騎士王の影武者   作:sabu

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 世界を救いに来たサーヴァントだよ
 


第8話 超越者達の盤上 後編

 

 

—162:27:03— 

 

 

 冬木市から数十km近く離れた最寄りの空港は、近年稀に見る嵐に襲われていた。

 これが最近冬木市で猛威を振るった異常気象であるというのは誰もが分かっている。

 もしくはその異常気象に引き寄せられた、西日本の雨雲なのかもしれない。

 答えがどちらにしろ、荒れ狂う雨雲の影響もあってか、その空港は一時的な飛行経路見直しや欠航便、遅延などで大忙しだった。

 

 当然事故など起こせないし、たとえそれが自国の飛行機で無かろうと、一つ一つ全てに細心の注意を払うのが当たり前だ。

 元々自然災害の多い国であったことが一番の理由だろう。

 雷が轟く嵐であっても、悪天候時のマニュアル通りに空港は機能していた。

 

 だから勿論、ドイツ発のやや小さめなチャーター便はその空港に着陸した。

 

 その事にこれといった安堵はない。

 管制塔の航空管制官は次の仕事に取り掛かる。

 単純にこれが当然の出来事だからだ。悪天候下でも見慣れた一部でしかない。一々、一喜一憂をする訳でもなく淡々と事務を処理していく。

 だから管制塔の人間が、そのチャーター便から降りて来る人物の事を見る訳もない。そもそも、まともに視認出来る距離ではない。

 

 

 ただ——その管制塔から一人だけドイツ発のチャーター便を眺める人物がいた。

 

 

 いや正確には管制塔の中からではなく、管制塔の………上からだ。

 この悪天候下で管制塔の上に立っていれば、容易く足を滑らせ、そして落下し凄惨な光景を作り出す筈だろう。

 そもそもそんな場所登っていけるような設計はしてない。

 つまりそんな場所にいる人物は——本来存在してはいけない人物だ。

 

 吹き荒れる風に襲われる事はなく、降り落ちる雨に濡れる事もないその人物。

 だが、当たり前だ。

 民が王に傅くように、嵐は——彼女に従う。

 ただそれだけの話。それが極めて一方的で無慈悲な彼女の法。もしくは理。

 彼女は、嵐の王なのだから。

 

 

 

「規格化された略式魔術刻印、存在。

 令呪なし。魔術回路の質と構造は小聖杯と同等には至らず。

 アイリスフィール。マスターではない。アインツベルンは十年早く成功はしなかった」

 

 

 

 少女の形をした嵐の王は、管制塔を足場にしてアインツベルンのチャーター便を眺めていた。

 彼女を視認する事は民間人では不可能だろう。

 暗示スコープや熱源探知センサーといった現代兵器が有れば話は別だったかもしれないが、そんな兵器は空港にはないし、管制塔を注視などしない。

 だから一足先に滑空路に降り立ったアイリスフィールには分からない。

 仮にセイバーであっても、霊基反応すらないその存在を認識する事は不可能に近い。

 気配遮断とは性質が違う。

 彼女を、彼女として認識するのは不可能なのだ。

 

 

 

「サーヴァント、セイバー………」

 

 

 

 ボソと呟くように、その呼び名を呟く。

 不意に、人間離れした金色の瞳から輝きが薄れた。

 反応するように、飛び切り強い横風が吹いて荒れる大気。

 

 

 

「真名——アルトリア・ペンドラゴン。

 筋力のステータスが1ランク上がった代償に幸運が低下。

 クラススキル変更なし。

 身体性能は同じ。竜の炉心も同じ」

 

 

 

 もしもここに、聖杯戦争関係者が居たら最大の警戒を彼女に向けた事だろう。

 彼女には、セイバーの座を以って降臨した英霊の真名はおろか、ステータス状態すらもが晒されているのだ。

 真名看破というスキルによる、ステータス情報の認識。

 ルーラーのスキルによる特権。

 存在してはならないサーヴァントがそこにいる。

 

 

「違うのは……」

 

 

 

 小さく言葉を呑み込んだその瞬間——瞳から完全に輝きが消えた。

 まるでただ、金色のガラス玉を嵌め込んだだけのような色合い。

 無機質にして生命を感じられない、光のない瞳だ。

 もう、その瞳を綺麗だと言う者は誰もいないだろう。

 どこを見ているかも分からない、薄い金色がそこにある。

 

 ただ彼女には、全てが分かった。

 セイバーというサーヴァントの真名も。ステータスも。実力も。

 今の自分が交戦した場合、どちらが勝利するのかも。

 セイバーの、心情も。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 彼女には意志も感情もなかった。

 結果は最初から見えている事だからだ。

 必要だから行っているだけ。本当ならやりたくもない仕事を終わらせる為に、この聖杯戦争に参加しているだけ。

 言うなれば、最終的な帳尻を合わせる為だけの天秤。

 故に天秤に意思はなく、感情もない。

 結果は、見えている。

 その結果に向けて、帳尻を、合わせるだけ。

 

 だから——ルーラーが今、何かの考えを溢すとしたら。

 それはルーラー個人の独白であり、ルーラーとして顕現した彼女には全く以って無関係の話でしかなかった。

 与えられた役割には全く以って必要もない、彼女個人の感想。

 本来なら何も思う事はない。

 自分には関係ない話だ。

 少なくとも、今、ここにいる自分には。

 だが、それでも。

 そう。本当に。

 ただひたすらに——

 

 

 

「吐き気がする」

 

 

 

 思わず、ゾッとするような無表情で呟く。

 それは何の変転もない忌避感であり、人として普遍的な嫌悪感だった。

 つまりそれを、極めて人間らしい反応と言う。

 ——彼女の生涯を知る者なら、目を剥く程に人間らしい反応だった。

 

 

 

「……………————」

 

 

 

 瞳を閉じ、再び開いた時には、また深い金色に戻った。

 黄鉛色に澱む事はない、ただ深く底無しの金。

 無機質の上に張り付いた、ヒトならざる証の黄金。

 興味を失ったように踵を返し、ルーラーは管制塔から消える。

 管制塔の上には、もう何もない。

 誰も、何も。あらゆる痕跡を消して。

 何の意味もない呟きすら、嵐に呑まれて。

 そして次第に、嵐が止んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アイリスフィールとセイバーが最寄りの空港に到着したのとほぼ同時刻。

