黒い鎧と、黒い竜の兜の騎士
どうやらアサシンは生きているらしい。
倉庫街での初戦から時間が経過した今、セイバーは全ての情報を切嗣と共有し終えた。
平静を装いながら念話で情報交換が行ったが、セイバーの隣にはアイリスフィールがおり、また切嗣の隣には久宇舞弥がいる。
念話は令呪による繋がりほど強固ではなく、一定以上近付かなくてはならない。
そこが携帯電話による通話との数少ないデメリットである。
またアサシンのマスターは、切嗣が最も警戒しているあの言峰綺礼。
その為、アサシンの監視が常にあるものとして、そして外部の者に協力者がいると悟られないよう、セイバーと切嗣は互いに歩き、極めて手短に情報交換は行われた。
言峰綺礼とアサシン。
遠坂時臣とアーチャー。
二人の繋がりと、監督役である教会による関わり。
あの倉庫街の戦いを、アサシンはクレーンの高台から監視していた事。
それ故に、切嗣はランサーのマスターを殺害出来なかった事。
また、ライダーのマスターの経歴と名前。
ランサーのマスターの経歴と名前。
二つの陣営の詳細をセイバーは切嗣から教わり、逆にセイバーはランサーの真名を切嗣に伝えた。
初戦から他陣営を排除する事こそは叶わなかったが、順調に物事は進められている。
宝具で、高い機動力を持ち得る潜在的脅威が高いライダーに損傷を与えられたのは副次的産物だ。そこ自体は、別にセイバーと切嗣の目的ではない。
本命は別。
聖剣の真名から、周囲は誰しもがセイバーの正体を——誤認したに違いない。
それで良い。
彼女に対する対抗手段は、そのままほぼ全てがセイバーに対する対抗手段となり得るが、問題はそこではない。
誰しもが、セイバーの存在を無視出来なくなった。
セイバーに対する強力な注視は、そのまま切嗣に背中を晒しているのと同じだ。
セイバーという陽動を作り出し、背後に忍び寄る暗殺者。
決して無視出来ない囮がセイバーであると、誰が分かるだろう。
無論、本当に無視するのならそれで良い。十三番目の騎士でなくとも、竜の化身である騎士王の進軍を無視出来るのならだが。
ただし、一つ問題が出て来る。
セイバー陣営の戦法と、同じ領域にいる者。
暗殺を得意とし、他陣営から注目されていない存在。
つまり………言峰綺礼が操る、アサシン。
『こちら構いません。タイミングは其方側で』
場所は——冬木ハイアット。
ランサー陣営が魔術工房を構えていると切嗣から聞き及んだ場所。
現在、冬木最大のホテル前に、セイバーは居た。
今日ここで、ランサー陣営を潰すつもりで。
『こっちも準備完了だ。
もう一度擦り合わせよう。聖剣の調子は?』
『問題ありません。出力は中規模まで落とせます。
再び宝具を解放する訳ですが、魔力の残量は?」
『問題ない。完璧なスタートを切れるのなら、少しくらい無茶はしよう。
感覚と調整は全てセイバーに任せる』
『分かりました。タイミングはキリツグに合わせます。
ホテル突入後——真上に宝具を放ち、最上階まで全て吹き飛ばします』
セイバー達が一番警戒している相手はアーチャーだが、懸念している相手はアサシンだ。
恐らくこの聖杯戦争最大の敵は、あの黄金のサーヴァント。
単独行動のスキルを持っているだろう事を考えれば、何よりも早くアーチャーのマスターを殺害したいところだが、そこで懸念されるのがアサシンだ。
アサシンによる監視がある場では、切嗣は十全に力を発揮出来ない。
更にアーチャーのマスターは、常に遠坂邸に陣取っている。
切嗣でも簡単には手出しが出来ない。
また、遠坂時臣と協力関係にあるだろうアサシンのマスター、言峰綺礼も教会の奥に鎮座し、手が出せない。
——基本的には。
"言峰綺礼は……彼女に執着している?"
