気付けば、昏い世界に居た。
影の中に溶け込んだような感覚だった。
見えるモノは少なく、感じるモノも少ない。
先程までは荒れる空模様が見えていた——それはもう視界に入らない。
先程までは肌身に当たる雨が感じられた——それはもう感触がない。
代わりに鮮明になるのは自身に向かって来る……二つの槍の煌めき。
そして自らが握る剣の感触だけ。
それだけが、瞳を閉じたように鮮明になる。
静かに沈んで行くように。
少しずつ消えて行くように。
ゆっくり泥に浸かるように。
セイバーから、戦うのに不必要な全てが薄れていった。
——"貴方"もこのような感覚だったのですか?
突きと薙ぎ。
自らを挟み込む双槍の術理を、真正面から迎え打つ。
真正面から双槍を弾いた実感と手応えは、不意に浮かんだ感傷の中でも響いた。
雨風の感触は消えている。
槍と剣が打つかり合う音も疾うに消えた。
代わりに明確となっていくのは、敵の輪郭と双槍の煌めき。自らが握る剣の手応え。
戦闘の最中に於いて、自らの感覚と視野が狭窄になるという禁忌の筈のそれを、セイバーは矛盾なく成立させていた。
たとえ、突如遠距離から狙撃されたとしても反射的に対応出来る自信がある。
背後のアイリスフィールを襲う危険すらも把握し動ける自信がある。
それは昂った肉体と精神故の慢心ではなく、手足を当たり前のように動かす事実としてセイバーは捉えていた。
そもそも、セイバーの肉体と精神は一つも昂っていない。
それどころか、より冷えている。
雨風も関係ない。弾け合う魔力の余波も、肌身に突き刺さる闘志も関係ない。
セイバーは何も感じていなかった。
ただセイバーは、昏い世界に居た。
——これが"貴方"の居た世界ですか?
黒い敵の輪郭が動いた。
双槍の一つが、昏い世界で煌めく。
穂先が黄色の短槍。煌めく切先の狙いは頭。
それをセイバーは避けない。
ただその軌道上に、右手を置くだけだ。
しかし、まるで小さな盾の曲面を滑るように槍の切先が拳程ずれる。
それで足りた。槍の一撃はセイバーに当たらない。
通り過ぎた黄色の煌めきを見送る事もない。
槍の一撃を躱したその瞬間には、もうセイバーは攻撃している。
片腕の拳。空を穿つように放つ。
無論、その拳には何も握られていないようでいて、風の刃に隠された聖剣が隠れていた。
下から上へと両断するような一撃が、黒い輪郭を震えさせる。
赤い煌めきと激突し、左手から伝わる聖剣の手応え。
離れ行く赤と黄色の煌めきに向けて、僅かな距離も離さずセイバーは追従する。
正に戦闘機械。死の恐怖、闘争の快楽は疎か、僅かな喜悦も感情の起伏も存在しない。
しかしセイバーの思考は別にあるままだ。
——これが………"貴方"の見ていた世界ですか?
それは胸に清涼を届けるモノではない。
以前のセイバーにとって一騎討ちの決闘とは誉れある戦いであり、名義的には儀式に近かった。
無論、今のセイバーが正々堂々とした一騎討ちに、まだ泥を塗るような事はしていないとはいえ、既にもうセイバーの中では何かが変わっている。
勝利を掴むまで不撓不屈の闘志で何度でも立ち上がる——そのような熱は心の何処にもない。
故にそれは清涼さとは程遠く、昏い闇に身体を委ねているような感覚でしかない。
果ての果てでやっと実感出来た世界は、暗闇のようだった。
もしかするとそれは……彼女が見せた世界でもあったかもしれない。
配下の騎士に。志を同じくした同胞に。
それが彼女の力。彼女が供に共有させたモノ。
自身を沈み込ませ、他者をも引き込んだ——彼女の
昏い世界で全てを照らす事は出来ず、たった一つだけ、何をすれば良いのかを照らす、灯火のような星の光。
昏い、暗い世界だった。
心が凍り、視界が眩み、音が消え、色も消える。
極限の集中。限界の行使。
必要のない全てが機能を停止し、感覚はただ一つだけが鋭利になっていった。
何をすれば良いのか、どのように体を動かせば良いのか、分かる。
これが、理性が溶けて狂っていると言う事なのか。
それをセイバーは、理性を以って否定した。