 切嗣は既に、冬木市に到着していた。

 未遠川より東の住宅地は近代オフィス街への大規模開発の真っ最中である。

 歴史ある深山町から、着実と都市機能を移しつつある冬木市新都はその日、人々で溢れ返っていた。

 近年稀に見る異常気象に襲われていた事も相まったのだろう。

 晴天には届かない曇り空と、冷たい北風の下でも人出は多かった。

 それが休日の昼下がりと来れば尚更だ。

 

 

 

「………」

 

 

 

 人の群れで混み合う通りの中、切嗣は空を仰ぐ。

 着古したシャツとコート。

 煙草を吸いながら虚空を眺める姿は、とても外来の者とは思えない。

 誰かの注意を惹く訳のない極めて無味無臭の存在として、切嗣は冬木市に溶けこんでいた。

 

 しかしその実、彼の心の有り様は、アインツベルンに拾われる前の魔術師殺しに戻っている。

 十年近く肺に流し込んでいなかった芳香の痺れと煙草の味わいは、孤独な魔術師殺しに必要のないものを切り離していく。

 自らが切り替わっていく感覚をまざまざと感じながら、切嗣は不吉な空を眺め、注視した。

 

 冬木市の気象が近年稀に見る異常に襲われていた事は、切嗣も事前に知っていた。

 三日程前から冬木市に逗留している切嗣の補助役、久宇舞弥からも聞いていたのが、実際に見るのでは情報量が違う。

 事実切嗣は、冬木市に到着するまでの国際新幹線の中で、荒れる嵐を実際に見た。ただそれは……冬木市ではなく、数十km離れた最寄り空港でだが。

 ちょうど舞弥が冬木市に到着した日辺りからだろう。

 荒れていた嵐は次第に冬木市から撤退を始めたのだ。

 当然と言えば当然である。永遠に残り続ける嵐などない。

 その点でいえば、冬木市に訪れた異常気象は——本当の意味での異常気象ではなかったらしい。

 切嗣は知っている。現代の科学を無視、法則に囚われない神秘という類いのモノを。

 つまりは天気予報を裏切って急速に発達した嵐と、秋雨前線のように引き寄せられた大気も、現代の理を無視したモノにはなれなかった——

 

 

 

「今は、そう考えておくか」

 

 

 

 晴天には程遠く、過ぎ去った嵐が残した曇り空にひとまずの当たりをつけた切嗣は、新都を歩き始めた。

 ここ数年で急速に発展し、様変わりした新都の様子にやや難儀しながらも、切嗣は目指していた場所に到着する。

 そこは何の変転もないビジネスホテルだ。

 程なく完成が予定されている新都センタービルや、市内最高級のハイアット・ホテルに比べれば、質も地位も従業意識も一回り以上下がる、ありふれた安宿。

 代わりに、仕事や短い期間を目的とし、低賃金で利用出来るホテル。

 そこを切嗣と舞弥は隠れ家とした。一番広く利用者のいるホテルこそ、隠れ家として重宝する。

 

 

 

「昨夜、遠坂邸で動きがありました」

 

 

 

 エレベーターを通り、切嗣は七階の七〇三号室の部屋に入る。

 開口一番、舞弥は本題に踏み込んだ。

 舞弥には、CCDカメラを取り付けた使い魔のコウモリを使役させ、遠坂邸と間桐邸の偵察を命じていたのだ。

 だから切嗣も、録画映像という魔術師らしからぬ形で戦況を測る事が出来る。

 備え付けのテレビに映し出される、遠坂邸で行われた交戦の一部始終。

 黄金のサーヴァントが骸骨の仮面のサーヴァントを一方的に蹂躙し、消滅させる。

 消滅した骸骨の仮面のサーヴァントは、紛れなくアサシンとして現界する山の翁を象徴するモノだった。

 

 あまりにも出来過ぎた展開でしかない。

 

 アサシンの実体化から、遠坂のサーヴァントが察知して攻撃するまでのタイムラグは、ほとんど無いに等しかった。

 それを、気配遮断を持つアサシンに対して。

 事前に侵入者がある事を知っていなければ凡そあり得ない。

 そして待ち伏せする余裕があったのなら、みすみす自らのサーヴァントを晒すように使用した遠坂の行動もあり得ない。

 

 始まりの御三家たる遠坂が、聖杯戦争の鉄則を知らぬ訳がないだろう。

 何の躊躇もなく、このような早期に英霊の真名に繋がる手打ちを晒したのは愚策だ。

 当然、本次聖杯戦争に参加した遠坂家の当主、遠坂時臣がそのような真似をする愚者でない事も把握している。

 

 だとするなら、遠坂は最初からこの茶番を周囲に見せ付ける意図があったという事に他ならない。そしてそうする事で一体何に、誰に、どんなメリットがあったのか。

 

 

 

「……舞弥、アサシンのマスターはどうなった」

 

「昨夜の内に教会に避難し、監督役が保護下に置いた旨を告知しました。言峰綺礼という男だそうです。

 遂先日まで、夜中以外は冬木市内を渡り歩いていたのが確認されていますが、教会内に籠ってからの姿は確認出来ていません」

 

 

 

 言峰綺礼。

 それは、切嗣が最も警戒している敵の名前だった。

 令呪を授けられる何かを持ちながら、何の意思も感じられない虚ろな男。

 

 

 

「舞弥、冬木教会に使い魔を放っておけ。ひとまず一匹でいい」

 

 

 

 現在は決裂したとあるが、三年前から遠坂時臣に師事して来たと有れば、もう遠坂と言峰……延いては教会も手を組んでいると考えて良いだろう。

 元々怪しい経歴だと警戒していた相手だ。

 

 勿論、一番危険なマスターだとして、セイバーにも伝えてある。

 