然程有名ではないらしいが、どうやら言峰綺礼は
アサシンを使ってあの現場を見ていたのなら、間違いなくセイバーをサー・ルークだと誤認するだろう。
また、言峰綺礼が早朝から夕暮れにかけて、嵐の冬木市を渡り歩いているのは舞弥から折り込み済みである。
間違いなく、セイバーはアサシンによる監視を受けている。
ならば——今からする事も言峰綺礼には把握されるだろう。そうやって多大な注目を浴び、言峰綺礼を表に引き摺り出す。
セイバーとして召喚された十三番目の騎士は、他サーヴァントとマスターを殺しにかかるのに何の戸惑いもなく、容赦もないと、そう意識付けるのだ。
出ないならそれでも構わない。ランサー陣営は潰せる。
それに、遠坂邸にも劣らない筈の拠点に籠っていたケイネスが、為す術なく死んだという情報は、同じく拠点に篭る遠坂時臣を震え上がらせるだろう。
遠坂に圧力をかけて追い詰められるならよし。
言峰綺礼と遠坂時臣の足並みを崩せるならでもよし。
無論、聖杯戦争に関する秘匿は行っている。
海浜公園の事態を隠匿した教会側の流れに先じて、過激派グループがビル爆破を行うといった声明は既にバラ撒いておいた。
後数時間もすれば、ハイアットホテル周辺はマスコミや国家機関で溢れかえるだろう。
それに、事実その通りになる。
ハイアットホテル各所に切嗣が設置した、C4プラスチック爆弾。
実際に起爆信管を起動させて爆発させるのだから、如何に国家機関が調べ上げようと、爆破解体によってビルが崩壊したようにしか捉えられまい。
宝具使用による光量は、爆破による粉塵が軽減させ、傍目から見れば起爆による異常光量にしか民間人は捉えられないだろう。
セイバーが宝具を使用してビルを消滅させたのだという真実は、聖杯戦争に関わる者達以外、知らないまま………
魔術世界きっての天才魔術師でも、フィオナ騎士団最強の騎士でも、聖剣の極光は防げない。
ケイネスとランサーは、ここで死ぬ。
「ねぇセイバー……本当に、やるの………?」
——ハイアットホテルの従業員を含む、総勢100名近い宿泊客と共に。
「………………」
「聖杯戦争と関係のない民間人は………誰も避難してないのよね?」
切嗣と念話によるやり取りをしていたセイバーは、傍らのアイリスフィールの声に、静かに閉目した。
それはアイリスフィールの言葉を静かに封殺した事の表れであり、とどのつまり、民間人の避難はしていない……どころかする気がない事を、言葉なく告げているのと同じだった。
無論、セイバーは率先して民間人を犠牲にしたい訳でもない。
アイリスフィールとて、セイバーと切嗣の行動の是非を理解していない訳ではない。
ただ頭で理解しているのと心で受け入れるのは別の話だ。
切嗣から言葉で聞いていたのは事実だが、今目の前で行われようとしている物事とセイバーのただならぬ不穏さには、流石のアイリスフィールでも気に掛かるものがある。
そして、セイバーが従うマスターは………衛宮切嗣だけである事も、理解している。
「失礼」
淑女の手を取る騎士のような動作で、セイバーはアイリスフィールの手を握り、僅かに抱き寄せた。
流れるような挙措で、アイリスフィールの懐にあるインカムを起動させながら。
「セ、セイバー………」
「申し訳ありません。雨具があるとはいえ、夜通しでは堪えたでしょう。身体が冷え切っている」
セイバーが、切嗣達に繋がるインカムを起動させたのはアイリスフィールにも即座に理解出来た。
傍から見れば、自らのマスターの意志を、柔かい言葉で封殺しているように見える。
だが本来なら、必要ない事をセイバーはしている事に変わりない。
案じられた。二重にだ。
「……………」
「私は、貴方の平穏と生存を最優先させる。
すぐに終わらせます。私を非難するのなら、その後で」
実際にアイリスフィールの身体は冷え切っている。
雨合羽で身体の輪郭を隠しながら、アイリスフィールは、ただ小さく頷いた。
『どうしますか、キリツグ』
『……………』
そして、そのやり取りは当然インカム越しで切嗣には聞こえていた。
僅か数言のやり取りだけで、切嗣が察する程度には事足りた。
アイリスフィールから離れたセイバーは、平静のまま切嗣に問いかける。
『私はどちらでも構いません。どちらでも私は対応します』
何が、とは聞かない。
聞く必要もない。
民間人を巻き込むか、巻き込まないかである。
『貴方がお決めになると良いでしょう、マスター』
試されている——とは感じなかった。
セイバーの言葉には、召喚当初のような圧力はない。
和らげに問い掛けるセイバーは、例えるなら、迷いを感じた臣下に言を説く王のような形である。
だからこそ、切嗣は慣れない。
黙り込む切嗣は、セイバーの言葉に耳を傾けているのと同じだった。
それに見兼ねたのかもしれない。セイバーは再び、小さく語りかける。
『……貴方が自らの信念を貫くのなら、アイリスフィールを慮る余裕はないでしょう。
気の迷いなどという弱体を自らに許せるほど、貴方の境遇は良くない。
貴方にとって感傷は、命取りに直結するだけの不要なもの。時に貴方は、自らが愛する妻子の前で、返り血を浴びる必要がある』
『…………』
『ですがそれが、貴方と彼女の間に溝があって良い理由にもならない。
アイリスフィールからの非難は全て私に押し付けて下さい。私からの進言だと。敵を屠るのはサーヴァントの役目です』
『………その言葉は、王としての器の広さ故かい?』
『いいえ。この戦いが終われば、私は消えるだけの身だからです』
平然にして淡々とセイバーは言った。
こういう所に関してセイバーは、明確な線引きをして自分と自分以外を切り分けている。
この聖杯戦争が終わるまでの関係。十日ほどで完全に消える存在。
セイバーは驚くほど強固な信頼を構築しながら、あっさりと手放せる程度の関係しか築いていなかった。