闘争本能はなく、快感もなく、感動もない。
どうすれば良いか分かるなんて陶酔は全知全能とは程遠く、優越感もない。
理性はあるから。感情もまだあるからだ。
だからそれを明確化するなら、不必要だから止まっただけである。
もしくは、それすらも剣を振るうのに最適化しただけに過ぎないのだろう。
敵の振るう刃に、体が反応するのだ。
短槍でも、双槍でも変わらない。
赤い煌めきも、黄色の煌めきも、全てセイバーの手の平にある。
何をすれば良いのか分かる。
どのように防ぎ、弾き、その隙に剣を振れば良いのか分かる。
機械のような正確さで。人と変わらぬままの判断基準で、セイバーは剣を振り続けた。
何処までも速く、容赦もなく、機械故に鈍る事もなく、自身の限界を見誤る事さえなく。
セイバーはただ、剣を振るう。
何年と握って来た自らの聖剣。その星の輝きも、今はない。
そこにあるのは、彼女の意志だけ。
だから、セイバーは剣を振るう。
彼女が最期に使い、そして束ねられた、彼女の星の息吹を手にして。
だから、セイバーは——彼女の剣を振るう。
災厄とすら称された、黒き竜の剣を。
次第に敵の姿すら、昏い闇に溶けて見えなくなった。
アイリスフィールは、遅れてやって来た肉体の限界に、ようやく呼吸をした。
目の前で繰り広げられる戦いの驚愕に、息を呑んだままで、気付けば呼吸すら忘れていたのだ。
そこまでの注視をせざるを得なかったのは、蒼銀の鎧を身に纏ったセイバーの性能を、直に目撃したからである。
無論、アイリスフィールは決してセイバーを侮っている訳でもなければ、軽んじている訳でもない。
マスターに与えられる透視能力はなくても、セイバーがどれだけ優れた英霊なのかは魔術師の端くれでも分かるだろう。
アイリスフィールは魔術師の端くれではない設計をされているのだから、セイバーのステータスは感覚でありながらほぼ正確に理解している。
それでもきっと、この光景を前にして、アイリスフィールはセイバーの力量を見誤っていたのかもしれない。
心の何処で切嗣に似てると、だから戦いの場になった時、油断も隙もなく敵を追い詰めるような戦いだとそう考えてたのかもしれない。
もしくは………今日見て来たセイバーの穏やかな佇まいと、温かな微笑みに引き摺られたか。
セイバーは、切嗣と同じように人らしい戦い方をするのだとアイリスフィールは考えていた。
セイバーの振り落とした剣で——地面に極大のクレーターが出来るまでは。
初手はセイバーからだった。
剣技の基本である、何の変転もない、上段構えからの袈裟斬り。
別段、セイバーの行いは何も特別ではなかった。
踏み締めた脚がコンクリートの路面を沈め、振り落とした剣の衝撃波が、周囲の倉庫とコンテナを不恰好に歪めた事以外は。
刹那遅れてやって来た爆音がアイリスフィールに届くよりも早く見えた光景——受け身を取りながらも衝撃波で宙に投げ出されたランサーに向けて、叩き落とすような斬撃を放ったセイバーの姿が、アイリスフィールが捕捉する事の出来た彼らの最後の姿である。
今はもう、ランサーとセイバーが剣と槍を鍔迫り合わせているだけで出来る崩壊の余波を目の当たりにする事しか出来ない。
風圧で周囲の街灯が割れ、コンクリートの地面が砂利同然に砕け散り、周囲のコンテナのトタン材が、アルミホイルの一欠のように異常な形で歪んで吹き飛んでいく。
取り分け激しいのは、やはり最初にセイバーが振り下ろした剣の一撃だろう。
あの一撃で空に舞い上げられたランサーは、きっとあの瞬間、肌身を凍り付かせたに違いない。
大型車両すら容易く収まる程に抉れた地面と、円を描く盛り上がった縁。
セイバーのたった一挙手一投足でこれだ。
これを近代兵器で行おうとしたら、どれだけの火薬が必要なのかは分からない。
抉れ沈んだ地面から蜘蛛の巣状に広がるヒビと、不恰好に圧縮された周囲のコンテナがその一撃の破壊力を物語っている。
ただ力だけが優れているだけというのならバーサーカーと変わらない。