 舞弥が、遠坂邸に張り付いている三匹の蝙蝠の内、一匹を教会に飛ばしているのを後目に、切嗣は装備品の点検に入る。

 舞弥に用意させていた装備品は、ベッドの上に整然と並べられていた。

 対人手榴弾にスタングレネード。C4爆弾や発煙筒といった兵器。

 その中でとりわけ異彩を放つワルサーWA2000セミオートマチック狙撃銃に、キャレコM950短機関銃。

 切嗣が求めていた物は全て揃っていた。

 ただ、それでも切嗣の眼差しは満足な色を示さない。

 

 

 

「預けておいた奴は、どこだ?」

 

「……こちらに」

 

 

 

 切嗣は、紫檀で設えられたケースを受け取る。

 その中に収められた、一挺の拳銃。長い沈黙を経て目覚めた魔術師切嗣の魔術礼装。

 トンプソンセンター・アームズ・コンテンダー。

 銃というよりも、中世末期のパーカッションピストルに近い形状をしたそれは、しかし確かな切嗣の礼装だった。

 握った瞬間に感じる手応え。

 不気味なほど、コンテンダーは切嗣の手に——容易く収まった。

 

 

 

「……………」

 

 

 

 銃を握れば、心の時計が容易く巻き戻っていく。

 過去に幾度となく握って来た胡桃材の銃把は、九年のブランクを隔ても尚、絡み付くようにぴたりと、切嗣の掌に収まっていた。

 魔弾となっている30-06スピリングフィールド弾を内包したコンテンダーの総重量2060g。切嗣が最も慣れ親しんだ重さ。

 たった一発しか収める事の出来ない単発式拳銃をリロードする時の動作も、手首のスナップで銃身を跳ね上げる時の手応えも、マグナム弾を凌駕する発砲の反動も——まるで容易く想起出来る。

 

 

 

「——————」

 

 

 

 そこからの動作は鮮やかだった。

 一発の弾薬を左手で取り出し、両手に染み付いたリロードの手順を実演する。

 右手の指でコンテンダーのスプールを引き、重心を振り下ろす。中の弾薬と次弾の弾薬はまるで入れ替わるかのように収まった。

 銃身を跳ね上げ薬室が閉鎖するのと、照準を合わせるのは同時。

 所要時間は——僅か一秒で終わった。

 

 

 

「変わらないな」

 

「はい」

 

 

 

 機械的な切嗣の呟き、舞弥も同じく応える。

 そう——変わらない。切嗣の腕は衰えなかった。

 当然である。同じ命令を受けた機械が違う結果を出す訳がない。

 そんな事は劣化した場合だけであり、そしてそれは外的要因だけだ。

 例えば………切嗣を人間に戻す邪念があれば、話は違っただろう。

 それだけの話だ。今の切嗣に邪念などはない。故に、切嗣の腕が鈍る訳もない。

 

 

 

「もう行こう。早ければ今夜中にセイバーが会敵する」

 

 

 

 切嗣は素早く銃器と武装の類をケースに纏めていった。

 その慣れ親しんだ動作が、九年もの間沈黙を続けたあの魔術師殺しであると誰が信じられただろう。

 切嗣の胸の中の冷却された情緒が、舞弥にも伝わっていた。

 舞弥は、往年のパートナーがどんな人物だったのかを良く知っている。

 

 

 

「………不思議です」

 

「何がだ?」

 

「いえ……もう少し腑抜けているモノだと」

 

 

 

 肩越しに振り向いた切嗣の双眸。

 それは九年前と同じだった。

 肉体から心を切り離し、冷め切った心で引き金を引ける男の瞳。

 

 

 

「良いサーヴァントを引きましたね」

 

「……………」

 

 

 

 舞弥の断言に、切嗣は僅かに押し黙る。

 ただ、それも当然の事だった。

 切嗣を変えた外的要因。

 妻と娘。衛宮切嗣という機械には、本来なら必要なかった筈の不純物。

 だからこそあの二人が、喪うモノも痛みを感じる心すらなかった殺人機械の切嗣に戻す事はない。

 

 だとするなら切嗣を戻した外的要因は、後たった一つしかない。

 サーヴァント・セイバー。

 衛宮切嗣が呼び出した剣の英霊、ただ一人。

 

 

 

「そうだな」

 

 

 

 切嗣は静かに頷いて、部屋を出ていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………?」

 

 

 

 切嗣と同じく退出しようとするその時、小さな電子音を舞弥は聞き取った。

 硬質な機械音による通信。無線通信の音だ。

 舞弥は懐から携帯電話を取り出し、応える。

 相手は、ブラックマーケットからの業者だった。

 当然知り合いである。舞弥ではなく、切嗣の古い時代から世話になっている業者だ。

 切嗣が持っているコネと言っても良い。今回の武器調達も、彼から行っている。

 金銭に付いてはアインツベルンが後ろにいるので、何ら気にする事なく出来ていた。

 

 彼が言うには——久宇舞弥は武装が破壊された場合の予備として、兵装や無線機、特にワルサーWA2000とキャレコM950を追加で1挺ずつ頼んだらしい。

 しかしその後に訂正の電話を折り返したという。

 ただその手違いにより、ワルサー狙撃銃とキャレコ短機関銃の行方が一つずつ宙に浮いているのだと。

 結局其方に届いているかどうか、という確認の電話だった。

 

 当然、改めて確認するが届いていない。

 

 元々舞弥が直接受け取ったのだから、普通ならその時に気付いているだろう。

 その事を説明すれば、僅かに怪訝そうにした後、武器商人の人間は通話を切った。

 最後に………武器を調達した関係者の人間が一名、抗争に巻き込まれて死亡した事を告げて。

 良くある事だった。

 元々正確な出所が不明である事が多いブラックマーケットの代物。それが分からなくなるという事は多い。関係者が亡くなるとするなら、尚の事。

 

 

 

「———……………?」

 

 

 

 通話を切った後、不意に舞弥は首元をさする。

 何故か、痛みがした。

 打ち身や打撲に似た痛み。寝違えたにしては、もう治りかけているし痛みも鈍い。

 不意打ちを受けて締め落とされた——久宇舞弥を瞬きすらない刹那で撃破出来る熟練者がいる訳もない。

 そもそも、そのような記憶は何処にもない。

 