『…………それをすれば、僕は男としても君に負けた気がする』
『私の真名をお忘れですか? 私は男として生涯を辿り、そして君臨した者です。
並大抵の事では男として負ける事はないだろうと自負しています。
ただ、貴方の方がよっぽど立派な父親です』
軽口に乗って来るセイバーに、凝り固まった心身が解れるような心地を感じながら、しかし同時に——自らの感覚が過去に戻っていく感覚を切嗣は味わっていた。
頭も動く。肉体も動く。動かないのは、心だけ。
当たり前だ。心と身体を切り離すのなんて、切嗣はずっと前からやって来ている。
我に返るなんて事もない。切嗣は最初から、全ての命を等価に測っている。
切嗣のやって来た事は、犠牲の分別だ。
全ての命は等価とし、より犠牲の少ない方を選ぶ。
その分別の判定には女子供でも特別視されない。
当然、親同然の者ですら、切嗣はしなかった。
聖杯によって救済するのは50億人以上。対して冬木ハイアットの中にいるのは、100名。
聖杯獲得の為に必要とあらば"切嗣"という名の天秤は、宿泊客全員をランサー陣営の巻き添えにする事も辞さないだろう。
事前に小火騒ぎでも起こして民間人を避難させ、ケイネスには襲撃を警戒させて籠城させる——そのような行動は、何の利にもならないのだ。
そう、目的が違う。
切嗣とセイバーは、ランサー陣営を倒したいのではない。
ランサー陣営を理由にし——セイバーは民間人の被害を気にする事なく拠点に宝具を放ちマスターを殺しに来るという恐怖と圧力を、遠坂時臣と言峰綺礼に与える事にあるのだ。
故に、民間人に配慮したなどという風評が流れるのは全く以って得にならない。
配慮するのは、聖杯戦争の秘匿だけ。
むしろそれを逆手に取り、この土地のセカンドオーナーである遠坂の精神を、少しずつ追い詰めるのだ。
つまり切嗣は、民間人を巻き添えにして——ケイネスとランサーを殺害する。
『セイバー。作戦に変更はない。決行する』
『はい……——お任せを』
『カウントに合わせて突入しろ。
0で起爆する。宝具の出力は任せた』
言いたい事は伝えた。
後は互いに、やるべき事を行えば良いだけでしかない。
念話越しにカウントを重ねながら、切嗣はワルサーWA2000を構える。
切嗣の潜む場所は、冬木ハイアットの向かい側にて建設中のセンタービル。鉄筋コンクリートが剥き出しとなっている工事現場の中。
万に一つもあり得ないだろうが、ハイアットホテルからケイネス達が離脱した際、即座に把握する為に切嗣はここにいる。
銃撃する気はない。
セイバーが、彼らを殺したという事が重要なのだ。
切嗣の仕事はセイバーのカバーであり、令呪を使用してでもケイネス達に喰らい付かせる事である。
"……………けた"
その時だった。
念話越しに、頭の中でカウントを進めていた切嗣の耳に聞こえた来た声。
それは地を這う怨霊が出したような、悍ましい声だった。
"………やく見つけましたぞ——"
その声が聞こえて来たのは、インカムから。
アイリスフィールに持たせた、周囲の音を拾う無線通話機。
先程セイバーが起動させた、それから。
セイバー? そう切嗣が問い掛けようとした瞬間だ。
"あぁ……我が乙女、我が"聖処女"——!"
インカムから流れるけたたましい声。
くぐもったインカム越しですら解る、狂気の滲んだ声が反響する。
『…………マスター。
恐らく——キャスターと接敵しています』
そうして切嗣は、最悪のタイミングでセイバー達が他サーヴァントと接触した事を悟った。
セイバーの目の前にいる、ローブを纏う長駆の男は、明らかにサーヴァントだった。
僅か最初の一日で、全サーヴァントとの繋がりが出来た事には驚く他ない。
倉庫街で視認した四騎と切嗣からの情報にあったアサシンの、計五騎。残るはキャスターのみ。
消去法で、この不気味な形相の男はキャスターと絞り込める。
だが自らの工房や陣地に篭り、力を蓄えるのが常道のキャスターが何故、仮にも最優と称されるセイバークラスのサーヴァントの前に出たのか。
相性は最悪。三騎士の中で一番の安定性と対魔力を持つセイバーと、正面から戦いにかかるキャスターなどと——
「……お迎えに上がりました、我が聖処女」
——いや、違う。
理詰めで事態の把握に取り掛かったセイバーは、そのような常識がこのサーヴァントには通用しない事を悟った。
このキャスターは勝利を確信している訳でも、戦いに来た訳でもない。
恭しく頭を下げ、臣下の礼をとるキャスターを見て、セイバーは確信した。
この男にはもう、正気というものが存在しないのだと。
セイバーはこの男に見覚えというものが全く無かったし、そもそも聖処女などいう呼び名で呼ばれた事はない。
セイバーは男性として伝わっているのだ。
キャスターと思われる男は、セイバーを誰かと勘違いしている。
「……………」
対応一つ間違えれば交戦に入るだろう。
——背後にランサー陣営の拠点を残している状態で。
この男の反応には、最大の注意を払わなくてはならない。
そして、自らの言葉にも。
「おおぉ……ジャンヌ? 如何なされた? まさか、既に
「………ジャンヌ? じゃあ、貴方は……」
黙り込んだセイバーの姿に、キャスターは訝しみの声を上げる。
キャスターの声に反応したのはアイリスフィールだ。
聖処女、ジャンヌ。もはや名前と名前を繋げ合わせる必要すらない程に明確な呼び名である。
特殊な現界故、現界に応じた知識を聖杯から与えられているが——英霊の座から時空を超えた知識を持ち合わせないセイバーが知らなくとも、アイリスフィールは知っている。
聖処女ジャンヌ・ダルク。清廉潔白を貫いた、フランス救国の英雄。
そして……魔女として処刑された悲劇の女性。
「えぇ——えぇそうです! 不肖ジル・ド・レェ、再び貴女に降りかかろうとする災厄を祓うべく、こうして馳せ参じて来た次第なのですぞジャンヌっ!」
