万という単位で生まれては死んでいるというのだ。
それがどれだけ途方もないか、龍之介は良く理解していた。子供の頃、公園の砂利を数えて、一万程で挫折しているからだ。
だとするなら、龍之介の手による殺人など、その五十万倍の数の人間にしてはどれほどの重みがあるのだろう。
何より龍之介は、人を殺すとなれば決してその死を無駄にはしない。
死に至るまでの過程に、半日以上も費やす事すらあった。
取るに足らない命を生かしておく情報量よりも、人が最期に見せる刺激と経験を考えれば、むしろ龍之介は生産的な行動をしているのではないか——そういう信条で、龍之介は殺人に殺人を重ねながら、各地を転々と渡り歩いていた。
そして、運命の悪戯は彼らを掠めた。
自らのモチベーションの低下に悩まされた快楽殺人鬼は、それが何かも分からぬまま、冬木の住宅地ど真ん中で儀式殺人を決行し、それを成功させる。
第四次聖杯戦争、最後の一組。
魔術師としての自覚も聖杯戦争の意義も知らぬまま、彼は召喚の詠唱も精巧な召喚陣もなく、サーヴァントのマスターとして令呪を獲得し、キャスターのサーヴァントを呼び出す。
悪質な殺人鬼が呼び寄せた、後世に残逆な所業で名を知らしめる事になった、もはや怨霊悪霊に等しい英霊を。
その夜、雨生龍之介は殺害現場を後にして、自らを青髭と名乗ったサーヴァントと出歩いていた。
「それで、これからはどうするんだ旦那?」
「ふむ。まずは魔術工房……我らの拠点を作らねばなりません」
「あー成る程。確かにそうだよな。オレ、冬木でちょっと羽目外し過ぎたから……でも旦那の手にかかればそんな事ないんだろ! 何なりとオレは手伝うぜ!」
物分かりの良いマスターの言葉に、聖なる怪物と呼ばれた悪魔は微笑む。
狂気的な思考を持つキャスターだったが、その実彼はとある事が絡まねば酷く冷静且つ隙がない。軍師としての判断もあり、尚且つ騎士として自らの力量は知っている。
自らの力は決して秀でたものではない。理解あるマスターを得られたのは幸先が良いが、己が悲願の達成は斯くも厳しきモノになるだろうと、そう予想されるのだから。
龍之介とキャスターは、静まり返った冬木の町を歩く。
キャスター自身は魔術に精通しているが、秀でた者ではない。
身を隠す為にも、冬木市街に工房は作れないだろう。
しかし幸い、この冬木の地下には、新都の大規模開発によって新設された工業地帯の排水溝や、拡設された用水路といった下水の管が伸びている。
そこが魔術工房として最適だろう。
「ん、あれ?」
龍之介とキャスターが、冬木市を二つに分ける未遠川の中流、プレハブ倉庫が連なる工業区域の川縁に辿り着いた時だった。
深夜にしては珍しく、一人の人物が鉄柵の前に立って、未遠川を眺めている。
いや、人が立ち入らぬ工業区域である事を考えれば、その人物は異様に過ぎるだろう。名所である数百メートルに及ぶ川幅を眺めるにしても、他に良い場所はある。
「うわっ……めっちゃカワイイ子」
しかし、その事よりも先に龍之介は気付いた。
他ならぬ彼だからこそ気付いたのである。捕食者として夜の街を出歩き、家出の令嬢から火遊び感覚の小娘、蠱惑的な女性と数々の人間を手にかけて来た彼だからこそ。
人の死の真贋を見極める才能のように、龍之介は人の美を見極める能力に秀でていた。
だからこそ——川縁に立つ薄い金髪の少女は隔絶していた。
後ろ姿しか分からぬが、それだけでも確信出来る。
自らが日本人しか手にかけられていない事を考えても、あの華奢な少女は英国でも際立った美貌の持ち主だろう。
絶世の美少女と傾国の美女の、丁度境目。
夜の下に咲く一輪の花、と例えるのが相応しいかも知れない。
夜の怪しく冷たい雰囲気すら支配下に置く少女は、もはや人の域にいる者とは思えない。
「ここにいれば、出会えるだろうと踏んでいた」
「え?」
少女はそう呟くと、振り返って龍之介達を見た。
薄い金髪とは違い、星の光が如く輝く、眩い金色の瞳。
その金は、龍之介が今まで見て来たどの金色よりも深く、底が見えない。期待を裏切らず、その少女は絶世の美貌の持ち主だった。
若く華奢で、尚且つ中性的な美貌はどこか未発達故の妖しさがある。端正と呼ぶより背徳とも呼ぶべきだろう。
そのような少女など、龍之介は見た事がない。
余りにも人智に及ばない美しさを持つ人間を見ると正気を失う——それはこういう人に言うのかもしれないと、直感的に龍之介は確信し、思わず言葉を溢した。
「すげぇ……天使みたい」
「ありがとう。そう例えられるのは私としても趣深い」
「あ……えっと、こんばんは? 良い夜ですね?」
「そうだね。確かに良い夜だ。
雨も晴れているし、月が良く見える」
しかもその雰囲気すら、普通の人間とは隔絶としていた。
思わず龍之介は萎縮しながら、流れるように少女と会話してしまう。
何処か超然とした姿と佇まいの少女。ただそこにいるだけで、夜の闇が美しく妖しいベールのように変質する。
龍之介の隣にいるキャスターとは、雰囲気が真逆な闇の者だった。