 

 

「…………………」

 

 

 

 舞弥は素早く兵装をまとめた後、切嗣に付いていった。

 その時抱いた疑問は、その日に痛みと共に消えて、思考の隅に浮かぶ事もなかった。

 まるで深く昏い、水底に沈んでいくように。

 舞弥はその日に抱いた違和感を。

 思い出せなくさせられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

—154:23:46— 

 

 

 アイリスフィールとセイバー。

 二人が冬木に到着したのは、程なく夕焼けが雨雲を赤く染めようかという午後も大分経ってからだった。

 最寄り空港では激しかった嵐も、冬木ではしとしとと雨が降るに留まっている。

 冬の凍気と別種の冷たさを持った冬木だが、アインツベルンの厳しさに比べれば充分柔らかい。

 無論、暖かな日差しとは程遠い雨であれば、育ちの良い令嬢は辟易するモノだっただろう。だがアイリスフィールは違った。

 

 これが切嗣の生まれた国。

 

 切嗣は写真や映画で外の世界の事を教えてくれたが、この目で実際に外を見るのは初めてだし、空気の違いを肌身に感じるのもアイリスフィールは初めてだった。

 淑女らしからぬ考えだが、雨の中、外を駆け回るのも楽しいかもと考えてしまう程度には、アイリスフィールは日本の雨を喜んでいる。

 これが切嗣の言う、風情があるというモノなのかも知れない。

 外に出るのが激しい暴風雨だったら、こうは行かないだろう。

 

 ……ただそれも、聖杯戦争が始まっていなかったらの話だ。

 

 当面の方針はセイバーにも告げてあるし、本来のマスターである切嗣が一体どのような戦法をするかもセイバーは理解している。

 だが裸足になって雨の中を駆けずり回りたいという願いは、行き過ぎたものだとアイリスフィールは自らを抑えていた。

 危機感を欠いた軽率な行動にも、流石に限度がある。

 でも一緒にこの街を見て回るくらいなら、切嗣の方針にも納得してくれたセイバーも許してくれるだろう。

 そう、考えていたのだが………

 

 

 

「すみません。この服を二着ご用意出来ますか? あぁはい、色は……」

 

 

 

 当の本人、セイバーの姿を見て、アイリスフィールは困惑していた。

 小柄な体格に合わせられた濃紺な黒のダークスーツ。150cm半ばのセイバーが男装の麗人のような姿をして買い物をしているというのは、どこか非現実的だ。

 場所は、冬木市内の衣類店。

 特に変哲もない店だが、外来居留者といった層もターゲットにしているのか、品格のある高級なモノも多いそうだ。

 

 だが、最近泥棒に入られたらしい。

 

 カメラにも映っておらず、目撃者もいない為、犯人は不明。

 何でも——英国のミッションスクール風の衣類が消えただとか。

 被害総額は数万から十数万。ただそれで同情を生んだのか、匿名からの寄付金五十万程が送られたらしく、現在これといって悲観的な態度の従業員はいない。

 今、冬木で注目を浴びている店舗である。

 

 それがどうやら、セイバーの目を引いたようだ。

 

 ここなら良さそうですねと、アイリスフィールの手を引いて入店したセイバーは、さも知ったるように店内を歩いている。

 これが遥か過去、伝説の時代から来たアーサー王だとは誰も想像出来ないに違いない。

 それほどにセイバーは普通に店内を歩き、そして店員と会話していた。

 ただそれでも、目を惹くほどに鮮やかな金髪と碧眼は、到底隠し切れるモノではないのが。

 

 いや、浮世離れした絶世の美少年が市街で普通の庶民のような事をすれば浮くのは当然の事だろう。

 何より、アイリスフィールとセイバー両方の格好はどう考えても庶民の域から逸脱していた。

 なまじ、二人共絶世の美形である。

 ファッションモデルでなければ着負けしかねないシルクのブラウスを当然のように着こなすアイリスフィール。

 華奢な少女がすれば突飛に映るダークスーツの男装を、特に問題なく着こなしたセイバー。

 傍から見れば御忍びで入国した外国の令嬢と御付きの従者にしか見えない。

 

 そんな二人が視線を集めるのは当然だっただろう。

 空港のロビーから、冬木市に到着して町を回るまでの間、ほとんど周りの人から目を白黒された。

 奇異の瞳というよりかは、羨望や熱狂的な瞳だ。

 それを全くの意に介さなかったセイバーは頼もしくもあったが、ここまで来ると少し驚きの方が勝つ。

 なるほど確かに、そういう所を割り切る……というか無頓着な所は切嗣を思わせるところがある。

 セイバーのあれは、王として衆目を集めた故の無頓着なのかもしれないが、とにかくアイリスフィールは、少し思っていたのと違う現実離れした光景に、逆に落ち着かなかった。

 

 

 

「こんな事してて良いのかしら、私達……」

 

 

 

 市内の服屋で大胆な行動をするセイバーに驚きながら、アイリスフィールは一人呟く。

 無論、折角の機会だからこの街を散策したかったのは事実だ。

 かと言って、ここまで楽しんでいては、逆に切嗣達に申し訳なく感じて来る。

 それに、アイリスフィールがセイバーに告げた訳でもなく——セイバー自らが率先して街に繰り出したのだ。

 

 

 "では冬木に到着した事ですし、早速この街の見物に行きましょうか、アイリスフィール"

 

 

 そう言って淀みなく手を引いてくれたセイバーの姿は、アイリスフィールの瞳に焼き付いている。

 短い命だから、意味のない感傷なのかもしれない。

 でもきっと、その後ろ姿はいつまで経っても忘れる事はないだろう。

 外に訪れた感動と期待の陰に隠れた不安と焦燥は、あの瞬間セイバーが拾い上げてくれたのだと。

 

 

 

「アイリスフィール? 私の判断で購入した物ですが、きっと似合うと思います。どうぞ是非」

 

 

 