「……………」
嘆きと焦りを込めたキャスターの叫び声。
狼狽で歪んだ形相は、凡そ正気の者とは思えない。
畏怖とはまた違う悍ましさが、このサーヴァントの言葉にはあった。
最悪だ。
黙り込んだまま、セイバーは冷たく冷静に今の状況を俯瞰する。
この男の形相は余りにも目立つ。夜も更け、一般人は既に就寝に入っているとはいえ、キャスターは周囲の目など何も気にしていない。
しかもこのキャスター、サーヴァントとしての反応を隠してもいない。
常に魔力が垂れ流されているような状態だ………ランサーが気付くのも時間の問題だろう。
今日の計画はもう、既にこの男に台無しにされたに等しい。
唯一状況を打破出来る切り札があるとすれば、この会話を通信によって聞いているだろう切嗣の存在くらいか。
そもそも、何故この男は自らを、その聖処女と誤解しているのか。
顔が似ているのか、在り方が似ているのか。
どちらにしろ今の自分が、仮にも聖処女と言われた女性と誤解されるなど、この男の瞳は濁り切っているに違いない。
そう、セイバーは結論付けた。
「セイバー………」
「いいえ、いいえ違います! そこに御座すのは我が麗しの乙女にて御座います!!」
キャスターの狂言を前に、口を閉ざしたままのセイバー。
セイバーを心配するアイリスフィールの囁きに、キャスターは目敏く聞き咎める。
「…………」
「さぁ………早く。貴女が地に堕とされる前に。
我らを貶め、神すら見放させたあの嵐が近付いているのです。
再び、私達は力を合わせなければ。このジル・ド・レェ、今度こそは必ず、あの日のように間に合わなかったとは——」
「申し訳ありませんが、私は貴方の名前を知りません」
長らく口を閉じていたセイバーは、ようやく口を開いた。
この男は、自身を知己の存在だと認識している。
言葉はこれでいいか、口調はこれでいいか。
高圧的な態度を消し、細心の注意を払いながら、しかし聖処女ジャンヌ・ダルクとジル元帥の逸話を知り得ないセイバーは心を張り詰めさせる。
最悪、この言葉は疑問を持たれても良い。
次からの会話の持って行き方、主導権の方向でこの男との関係が決まる。
彼女ほどとは言わずとも、仮にも王だ。
それに、口煩い義兄の影響も大きい。
その気になれば、セイバーは言葉による戦いが出来る。
「すみません。どうやら私は年若い頃の現界らしく、まだまだ未熟な時代の記憶しか持ち得ていないらしいのです」
「おおぉ………お、おぉ……」
「だから聖処女という呼び名も知りませんし、貴方の名前にも実感がありません」
「おおぉ……おおおォォ——」
キャスターは両手で顔を覆い、悲鳴に等しい嗚咽を張り上げた。
——計画と標的を、切り替えるべきだろう。
哀しみに嘆くキャスターの姿を、いっそ冷酷な程に冷たく見下ろしながら、この会話を聞いている筈の切嗣が、自分と同じ考えをしているだろう事をセイバーは祈る。
キャスターとそのマスターの潜伏先を判断し、殺害する。
もはや今のセイバーは、正気を無くした男に掛ける情けもなければ、まともに話を聞く必要性すら感じていない。
「——オオオオォォっ!!」
「…………」
「そんな……そんな仕打ちが、彼女に許されていいのかぁぁッ!!」
だから、瞳を涙で濡らし形相と共にキャスターが地を叩き始めても、セイバーは何も思わなかった。
間違いなくランサーにはバレた。
ここに留まる必要性などない。
「あぁ、そんな………確かに貴女が剣を取る姿は、若き日の向こう見ずな姿を思い起こさせましたが——それがこのような仕打ちだとッ! このような痛々しい報いを与えるなどとッ!」
「…………」
「どうか、どうか目覚めるのですジャンヌ!
私の名までは思い出さずとも……せめて、せめて生前の御自身の姿を!」
「ごめんなさい」
キャスターに掴み掛かられても尚、セイバーの心は動かない。
毅然とした態度で、しかしセイバーは閉目して応える。
ここで剣を振り抜くメリットと、キャスターの工房とマスターも捕捉するメリットを考える。
ただ、セイバー達の最終目標はキャスター討伐ではない。
自分の陣営の消耗を最小限に、他陣営を全て壊滅させる事だ。
——キャスターの死は、他陣営の攻略に役立てなければ、此方の陣営が消耗するだけでしかない。
「そんな…………そんな———」
キャスターの双眸が、静かに絶望へと染まる。
膝を突く禍々しい黒いローブ。
そこには、先程の狂気から感じられた熱がない。
「——やはり、あの者か」
——のは、ただの勘違いだったのだろう。
揺らりと立ち上がったキャスターの呟きには、一切の感情というものがなかった。
熱狂の熱も、沈鬱に呟いた絶望も。
否、己の激情を胸の奥へと潜めただけに違いない。
今のキャスターが纏う、狂気をそのまま別物に気迫に変質させたような、ただならぬ威圧感。
セイバーはその……胸を押さえ付けられるような重みのある圧迫感を知っている。
己が手で大地を血に染め上げる、そのような覚悟を持った者だけが纏う黒い波動。
修羅とも、暴君とも呼ばれるような覇者が得る気迫。
この男、余り油断しない方が良い。
黒いローブに隠れてはいるだけの、長身の体躯を見据えながら、セイバーは静かにアイリスフィールを下がらせた。
「あの災厄は、聖杯すら我が手で穢した怪物。
であるなら、切なる祈りも成就した願望も等しく無に還すに違いない。
——聖杯戦争は、まだ決着していない」
「………………」
「ジャンヌ。
私の名も素性も知らぬ貴女には酷かもしれませぬが、どうか私と共に来て頂きたい。危機が迫っているのです………貴女の命も名誉を奪う者が。
再び、どうか貴女に仕えさせて頂く名誉を」
「……分かりました」
セイバーは平静のまま、静かに頷いた。
再び礼を執り、臣下の礼をとるキャスター。