アイリスフィールから見ても、サーヴァントとしてのステータスはセイバーが一つ上回るとはいえ、ランサーと急激な差があるとは思えなかった。
だがセイバーは、間違いなくランサーを圧倒している。
交わし合う剣と槍、超高速の剣戟はもうアイリスフィールには分からない。
分かるのは、既に過ぎ去った残像と刃の軌跡。そして力の奔流だけ。
だが、それでアイリスフィールには足りた。
赤と黄の軌跡はセイバーの中心を捉える事なく、しかしセイバーの剣はランサーの中心を抉り、揺らし、吹き荒れる暴風のような力の奔流は、セイバーの聖剣から溢れ出る。
セイバーの剣は、例えるなら城を突き崩し大地を揺らす破砕縋。
その一撃を受けたランサーの身体は否応なく揺れ、その隙がセイバーの次なる一撃に繋がる。
初手を奪われた瞬間に、セイバーとランサーの攻守は完全に決まったのだろう。
あれはもう、嵐によって荒れ狂う大海と、それを凌ぐ船頭と変わらなかった。
セイバーとランサーの交戦より吹き荒れ始めた雨風すら、彼らの戦いの熱量を冷やす事なんて出来ない。
あれがセイバーの実力。
ステータスだけでは測れない、伝説に名高きあの騎士王の本気。
赤き竜の化身と言われた、常勝無敗の聖剣使い。
収まる事の知らない衝撃波に驚愕と畏怖の念を抱きながら、アイリスフィールは二人の戦いを何とか注視していた。
そしてその当事者であるランサーは、よりセイバーの猛攻に戦慄する勢いだった。
長短二本の槍を片手武器同然の速さと柔軟さで駆使するランサーに、ただの一刀で当然の如く太刀打ちする——どころか圧倒して来るセイバー。
ランサーも、終始防戦に徹するしかない現状と、受け止めた腕は疎か胴体に響くセイバーの一撃一撃に目を見張ってはいるが、それとは全く別種の畏怖をセイバーに抱きつつあった。
"まるで……何もない暗闇に向けて槍を振っているようだ"
アイリスフィールが抱き、ランサーもまたその膂力を味わっているセイバーの猛攻。
唸る暴風、脈動する活火山を想起してしまうセイバーの魔力の熱量には、全く不釣り合いな印象だった。
放った槍も、攻勢を打破する一撃をも容易く対処されてしまったが故の印象とも明確に印象付け辛い、独特の感想。
ランサーは単に、セイバーの猛攻ではなく、危うさすら伴う防御に驚愕している。
当然の話だが、防戦一方とはいえランサーもまたセイバーへと攻撃を繰り出し、防戦からの攻めに転じているのだ。
だが、それが一度足りとも通った事はない。
セイバーは防御と攻撃を、常に同時に行なっている。
何より防ぎ方が度肝を抜いているのだ。
打ち据えた剣や分厚い鍔、足捌きで躱すならまだしも——このセイバーは無手の片腕で防いでいる。
まるで拳闘家が軌道を逸らし、受け流すが如く。
籠手をしているにしても、それは無茶が過ぎる方法だった。
そこに、ランサーは唯ならぬ感覚を抱かざるを得ない。
絶大な技量故の戦法ではなく、まるで防御を最低限にして、攻勢に全てを割り振ったような危うさ。
此方が攻勢に回ろうとしたその瞬間すらも自らの刃を通し続ける、凄まじい執念を感じさせる剣戟。
防御は片腕で、常にもう片方の手で剣を向ける。
ランサーが刃を執らなくては、大地を穿つ渾身の両手剣戟が繰り出されるのだ。
その鋭い刃を警戒しなくてはならなくなった時点で、攻守は決定したのだろう。
一歩間違えればそのまま腕がなくなり攻勢が逆転するような戦い方を、尋常ではない集中力だけで成立させているセイバーに、ランサーは驚嘆の念を禁じ得なかった。
"まるで二刀流………いや、両手に武器を握る人物との戦い方を心得ているのか? だとしてもこれは…………"
二刀流だったが、今は一刀しか持ち得てないが故の戦い方。
両手に武器を握る人物との戦いを熟練した者。
そのどれでもであり、しかし違うような危うさがセイバーにはあった。
ただ、その危うさをランサーが突けた事はない。
終始セイバーに猛攻を許している理由がこれである。ランサーは、セイバーの執念を振り切れない。
"本当にそうか?"