 いつの間にか、セイバーが目の前に立っていた。

 アイリスフィールが何かを教えるという事もなく、五世紀から来た騎士王は現代の文化という波を乗りこなしていた。

 

 

 

「あ……セイバー? その、流石にお着替えは……」

 

「いえ大丈夫です。羽織るだけの物ですからご心配には及びません」

 

 

 

 そういってセイバーは、ふわりと羽織らせるように、アイリスフィールにそれを着せた。

 

 

 

「ぁ………」

 

 

 

 被せられたのは、白いレインコート。

 傘の代わりに雨で濡れるのを防ぐ雨合羽。

 雨の中を走り回るのに適した衣服だった。

 

 

 

「私は黒いレインコートを購入しておきました。これで傘を差さなくても外を出歩けますね」

 

「どうして——」

 

 

 

 俯くアイリスフィールの言葉に、きょとんとした顔をしてセイバーは答える。

 

 

 

「雨の中を走り回りたかったのではありませんか?」

 

「そうだけど……! でも……」

 

「ご安心ください」

 

 

 

 不安がるアイリスフィールに、セイバーは微笑む。

 セイバーのそれは、数日前までは考えられないものだ。

 冷たい人形のような表情から一転して、セイバーはアイリスフィールに良く笑顔を見せるようになった。

 慈愛に近い微笑みを浮かべる剣の英霊は、見た目通りのうら若き人物には到底見えない。

 ふとした時に出るセイバーの顔は、王としての威厳ではなく、見守る側の人のものである。

 

 

 

「貴方の事は私が守る。

 それにこうしている事には何の問題もありません。

 むしろ私達は大胆不敵に、敢えて挑発的に街中を闊歩すれば良いのです。誰しもが、私達から目を離せなくなる程に」

 

 

 

 確かにそれはその通りだ。

 セイバーは、切嗣の指示を忠実に守っている。

 彼女の微笑みと大胆な佇まいの裏には、極めて淀みない戦意があり、針を突き刺すように鋭い警戒があり、一切の隙もない。

 セイバーの大胆不敵な行動は、冷徹な思考の裏返しでもあるのだ。

 だからこそ、アイリスフィールは少し心苦しかった。

 

 切嗣の方針と指示に同意したセイバーには、聖杯戦争の真実とアインツベルン陣営の真実、その全てが教えられている。

 アイリスフィールが、いずれ聖杯へと還る事。

 イリヤがどんな生まれなのか、アインツベルンがどんな目的だったのか。

 しかしセイバーはそれに何も言わず、ただ切嗣とアイリスフィールに付き従う事を良しとした。そのセイバーには、信用の代わりにそれなりの自主権と裁量権が与えられている。

 つまり、セイバーは好きに動いて良い。

 冬木市内で自由に立ち回る為の金銭も切嗣から与えられているし、地形や霊脈の中心地、他マスターが拠点にしそうなマンションから、遠坂邸と間桐邸の場所まで教えられている。

 

 現在、セイバーが聖杯戦争に抱いている想いと把握能力は切嗣と同等だと言って良いだろう。

 改めて意思疎通を取るまでもない。ここにいる剣の英霊は見た目とは裏腹に、如何なる悪もその手で担い拭い去る覚悟を決めた人物だ。

 つまり、衛宮切嗣と同じ。

 確かにセイバーは、柔らかな瞳をアイリスフィールに向けていた。

 でも、違うのだ。

 セイバーは常に、次の瞬間には冷却された情緒で剣を振り抜ける。

 

 ……だったら彼女も同じように、もっと非情で冷酷にならなければならない。

 

 時間を育めば育むほど別れが辛くなる、なんて話ではない。

 セイバーも、切嗣と同じ心労を抱いているのだ。

 もしかしたら、こうして四方八方を常に警戒しなければならない分、より大きいかもしれないだろう。

 その一方向な関係が、アイリスフィールには心苦しい。

 

 

 

「……………」

 

 

 

 アイリスフィールの、そんな行き場のない鬱屈とした心中に察しが付いたのか、セイバーは何か考え事をした後、不意に冗談めかす様に告げた。

 

 

 

「アイリスフィール。どうやら私を舐めているようですね。

 私が年端も行かない華奢な少女だと思っているのですか? いいえ、違う。アイリスフィール。今一度、私の名前をお呼びください」

 

「……——セイバー」

 

「はい。その通りです。

 私は貴方達が呼び出した最優の騎士。

 貴方達のサーヴァントが負ける筈ないでしょう?」

 

 

 

 そう言って、セイバーは澄ました表情で微笑む。

 その尊大な発言とは裏腹に、彼女は穏やかだ。

 アイリスフィールは知っている。セイバーは決して慢心している訳でも油断している訳でもない。

 ただ己が自負を持って告げ、アイリスフィールを励まし、背負ったものに肩を貸してくれているだけ。

 

 

 

「えぇ。貴方が生を謳歌している。それだけで十分なのです。

 今この瞬間、この時間を自由にしてはならない理由は貴方にはない。

 ご心配なく。貴方が笑っている姿を見るのは私も楽しい」

 

「…………もしかしてセイバー、私の事、はしゃいでる子供だと思っている?」

 

「いえまさか。アイリスフィールは自らを振り返り、自戒しているではありませんか」

 

「……………」

 

「まぁ、そうですね……少し思っています。

 でもそのような所がアイリスフィールの魅力だと」

 

 

 

 ジト目のアイリスフィールを、セイバーはそつなく躱す。

 歯に衣着せずに告げるセイバーは、プレイボーイという言葉が似合っているのかも知れない。どこ吹く風とも呼ぶのだろう。

 

 

 

「…………何というか、セイバーが洒落てるわ……」

 

「お忘れですか? 私の真名を」

 

 

 

 ………なるほど確かにとアイリスフィールは心の中で頷いた。

 彼女は王。騎士王アーサー。そんな彼女なのだから、伝説の通り衆目を浴び、特に女性の扱いなどお手の物という事なのかもしれない。

 それが何処か悔しくもあり、でも同時に嫌味にならないだけの風格があるのは、セイバー自身のカリスマがそうさせるのだろう。

 