今の言葉と誇り高き騎士の礼をするキャスター。全く以って相反する先程の狂気に、一粒ばかりの憐憫を抱いたセイバーだったが、次の瞬間にはその私情は消えた。
今のセイバーは、もう騎士である事を辞めている。
「では、私も少しばかりお願いがあります。
貴方には酷を強いると思うのですが、私の事はセイバーとお呼びください。
未だ敵は何処にいるか分からぬ状態。真名で呼び合うのは得策とは思えません」
「あぁ…………えぇ、そうですね」
悲しげに応じた後、キャスターは小さく笑った。
本当に寂しげな笑みだった。
「では、私の事はキャスターと。
………私の事を思い出しになられるまでは、その呼び名で私を」
「すみません」
「いいえ。私の事をまだ知らぬ貴女に、酷な事を強いたのです。
貴女が受けた残酷な仕打ちに比べれば、私の事を忘れているなど些事でしかありません。
いえ………もしかすると何も知らない今の貴女の方が、穏やかで居られるのかもしれませぬ」
「…………」
「ジャンヌ。どうか貴女は心を痛めるな。
まだ何も知らぬ貴女が、私めの事などを慮るばかる必要などありますまい」
この男はセイバーを痛々しいと称したが、この男にこそ痛々しいという評価が相応しいのかもしれない。
その熱意がどうにしろ、今の姿がどうにしろ、キャスターはジャンヌ・ダルクという女性を何よりも想い、だからこそこのような末路を迎えたのだろう。
もしかすると、今の在り方のセイバーを聖処女と誤認したのも、そうであってくれという願望が何処かにあるからなのかもしれない。
冷たく、剣を振る存在であれと。もはや心を通わすような情けなど誰にも渡すなと。
それが幼き日の、向こう見ずな時代を思い起こさせるとしたのなら、この男の昔年の後悔はきっと、誰にも計り知れない。
聖処女と崇められた英雄と、元帥の座に登り詰めながら聖なる怪物と恐れられ破滅した二人の逸話を知らぬセイバーだが、この騎士だった一人の男の姿に……アルトリアは静かに感傷を抱いた。
「では、キャスター。隣の彼女の事ですが」
「えぇ。貴女が早くも見染めた同盟者でしょう?
生前と変わらぬ姿のまま、仲間や民を鼓舞し惹き付けるその御姿には感服する他ありません。
やはり貴女は何も覚えておられずとも、私が知る聖処女なのだ」
「……そうですね」
どうやらキャスターはそのように、アイリスフィールを解釈したらしい。
キャスターの言葉に言い知れぬ憐憫を抱きながら、それなら好都合だとセイバーは頷く。
アイリスフィールも二人の会話の流れを読んで応じた。
「では………セイバー。
私の工房まで付いて来てもよろしいでしょうか?」
「はい。お願いします」
アイリスフィールを背に守りながら、蒼銀の騎士は応じる。
後ろ目にアイリスフィールへと合図を送り、切嗣達へと伝わる発信機をオンにしながら、二人はキャスターに付いていった。
『舞弥、作戦変更だ。キャスターを追う』
『了解しました』
僅かな間も置かずに返ってくる声に、携帯電話を仕舞う。
ハイアットのフロントの扉から数十メートル離れた位置で姿を現したキャスターだったが、その周辺にマスターと思わしき人物はいなかった。
出番のなかったワルサーWA2000をケースに仕舞うと、切嗣は即座に移動を開始するべく立ち上がった。
ランサー陣営を潰す計画は、残念だが中止しなくてはならない。
だが、最悪かと思われた状況は意外な展開を見せた。
然程、展開は悪くない。
自らの陣地に籠り、姿を現す事をしない筈のキャスターを早期に捕捉出来たのは行幸だ。
しかもキャスターの真名も知れ、当の本人はセイバーを生前からの知古だと勘違いしている。
きっとセイバーと考えている事は同じだろう。
敢えてキャスターの陣地に乗り込み、彼らを利用する。
最悪放って置くと厄介になるキャスターを殺害出来るのだ。
悪くはない。ランサー陣営を潰すのを後回しにしても構わない程の収穫である。
ケイネスのような魔術師がどのような行動をするかは、切嗣の予測範囲内にあるのだ。
自らの金と魔術論理にモノを言わせて作り上げた拠点を簡単に放棄する訳がない。ハイアットに仕掛けたC4爆弾はそのままだ。いつでも殺せる。
仮にハイアット外で彼らと交戦しても、ランサーはセイバーで御せる相手であり、ケイネス本人は切嗣の魔術礼装——起源弾で再起不能にさせられる相手だ。
名に聞くロード・エルメロイは、典型的な魔術師。
他陣営に比べれば脅威度は下がる。
「………………」
その時、切嗣の鋭利な暗殺者としての感覚が何かを察知した。
何者かがビル内に侵入して来た気配と、空気。カン……カンと、小さく響く鉄骨の足音。
誰かが、気配を消しながらビルを登って来ている。
既に移動を開始していて助かった。不意打ちを受ければ、命が危ない場面だっただろう。
切嗣は素早い身のこなしで物陰に隠れる。
息を殺し、このビルを登って来た人間を柱の陰から観察する。
「———…………」
思わず切嗣は息を呑んだ。
フロアの縁に立ち、強風に煽られるのも構わず眼下を睥睨する、漆黒の僧衣。
——言峰、綺礼。
先程まで切嗣が居たハイアット・ホテルの最上階を監視する絶好の場所に立つ長身の男は、切嗣達が最大の警戒を向け、そして誘き出そうとしている人間に他ならなかった。
何かの要因で遅れていたら危なかった。
もしくはビル爆破に踏み切っていれば、言峰綺礼は確信と共に切嗣を標的とし、この場で鉢合わせていたかもしれない。
異端討伐の修羅。代行者にも任命されたあの言峰綺礼と正面衝突する事態に陥いる危機だった。
切嗣は決して、正面衝突に向いた戦士ではない。
不意打ちと撹乱を土俵とする暗殺者である。
綺礼が眺めるハイアットは何らの異変もない。
切嗣の痕跡もだ。自らの痕跡を残すほど切嗣の腕は錆び付いてもいない。
——今ここで、言峰綺礼を暗殺するべきか?