ふと、セイバーと目が合う。
翡翠の瞳。温かな自然の色。
ただその瞳は、何処まで冷たく、セイバーの執念を表すような熱はない。
ランサーは、幾度かセイバーと視線を合わせていながら、しかしセイバーはランサーを見ていない感覚がした。
それは何もない暗闇に瞳を向けたようなモノと似ている。
ランサーではなく、セイバーが。
何も見ていない暗闇。
揺れない、死人のような瞳。
ランサーの変幻自在な槍捌きを、怯む気配は疎か損傷すら度外視で防ぎ、攻勢に当てるセイバー。
竜のような魔力を溢れさせながら、その端正な美貌はひたすらに無感動無機質。
高揚も、闘志も感じられない。
だからそう、それはまるで——
"——何もない暗闇に向けて槍を振っているようだ"
首を掠めた不可視の刃と、大気を穿つ魔力の余波に身を竦めながら、ランサーはセイバーを迎え打つ。
血の滾りとは裏腹の畏怖も抱きながら、この聖杯戦争いきなり最大の死闘を予感したランサーは、身を震わせていた。
「ぐッ………!」
それは、ようやくランサーが打破した膠着状態であった。
が、苦悶の声を漏らしたのはランサーだ。
雨霰のように降り注ぐ砲弾の如きセイバーの剣の間合いから、いっそ清々しい程、逆にランサーが退いたのである。
無論、それを容易く許す筈もないセイバーの横薙ぎがランサーを捉えた。
長槍で受け止めたとしても響く剣戟の重さに堪えながらも、後ろに飛んだランサーは更に吹き飛ぶ。
しかし、疲労はあれど大きな傷は何処にもない。
これからの戦況を塗り替えるよう決定打は、互いにないままである。
交戦してから初めて、ランサーとセイバーは距離を取った状態で対峙する事となった。
「………まさかこれ程とは思わなんだぞ、セイバー。
性別がどうこう言う訳ではないが、女でありながらここまで剣を振振るう者は初めてだ」
ランサーが口を開く中、セイバーは横薙ぎに振り切った剣の残心をゆっくりと解く。
相も変わらず、セイバーは全てが無関心と言わんばかりの面持ち。
ランサーの言葉に応える事もなく、セイバーは再び剣を掲げその切先をランサーの霊核に向ける。
それ、ランサーとセイバーが交戦する直前の構え。
距離も構えも、再び二人は同じ形を取る事になった。
しかしセイバーに疲弊の色が無いのに対し、ランサーはいささか疲弊と冷や汗が強いという明確な違いが、この激闘の趨勢を物語っている。
「本当に……無口な奴だなセイバー。
名乗りのない戦いならば、口の開くのも億劫という事か?」
「語る言の葉などない」
その時になって、ようやくセイバーが口を開く。
そしてそれが、初めてランサーが聞いたセイバーの声だった。
冷たく友好さの欠片もない声だが、見た目通り少女の声色ではあるらしい。
鉄面皮の表情は、老兵も斯くやなんて域だが。
「ようやく口を開いたと思えば拒絶か……そこまで嫌悪される謂れは、恐らくないと思うのだが」
恐らくと言葉を濁したのは、ランサーの頬には魅力の黒子が刻まれているからである。
生前ならいざ知らず、時空を超越して呼び出される聖杯戦争の都合上、黒子の魅力を容易く弾く女性の英霊は多いだろう。
それが女騎士ともなれば、その非礼に静かな激昂を抱くのもあり得る話かも知れない。
お前はセイバーか? という問いを投げかけた瞬間、無言で鎧を纏い抜剣し、そのまま凄まじい敵意を向けて来たセイバーの態度は空恐ろしい勢いだった。
無論、悪意の混じり気ない、ひたすらに純粋且つ透明な敵意。
身体が強張るよりも早くランサーが構れば、次にはもうセイバーが切り掛かって来ている。
聖杯戦争の都合上、名乗りを交わす事がままならないとはいえ、セイバーのは言葉を交わすのすら不必要と言わんばかりだ。
小手調べなどいらず、ここで全力を出して倒すと公言しているに等しい剣戟の数々が、ランサーには少々恐ろしく見える。
「何かが気に障ったというのなら謝罪しよう。
尋常ならざる実力の騎士と死合っているのに、それが怒りに塗れているのは俺としても惜しい」
「……………」
その時、硬く閉ざしていたばかりだったセイバーの表情が僅かに鈍る。
眉を顰めて、ランサーの姿を注視したとでも言うべきか。
ようやくセイバーが此方の姿を認識したようにランサーは感じた。
「全く以って関係はない。私はお前に如何なる感情も抱いていない。
ただしランサー、お前はここで倒れろ。私は弛まず明かさず、お前を斬る」
「ほう………まさかとは思ってはいたが、本当に冷たい者だったか。
見た目は騎士のようだが、本当に貴様騎士か?」
「そんな事は関係ないな。