 

 

「もう。セイバーにはずっと敵わないわ」

 

「まさか。貴方が貴方らしくあるというだけで、アイリスフィールは私に勝てますし、私よりも余程立派なのですよ」

 

「……じゃあもう少し、私の我儘に付き合ってくれる?」

 

 

 

 もしくは、こういう所で騎士らしく一歩退いた態度を見せるセイバーだからそう思うのか。

 結局、セイバーには本当に敵わないらしい。

 差し出した手をセイバーは見つめる。

 そしてその手を引き、セイバーは頷いた。

 

 

 

「はい、姫君」

 

 

 

 いささか照れくさそうに。

 それでも朗らかな笑みに喜びを表して、アイリスフィールはセイバーに付いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

—154:15:41— 

 

 

 いつしか夕暮れも欠け、夜の帳が下り始める時間となった。

 繁華街の中を回る気品に満ちた女性と、その隣に侍り手を引く玲瓏な美貌の少年。

 だが時には、繁華街を駆け回る少女と、慈愛に近い微笑みを向ける男装の少女にも変わる。

 それが何処か不思議で、映画スター達の中に居ても一際目立つだろう二人が日本の地方都市を好きなように闊歩する姿は、道行く人の視線を虜にした。

 一定の距離を置いて街の営みを見守る事もあれば、人の喧騒の中に率先して紛れ込む事もある。

 規則もなく、脈絡もなく、二人は好きなように夜の冬木を闊歩する。

 阻むモノなど誰もいない。繁華街を好きなように変え、衆目を気にもせず世界を楽しんでいるのは、この二人だった。

 

 

 

「ありがとうセイバー。

 見知らぬ街を誰かと一緒に回って、まるで人間のように人の営みを楽しむのがこんなに素敵だなんて………思いもしなかった」

 

 

 

 いやきっと、一人だけは違った。

 感極まる微笑むアイリスフィールと、同じく笑顔を浮かべているセイバー。

 だがセイバーは、決してアイリスフィールと同じ感情を共にしている訳ではない。

 セイバーは遠く時空を隔てた世界の人々の営みと景色ではなく、アイリスフィールの姿を見て、嬉しそうに笑っている。

 アイリスフィールと同じように、初めて見た景色に何の感慨も湧かない訳ではないが、心が動く訳ではなかった。

 セイバーにとっては、ただそれだけ。

 子持ちの淑女とは違う、年端も行かない少女のような笑み、無邪気で純朴な笑顔をアイリスフィールが浮かべてくれるだけで、セイバーには良かった。

 

 意味のない感傷だと言われればそれまで。

 切嗣にもアイリスフィールにも明かしていない、ただの感傷。

 ここにいる意味。だからこれは、都合の良い、贖罪。

 

 セイバーの微笑みは、きっと儚く、そして遠かっただろう。

 アイリスフィールは気付かない。セイバーが、そのような事に気付かせない。

 針のように神経を研ぎ澄ませ、衆目の中で剣を取る事に、何の戸惑いすらない事を。

 

 

 

「アイリスフィール、電話が」

 

 

 

 だから、何より先にセイバーが気付いた。

 アイリスフィールが切嗣から持たされた携帯電話がコール音を響かせていた事に。

 

 

 

「あ、えぇと」

 

 

 

 隣のセイバーに次いで、アイリスフィールも気付き、携帯電話を懐から取り出す。

 慌てる事はない。

 今は別に切迫した状況じゃないのだからと、切嗣から習った使用方法を思い出して、通話ボタンを押した。

 

 

 

『アイリか?』

 

「そうだけど、どうしたの……?」

 

 

 

 万が一にと渡された物だったが、原則的にこれを使って会話するという事態は想定されてない筈だった。

 だからこそアイリスフィールは驚くが、電話の先の切嗣は極めて平常だ。

 感情にブレは一つもない。

 

 

 

『此方でサーヴァントを捕捉した、マスターは視認出来ない』

 

「…………」

 

『場所は冬木大橋、海浜公園の裏手。

 セイバーならば気配を感じ取るだろう。移動した場合に備えて、念の為発信機は起動してくれ』

 

「……分かったわ」

 

『あぁ——すまない。もう切るよ』

 

 

 

 そうして、通話は一方的に切れた。

 本来なら切嗣とは通話しない方が良いのだ。切嗣という存在が露見する可能性に繋がるモノは避けるべきなのだから。

 

 

 

「敵ですか」

 

 

 

 振り返った時にはもう、セイバーの雰囲気が変わっている。

 実際に切嗣と通話した訳でないのに、アイリスフィールの気配と数言の言葉だけで、傍らの騎士は敵を屠るサーヴァントとなっている。

 その変わり身、先程まで慈愛の微笑みを浮かべていた者とは到底思えない。

 思わずアイリスフィールが、九年前の切嗣を思い出す程には。いや……事実それと全く変わらないのだろう。

 召喚されたばかりの、極めて無感動な剣の英霊が、もうそこにいる。

 

 

 

「冬木大橋の袂、海浜公園の裏手にいるらしいわ」

 

「分かりました。アイリスフィールは私から離れないように」

 

 

 

 緊張を顕す事も戦意を激らせる事もなく、セイバーはただ落ち着いて応じる。

 余裕という訳でもなく、恐れている訳でもない。セイバーは悠然と歩を進めて商店街から抜け出していった。

 その様は、アイリスフィールの意識を聖杯戦争へと切り替えるには十分だっただろう。

 雨風の中、二人は戦いの場に歩き出していった。

 

 

 

「(………何も、痕跡はなかったか)」

 

 

 

 一人セイバーだけ。

 先程の衣類店に振り返った後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その感覚は、どうやらあちらのサーヴァントも捉えたらしい。

 海浜公園に踏み込んだセイバーに向けて、挑発するように放たれる気配。

 しかし明らかにセイバーを捉えていながらも、サーヴァントの気配は遠ざかる。

 それに、セイバーは無言のまま応じた。

 場所を選ぶというのなら好きにすれば良い。

 同じように気配を放ちながら、もう一つのサーヴァントの誘いに応じて、悠然と足を進める。

 