脳裏を掠める絶好にして必殺の機会を……切嗣は見送った。
聖堂教会の修羅ならば、時にその感知能力と反応速度は銃撃を凌駕する。
それに、あの言峰綺礼からすれば当てが外れたとはいえ、此方の動きを読んで強襲しに来たのだ。
警戒はされているだろうし、僅かな物音や気配がすれば、コンマ何秒という速さで黒鍵を抜き放って来るだろう。
この至近距離。柱の物陰からキャレコM950で言峰綺礼の後頭部を狙い撃ち、殺害出来る可能性はきっと五割程度。
分の悪い賭けだ。
暗殺に失敗すれば正面戦闘に移行する。そちらの勝利は更に低い。
切嗣が死ねば、同時にセイバーも消え全てが終わる。
仕掛けるとしたら舞弥かセイバーの助けが欲しいが、両者共に今はキャスター側に取り掛かっている最中だ。
残念ながら言峰綺礼の殺害が切嗣達の勝利ではない。
一番の警戒はこの男だが、一番の敵はアーチャーと遠坂時臣。
メリットとデメリットが釣り合ってない。
収穫はあった。
この男は予想通り、セイバーの真名を誤認したのだから。
でなければ、最大の安全策を無為にしてまで此方を執着し、あまつさえ行動を読んで来る訳もない。
この作戦で、言峰綺礼は釣り出せる。
切嗣は気配を消したまま、キャスターを追うセイバーを追跡するべく、センタービルから撤退した。
「………………………………」
当てが外れたか。
剥き出しになった鉄骨の櫓。
外装に差し掛かろうというセンタービルの三十八階層の中、強風に晒される綺礼は、警戒を解かないまでも落胆の念を禁じ得なかった。
魔術師殺しとして悪名高き衛宮切嗣と、同じく魔術世界の恐怖になり得るまでの所業を重ね上げた
今、自らの邸宅に籠る時臣氏に替わって聖杯戦争の趨勢を握っているのは、彼らセイバー陣営だ。
いっそ鮮やかな程に注目を浴び、しかしほぼ無傷で初戦を終えた彼らが起こす次なる行動によっては、更なる状況の混沌を引き起こす。
現在は、ギリギリの緊張状態で停滞している戦況。
もしもセイバー陣営が主導権と先制権を上回れば、他全ての陣営は生粋の暗殺者である衛宮切嗣の姿を拝む事もなく仕留められるに違いない。
その点でいえば、彼ら二人は完璧な動きをしている。
真名と宝具の名が知れ、ライダーに手傷を負わせ、ランサーとバーサーカーの連戦を治癒で治る程度の消耗で終わらせたセイバー。
誰もがセイバーを無視出来ない。
そしてその集まった注目こそ衛宮切嗣の土俵。
切嗣はセイバーを完璧に利用し、セイバーは切嗣を最大限に活用している。
では彼らの次なる一手は?
そう考えたからこそ綺礼はこの場に来たのだが………やはり彼らの影すら、自分では掴めないのかもしれない。
読みが甘かったと言われればそれまでだろう。
事実、綺礼はセイバー陣営の動きを確信出来てはいなかった。
綺礼の考えで、セイバー陣営が一番与し易いのはランサー陣営だった。
ケイネスのような典型的な魔術師は、衛宮切嗣の餌食であり、ランサーのような分かりやすい好青年の騎士は、セイバーの餌食だ。
丁度、倉庫街の戦いでランサー陣営に一時的な共闘を声掛けしていたのもある。
それを餌にし、ランサー陣営を劇的に殺害し、他陣営に多大な衝撃を与えるなど、彼らには容易いだろう。
だが、綺礼の予想は外れた。
むしろセイバー陣営は、ランサー陣営はいつでも撃破出来る相手とし、他陣営を優先したのかもしれない。
空を駆ける飛行宝具を警戒したセイバーが、手傷を負わせた今の内に撃破したいとライダー陣営を追うという、堅実な一手を進めた可能性もあり得る。
奇策や強襲、首狩り戦術や扇動といった策略の目立つ
もしくはセイバーに手傷を負わせた正体不明のバーサーカーを衛宮切嗣が追跡している可能性だって十二分にあり得るだろう。
倉庫街の戦いの最中、ケイネスのように姿を現さなかった敵だ。
衛宮切嗣は恐らく、間桐雁夜の実情とバーサーカーを召喚した事を繋げられていない。
セイバーが追い詰められたのも相まって、衛宮切嗣にはバーサーカー陣営の潜在的脅威度が高く見えただろう。
もしくはこの思考すら、彼らの手の平にあり、自分は踊らされているに過ぎないのか。
「衛宮切嗣…………」
思わず、怨敵の如くその名を呼ぶ。
綺礼がこうまで執着しながら、衛宮切嗣からすれば綺礼は詮無き一人の敵でしかないのか。
彼の騎士すら呼び寄せた衛宮切嗣を同類と思っているのは、自分だけか。
あの魔術師殺しからすれば、綺礼の苦悩すら既に通り過ぎたものなのかもしれない。
彼らの動きを読み、その実情を読もうとし、その度に溢れ出て来る思考と感傷。考えが纏まる事はない。
新たに湧いた考えが、また新たな考えを呼ぶ。
綺礼は彼らの姿を捉えられないまま、影を追っているだけだった。
「…………………」
セイバー陣営は、まだケイネス達に強襲を掛けていないだけと判断して、いっそこの場で山を張るか。
思考の整理も兼ねて、綺礼が監視に入ろうとした時だ。