私が騎士であろうと無かろうと、そしてお前が騎士であろうと無かろうとも私が変わる事はない。故に私がお前と語り合うなど万に一つもあり得ない」
それはランサーの尋常なる決闘を否定するような物言いだった。
しかも、自らが騎士であると半ば認めながらそれを屑同然に扱うような言い方だ。
感情なく剣を向けるセイバーは、不意打ち気味に交戦して来たにも等しい事を考えれば、セイバーの在り方はランサーにとって余り好ましいモノではない。
「………そうか。それは残念だ。
此度の聖杯戦争、初戦にして最大の相手と出会ったと思ったのだがな」
「血の滾りと決闘の名誉が欲しいのならば誰にも仕えず遊んでいろ。
私は自身のマスターの為、他六騎全てを叩っ斬る。貴様一人との戯れ合いに興じるくらいならば、如何なる感情も栄誉も捨てよう。
そのような事、私にとって全て二の次以下だ」
「……………」
友好的は疎か、セイバーはもはや敵対的なほど容赦ない言葉を吐く。
セイバーの宣言は変わらず冷たく、ランサーに歩みよる気は皆無である事は疎か、近付いて来たランサーを拒絶するような域だっただろう。
だが、セイバーのその言葉に不意を突かれたが如く、静かな憤りを帯びていた筈のランサーは小さく目を開く。
「自らの主以外どうでも良い、か………いっそそこまで来れば清々しい」
どうやらセイバーにとって、ランサーとの決闘は聖杯を掴み取るまでに踏破しなくてはならない、当たり前の通過点の一つでしかないらしい。
自身以外の六騎は倒す。
故に倒す相手との相互理解など不要。自らの名誉も要らないし、戦いへの陶酔も高揚もない。それは全て自らの主に捧げるべきだから。
名乗りもないこの戦い。元より自らの栄誉を競う戦いではなかったか。
「——すまなかったセイバー。
その信念を疑い、騎士である事を問い質した事を詫びよう」
「詫事を受け取る気もない。黙って構えろ槍使い」
「厳しいな………」
変わらないセイバーの冷たさと、より刺すように増す敵意にランサーは苦笑いをする。
自らが奉ずるものとは多少の違いはあるが、セイバーの宣言と信念もまた一つの騎士道の在り方であると認めたランサーは——同じく凄烈な敵意をセイバーに向ける。
「なるほど、確かにそうだ。
貴様ほど激しくはなれないが………——俺も無駄な言葉は遠慮しよう。今は僅かな刹那すら惜しい」
当たり前のように、セイバーも構えを深くした。
言葉は無い。元よりセイバーは口を開くつもりもなかったのだから当然か。
ランサーの清涼な宣言すら、何の反応も見せないセイバーの様は、傍から見ても無機質極まるだろう。
息の詰まる空間がセイバーとランサーの間に生成される。
その二人に声を掛けるのすら憚れてしまう程の圧が、そこには形作られていた。
『——ランサー。宝具の開帳を許可する』
しかし、何処からともなく響く声。
知らずかその冷淡な声には、緊張とも焦りとも取れる硬さがあった。
『そこのセイバーは貴様を上回るだろう。
全力で事に当たれ、ランサー』
「——了解した、我が主よ」
サーヴァントとして、セイバーの方が上であるという自らのマスターの言い分にも、ランサーは何ら反論もなく、機嫌を損ねない。
むしろランサーは、名誉を挽回する機会を得たとばかりに、嬉々としてマスターに応えた。
「…………………」
セイバーの眼前に、解かれていく赤槍の呪布。
躊躇いもなく足元に置き捨てられる短槍。
露わになった赤い長槍から溢れ出る蜃気楼のように立ち昇る魔力が、正に宝具の代物である事を証明している。
今までは何の変哲もない槍の一つとして打ち合って来たが、呪符による封印が無くなった今、その宝具の真価を多大に発揮していくだろう。
先程のセイバーの言葉に応えているのか、ランサーは言葉なく、赤い長槍を構えてじわじわと間合いを測り、距離を詰めていく。
ただ、セイバーの一方的な戦いにランサーも忸怩足る思いはあったのだろう。
先程のようには行くとは思わない事だなと、ランサーの揺るぎない瞳と不吉な笑みが雄弁に表していた。
警戒するセイバーは表情を変えずに剣を低く構え、ランサーを迎え打つ。
"魅惑の泣きぼくろ………赤い長槍。穂先が黄色の短槍——魔剣は、なし"
その裏で何処までも冷徹に、無感動に。
この男の真名に、もう見当を付けながら。
「………………」
彼女は天を仰いでいた。
粗雑に腰を下ろして片膝を突き、背中はビルの屋上の縁に預けている。
暴風雨に近い冬木の室外で、瞬きすらせず天を見上げ続けているのはかなり異常だろう。
だが彼女は、何故か降り落ちる雨には一切濡れてない。
故に彼女は極めて自然体であり、それ故に疑いがない程不自然だった。