もっとも、キャスターを悪魔だと例えるには何処か神聖な気配がするし、彼女を天使と例えるには何故か不気味で禍々しい。
だから、彼女を手にかけたら今までにない輝きが見えるかもしれない——そんな龍之介の考えすら萎縮してしまった。
所謂、一目惚れしてしまった、なんて類いのモノにも似ているかもしれない。
彼女は一体どんな美学を持っているのか。自らでは及びも付かない精神で、自らを啓蒙してくれるのではないかという期待を龍之介は持つ。
それは、隣のキャスターに抱いたものと似た感情だ。
「初めましてキャスター」
そしてその少女は、気安い友人のように話しかけた。
ぎょろりとした双眸に——ナニかの理解を覚えつつあるキャスターに向けて。
「………旦那?」
そこで龍之介は初めて気付いた。
隣のキャスターの気配が変わっている事に。
キャスターは信じられないと言った顔で、小さく呟く。
少女とキャスターの気配は、見た目に反して酷く対象的だった。
「…………——まさか」
「しーっ。そう焦るな。私から名乗らせろ」
少女は神託を告げるように微笑む。
魔女のように怪しく。神のように一方的で。
人差し指を口元に当てる姿は、ただただ得体が知れない。
その右腕に、龍之介のとは比べ物にならない数の、赤い刺青を輝かせながら——第八のサーヴァントは嗤う。
「私はルーラー。
本次聖杯戦争の調停役に居座った者」
あぁ。
その出会いが運命だというのなら、恐らく運命なのだろう。
救国の聖処女すら殺害した、嵐と死を司る神がそこにいるとするなら。
「そして貴方達人類が、嵐の王と称した者だ」
荒れる嵐の中心点。
嵐の目より輝く月の真下。
夜の暗い闇に、底無しの金の瞳が不気味に輝いていた。
【WEAPON】
預託令呪
詳細
聖杯戦争の監督役に預けられている令呪。監督役の権威を裏打ちする印。
聖杯戦争において令呪を残した状態で脱落者が発生した場合、その令呪は大聖杯に回収される。さらに回収された令呪が未使用のまま聖杯戦争が終了した際には、監督役に預託令呪としてストックされる。
その令呪は聖言によって保護されており、監督役本人の受諾がなくては一流の魔術師ですら抜き取れない。またその聖言は、世界最大の魔術基盤を持つ教会の護りである為、まず突破する事が出来ない。
逆に言えば。
監督役しか知らない聖言を把握しており。
現代の魔術師では到底不可能な、教会の護りを突破出来る何かさえあるなら、抜き取れる。
総画数、十四。
一つ一つが膨大な魔力量を秘めた、無属性且つ指向性のない魔術刻印。
【プロフィール解放】
【マスター】
【CLASS】ルーラー
【真名】■■■
【性別】女性
【出典】イギリス妖精史、中世民間伝承、欧州系列神話
【地域】欧州全域
【身長・体重】159 cm 45 kg
【属性】混沌・善
【ステータス】
筋力 D 魔力 E〜A+++………(計測不能)
耐久 C 幸運 E
敏捷 A++宝具 EX
【CLASS別スキル】
対魔力 EX
詳細
魔力に対する抵抗力を示すスキル。
一定ランクまでの魔術は無効化し、それ以上のランクのものは効果を減少させる。
その抵抗力は神霊に匹敵する。
神霊の魔術行使や権能クラスの魔術行使であればダメージが通る。
真名看破 B
詳細
ルーラーのCLASSスキル。
直接遭遇した全てのサーヴァントの真名及びステータス情報が自動的に明かされる。
ただし、隠蔽能力を持つサーヴァントに対しては、幸運値の判定が必要となる。
神明裁決 ——
詳細
ルーラーのCLASSスキル。
調停者としての最高特権。聖杯戦争に参加している全サーヴァントに対して、二回まで令呪を行使できる。
他サーヴァント用の令呪を転用する事は出来ない。
その為、保有する令呪が余っていても三回目を同一サーヴァントに行使する事は出来ない。
このサーヴァントは後天的に与えられた【■■■■ C】のスキルによって無理矢理、聖杯戦争の枠に収まっている為令呪を所有していない。
ただし、令呪を保有・獲得・使用する権限はある。
【保有スキル一部解放】
神性 E− 〜A+
詳細
どれだけ神霊適性を持つかどうかを表したスキル。
欧州の神話に現れるワイルドハントは、伝承に於いて死者や亡霊、妖精達の群れであり、その軍団を率いた主は精霊や伝説上の人物——もしくは多神教の神や魔神だという。
北欧神話のオーディンと準えられる事もあり、嵐の王として顕現したこのサーヴァントは、本来なら持ち得ない神霊適性を獲得している。
元々このサーヴァントは純粋な人である為、このスキルのランクが上がるほど人としての精神構造が崩壊するが、その対価に神霊に匹敵する力をこのサーヴァントは保有する。
その域は、現代の神秘で実現可能なレベルで権能の力を行使する事が可能になる程。
尚このサーヴァントは Aランク以上の高ランクで神性を受け入れなくては、反転した状態での力を充分に発揮出来ない。
具体的には、このスキルのランクが低下する程に【魔術 C】【扇動 A+】を除く全ステータス、全スキル、全宝具のランクが劣化する。