自らに近付く異形の気配。しかし敵意や害意はなく、綺礼の慣れ親しんた気配。
傍らにて実体化するアサシンを綺礼は見咎めようとして——やめた。
「………何があった」
片膝を突いたアサシンは、彼らのリーダー格である女のアサシンだった。
しかもその気配は、内情が露わになっているのか穏やかではない。
何か緊急事態が起きたのだと看破した綺礼は、警戒しながらアサシンの言葉を促す。
「至急御耳に入れておかねばならぬ事が。
ですがその…………セイバーに対して行っていた監視ですが、偶然にもキャスターを捕捉しました。
どうやらキャスターは、セイバーに対して並々成らぬ執着があった模様にて」
「そうか、それで」
本題はそこではない。
収穫があったのは良い事だが、アサシンのリーダー格が伝えに来る程の事ではない。
何より、この女のアサシンは何かに動揺している。
口を開き、戸惑いがちにゆっくりと物事を噛み砕き、アサシンは告げる。
「………セイバーに付けていた複数体のアサシンが、全て即死しました」
「……………………」
「原因は不明ですが、複数体のアサシン達の目撃情報と報告を考えるに………空から落ちて来た雷が、原因かと」
「———何?」
思わず綺礼は、センタービルから真上を見上げた。
蠢く嵐。遠くの彼方で鳴る落雷の音と稲光。
どうなっている。何故このタイミングで来た。
そもアレは………まさか本当に——本当にそうだったのか?
この空模様は単なる異常気象ではなく……サーヴァントが引き起こしたものだったのかと。
原因は? 規模? 何者が?
セイバーとの——関係は?
駆け抜ける思考を他所に、アサシンは口を開く。
「………既に、二十体近くアサシンが死亡しております。
ほぼ全員が救難を出す暇もなく霊核を貫かれ、即死。セイバーに付けた人員とは関係なく、冬木市全域に渡っているものと思われます」
「………………」
「一体だけ、この災禍を放っているサーヴァントと交戦し生き延びたと思わしき個体がおります…………両手足が落ち、目も潰されている状態で」
「その個体は何と言っている」
「………うわ言のように、"キャスターが、キャスターが"と。
廃人同然となり、それ以上は何も叶わず」
「………………」
「………申し訳ありませぬ。既に総体による監視と暗躍は、機能を喪失しつつあります」
謎が多い。セイバーとは関係なかったのか?
この荒れる嵐は、セイバー出現によって多少だが綺礼の頭から抜けていた。
そのタイミングで突然現れた、新たなる災禍と可能性。
そして……何処か繋がりそうで決定的なモノが繋がらない関係性から溢れる、強烈な違和感。
ただ一つ分かるのは、此方側が絶体絶命の窮地に陥れられているという事だけ。
アサシンは既に、敗北した。
もはや彼ら彼女らは、何者かの影すら拝めず一方的に敗北するだろう。
思わず身震いする。衛宮切嗣達の影を追っていれば、いきなり闇そのものが覆い被さっていたようなものだ。
「——アサシン、撤退する。
切り分けていた全総体を速やかに回収するか統合し、教会地下に待機しろ」
「……何をするおつもりか」
「私の命をも張った博打だ。
私の当てが外れた場合この聖杯戦争は三日以内で終着し、この事態を引き起こした陣営以外の全マスターとサーヴァントが死亡する。
そうだった場合、もはや私達に出来る事などないが、まず最低限の事はやらねばならん」
いや、最悪三日も持たないだろう。
次の瞬間には、冬木市が地図から消え、そして海となっていてもおかしくはない。
だが事態の深刻さとは裏腹に——綺礼の心は今まで以上に加速していた。
逆境に燃えるようなタイプだとは思っていないが、今ばかりは、心が踊っていると言っても過言ではないのかもしれない。
自分の命すら、引き出せるカードの一つとして判断している。
元より自らの生に執着はなく、自らが生まれ落ちた意味の答えを探し求めて来た綺礼だ。
死の今際にそれが分かるのなら、自らの命を投げ打っても構わない。
神に仕えている身とは到底思えない考えだと後になって自嘲する程には、本気で。
「アサシン。あの嵐が何なのか、突き止めるぞ」
そう告げて、綺礼達は即座に動き出す。
いつ天から刺し貫いて来るか分からない雷霆に警戒しながら。
綺礼の足元。
今その瞬間、彼らが教会に立ち戻るのと示し合わせたようなタイミング、冬木ハイアットに押し入る——黒い騎士には気付けぬまま。
冬木ハイアット・ホテル最上階。
三十二階の客室で只ならぬ気配をランサーが感じたのは、ほんの数分前の事だ。
特別感知能力に優れた訳ではないランサーが感知出来るのは、数百メートル圏内で他サーヴァントが何かの術を行使している場合や、気配を放出している時。
それでも尚、悪寒のように走った第六感。
何やら相手は、この冬木ハイアット周辺で魔力を垂れ流しにする愚か者か、先の倉庫街で暴れ足りない輩が血気盛んにランサー陣営を挑発している者らしい。
『ランサー、襲撃者は確認出来たか?』