彼女のすぐ側にある、二つの人型だったモノから流れる夥しい血は、雨に流されているのだから。
一つは、上半身から上が完全に消えた、恐らく人型だったと思われるもの。
もう一つ、四肢が消失した、恐らく人型だったと思われるもの。
前者は完全に死んだが、後者はまだ生きているかもしれない。
彼ら——アサシン達は仮にもサーヴァントだ。その傷は魔力によって治り、頭と心臓にある霊核があるならまだ存命出来る。
無論、人智の範囲内の話だ。
四肢から流れ続ける血は雨によって流され、そして最終的に消える。
彼らは現世に受肉した存在ではないのだから、その血すらサーヴァントを構成するエーテルで再現されたものでしかないが、それでもその出血量は、明らかに致死量だ。
「……………はぁ」
何を見ているか分からないような目で空を見上げ続けていた彼女が、人形のように立ち上がる。
雨に濡れていない、その一点すら除けば、彼女は周囲にある二つの人型だったモノと遜色ない程に存在感がなかった。
存在感がないというのは、影が薄いという意味ではない。
強い光を放つ星とは違い、逆に彼女は影そのもの。一瞬目を離せばそのまま闇へと消えていきそうな程にナニかが希薄なのだ。
例えるなら、まるで死体のようだった。
「……見届ける必要もないな」
そして、彼女はビルの屋上から消えていく。
つまらなさそうに。或いは興味が無さそうに。
或いは——知らずに溜まる嫌悪から目を逸らすように。
彼女は一度も、剣の英霊と槍の英霊が争う海浜公園に、自分の目は向けなかった。
ただ、彼女の指先から一筋の稲妻が天へと還るように登る。
小さな糸のような稲妻。只人ですら害する事の出来ない、僅かな一糸。
その稲妻は——海浜公園にて交戦するセイバーに、不可視の"静電気"として落ちていった。
ランサーとセイバーの死合いは今、ランサーが押している——ように見えた。
巻いていた呪符を解き、赤い長槍一つで猛烈な刺突の殴打を繰り出すランサー。
両手武器の槍を両手に持つという、変幻自在にして見切り難き技から一変し、苛烈で無駄のない攻めがセイバーを襲う。
それだけならば心得のある槍術だ。充分に応じようはあっただろう。
だが当初の戦いとは形勢が逆点したように、防戦一方になっているのはセイバーだ。
赤い長槍と不可視の剣が鍔迫り合うたびに荒れる風。溢れる突風。
ランサーの槍から風が放出されている訳ではない。
光を屈折するほどに収束し、圧縮した風の結界が、ランサーの槍によって解けているのだ。
刃渡りを把握し、間合いに惑わされる事がなくなったランサーはより槍術の激しさを増していく。
刹那、刹那に破れ、結界内の大気が溢れ出る瞬間、明滅するように姿を現す黄金の剣は、まるでコマ送りを繰り返す動画のようだ。
"…………
傍目から見て、今正にランサーが自らの宝具の真髄を発揮して、セイバーを押しているように見える。
それは確かに事実ではあるが、セイバーの心内は極めて冷静で、そして周到だった。
一つ一つ事実を確認し、一歩一歩詰めていくようにランサーの姿と宝具を理解していく。
正確には——思い出していく。
それはとある日の幻想。これでなんとかなると思い込んでいた、愚かな日の事。大木の下の花園で交わされた、彼女の言葉。
"■■■■■■の二本の槍は、魔を断つ赤槍と呪いの短槍———"
その瞬間、防戦一方に甘んじていたセイバーが一歩踏み出した。
何の予備動作もない、突然の機動。魔力放出によって生み出した、慣性を無視した急旋回はランサーの不意を突いた。
後出し気味でありながら、赤い槍の煌めきに先じてセイバーは対応する。ランサーの槍の一刺しすら、遅く感じられる。
剣の間合いを把握したランサーの槍は、苛烈だが変幻自在ではない。
セイバーは一点にて迫る槍の軌道上に——右手を置く。
それで足りるだろう。
槍の一撃はセイバーに当たらず、小さな盾の曲面を滑るように槍の切先が拳程ずれて、後ろへと滑る。
その隙に、もう片手に握った聖剣の振り上げがランサーを両断し——
「なんと………」
真上に弾き抜かれた赤い長槍の痺れと、地を蹴って飛び上がり、見事後方へと着地したセイバーの姿にランサーは感嘆の息を漏らす。
セイバーの尋常ならざる防御を逆手に取り、今——ランサーはセイバーの右手を切り落とすつもりで槍を放ったのだ。
しかし痛みに先じた直感によるモノか、セイバーの手の甲を浅く裂いた程度に留まる。
身を翻しながら後方に着地したセイバーは、既にもう剣の切先を此方に向けていた。
追撃出来る隙など微塵もありはしない。
「…………」
左手一本で剣の切先をランサーの首元に向けながら、セイバーは無言で自らの右手を見る。