 気付けば日の光は完全に落ち、無機質な色が冬木市に溢れ始めた。

 

 海浜公園の東側に隣接する形で広がる、無味乾燥なプレハブ倉庫。

 空の暗雲で翳る月明かりの代わりとなって照らすのは、等間隔に設置された人工の街灯。

 人通りはなく、雨風吹く夜となればなるほど、サーヴァント同士の戦いとなれば打って付けの場所である。

 大型車両の行き来を考慮して幅広に設けられた四車線の道路の中心に、敵のサーヴァントは立ちはだかっていた。

 

 

 

「よくぞ来た」

 

 

 

 堂々と歩を進め、互いの距離が十m程になった時、そのサーヴァントはセイバーに告げる。

 無人の大通りの真ん中に立ちはだかる長身の人影。

 癖のある長い髪をざっくりと後ろに撫でつけた、端正な男。

 

 

 

「今日一日、この街を練り歩いて過ごしたものの、どいつもこいつも穴熊を決め込む腑抜けばかり。

 ……俺の誘いに応じた猛者は、お前だけだ」

 

 

 

 低い朗らかな声でセイバーを讃えながらも、その身から溢れる法外な魔力は、見る者が見れば周辺の大気を蜃気楼のように揺らめかせている程だ。

 魔術師ではない。

 人ならざるサーヴァントの証。

 魔術師では制御出来ないとされた英霊に宿る魔力は、ただそこにあるだけで空間を侵食する。

 

 敵のサーヴァントが携えるは、身の丈を優に上回る長槍と自らの身長と同じ程の短槍。

 風に靡く呪符によって、二つの槍から真名に繋がる特徴的なモノは測れず、滴る雨を弾く程の魔力も封じ込められている。

 両手を使って構えるのが当然の筈の槍を二本同時に携えたサーヴァント——ランサーは、身構える事もなく飄々とセイバーに問う。

 

 

 

「その刃のように鋭く冷たい闘気……セイバーとお見受けしたが、如何に?」

 

 

 

 応じる言葉はない。

 ランサーの問いを黙殺したセイバーは、不可視の剣を構える事で応える。

 そこにはもう、蒼銀の騎士が顕現していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

—154:15:32— 

 

 

 

 それは本当に偶然の事だった。

 未遠川沿いのプレハブ倉庫街から、十km程離れた冬木市新都の外れ。

 大規模開発の一端として建てられたビル群の一つの上に、アサシンは何者かの姿を見つけた。

 

 無論、本来なら見つける事はなかっただろう。

 現在のアサシンの総数は、今後増えないと仮定するなら79体。

 隠密や諜報向きではない他の目的手段の為の人格や、マスターと視覚を共有している個体などを加味すれば、現在冬木市の捜索に当てられるのは70体程。

 一人の個人ではなく、何十という総体として活動出来るアサシンといえど、冬木市全域をカバーするのは流石に厳しい。

 暗殺者として座に刻まれた英霊だとしても、新都と深山町を含めて数百㎢ある土地だ。

 生前ならいざ知らず、一帯に開けた砂漠ではなく、隙間なく乱立された住宅やビル群も拍車を掛ける。

 

 その為、言峰綺礼(マスター)が仕える遠坂時臣からは、特定の巡回ルートを回るように申し付けられている。

 他陣営のマスターが拠点としていそうな場所や、サーヴァント同士が争いそうな人目の少ない場所などだ。

 遠坂邸や間桐邸周辺も上げられるだろう。

 つまりは無駄に監視の目を広くし過ぎるのではなく、異常があった際に見落としがないよう、効率良く狭めた網のような探索網が冬木市に敷かれていた。

 

 ………と、言うのはアサシンが召喚されてから一日程の話だ。

 

 冬木市を覆っていた嵐が、徐々に晴れ始めた頃。

 その日から——急に言峰綺礼(マスター)は方針を変えたのだ。

 曰く、多少の見落としがあっても良いから冬木市全域を捜索しろと。総体のリーダー格である、青い頭髪をした女のアサシンもそれに追従している。

 確かにそれも一つの手ではあるかもしれないが、恐らく悪手だ。

 広範囲に探索網を広げすぎて、逆に大きくなりすぎた網目から獲物を取り逃がすデメリットの方が大きい。

 隙を突く事にあるアサシンが、隙の目を増やしては元も子もない。

 相手は人型のサーヴァントに魔術師。この大き過ぎる包囲網で何を釣り上げようというのか。

 

 つまり………新たな命令であるこの探索網は、他陣営を出し抜く為のものではないのだろう。

 

 こうして冬木市を駆け回っていれば分かる。

 この探査網……これはきっと、あの落雷を調べる為のモノだ。

 冬木市全域に渡って落下する稲妻。その落下地点へと瞬時に急行する為の策。

 あの雷を調べる事に関して、アサシンの総体の中でも意見は多少割れているが、概ね賛成している方が多いだろう。

 彼はやや懐疑的な側だったが、それでも命令であれば忠実に遂行するまでだった。

 

 

 

「………………」

 

 

 

 だからそう。

 それは本当に偶然の事だったのだ。

 如何なる因果か……広がり過ぎた捜索網故に、本来ならあり得ないほど離れた冬木市の外れも外れ。特徴的のないビルの上に、不審な人物を見つけたのは。

 

 

 

「………民間人?」

 

 

 

 現世に疎い身だとしても分かる。

 立ち入り禁止である筈のビジネスビル。

 その屋上に人物がいるのは、普通なら有り得ない。

 しかも今現在、雨と風が吹き荒れる悪天候だ。

 その人物が変哲のないサラリーマンであれば、まだアサシンは見逃したかもしれないが、安全柵もないビルの縁などという危険な場所から眼下の冬木市を覗いているのは——外国人の少女である。

 金髪金瞳。英国のミッションスクールのような、現代的な衣服。歳は十代後半かどうかだろう。

 

 

 

『何やら不審な民間人を見つけた。此方に来られる者はいるか?』

 

『此方、冬木市郊外の森林地帯を捜索している者なり。至急其方へ向かう』

 