『いえ………先程感じていた気配すら微塵も』
『ふむ………』
最上階から最下層。
フロントフロアに降りたランサーは、三十二階の工房に籠るケイネスからの念話に応える。
今、ケイネスはランサーと視界を共有している。
使い魔による偵察と同じ原理だ。故にケイネスも、フロントフロアの状況を把握出来るのだが、サーヴァントとしての把握能力はない。
不気味な静寂に支配されたまま、彼らの警戒と戦意は空回りしている。
『人払いの時間でも待っているのか? だとしたら余りにも私を下に見ていると言う他ない』
このハイアットを自らの魔術工房にしたのは他ならぬケイネスだ。
この建物で争う事は想定済みであり、既に人払いは終えている。ケイネスが術を解くまで、この建物にいる民間人達は深い眠りの中に誘われている事だろう。
フロントフロアの従業員も同様であり、従業員室にて眠っている。
ランサーの周りには人はいない。
何か策を弄しているのだろうか。
いきなりランサー陣営の拠点を把握し、襲い掛かろうというのだ。
相手は恐らく倉庫街で出会った何者かの陣営であり、尾行でもしていたのかもしれない。
まずアーチャー陣営の可能性はほぼない。
もしくはあの時、実はセイバーではなくランサーを狙おうとしていたかもしれないと仮定すればバーサーカー陣営もあり得るが………来るとすれば、セイバーとライダー。
ライダー陣営ならば良い。
自らが召喚する筈だった英霊イスガンダルの聖遺物を奪った、ケイネスの弟子の一人だ。
何か恨みがあってケイネスを貶めようとするのなら、そのまま正面から粉砕するだけである。
セイバー陣営ならば………対応を考えなければならないだろう。
サーヴァントは召喚したマスターの力量によってその力が左右される事は百も承知だが、あの英霊を相手では、ランサーは一回り二回りほど格が落ちる。
つまり、マスターの力量の差ですら覆せない格の違いが、セイバーにはあった。
実際にあの激戦を目の当たりしたケイネスはそう感じていたし、サーヴァントという存在に一種の畏怖を抱いてしまったのだ。
あれは、魔術師が相手にして良い存在ではない。
神に近い、精霊の域にまで昇華された英霊達。
使い魔の延長という考えは、今ばかりは多少なりとも改めねばならないだろう。
英雄というものが、本来なら魔術師には扱えぬモノとされ、降霊術そのものが現代で衰退したその一端をケイネスは味わったのだ。
そして……その元凶とでも称するべき存在が、セイバーとして現世に降臨している。
魔術世界の禁忌として記されたそれが全て真実とは思えないケイネスだが、しかし相手が相手だけに普段の自信は形を潜め、一介の魔術師として神秘の深淵と対峙するかのような面持ちになっていた。
「本当に大丈夫なの?」
「相手が相手だ。
それにあのセイバーを従えるは、始まりの御三家アインツベルン。私の相手に不足はないが………」
倉庫街での役回りの評も、今のケイネスにはない。
隣の緊張した表情のソラウの為、華々しい武勲を手にするという心持ちも、やや空回りするに終わる。
『ランサー、もしも相手がセイバーであるなら、ライダー陣営との協定に関わる事かもしれない。まずは交戦の意思を見せるな』
先程の倉庫街で一時的に交わした休戦。
それを本格的に継続するという可能性も十分にあり得る。
ライダーに手傷を負わせたセイバー達からすれば、傷が回復される前にライダーを撃破しておきたいという考えに至るのは常道の筈だ。
彼の騎士。最も人類を手にかけたなどという、唯一無二して悪神の如き逸話を持つあの英霊と真正面から打つかるというのは、ケイネスも避けたいところだった。
『…………ランサー?』
返事のないランサーに再度ケイネスは問い掛ける。
ランサーがケイネスの言葉を無視するような事は、今まで一度足りともない。
『いえ、その………——謎のサーヴァントが、フロントに』
続くランサーの言葉に応じて、ケイネスは即座に視界共有を図った。
キーンと音を立てて開く、フロントフロアの扉。
コツ……コツと硬質な脚装束の音を響かせてゆっくりと侵入して来るのは………サーヴァントと思われる黒い甲冑。
今までランサー達が見た事のない、謎の騎士。
「…………貴様、誰だ?」
ランサーの誰何に、黒い甲冑の——槍兵は応えない。
見覚えのない騎士。倉庫街でのやり取りには居なかった、謎のサーヴァント。
否、本当にサーヴァントかどうかも分からない。
不気味な程の静寂だけを纏う黒い甲冑。
頭から足先にまで掛けて、黒い鎧で身を包んだ姿は、倉庫街で垣間見たバーサーカーのようにも見えた。
ただバーサーカーとの明確な違いは、その手に握る三メートルは有ろうかという巨大な槍——血に濡れたように輝く禍々しい魔槍。
「…………ッ!」
そして、最速の英霊足るランサーですら、捉えるのが難しいほどの速度で。
赤い槍を握る——黒い鎧と、黒い竜の兜の騎士は雷光の如くランサーに襲い掛かった。