本来なら、赤い長槍の一撃は今まで通り右手の籠手で充分逸らせた筈だ。
だが赤い槍は籠手を擦り抜け、セイバーの肉体だけを傷付けた。鎧籠手を貫いた訳でもなく、擦り抜けた。籠手には傷一つない。
セイバーはランサーの槍が如何な効果を持って自らの右手を傷付けたのを視認し切ってから、振り上げの一撃で赤い長槍を弾き飛ばしている。
直感でも何でもない。
ただ、元からそうするつもりだっただけだ。
魅力の呪いを放つ黒子と魔を断つ赤槍——もう確定で良いだろう。
この男の真名は知れた。要らぬ戦いを演出する必要は、もうない。
「セイバー!」
極めて無感動に、自身の損傷から目の前の槍使いの真名を把握し、血の滴る拳を握り締めたセイバーにかけられる清澄な叫び。
気付けば痛みが引き、流れる血が止まる。
「感謝します——アイリスフィール。軽傷です。問題ありません」
右手の甲の傷は、戦闘継続には一切支障のないものだった。
そのようにしたからだ。痛みによる集中力の阻害は、降り頻る雨を無視してる時点で関係ない。
だがセイバーは、素直にアイリスフィールに感謝の意を述べる。
「右手を完全に封じるつもりだったのだが………全く」
ランサーの頬には冷や汗が流れていた。
ただ、残念がるように呟きながらもその闘志は微塵も揺らいでいない。
再び赤い長槍を構えるランサー。
今も尚、セイバーにはただの一つも有効打を与えられず、その全てを難なく対応されているが、次はその首を取るという気迫が滲んでいる。
生前、良く見て来た騎士らしい騎士だ。
だからこそ、今のセイバーには何の感慨も湧かない。
"………ランサーのマスターがまだ死んでいない"
故に、その熱量をセイバーは何処までも共有出来ない。
切嗣は間違いなくこの場にいるだろう。
ならば確実にランサーのマスターを殺害し、そしてランサーは既に消滅している筈だ。
それに久宇舞弥という、切嗣のサポートをする味方がいる以上、切嗣がしくじるとも思えない。仮にしくじったとしても、マスターの危機は令呪を通してセイバーに伝わる。
単純にこの場にいないという可能性は既に捨てている。
ならば切嗣は今、ランサーのマスターを暗殺出来ない状況にいるのか。
それともランサーのマスターは、切嗣の狙撃を防ぎ得る程の術者か。
あるとするなら前者で、後者は考えにくい。先程響いたランサーのマスターの声からするに、この倉庫街の何処かにはいるだろう。
だとするなら、この死合いを覗き見ている者が他に存在し、自らの存在を秘匿出来る状況にはないと切嗣が判断している場合か——
"なら………場としては適している。ここでやるか"
他に監視の目があるなら丁度良い。
無くても別に構わない。セイバー……延いてはセイバー陣営には何のデメリットもない。
それに元から、切嗣はセイバーに全てを委ねていた。
ソレを行うタイミングも、時間も。
光が濃ければ濃い程、影が増す。
同じように、セイバーが注目を受ければ受ける程、切嗣がその隙を狙い易くなる。
だからセイバーは——無言で宝具を抜き放った。
「…………———それは」
不可視だった筈の刀身が姿を顕していく。
風の結界から解放されていく黄金の刀身。
だがそれは、巻いた呪符を剥がしたランサーの槍以上の圧力を放っていた。
周囲の大気が歪み、蜃気楼のように溢れるその熱量を、ランサーは見間違えない。
破魔の槍で削っただけの刹那ではなく、その刀身全ての輝きを見届ける事が叶うなら、その刃の真名を見間違える訳もない。
英霊の座より招かれた者なら——
一瞬の刹那、僅かな硬直。
応じたつもりか、前触れもなく宝具を解放したセイバーの姿と、何よりその剣の輝きに虚を突かれたランサーだったが、軽やかな身のこなしと持ち前の敏捷で、セイバーの喉元を食い破るべく跳躍する。
間に合うかは分からない。
ただ間に合わねば、自らの死に直結するとランサーは理解した。
それ程に——その聖剣の極光は群を抜いている。
掲げられる剣。
周囲の大気を吹き飛ばし、砂利と化したコンクリートを巻き上げる風圧。
しかし聖剣の刃の切先が向けられたのは、天ではなく——ランサーの胴体。
「——
「ぐっ——!」
風から解放されていく黄金の剣が、その瞬間完璧に姿を顕す。
意表を突く形で放った大気の噴流は、突進してくるランサーをその場に縫い付けた。
半ば解けていた風であろうと、その風圧は正に壁が突撃して来たに等しい。
砂利同然になっているアスファルトの上では耐え切る事も叶わず、ランサーは風に囚われ吹き飛ばされた。
「
そして、その隙をセイバーが見逃す訳もない。
渾身の力を両手に込め、天高く聖剣を振り上げる。