 

 

 念話を付近へと広げると、一人のアサシンが念話距離に引っかかった。

 広過ぎる捜索網故に、最悪一人も念話距離に引っかからない可能性もあったので充分だろう。

 総体ではあるが、同一の個体の魂を割いた人格の分裂であるが故に、入手した情報を即座に全ての個体に知覚・伝達出来ないのは仕方ない。

 自らの知覚出来ない知識や情報は、他の個体が【蔵知の司書 C】というスキルを意識的に使用し成功させなくてはならないのだ。

 情報を引き出す事は出来ても、広げるのはリーダー格による総統がなくては難しい。

 自分であり、他人である。そのような根底が彼らにはあった。

 

 

 

「自殺志願者か………?」

 

 

 

 他のアサシンが来るまでの間、地上からその人物を眺めて独り言ちる。

 サーヴァント特有の反応も圧力はなく、何より魔力の反応は皆無。故に魔術師でもない。

 アサシンが見つけた人物——薄い金髪の少女は、何やら携帯電話を取り出し、何処かへ通話をしているようだ。

 

 

 

「……………」

 

 

 

 どうにしろ、不審な人物である事に変わりはない。

 仮に自殺志願者だとしたら止めた方が良いだろう。

 ただでさえ注目が集まりかけている冬木市なのだ。外国人逗留者が自殺したとあれば、報道番組によって新たな注目を世間から集める事になる。

 大した成果にはならないかもしれないが、やらないメリットは特にない。

 

 彼は新たに辿り着いたアサシンと共に、二人は即座にビルの屋上へと壁を伝い登る。

 仮に気配遮断の能力はなくとも、闇に潜む黒い体躯やローブもあって民間人には気付かれないだろう。

 彼ら二人はビルの屋上へと辿り着いた。

 薄い金髪の少女に気付かれる事なく二人は背後を取る。

 仮に自殺志願者の民間人だったとしても、変装をして心を解きほぐすつもりはない。

 気絶させて拘束し、目を覚ました時は監督役を介して暗示をしてもらい、後は適切な医療機関に入れれば良いだけの話だ。

 

 

 

「『此方で……………捉した、……ターは……出来ない』」

 

 

 

 物陰に身を隠し、その不審人物を観察する。

 当の少女は携帯電話を片手に、通話越しの誰かに語り掛けていた。

 だが——おかしい。

 その少女の声は、見た目に反して男性の声だ。

 

 

 

「『場所は冬木……、海浜……の裏手。

 セイバーならば気配を……取るだろう。移動した場合に………、念の為発信機は起動してくれ』」

 

 

 

 物陰の裏でアサシン達は息を呑む。

 今あの少女は、明らかに聖杯戦争関係者でしか口にする事はない、セイバーという単語を口にしたのだ。

 声と見た目の違和感と言い——この人物は明らかに何かがおかしい。

 

 

 

「『あぁ——』」

 

 

 

 今すぐに、あの人物を拘束するべきか——そう悩んでいる時だった。

 謎の少女は、不意に此方へと振り向いて、

 

 

 

「『——すまない。もう切るよ』」

 

 

 

 電話器を懐に仕舞い——此方へと歩いて来た。

 

 

 

「————ッ」

 

 

 

 明らかに、あの謎の少女は此方側を認識している。

 それも、気配遮断を持つアサシンのサーヴァントを。

 攻撃態勢に移らなければ、他のサーヴァントであっても認識されない筈のアサシンを、アレは認識している。

 

 

 

「——止まれ。それ以上近付けば攻撃する」

 

 

 

 行動は早かった。

 短刀を少女の足元に投げ放つと共にアサシン達は物陰より姿を現す。

 少女の足元付近に突き刺さった短刀は警戒と威嚇。不審な動きをすれば容赦しないという意味だ。

 撤退する選択肢はアサシン達にはなかった。

 当然だ。相手はサーヴァントでもなければ魔術師でもない。

 そもそも彼らは情報収集と諜報の為に冬木市を探索していたのだ。

 この不審な人物を放って置くよりも、セイバーと口にしアサシンを認識出来た存在の把握を優先したのは、極めて当たり前の判断だっただろう。

 

 

 

「———————」

 

 

 

 少女は、両手をコートのポケットに入れたままという、危機感など欠片もない酷くラフな姿で直立したままだった。

 鋭利な短刀を握っているアサシン二人を前にしながらも、その体勢は解かれず、表情には何の変化もない。

 僅かに上がった口角。

 作りもののような微笑みが、危機感の決定的欠如を表している。

 

 

 

「初めまして、アサシン」

 

 

 

 彼女は床に刺さった短刀にすら目もくれず、風に語りかけるような爽やかさで口を開いた。

 風に棚引くコートといい、靡く金砂の髪といい、目の前の少女は底無しに不気味だった。

 

 

 

「お前は……何者だ」

 

 

 

 サーヴァントではなく、魔術師ではない。

 総体として別れたアサシン程の圧力もない。

 極めて気薄な存在感。交戦したとしても、このような民間人程の気迫しかない者相手なら、指一本も触れさせず拘束出来る自信がある。

 ——その筈なのに、二人のアサシンはその少女に気圧されていた。

 自らのサーヴァント名を当てられた事すらもが得体の知れない恐怖となり、アサシンはその少女へと誰何する。

 

 

 

「何者かと言われても……あぁうん、そうだな私は」

 

 

 

 薄い金髪の少女は、アサシンの問いに数瞬悩んだ後に答えた。

 吹き荒ぶ嵐の中、人間離れした金色の瞳を瞬かせて。

 

 

 

「世界を救いに来たサーヴァントだよ」

 

 

 

 あぁ——もしもアサシン達が彼女から逃げる判断をしていれば何かは違っただろうか。

 それは、本当に奇跡のような偶然の出会い。

 しかしその奇跡がアサシン達を報いる事だけはない。

 彼らの命運は、その奇跡で尽きた。

 英雄王に次ぐ二回目の交戦で——この聖杯戦争で一番敵にしてはならない存在と対峙した、その報いで。

 

 

 


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