巻き上げられる周囲の砂利と共に光り輝く黄金の刀身。
その光の息吹は星の燐光すらを超越し、もはや近付き過ぎた太陽の如く白熱する。
彼の聖剣の極光は、大軍を焼き、城塞すら消滅させた。
人に向けるには余りにも壊滅的にすぎる竜の咆哮が、今ランサーへと解き放たれようとする。
その時——
『
遠く彼方から聞こえる猛りと、轟く雷鳴の響きをセイバーは感じ取る。
今、空の上で荒れる嵐の稲妻とは違う雷の響き。その魔力の猛りは轟々足る紫電を撒き散らし、仮に食らえばセイバーでさえも存命が危ないと確信出来るに足るモノ。
それを、この土壇場でセイバーは直感した。
「…………ッ———」
肉体を走った"静電気"の如き直感を、セイバーは疑わない。
視線と意識はランサーから外れ、身を退くような足捌きで体を捻る。
狙いは後ろ。対象は上空。
体を捻ると同時に下段に構えた聖剣を、セイバーは上空に向け、渾身の力で振り抜いた。
「———
その光の眩さに視野を奪われ、焼かれ、次に襲って来た衝撃の大きさに、ウェイバーは暫しの間気絶していたのかも知れない。
もしくは脳震盪を起こし、何も考えられなくなっていたか。
「ぅ………ぅう、な、何が……?」
どうやら体は無事らしいし、口の中が血の味しかしないなんて一大事には陥っていないようだ。
揺れる視界と耳鳴りからなる吐き気を堪えながら、ウェイバーは立ち上がる。
覚えているのは、デタラメな言い分で二騎のサーヴァントが交戦する真っ只中に突撃していくライダーと、まるで未来予知の如く此方に標的を変えたセイバーの眼光と———
「………な、ラ……ライ——」
全てを思い出して、自らのサーヴァントの名を呼ぼうとして絶句した。
先程まで乗っていた
更に酷いのが、
ライダーは半壊し不時着した
ライダー本人に傷はないように見えるが、ライダーの実力と初日に味わった宝具の凄まじさが、いとも容易く壊された衝撃で、ウェイバーは何も安心出来ない。
「——ラ、ライダーっ! お、オマエ大丈夫なのか……!?」
「ぉ………うむ……坊主は無事か」
あの瞬間、直前で手綱を捻り、
どう考えても直撃コースだった進路を、ライダーはあの刹那で曲げたらしい。
どうやらライダー自身にも傷はないようだが………その損失はこれからの戦いに尾を引く程に重いだろう。
安堵と困惑と、まだ上手く平静になれない心のせいで、ウェイバーはその場で唖然としたまま立ち竦んでしまう。
ただ、
「坊主……すまん」
「え?」
「しくじってしまった」
豪放の化身のようなライダーが、素直に謝罪をした事にウェイバーは驚く。
それは、動揺していたウェイバーを一瞬で引き戻す程だった。何せ、ライダーはまだ一度もウェイバーの意を汲んだり、瀟洒な発言などしていない。
ウェイバーが責め立てている訳でもないこの状況でこの態度は、どう考えてもあり得ない。
時間が経てば非難していたかもしれないが、とにかくウェイバーは、ライダーが身を竦めて自らに非があると認めたのを受け入れられる状態ではなかった。
特に——続けられるライダーの緊張した言葉を。
「しくじってはならん所でな」
不意に、ライダーが視線を切って横を向く。
「あ………——」
そして同じくウェイバーも、ライダーの視線に合わせて横を向く。
そこにいるのは——
「そうか——ライダーか」
——黄金の剣を携えた、少女騎士の後ろ姿。
振り抜き、残滓を終えた黄金の剣は白熱している。
刃から流れる魔力の烈風に煽られたウェイバーは、炎が肌を駆け抜けたような錯覚を感じながら、鳥肌がたった。
真名解放を終えた後だというのに、周囲を荒らす魔力の圧力。
周辺を焼け付かせているような蒸発音を聖剣から発させながら、セイバーは振り向く。
「私とランサーの戦いの最中、横槍を入れて一網打尽にしたかったのか?」
冷たい声だった。
極めて無感動な声色。
それは前夜、遠坂邸を監視していた時に聞いたアーチャーの声色にも等しい、人を人とも思っていない声。
「まぁ……私はどちらでも構わない」
肌身が粟立つのを抑えられなかったウェイバーに、非はないだろう。
マスターであるウェイバーには分かった。ライダーすら上回る圧倒的なステータス。幸運を除く全てのステータスがAという化け物。
そして何より——その手に握る黄金の剣。先程、セイバーが告げたエクスカリバーという真名。
ランサーと交戦しライダーに向けて宝具を解放しながら、消耗を感じさせない圧力と、黄金の剣を軽やかに扱う"少女"騎士など、世界にたった一人しかいないのだから。
「ライダー。お前はここで消えるといい」
星の聖剣を携えて。
一歩一歩、セイバーは近付いて来た。